香椎東対柳川女子:夏25
構えながら、慧はふと思った。守備の時もここへ来る直前も、そういえば「ボール来るな」とか「打席に立ちたくない」とかそういった言葉が浮かばなくなっている。
それは慧にとって特別なことだった。だっていつもそれに苦しめられているのだから。
ただ、全くそういったことを思っていないかといったらウソになる。しかし、その割合がこの数イニングで低くなっていることは確かだった。
そんなラッキーな気まぐれがあるのか、と慧は口笛を吹きたくなったが、今は目の前に集中しなければならない。やがてピッチャーが振りかぶる。先頭打者として塁に出るのが仕事になるのだ。しっかりやらねばならない。
「うわっ……!」
第一球、慧の体の近くを通ったスピードボールは内角ギリギリ、ストライクとなった。コースにせよスピードにせよ、とても慧に手の出せるボールではなかった。ストライク先行。掌に汗の滲む感覚がするが、ここは次の球にて勝負するしかない。
しかし、まるでリプレイのように同じコースに同じ速度でボールが来た。慧は思わず体を引いたが、やはり判定はストライクだった。
「ま、まずい……」
慧はつばを飲み込む。たったの二球で追い込まれた。しかも、打てないコースを見事に突かれている。仮にもう一度同じコースに来たら、もうアウトだ。内角球というものは通常より早い反応で打ち返す必要がある。故に、スピードボールが内角に来たら打つのは難しい。ましてや、これほどのスピードを伴った内角直球を打ち返すのは今の慧には難易度が高い。
「……ん?」
ふと、慧の耳に何やら声のようなものが聞こえてきた。うっすらと、しかし確実に誰かが何か言っている。気になるが、かといって周囲を見回すわけにはいかない。ピッチャーはボールを投げてくるのだ。慧は謎の声を意識から押しやり、バットを構えることにした。
「……するな」
次の瞬間、それはハッキリと慧の耳に届いた。まるで呪詛のような、それでいてとても冷たい声。
「姉さんの、邪魔をするな」
声が一体なんなのか分かったその時、ピッチャーは三球目を投じた。瞬間、慧は泣きそうになる。なぜならこれまでの二球と全く同じ速球が全く同じコースに来たから。
慧は懸命にバットを出したが、むなしく空を切った。三球三振。際どいコースに三球とも投げられた。俯いて打席を出る。その刹那、慧はキャッチャーの方を見た。
声の主である蘭奈は、虚ろな目でピッチャーの方ばかりを見ていた。口元は僅かに動いているようだが、何を言っているかは慧には聞こえなかった。