香椎東対柳川女子:夏34
「あっ……そういえばもしかして……」
ライトのポジションで慧は一人呟く。気味の悪いことに、この打席、蘭奈は一球もスイングしていないということに気づいたのだ。
慧の見る限りでは、梓は二球で追い込んだ後、ひたすらに厳しいコースを突いていた。際どいコースならカットしなければならないというのが一般的な打者心理のはず。しかし、蘭奈は一向に手を出さなかった。もし見逃し三振になったらどうするつもりだったのだろう。自分が見逃し三振に倒れた時のあの妙なばつが悪い感じを思い出して慧は思わず首を振った。
いや待て。慧の頭に初回の攻防がよみがえった。蘭奈はあの時もたった一回のスイングで梓の球を仕留めたのではなかったか。
「――まさか」
その瞬間、慧の中に一つの仮説が浮かんだ。
蘭奈はただ手を出していないのではなく。
ボールを見切っているが故に確信をもって見送っていたのだとしたら。
「……センター!」
刹那、慧は叫んでいた。やはり厳しいコースへ投じられた梓のボールを、蘭奈はまっすぐライナーで打ち返した。悔しいことに、その打球音はこの試合で最も美しいものだったかも知れない。
「よっしゃ、任せろ!」
直子が声をあげ、打球に負けないほどのハイスピードで突進しまるでボールにぶつかるかのように捕球した。
「うっ……りゃあ!」
そこから勢い余って体勢を崩してしまうほどのバックホームを見せた。すかさず中継に入った捺は、カット不要と判断したかグラブを引っ込めて振り向き、叫んだ。
「豊、お願い!」
「おっけいっす!」
マスクをファールゾーンへと放り投げボールを待ち構える豊は、ワンバウンドでストライクゾーンに来たボールを捕球するや否や猛然とスライディングしてくるランナーに向かって全力でタッチする。間一髪のクロスプレー。アウトか、セーフか。
「……セーフ!」
球審の腕が横に広がった。溜め息混じりの歓声が球場を包む。四対三。六回の裏にして、これでとうとう一点差となった。
「ちーっ、しくじったか……」
バックアップに回っていた慧の方に振り向き、直子は言った。
「お、惜しかったです……」
「んー、まあ仕方ないっちゃ仕方ない。ここを切り抜けよう。バッター四番だけど前進守備ね」
「は、はい……!」
慧は一礼して、急いで守備位置へ戻る。バックアップに走るだけで息があがってしまうが、それよりも体の震えの方が勝った。
香椎東は全員野球。それに比べ、柳川女子はほとんど蘭奈の仕掛けが得点に繋がっている。まるで蘭奈一人と試合しているようだった。