香椎東対柳川女子:夏37
「あちゃー、また代わったか」
「えっ、うそ」
直子の心底残念そうな声に捺が反応した。グラウンドに目をやると、見たことのないピッチャーが投球練習をしていた。どうやら三番手らしい。
「うーん、さっきのピッチャーで色々考えてたから参ったな……」
腕を組んで唸る捺の横で、慧は新しく出てきたピッチャーを眺めた。どこか機械的に見える振りかぶってから投球までの一連の流れは、これまでの二投手にとても良く似ていた。
「なんか出鼻くじかれた感じっすね……ま、とりあえず行ってくるっすよ」
豊はいつもの調子でバッターボックスへ向かう。その後ろ姿を見て、なんとなく打ちそうだと慧はぼんやり思った。守備側、打席共に準備が整い、第一球。
「ストライク!」
球審が勢い良くコールする。豊は悠然と見逃した。
「まさか初球から手を出さないか心配だったけど、そこはさすが豊ね」
いつの間にか慧の隣には華凛がいた。その横顔に目を向けると、逆に華凛の方からこちらに目を合わせてくる。
「どう、このピッチャーなら打てそう?」
「う……ま、まだ分からないよ……」
慧はマウンド上に目をやり、必死に情報を集めようとする。しかし、どこに目をつけたら良いのか分からない。何から何までさっきまで出ていたピッチャーとそっくりで頭が混乱しそうになる。助け舟を出そうと華凛を見る。華凛は優しい笑みで、慧の肩に触れた。
「良い、リラックスしてやれば結果はついてくるから」
「そう、その通りよ」
不意に訪れた強気な声。後ろを振り向くと、そこには捺が腕組みしたまま立っていた。
「パッと見て、だけど今のこのピッチャー、さっきまで投げてた二番手と力の差はないわ。配球に惑わされなければ皆打てるはずよ」
その時「はっ!」という威勢の良い掛け声と共に金属音が鳴り響く。豊がピッチャーの横を抜くセンター前ヒットを放ったところだった。
「ほらね! 豊、ナイスバッティング!」
声援を送りながら、捺は打席に入る梓に対してサインを出した。
「慧、ちょっと」
直後、捺に腕を掴まれベンチの奥へと連れてこられる。
「ど、どうしたんですか、いったい……」
「梓にはバントのサインを出したわ。良く聞いて」
バント。ということは、ワンアウトランナー二塁で自分に回ってくるということか。
「あのピッチャー、浮足立ってるわ。多分ストライクを取るのにも苦労するはず、慧は小柄だから余計にね」
「そ、そうなんですね……」
「そこで、追い込まれるまではバットを振らないで待つ。ツーストライクになったら、来た球を思いっきり叩きつける。それだけ徹底して、良いわね」
いつになく真剣な捺の瞳。慧は黙って頷くことしか出来なかった。
「ナイスバント!」
その時、香椎東ベンチが歓声に沸いた。梓が見事な送りバントを決めたのだ。
「慧、あなたなら出来る。行ってらっしゃい」
捺はそう言って慧の背中を叩いた。それがスイッチとなり慌ててヘルメットを被り、最も軽いバットを持ち出し、打席へ走る。
「お、お願いします……!」
マウンドに向かって一礼すると、それを待っていたかのように相手投手が動き出す。セットポジションから第一球。慧はタイミングだけを取り、振らない。捺の言う通り、ストレートは外角に外れボールとなった。
やった。もしかしたら振らなくて良いかも知れない。そう思った次の瞬間、早くも第二球が投じられた。今度はストライク。同じように見送った。
「手間取るな、こんな相手に」
不意に、極小のボリュームで声が聞こえてきた。声の主は間違いなく蘭奈。しかし、聞いてはいけない。今は部長より指令を受けている身。それを実行しなくてはならない。決意を新たにしたその時、三球目が投じられた。ボール。一球目と同じようなコースだ。
「真ん中で良い」
また声がする。今も虚ろな目でピッチャーにサインを出しているのだろうか。この熱気の中にあってまるでゾンビのようなあの目で。
慧は思わず身震いしたが、それでも捺の言葉に従うのみ。第四球、振らない。本当に真ん中を通ってストライクとなった。
よし、叩きつける――慧は短く息を吐いた。気持ちが高揚しているのが分かる。慣れてきたか、これまでの打席に比べて手の汗もあまりない。まだ蘭奈が何か言っているが気にしない。第五球。
「えいっ……!」
慧は大根切りの要領で思いっきりバットを上から出した。ボールは、弱い勢いで三塁方向に向かって転がっていく。
走る。サードが捕るのかピッチャーが捕るのか、それともキャッチャーか。多分、ちょうど間の際どいところ。だけどそんなの関係ない。走る。とにかく走る。捺の指令を果たすため。そして――
「セーフ!」
一塁ベースを駆け抜けた直後、塁審の声が聞こえた。どうやら間に合った。誰が捕って投げたかは後で華凛に聞こう。そう思って三塁ベンチを見ると、捺が、華凛が、香椎東ナインが拍手、ガッツポーズ、皆バラバラの仕草で、一様に喜びを表現していた。
「ナイスラン、慧!」
一塁ベースまで届くその声に慧は顔が赤くなるのを感じた。ベンチを直視するのが難しかったが、下を見ながらどうにか会釈することが出来た。