香椎東対柳川女子:夏32
まるで文乃本人が描く絵のように綺麗な音、そして上品にバウンドする打球。
なめらかに一二塁間を破ろうとするそのボールはしかし、二塁手のダイビングキャッチにより行く手を阻まれてしまう。
「まだある、まだある!」
直子が、ベンチの全員が声援を送る。文乃は脇目もふらず一目散に駆ける。やがて二塁手が地面から体を引き剥がすように立ち上がり、懸命に一塁へ送球した。
「アウト!」
塁審がコールする。その声は、香椎東ベンチの思いむなしく非情に響き渡った。六回の表に訪れた得点チャンスは、これでついえた。文乃の全力疾走は報われなかった。
もし自分なら――ふと、そんな思いが慧の中に湧いて出た。そして心の中ですぐにかぶりを振った。自分だったらどうだったというのか。間に合ったとでも言うつもりか。自惚れるな。
心の中で、慧はすぐに自らの言葉を否定する。これは自惚れではない。単純に、それが皆のためになると思って、ただそれだけを願っただけだ。自分が走れば、それが皆のためになると。
――皆のため。
「ケイちゃん、守備行こうか」
不意に直子に呼ばれて辺りを見回す。気づけば皆グラブを持って守備位置へ向かっていた。
「す、すいません……!」
慧は大慌てで準備をしてベンチを飛び出す。しばらくして、六回の裏が始まった。
大観衆が見守るグラウンドは熱気に満ちていて、多少大きめの氷でもすぐに溶けてしまいそうだった。慧は帽子を取り、額から流れる汗を拭う。
「皆のため……」
慧の中にスッと降りてきたその言葉を、思わず口に出して呟く。野球から一度離れるまでは意識していなかったこと、そして、自分が今ここにいる動機ともいえるその言葉。
自分が皆のために何か出来ることがあるのか、それは何か。その答えが、わずかながら顔を出したような気がして慧は空にある見えない何かを左手で掴もうとする。しかし、そこには何もない。溜め息をついて、視線をバッターに戻した。
「あっ……!」
瞬間、踊るようなハイトーンの音がグラウンドを包んだ。二番バッターの打球が鋭く三塁線を破ったのだ。
いけない。慧は打球の行方を追いながらランナーを確認する。バッターランナーが一塁ベースを蹴ったその時、ネクストバッターズサークル上でゆっくりと立ち上がる蘭奈の姿が視界に入った。
「ひっ……!」
思わず慧は短い悲鳴をあげてしまう。蘭奈の目線は帽子のつばに隠れて見えなかったが、その口元はいびつに歪んでいた。まるでこの状況が面白くてたまらないとでもいうように。