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ハードシップメークス  作者: 小走煌
1 はじまり
13/227

絶望と光

登場人物


若月慧(わかつきけい)

高校一年生。文芸部へ入部する決意を固めたものの、野球部へ入部させられてしまう。野球というスポーツに苦しめられつつも少しずつ成長しているかも知れない。


伊勢崎華凛(いせさきかりん)

高校一年生。慧を野球部に誘う。周囲の視線を奪う容姿の持ち主であり中学時代は名のある選手だったらしい。高校ではファーストに挑戦する。


天宮捺(あまみやなつ)

高校二年生。野球部部長。メインポジション以外もこなせる。


近藤千春(こんどうちはる)

高校二年生。野球部副部長。真面目な性格。


林直子(はやしなおこ)

高校二年生。基本的にテンションが高い。


中川幸(なかがわさち)

高校三年生。眼鏡をかけている方。おっとりしている。ピッチャー。マウンドに立つと気性が若干変わる。


佐倉千秋(さくらちあき)

高校三年生。眼鏡をかけていない方。おっとりしており後輩の面倒見が良い。サード。


吉田清(よしだきよ)

高校二年生。男子のような風貌と長身。端からは畏怖の対象として見られる。


二年生2、二年生3

未知。

 手渡されたバットを握る。その質量がいかなるものかは、両の手を通して充分過ぎる程伝わってきた。

「これ……お、おも……」

 初めて手にする金属バットは無機質な感じがした。銀色でコーティングされた形状からは凛々しさが滲み出ていたが、初対面ではいかにも馴染みづらい。掲げたバットを見上げ、慧はひとつ溜め息をついた。

「初めてだとさすがに重いかも知れないわね……」

 慧を心配する声の主は、上半身と脛に防具を装着し、左手にキャッチャーミットを嵌め完全武装している捺だった。これにマスクを装着していれば誰か分からなくなるが、投球前のため今は外している。

 練習がスタートしてもう随分長い時間が経っているように慧には感じられたが、捺からは重い防具を装着し続けている疲労がまるで感じられない。

「……そうね。バットを短く持つと少し振りやすくなると思うわ」

 不安の色濃い表情を崩せない慧に対して、親切にアドバイスを送る。慧は無言でバットをふた握り程度短く持ってみた。

「そう。そのまま一度振ってみて」

 捺に言われるがまま、慧は短く握ったバットを一度振った。

「うん。いい感じじゃないかしら」

 腕組みしながら見詰めていた捺はひとつ頷いた。

「その感じなら打つ方は左で問題なさそうね」

「えっ……」

「あなたの今のスイングは左打者のそれだから。つまり慧は左投げ左打ちね」

 人差し指を立てて慧に説明を始める。

「左打ちは一塁に近いから、足が速いと有利ね。左投げはピッチャーだと重宝するんだけど、野手となると一塁手か外野くらいしかポジションがないわね」

 丁寧な説明を展開する捺だが、それを聞く慧はうわの空だった。

 先程の守備で打球を恐れたこと。それを痛烈に批判されたこと。そこで発生した心の痛みはまだ取れず、慧は未だうつろな状態のままでいたのだ。

「……ま、とにかく。まずは打ってみましょうか」

 そんな慧の状態を察してか、捺は説明を止め慧を打席に促した。指示を受けるがままに慧は左打席に立つ。マウンドには幸が変わらず立っていた。

「けいちゃん、よろしくー」

「は、はい……」

 普段と比べ僅かながらテンポが速くなったような調子で明るく挨拶をされ、慧も釣られて返事をする。

「改めて聞くけど、硬球を打つのは初めてよね?」

「……はい」

 あたりまえです、と言わんばかりに慧は返事をする。

「オッケー。今日は練習だし、慣れる意味でも慧は皆より多く打席に立って貰うわ」

「は、はあ……」

 慧にとってはあまり嬉しくない特権を与えられる。しかしその通達は、守備のショックで落ち込む慧を、これから始まる野球の醍醐味とも言える部分へ意識を向けさせるという意味で充分な働きをした。

「よし、それじゃ第一球……行くわよ!」

 捺が後ろでミットをひとつ叩く。それに呼応するかのように幸が振りかぶり、ボールを投じた。

「ひっ……!」

 向かって来るのは、自分と同じくらいの体格である幸が普段のキャッチボールよりも離れた位置から投じる小さなボール。そこまで恐れるものではない、はずなのだが、慧はそれに言い様のない迫力を感じ、思わずのけぞる。

 まるでボールが自分のところに向かって来ているように慧には感じられたが、実際には何事もなかったかのように捺のミットに収まっていた。

「……ストライクね」

 判定を宣言した捺と目が合う。捺は何故かニヤリとした笑みを浮かべ、幸にボールを返す。

「ちょっとゆっくりめに投げてもらうわ。その方が打ちやすいでしょう」

「そ、そうですか……」

 慧の背後、見えない位置で捺が幸に向けて指を動かす。幸はマウンドでその仕草に気付き、ひとつ頷いた。直後振りかぶり、捺のミット目掛けて投げ込む。しかし、捺の宣言通りそれは一球目と比べて非常にゆったりとしたボールだった。

「……えいっ!」

 ここぞとばかりに慧は反射的にバットを出した。しかし、いくら短く持ってもそのバットが重いこと自体は変わらず、思った通りの軌道を描いてくれない。波を打つスイングを通り抜け、ボールはゆっくりと捺のミットに収まった。

「うぅ……」

「惜しい惜しい! 初めてにしては筋がいいわ」

 いつもと変わらぬ調子で捺が励ましの声をくれる。しかし、たったのひと振りで、慧はその声援さえも信じられなくなっていた。


 ――ほんとに惜しい……? こんなふにゃふにゃなスイングで。


「さ、もいっちょ行きましょ」

 捺が威勢良くミットを叩く。幸が先程よりさらに一段階遅いボールを供給する。

「――っ!」

 反射的にバットを出すが、やはり空振りする。

「……もいっちょ!」

 捺はやたら元気な声で続行を宣言する。たて続けに投じられるボールに対して、慧のバットは未だ当たる気配を見せない。

「まだまだ!」

「ほいさー」

 キャッチャーの捺、ピッチャーの幸が一球ごとに掛け声を繰り出す。

「さあこーい!」

 各守備位置の野手もしきりに声を張り上げていた。

 そんな言い知れぬ空気の中、慧は空振りを繰り返した。

 ――これは……なんだろう……。

 繰り返す空振りの中、慧の思考は次第に泥沼の如く混濁していた。

 ――これ……なんか……見せものみたいだ……。

 変わらず明るく励ましてくれる捺の声も、周りの野手の声援も、耳に届けどそれを受け入れられない。


 ――きっとみんなわたしをさらしものにして楽しんでるんだ。


 疑心暗鬼になりながら慧はバットを振り続ける。何かに操られるように繰り返し。

 一見無闇に繰り返されているようにしか見えないその行為はしかし、やがてひとつの成果を出した。

「あっ……!」

 慧の出したバットが、微かながらついにボールに触れた。硬球はそのまま捺の背後で跳ねる。

「おぉー、やったわね!」

 キャッチャーである捺の背後に飛んだボール。即ちファールである。しかし、ボールにバットが当たったというひとつの事実がそこには存在した。

「あ、あたった……」

「その調子! 今度はきっと前に飛ぶわよ」

 消えていた眼の光が僅かに再点灯した慧は、捺の励ましもあり、今度は打球を前に飛ばしてやろうという思いを抱いた。

「けいちゃん、前に飛んだらちゃんと走るんだよー」

 心の中で燃える慧に幸が一言注意をつけ加えた。何気なく投げられたその言葉にハッとした慧はふと一塁方向を見やった。そこには凛々しい瞳で慧を見据える華凛が、そして一塁ベースがやがて来る慧を待ち受けているかのように横たわっていた。

「……よし」


 ――次は前に飛ばして、あそこを駆け抜けるんだ。


 決意の慧に向かって、せっかちにも既に投球動作に入っていた幸がそのまま今日何十球目かのボールを投げ込む。

「きたっ……!」

 もう大分見慣れた軌道だった。ゆったりとやって来るそれを、しっかりと引き付ける。

「……いっけええええ!!」

 今の自分のありったけをその一点に込める。その思いはバットに伝わり、そこからボールへと伝達――。

「あっ……!」

 とは、いかなかった。慧の願いとは裏腹にボールは遠くへは飛んでいない。上から降り下ろすようなスイングで捉えたため、ボールはホームベースの手前へ叩きつけられ大きくバウンドしていた。

「フェアよ、フェア!」

 マスクを外しながら捺が叫ぶ。幸が反応し慌ててマウンドを駆け降りる。

「はっ……!」

 慧は打球を目で追いながら、一塁ベースと、そこに向かう華凛の姿を視界の端に捉えた。

 瞬間、慧はそこに向かう使命にかられる。自動的に体が一塁ベースに向かって動き出した。

「オーライ!」

 捺の声が聞こえる。恐らく捕球したのは捺なのだろう。でもそんなことは知らない。とにかく全力で走るしかない。慧はわき目もふらず疾走した。

 ――あそこを……駆け抜ける……!

 さらなる加速を見せる。あっという間に一塁ベースがもうすぐのところまで迫っていた。

 ――もう、すこし……!

 ことごとく願いを打ち消された慧の、今日何度目かの願いは。

「……!」

「ちょ……!」

「うわぁ~……」

「……あはははははは!おもしろすぎー!」

 慧自身の、一塁ベース手前での盛大な転倒によりまたも叶わないことになった。

「……いたい……」


「もう、やだよ……」

「まあまあ……」

 夕暮れを夜が覆い隠そうとしている。街灯が照らされていく中、慧と華凛は並び歩いていた。

「ボールはとれないし……バットには全然あたんないし……バット重いし」

 俯いたままぼそぼそと不満点を列挙していく。

「しまいにはず……ずっこけちゃう、し……」

「あれは良かったわ」

「もう! 華凛ちゃんまで……たくさん笑われてとっても恥ずかしかったんだから……」

 笑いをこらえ平静を装う華凛に慧は膨れっ面を見せる。

 ベース手前での転倒はチームメートの様々な反応を受けた。特に直子は目に涙を溜めながら慧の頑張りを称賛した。その態度に慧は大きくショックを受けたらしく、その状況を忘れようと頭を振る。やがて呼吸を整え直し、独白を再開した。

「……こんな恥ずかしい思いして……きつい思いして……」

「……辛い思いして……もうやだよ……」

 基本的に自分の本心を表に出さず相手の思考に合わせていく慧にしては珍しく、すんなりと本心が出た。あるいは相手が華凛であることも影響したかも知れないが、何より本心を隠せない程今日の慧は心身共に疲れきっていたのだ。

「……こういうものよ。最初はね」

 帰り道の最中、慧をなだめる程度で自分の言葉を発して来なかった華凛がここで口を開いた。

「最初はこんなものよ。誰だって、もちろん私も、きっと捺先輩だって、最初から上手く出来る人はいないわ」

 慧は俯いたまま黙っている。華凛は構わず続けた。

「こうやって、少しずつ覚えていくものなの。今日は慧にとって良い経験になったと思うわ……それに、硬式用のバットはすごく重いの。初めてであれを使ってとりあえず前に飛ばせたのは自信持って良いわ」

 経験者である華凛が言うと説得力が違った。慧は俯きながらも、耳はしっかりと華凛の言葉を聞いていた。

「それから、捺先輩が驚いてた。こんなに足が速いと思わなかった、って」

 慧はピクリとした。活かすつもりはなかったものの、足の速さだけはそれなりに誇れる自覚はあったからだ。華凛は続ける。

「……あれには私も、えと、その……驚いた。素直に凄いと思うわ。羨ましい、って」

 慧は顔を上げた。

「誰にも負けないものをひとつ持っている、というのはかけがえのない支えになるわ。慧にはその足があるからこれからそれを活かせるように練習していけばきっとチームにとって貴重な戦力になるはずよ」

「……」

 慧は華凛の目を見た。これまでと変わらず、澄みきった瞳をしている。

 慧は不思議な気持ちになった。なぜ、自分にないものを全て持っているはずの、こと野球に関してはスタープレイヤーのはずの彼女が自分を羨ましがったりするのか。

 心の底で妙な引っ掛かりを覚えた慧だが、しかし、それ以上に心の大多数をある感情が支配していた。

「華凛ちゃん」

「ん?」

 常日頃、人の目を見て話すことを苦手とする慧は、今この場で、華凛の美しい瞳を正面から見据え、一言だけを発した。

「……ありがとう」

 一瞬、目を見開き、驚きの表情となった華凛は、直後そっぽを向いて左頬をポリポリ掻いた。

「い、いいわよ別に……」

 慧には落ち込んだ自分を励まそうとする華凛の気持ちが充分に伝わっていた。そしてもうひとつ、これまで感じたことのない気持ちが湧き上がるのを感じた。

 戦力になれるかも知れない。必要とされるかも知れない。

 野球のルールすらよく分かっていない状態だが、こんなところでももしかしたら自分の居場所があるかもしれない。その光が、慧の心を明るくした。

「……ふふっ」

「また突然笑い出して……」

「ふふふっ……ありがとう華凛ちゃん」

「……気持ち悪いわね……」

 自然と足取りが軽くなる慧の後ろを華凛が呆れたようについていく。家路に向かうふたりを、明るくなった街灯が照らした。

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