-- あるひとつの記憶
――騒々しい。
誰も彼もがやがやと騒ぎ立て、耳のやり場がない。可能ならここから立ち去りたい位の気分だ。
曇りがかったこの空とは裏腹に、見渡す限りの顔が眩しく光っている。
皆、興奮した面持ちで自らの外周をぐるぐる見回している。誰かは必死に誰かに声援を送り、誰かは俯いて体育座りをしている。
その光景には目眩がした。クラスでは普段大人しかったはずの子までも、オリンピックで日本の選手を応援しているかのように熱心な声援を送り続ける。
――馬鹿らしい。
中学最後の体育祭。今年は体育祭がある代わりに文化祭がないので、これが三年生にとっては実質最後のイベントだ。
だからと言ってこんなかけっこの何が楽しいんだろう。別に勝とうが負けようが、通知表に影響がある訳じゃないし、勿論行ける進路が変わるわけでもない。こんなことで騒ぎ立てて楽しそうにしてるなんて滑稽だ。
――ああ、それは違う。
私が今の私じゃなければ。
皆の期待に応えられるだけの状態なら、それこそ先頭に立って皆を引っ張って、勝ちに行ったはずだ。
でも、今の私にはそれが出来ないから。
こんなにも不貞腐れて。
下を向いているんだ。
――滑稽だ。
みんな私に期待してくれるはずだったのに。
今は違う。まるで腫れ物に触るような扱い。誰も何も言わないけど、そんなものはなんとなく伝わる。
こんなの、もう、ただ黙るほかない。
「ねえ」
ふと、誰かが私に声を掛けてきた。その方向に目を向ける。
そこには三年間共に戦って来た一番の仲間が立っていた。
「あんたが下向いてる場合じゃないんじゃないの」
「……良いでしょ。たかが体育祭のリレーなんか。私はどうせ力になれないんだし他の皆が頑張ってるんだからそれに任せるわ」
――分かってるんだ。
「でも、あんたが率先して声かけてあげなきゃ。これまではずっとそうしてたでしょ」
「……クラスは違うのに、良く知ってるわね」
「だいたい分かるよ。あんたは部活でもクラスでも、変わらないって」
――本当は、そうしたいって。
「……残念ながら、今日はそんな気分じゃないわ」
「そう。ま、良いんだけど」
――でも、今の私は皆の期待に応えられない。
ふたりで外周を眺める。
そろそろ順番が回ってくる。全員走るというルールがある以上、こればっかりはどうしようもない。
「そろそろでしょ」
「……そうね。アキノはもう走ったの?」
「あたしはスターターだったよ。本当に見てなかったのね」
「そうだったの……それは悪かったわね」
「別に」
どうやら、最も気心が知れた仲間の出番にすら私は気付けていなかったらしい。アキノは普段通り気にする素振りをまるで見せない。でも私は少し居心地が悪い。
「そろそろ準備したほうがいいんじゃないの」
「……そうね。そうする」
アキノに促され、軽く屈伸する。
気は全然進まない。でも、今さら逃げるわけにもいかない。
「じゃ、また。クラスは違うけど健闘を祈るよ」
「……それはどうも」
アキノがいなくなったタイミングと、私の前走者にバトンが渡るタイミングは同時だった。スタート位置につき、前走者を見る。
その瞬間、対岸の方を起点に会場が沸いた。
「……?」
無論、私の登場に沸いたわけじゃない。別のクラスの誰かが、バトンを受け取り走り出した瞬間盛大に転倒したのだ。
――御愁傷様。
その様は可哀想だったけど、こっちもこっちで多少の緊張と戦う用事があった。転倒した誰かから目を切り、ひとつ深呼吸をする。
その瞬間。
倒れた誰かは泣きそうな顔で起き上がり、泣きそうな顔で走り出す。
なよなよした雰囲気。小さな背。
そこからはとても想像出来ないスピードで。
必死の形相で。
次々と前を走る走者を抜いていく。
――なに、これ。
その誰かは、先頭を走っていた私のクラスの走者までも抜き去り。
トップで帰ってきて、私のすぐ横で次走者にバトンを渡す。
その瞬間、また派手に転倒した。
――どうして、こんな。
それからのことは、よく覚えていない。
バトンを受け取ったかどうかも、次走者にバトンを渡せたかどうかも。
叫び出したくなるような、何かいろんな感情がぐちゃぐちゃに混じって、よく分からなかった。
後でアキノに聞いたら、どうやら私は泣いていたらしい。泣きながら走っていたとでも言うのだろうか。我ながら滑稽過ぎて恥ずかしい。
ただ。
皆から笑われて。
馬鹿にされて。
大きな弱みをさらけ出しても。
それでもひたむきに前を向いていた、後先も何もないあの姿が。
私にとってただひたすら眩しくて。
それが私の胸に深く、深く刺さった痛みだけは。
覚えている。
13話の正式な次話は
[14 時を経て初陣]
になります。