はじまり
登場人物
若月慧
高校一年生。文芸部へ入部する決意を固めたものの、野球部へ入部させられてしまう。野球の腕は少しずつ上達中だが試合には出たくない。
伊勢崎華凛
高校一年生。慧を野球部に誘う。周囲の視線を奪う容姿の持ち主であり中学時代は名のある選手だったらしい。高校ではファーストに挑戦する。
天宮捺
高校二年生。野球部部長。割と大雑把な一面あり。
近藤千春
高校二年生。野球部副部長。真面目な性格。
林直子
高校二年生。基本的にテンションが高い。
中川幸
高校三年生。眼鏡をかけている方。おっとりしている。ピッチャー。マウンドに立つと気性が若干変わる。
佐倉千秋
高校三年生。眼鏡をかけていない方。おっとりしており後輩の面倒見が良い。サード。
晴天を少しずつ雲が覆い、熱気が徐々に和らいでいく。
薄くなった陽射しを受けながら、香椎東高校の面々は円陣を組んでいた。
「久々だし、中に入ったらドタバタしそうだからここで今日のオーダーを発表しちゃいます」
瞬間、場の空気が張り詰める。ただひとりこの意図を理解しておらずのんびりしている慧を除いて、全員が緊張した面持ちとなった。
オーダー発表により、今日のスターティングラインナップが決まる。誰がどのポジションを守るか、何番を打つか。この組み方が時には勝敗を左右する。それほど大事な発表を前に、捺がひとつ息を吸い込んだのを慧は見た。皆が固唾を飲む中、発表を始める。
「……まず、一番。ショート直子」
「あいよ」
真っ先に名前を呼ばれたのは直子だった。他の皆が緊張の面持ちを崩さない中、直子はふてぶてしさを醸し出すトーンで返事をする。しかしその声にはどこか落胆の色が混ざっていた。
「っつか、やっぱあたしがショートやんのか……」
「今さら文句言わないの。なんならマスク被って良いのよ?」
「いや、それは無理」
「それならがんばんなさい。普通にしてれば大丈夫だから」
「へーへー」
直子をいなす捺はまるでスーパーで拗ねる子供をあやす母親のようだった。直子は手をひらひらさせて渋々と引き下がる。
慧が華凛に聞いた話では、直子は元々センターの選手、捺はショートの選手である。それが人手不足によりそれぞれ別のポジションをやらざるを得ない、という事情があるらしい。
――やっぱり、守るところが普段と違うと嫌なのかな……。
与えられた守備位置に不満の色を隠さず子供のように口を尖らせる直子を慧はぼんやりと眺めていた。
「じゃ次は二番ね……千春、いける?」
構わず発表を続ける捺は、次に千春を指名した。
「……構いません。ポジションはどこですか?」
「センターでお願い」
「センターですか……解りました」
捺の指名に千春は重く頷いた。その緊張の表情は崩れないどころかますます引き締まった。
「三番は私が行きます。キャッチャーで。四番は……」
自分の役割は実にあっさりと発表し、四番打者を発表するタイミングで少し間を置く。皆が自然と息を飲む。
「……華凛、いい?」
かすかな沈黙を自ら裂いた捺が指名したのは、華凛だった。場にどよめきが起こる。
「……はい。私で良ければ」
決意の瞳で華凛は捺を見返した。捺はうんと頷いてオーダー発表を続ける。
――四番って、チームにとってすごい重要なんだよね……やっぱり華凛ちゃんはすごいなあ……。
慧はしみじみと物思いにふける。
入部して数ヶ月の人間が、先輩を押し退けチームの重要ポジションを務める。その偉大な行為を容易く行おうとする華凛は慧にとって非常に頼もしく見えた。
――いつかはわたしもこんな風にかっこよくなれるかな……。
妄想した慧は、心の中で即座に首を振る。試合に出ることがそもそもおっくうな自分が、そんな大役を受けられるはずがない。突飛な妄想を恥じるものの、皆の羨望の眼差しを一身に受ける状況を妄想し、気持ち良くなる。
――わるくない、わるくない、なあ……。
「……八番ピッチャー、幸先輩」
ふと捺の声が耳に入り我に返る。いつの間にか八番バッターまで発表が終わっていた。場を支配していた張り詰めた空気は多少和らいでいる。
――なんだろう、急に緊張してきた……。
次が最後のひとりの発表となる。緊張感から解放された他のメンバーからかなり遅れて慧に心のストレスがやって来る。
――まさか、呼ばれない……よね?
実際には慧が呼ばれる可能性はほとんど無いと言って良い。それでも慧の心は不安の色が大きくなっていた。
「九番……」
捺の声が響く。瞬間慧は小さく身震いをした。
――いやいや、まさか……。
体感で何十秒とも思える時間が過ぎる。実際にはほんの一瞬でしかないその間、慧の視界は点滅を繰り返した。
「……サード、千秋先輩」
「はーい」
千秋がほんわりとした返事をする。呼ばれたのは慧の名前では無かった。氷のように冷たくなっていた体が急速に体温を取り戻す。
ふと周りを見回すと、皆この結果を予め分かっていたかのように平然と振る舞っている。
――まあ……そりゃそうだよね……。
ひとまず試合に出ることを免れほっとした気持ちに、どこかモヤモヤした気持ちが混ざる。
「じゃ、前の試合が終わったらグラウンドに入ります。入ったらすぐアップをするので今のうち荷物まとめときましょ」
捺の号令で、皆それぞれに荷物を用意し始める。その様子を見ながら、慧は動けずにいた。
――どうしよう、なにやればいいかな……とりあえず自分のだけ持ってればいいかな……。
「慧」
戸惑う慧に声をかけたのは華凛だった。そのまま言葉を続ける。
「部の道具は私達で持ちましょう。バットとかボールとか」
「あっ……そうだね。一年生だし……」
華凛に言われようやくやるべき事が明確になる。既に車から出されている道具を、すぐに運べるようふたりで整理する。
「……」
無言で作業する華凛の横顔を見る。その表情は普段と変わらないように見える。どんな状況でも動じないその姿勢は、慧にとってはやはり世界の違うものだった。知らず、慧は声に出して華凛へ思いを打ち明けていた。
「……華凛ちゃんはすごいよ。四番バッターって、すごいことなんだよね」
華凛は表情を崩さない。慧は言葉を重ねる。
「もう、チームの中心ってことだよね。一年生なのに……すごいよ」
黙って作業を続けていた華凛は、そこで慧に向き直った。
「そんなに凄いことじゃないわ。人数もギリギリなんだから。それに、野球は全員でやるものだから……打順は関係ないわ」
そう話す華凛の様子は非常に落ち着いていた。名前を呼ばれるかどうかですら心を乱しに乱した自分とは根本的に違うのだろうと慧は感心した。
しかし、その状況でなぜか心にやって来たのは寂しさに似た気持ちだった。ふと慧は視線を落とす。
「……!」
その時慧は気付いた。作業に戻っている華凛の指が小刻みに震えている。
「華凛ちゃん……」
いつもと変わらないように見えた華凛も、裏ではプレッシャーとの戦いを繰り広げている。その証拠たる現象を見つけてしまった途端、慧の心は安堵のような不安のような、居心地の悪い気持ちに包まれた。
「――前の試合終わったみたい。入るわよ」
捺の声が慧の思考を遮る。我に返った慧は心の嫌なモヤモヤを振り切り、華凛と共に荷物を担ぎ出した。
「あっ、そだ。慧」
思い出したように捺が慧を呼ぶ。キョトンとして見返す慧に捺は申し訳なさそうに言った。
「頼みがあるんだけど……」
「はいつぎー!」
「……」
慧は無言で捺にボールを渡し続ける。捺は各ポジションの内野手に手際良くボールを打ち込み、それはファーストに転送されたのち華凛から慧へと戻って来る。
「助かるわ。私ひとりでノッカーとキャッチャーの二役はさすがに回らないからねえ」
「そ、そうですね……」
「幸先輩にやってもらっても良かったけど、なるべく体動かしてて欲しいから」
「今日の先発ピッチャーだから……ですか?」
「そそ。まあほんとはキャッチボールとかしてた方がいいんだけど、そしたらノックが出来ないし」
「そうですね……」
捺は喋りながら、千秋と共に三塁の守備に就く幸に打球を放つ。
ウォーミングアップは既に終了している。この時間は、試合直前にチーム毎で行われるシートノックの時間である。慧は守備に就かず、キャッチャー役として捺に駆り出された。
「ごめんね。守備したかった?」
「い、いえ。こうしてる方が気楽なのでむしろ助かります……」
「そう。変わってるわね」
話の流れでふと口にした自分の考えを『変わっている』と評されたその時、普段なら表れそうな憤りなどの感情は慧の中に登場せず、単純に捺の心情を知りたいという欲にかられていた。
「……先輩は、緊張しないですか?」
「ん、そうねえ……あっ、外野行くわよ!」
突然の慧の質問に考え込みながらも本業を忘れず外野へとボールを打ち込む。ウンウン唸りながら何球か打ち込んだ後、捺は答えた。
「とりあえず緊張はしないわね。私はどっちかって言うとウズウズする方かも」
「うず、うず……ですか」
「そうね。今も早く試合したくてたまらないわ」
「そう、ですか……いろんな考えがあるんですね」
「ん……どうしたの。そんな神妙な顔して」
「あっ……いえ! なんでもない、です……」
「おセンチモードね」
「そ、そうなんでしょうか……」
独特の言い回しが慧を混乱させる。少し間を空けて捺は続けた。
「んー……まあ、こういうのは人それぞれだしね。緊張する人はすると思うわよ」
「…………」
終始あっけらかんとした様子でボールを打ち続ける捺。慧はボールを渡し、受けながら、捺の言葉を咀嚼していた。
緊張をそもそも感じない人。
緊張でダメになる人。
緊張と戦う人。
慧は思案する。今の自分はあっさりと緊張に屈してしまう。でも、緊張と戦い、打ち勝とうとする人もいる。
今の自分が緊張に打ち勝つことは絶対に出来ない。
――でも、いつかは、できるのだろうか。
慧が結論の出ない思考をしている間にノックは終盤に差し掛かっていた。外野手は全員引き上げ、内野手もポジションに残っているのはファーストの華凛のみになっていた。
「はい、ラスト!」
捺が快活に打球を放つ。華凛はそれを軽快に捌き、慧へと送球した。心地よい音が慧のグローブから響く。
――華凛ちゃんも……きっと……。
ボールから華凛の思いが伝わってきた気がした慧は、しみじみと受けた送球の余韻に浸る。
「慧、並んで並んで」
捺に囁かれ、ハッと我に返った慧は皆がいつの間にか作っている列の最後尾へと走った。
「ありがとうございました!」
全員がライン上に整列し、グラウンドに一礼する。直後、皆慌ただしくベンチへと戻る。ワンテンポ遅れてそれに気付いた慧は慌ててその後に付いていく。
「……よっしゃ!」
切れの良い声を張り上げた直子を筆頭にたちどころに列が形成される。捺がその先頭に位置取り、今度はベンチ前に香椎東高校女子野球部の列が出来上がった。
これら一連の行動、そしてこれから始まる公式戦は慧にとって初めての経験だが、その感慨にふけることなく慧はひたすら思案していた。皆の心の内を、華凛の心の内をひたすら思案していた。
そんな慧の心情を知るはずもなく、ホームベース前にやって来た審判が号令をかける。
「集合!」