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ハードシップメークス  作者: 小走煌
1 はじまり
12/227

こわさ

登場人物


若月慧(わかつきけい)

高校一年生。文芸部へ入部する決意を固めたものの、野球部へ入部させられてしまう。褒められて伸びる一面をもつ。


伊勢崎華凛(いせさきかりん)

高校一年生。慧を野球部に誘う。周囲の視線を奪う容姿の持ち主であり中学時代は名のある選手だったらしい。ただし硬式野球は高校から。


天宮捺(あまみやなつ)

高校二年生。野球部部長。楽天的な性格。


近藤千春(こんどうちはる)

高校二年生。野球部副部長。真面目な性格。


林直子(はやしなおこ)

高校二年生。基本的にテンションが高い。


中川幸(なかがわさち)

高校三年生。眼鏡をかけている方。おっとりしている。ピッチャー。


佐倉千秋(さくらちあき)

高校三年生。眼鏡をかけていない方。おっとりしており後輩の面倒見が良い。サード。


吉田清(よしだきよ)

高校二年生。男のような風貌をもつ。思ったことは口に出すタイプ。


二年生2、二年生3

詳細は次第に明らかに。


 隕石が落ちてくる。

 あるいは弾丸が降り注ぐかのよう。

 体は金縛りにあったかのように硬直している。首から上は辛うじて動き、必死に空へと目を向ける。

「うあ……あ……」

 声にならない声を漏らす。全身の感覚は、それの到着が近いことを敏感に感じ取っていた。

 少女は回想した。ここに至るまでの出来事を。まるで走馬灯のように。


 四月最初の金曜日。県立香椎東高校の女子野球部部室には十名の野球部員、全員が集まっていた。スペースが幾分か失われたその部室で、皆は純白のユニフォームにそれぞれ着替える。

 それは若月慧も例外ではなく、皆より少し遅れて慣れない着替えを完了させた。野球部のユニフォームを着るというのは、慧にとって人生で初めての体験だった。

 厚手の生地はいかにも頑丈に出来ていて、これなら多少のことでは破れないだろうという安定感があった。しかし、素肌に着るには具合が悪く、そこはアンダーシャツの存在が欠かせない。

 足はこちらも頑丈なストッキングで締め付けられ、鈍重になった感触がする。まるで鎧でも纏っているかのような気分になった。

 初めての感触を咀嚼する慧をよそに、帽子を被り直した捺がおもむろに窓際に向かった。

 ゆっくりと歩を進め、やがて窓に到達した捺はカーテンを勢いよく開く。そこから見える外の景色を暫く眺めた後、やがて皆の方に振り返った。自然と全員の視線が捺に集まる。

 捺は部室の全員に目を配ったあと、机に両手をついた。そこから、どこか照れたような、ぎこちなく神妙な面持ちで語り始める。

「えーこの度、私達香椎東高校の野球部員が十名となりました。これは、ついに私達香椎東高校の野球部が公式戦に出場出来るということを意味します」

「やったねー」

「わたしたちははじめてだから緊張するね~」

 捺の改めての通達を聞き、嬉しそうにする三年生。その様子を優しい目で見たあと、捺は再び皆に向き直った。

「三年生の先輩方にとっては最初で最後の大会となります……少しでも長く、このメンバーで野球が出来るように頑張りましょう」

 かしこまり、ぎこちないながらも真剣さが伝わる捺の宣言に、皆は掛け声で反応した。その様子に満足気な捺は、ニンマリと笑みを浮かべた。

「よし。それじゃ練習に行こうかしら」

「おう。久々のグラウンド練習だから楽しみだな」

 そう言って真っ先にグローブの入った鞄を担ぎ出したのは、二年生の吉田清だった。

 皆が鞄を担ぐのをよそに誰よりも早く部室を後にしようとする彼女は、ドアの前に立っていた慧と目が合った。

「……っす、すいません……!」

 慌てて道を譲った慧を一瞥し、無言でドアを開けて出ていく。足音が遠くなったことを確認し、慧はひとつ息をついた。

 吉田清は全部員で一番の長身と、男勝りな雰囲気を併せ持つ。会話をしたことはまだ無いものの、ともすれば喧嘩腰で怒鳴り声を発してきそうなその雰囲気を、慧は内心で恐れている。

「張り切ってるわね、清」

「だね。まああたし達もさっさと行きますか」

 捺と直子が早々に部室を後にした清に続く。それに引き寄せられるように他の部員も次々と出ていき、あっという間に部室から姿を消した。

「はあ……」

 ひとり部室に取り残された慧は重い表情で鞄を担ぎ直す。無意識のうちにため息がこぼれていた。

「どうしたの」

 不意に声を掛けられ、慧はとっさに振り向いた。

「か、華凛ちゃん……」

 ひとりしか残っていないと思っていた部室だが、華凛だけがまだ残っていたようだ。驚く慧に華凛が言葉を重ねる。

「今日の練習、不安?」

「……」

 的確に慧の心境を察してくる。慧は何も言えず黙っていた。胸にある突っ掛かりを言葉で説明するのは難しかった。

「大丈夫よ、練習なんだし。それに広い場所でやるのはきっと楽しいと思うわ」

「……」

「そんなに不安になる必要はないから。楽に行きましょ」

「……うん」

 華凛が自分を気遣ってくれているという気持ちが伝わってくる。慧は俯き加減に、言葉にはしないものの心の中で華凛に感謝した。

「申し訳ありませんが、そろそろ閉めますよ」

 ドアの向こうに残っていたらしい千春がふたりを促す。第三者の存在に全く気付いていなかったふたりは顔を赤くし、すぐさま部室から飛び出た。

「さあ、行きましょうか。今日は非常に楽しみです」

 部室の施錠をし終え、グラウンドへ歩き出す千春の後に慧と華凛は続く。

 華凛の思いやりを感じながらも、慧の胸には一抹の不安が残留し続ける。その原因がなんなのかは本人も分からなかった。

 部室からグラウンドに向かうと、先に到着していた捺や清、他のメンバーは既にバックネットの前に出て軽い準備体操をしていた。

「まずはウォーミングアップから始めます。皆それぞれ走り出すようですね……私達も急ぎましょう」

 千春に促され、駆け足でサッカー部や男子野球部のいないグラウンドを突っ切りバックネット裏へ向かう。

 走っている最中、慧はふと左右を見渡した。誰もいないグラウンドは予想以上に広く、ここを今から女子野球部が占領する、ということがなんだか凄いことのような、面倒なことのような複雑な気分になった。

「はやくはやくー」

 急かす捺に手を挙げ千春はバックネット裏に鞄を置く。それに倣い、慧と華凛も同じように鞄を下ろした。

「ささ、並んで」

 捺が促す先には既に二列編隊が出来上がっていた。千春が驚いたように捺に言う。

「今日は全員で走るのですね」

「そう。こうして部員が揃ったんだからまずはこれぐらいしないと」

「確かにそうですね。これまではバラバラに走っていたので随分懐かしい感覚ですが」

「そういうこと。もう掛け声忘れちゃってるわ」

「ふふっ、頼みますよ。部長」

 そう言い残すと千春は列の最後尾に並び、慧と華凛もそれに従った。

「よし……それじゃいこうかしら」

 緊張した面持ちで先頭の捺がひとつ咳払いをする。直後、グラウンド全体に響き渡る程の声量で掛け声を発した。

「ひがしこうーーー!ファイトーーーー!」

「おーーーーっ!」

 皆待っていたと言わんばかりに声を返す。驚きであたふたする慧を構うことなく、編隊の進行が始まった。

「いーちにー、いちにー」

「わっしょい!」

 どこかのんびりとした掛け声に調子を合わせて走る。声を上げながら走るとすぐに脇腹が痛くなるということを認識した慧は、しかしそれでも隣の華凛に話し掛けずにはいられなかった。

「こ、これが……ウォーミング、アップ……なの……?」

 脇腹の痛みをこらえ言葉を絞り出す。華凛は涼しい顔で答えた。

「そ。いかにも野球部って感じでしょ?」

「そ、それは……そう、だけど……」

 これ程辛いものが単なるウォーミングアップでしかないのか、という主旨でした質問だったが、華凛には上手く伝わらなかったらしい。ふと前方に目をやった慧は、華凛のみでなく他のメンバーも、誰ひとり呼吸を乱している者はいないことに気が付いた。これは、このランニングが厳しいということではなく単に自分が標準についていけていないだけということなのだ。

 自分は初心者であるという自覚はもちろんあるため随所で引け目を感じることはあるだろうと想定していたが、こうもあからさまだと恥ずかしいような悔しいような気分になってくる。

 ――まあ……しょうがない、けど……。

 体力と精神が一気に追い込まれ、諦めの境地に達そうとした瞬間。

「よーし、ここまで!」

 ウォーミングアップの時間が終わりを告げた。皆徐々にペースを落とし、やがて徒歩のスピードになる。慧は膝をつきたくなるのをこらえ、皆と同じペースで歩いた。

「次はストレッチしてキャッチボールねー」

 捺の号令を機にメンバーが一斉に二人一組を形成する。疲労が残った状態で息も絶え絶えのままどうしていいか分からずうろたえる慧を華凛が引き寄せた。

「慧、こっち」

「華凛ちゃん……これは、何をするの……?」

「私と柔軟体操をするの。指示するからその通りにやれば良いわ」

「ふーん……」

 周りを見ると、確かに皆互いの体を押したり引っ張ったりしている。なんとなくイメージが湧いた慧は、華凛の指示に従い体操をこなしていった。

「んっ……」

 疲労した後に行うストレッチは慧にとっては助かるものだった。次第に体力が回復していく。

「強かったら言って」

「ん……だいじょうぶ……」

 華凛と声を掛け合い進めていく。体は硬い慧だが、ほんの少しのこのやりとりでたちどころに柔らかくなったような気がして気持ちが軽くなっていた。

「オッケー、じゃキャッチボールしましょ」

 ひとしきりストレッチを終了したらしい捺がまたも全員に合図を出す。皆バックネット裏へ引き上げ、それぞれグローブを取り出した。

「キャッチボールも私としましょう」

 ファーストミットを手にした華凛が慧を誘う。慧は真面目な表情の頷きで返した。右手にはお下がりのグローブを嵌めている。

「それじゃみんな並んで」

 リーダーシップを存分に発揮する捺に乗せられるように整列する。

「慧、もっと寄りましょう」

「あっ、うん……」

 ちょうど端に並んでいた慧と華凛は全員のスペースを確保するべくグラウンドの更に奥へ位置を取り直す。それにより充分なスペースが出来上がったが、それでもなおグラウンドにはかなりの空き領域が存在した。

 占有して使うグラウンドがいかに広いか慧は思い知らされる。普段練習する空き地とは比べ物にならなかった。

「すごいね……」

「広さのこと? まあだいたいこんなものよ。ただ、空き地に慣れてると確かに驚くのも無理はないわね」

 華凛は平然としている。場数を踏んできた人間はやはりこれぐらいは当たり前なのだろうと慧は無理やり納得した。

「では、お願いします」

「お願いしまーす」

 今日何度目かの捺の合図により、キャッチボールが始まった。皆思い思いのペースでボールを投げ合う。

「……えいっ!」

「んっ……」

 慧の投げるボールに華凛はいささか驚いたような表情を見せた。

「慧、あんた……」

 その表情のままボールを投げ返してくる。それは慧のグローブの芯に収まり、風船が割れたような音がグラウンド全体に響き渡った。

「すごい……ゆっくりしたボールなのに……」

 華凛の投じた球の質に驚愕の色を隠せないながらも、それをグローブの芯で捕球出来たことに満足し、一呼吸置いて投げ返す。

 今日までの数日間、空き地の練習でキャッチボールを繰り返した慧は、投球と捕球について自分なりに感覚を掴んでいた。まだ多少のぎこちなさは残るものの、フォーム自体はすっかり野球部のそれになっており、近い距離のキャッチボールだけはそれなりにやれる自信がついていた。部活には嫌々参加している毎日だが、それでも初日よりは確実に成長しているのだ。華凛は感心したように慧のボールを受け取った。

「結構やるじゃない……そういえば、一緒にキャッチボールするのは初めてね」

「そうだね。空き地では千春先輩にずっと教えてもらってたから……」

 ボールと共に会話を交わす。これが華凛と初めての行為だという感覚があまりない慧は不思議な気持ちになる。

「慧、あんたもしかしたらセンスあるかもね」

「えっ!? い、いや、そんなことないよ……」

 褒められるのは嫌いではない、むしろ好んでいる慧だが、あまりに唐突だったため投げ返すボールが指にかかり過ぎ、目の前に叩きつけてしまう。

「ふふっ、あんまり褒めない方がいいのかしらね」

 到底受け手の元へは辿り着けないボールに、華凛は自ら近付いてゆっくりと拾い上げる。

「でもたった数日で、大したものだわ」

 慧に投げ返してから距離を開け直す華凛。その後ろ姿に謙遜を返す。

「ぜ、ぜんぜんたいしたことないよ……千春せんぱいのおかげで……」

「そう。自分の頑張りは誇っても良いと思うけど……って」

 振り返った華凛は言葉を失った。慧の表情は、遠目でも一目で分かる程浮かれていたのだ。

「……気味悪いわね」

「えっ、あっ……ごめん……」

「いいわよ謝らなくて、どれだけ嬉しいか分かったから」

 なんとも言えず気恥ずかしくなり、慧の顔は訳のわからないものになっていた。

 自分の成長を褒められるということは、それだけで気分が良い。ましてや不得手とする分野でそうなれば、誰であれ浮わつくものだろう。慧は特にその傾向が強いのか、夢うつつな状態で華凛とボールを投げ合い続けた。

「よーし、集合!」

 部長である捺の掛け声で現実に戻される。キャッチボールを終え、皆が捺の元へ集った。十人でひとつの輪が出来上がる。

「今日の練習はケースバッティングをします!」

「けーすばってぃんぐ……?」

「守備側が正式な位置の守備につき、打者が順に打席に入って打ちます。簡単に言うとちょっとした試合形式の練習ですね。しかし捺。我々は全員で十名しか人数がいないので、少々効率が悪くありませんか?」

 未知の単語が登場し困惑した慧をすかさずフォローした千春が、立て続けに捺へ疑問を投げた。

「まあ、確かにそうね。でも、皆久々だし華凛と慧も新しく入ってくれたし。実際の試合っぽくやった方が盛り上がると思って、ね?」

「そうですか……そういうことであれば、特に反対はありません」

 捺の考えに千春も同調したようだ。他のメンバーも一様に首肯する。

「……よし! ではでは早速やっていきましょう」

 恐らくこの場で一番やる気が充満しているであろう捺が引き続き場を仕切っていく。

「ポジションはとりあえず適当で。ピッチャーは……さち先輩、いけますか?」

「もちろん~。用意はバッチリだよ~」

 三年生の中川幸はおっとりとした様子で応えた。

「そしたら私が受けますね。途中で適当に変わっていきましょう」

「いろいろ適当だなー」

「そうですね」

「いいのよ適当で!」

 直子と千春に突っ込みを受けるがサッと流す。直後、腕組みし目を伏せて何事か考え始めた。

「では記念すべき最初のバッターは……」

 場が静寂に包まれる。他のメンバーも思いの外高い捺のテンションに圧倒されているのか、誰も言葉を発することが出来ない。慧は、捺が何を記念しようとしているのかもよく理解していなかったが、発言出来る空気でもなければ勇気もないため周りに合わせて無言のままでいた。すると伏せていた捺がキッと顔を上げ、ひとりの人物を見た。

「華凛、いってみよっか」

「わ、私、ですか……?」

 想定していなかった指名に華凛は驚きを隠せずにいた。

「嫌?」

「いえ、記念すべき最初のバッター、というのに私で良いのかと……」

「むしろ『だからこそ』よ。若き新戦力に最初の一打を託して景気づけるのが良いと思うのよね」

「そうですか……」

 よく分からない捺の理論だが、反対する者は誰もいなかった。

 ――わたしじゃなくてよかった……。

 冷静に考えれば未経験者である自分が指名されるはずはないが、大袈裟に考える質から生まれた不要な心配と安堵を慧は交互に感じた。

 その間に、華凛の気持ちは固まったようだった。

「……わかりました。やらせて頂きます」

「うむ。よろしくね」

 華凛の返事に捺は嬉しそうに頷く。

「っし、じゃ守備つくか」

「そうですね」

 華凛が最初の打者となることが決定し、皆思い思いのポジションに散らばる。

 しかし慧だけがその中でひとり、どうして良いか分からず立ち尽くした。

 ――な、なに……どこかに立ってればいいのかな……そ、そうだ!

 バラバラに散った部員の中からひとりを見つけ出し、走り寄る。そこには三年生の佐倉千秋の姿があった。

「けいちゃん、どうしたのー?」

 優しい雰囲気で語りかけてくれる。慧は甘えたように発した。

「みんなバラバラになって心細くて……とりあえずここにいてて良いですか?」

 千秋はキョトンとして回答する。

「でもけいちゃん、とりあえず空いてるポジションつかなきゃ……」

「ポジション……?」

 慧が首を傾げると、千秋の後ろから怒号が響き渡る。

「おめー何やってんだよ! センター空いてんだろが、さっさとつけよ!」

 急激に心臓が一鳴りした慧がその方向に目を向けると、二年生の吉田清が鋭い目つきでこちらを睨んでいた。

「えっ……センター……?」

 こちらへの敵意だけをしっかり感じ取った慧はしかし何も出来ずあたふたする。その状況をふたつ先輩である千秋が察した。

「きよちゃん、そんなにどなっちゃだめだよー」

 ゆったりと清へ注意を投げた後、慧に向き直った。

「けいちゃん、まだ野球あまりしらないもんねー。いきなりどなられてもわかんないよねー」

「ご……ごめんなさい……」

「いいよ、気にしないでー。センターっていうのはね、守備位置のひとつなんだけど、そうだなー……」

 半べそ状態の慧を優しくなだめ、校舎の方向をゆっくり指差す。

「校舎のふもとに朝礼台があるでしょ、あそこから大股で二十歩くらいわたしのところに近づいたらちょうどいいくらいだよー」

 千秋が指差した方向には確かに朝礼台が鎮座していた。千秋の言う通りにすればとりあえずセンターの定位置につくことが出来るらしい。

「あ……ありがとうございます……!」

「いいえー、また何かあったら教えるねー」

 千秋に一礼し、駆け足で朝礼台に向かう。強制的に注がれる清の視線から逃げたい一心で走り続け、やがて朝礼台にたどり着く。そこから急いで大股二十歩を敢行し、無事センターの守備位置についた。

「なに……ここ……」

 その位置からは、誰も彼もが遠かった。手を振ってくれる千秋も、開始の合図を告げる捺の大声も、バットを持つ華凛も、全てが小さかった。

 その孤独感が不安を呼び起こす。千秋に手を振り返す余裕もなく、慧はひとり混乱していた。


「あの子、大丈夫かしら」

「……まあ、確かにまだ何も知らないはずですから。こうやって少しずつ覚えていくしかないですね」

「キャッチボールを見てると成長度合いには期待出来そうだしね。けっこう良いボール投げるでしょ、あの子?」

「ん……そうですね。正直少し驚きました」

「ね。まあゆっくりと期待してましょ」

「ええ……」

 打席の華凛は地ならしを終えたのと同時にキャッチャーである捺との会話を終え、バットを構える。マウンドでは幸が今にも振りかぶりそうな様子で待ち構えていた。

「準備いい~? いくよ~?」

「お待たせしました。大丈夫です」

 一度ヘルメットのつばを触り礼の姿勢を見せてから構え直す。

「さち先輩、あれでけっこう投げたがりだからねー。マウンドでは少し性格が違う感じなのよね」

 捺が呟くのと同時に幸が振りかぶり、第一球を投じた。子気味良く威勢の良い音が捺のミットから響き渡る。

「……ボールね」

 捺は座ったままマウンドの幸へボールを投げ返した。

「良いコースでしたね。審判によっては取られていたところです」

「私は辛いからねー……ところで」

 捺がどこか含んだような物言いになる。

「硬球は初めてなのよね? いったいどんなものか、この機会にしっかり味わって欲しいわ」

 捺の言葉に妙な胸騒ぎを感じた華凛は、反射的に目前に迫っていたボールに手を出した。

「くっ……!」

 打球はボテボテのゴロとなり、三塁線の左側を転がる。三塁手として守備をしていた千秋が打球を拾い上げる。

「ファールねー。さっちゃん、いいたまー」

 一声掛けながらボールを返す。ボールを投げた千秋、受けた幸、双方ともこの練習が楽しくて仕方ないといったような充実した笑顔をしていた。その一方で、華凛は戸惑いの表情を作る。

「いくら伊勢崎華凛と言えど、硬球への対応は簡単じゃないかもね」

 捺の言葉が耳に入ってくる。打った球は内角球。さほど球威があるわけではないものの完全に詰まらされ、その手は痺れていた。これまでに経験のない感触に、やや焦りの表情が浮かぶ。

しかしそれは一瞬にして笑みへと変わった。

「確かに一筋縄では行かなさそうです……しかし、楽しみですね。これは攻略のしがいがあるというものです」

「そう……頼もしいわ!」

 捺の熱と喜びが籠ったような声とひとつミットを拳で打ち鳴らす音、そして既に振りかぶっていた幸のボールを放すタイミングがシンクロした。

「……!」

 放たれたボールはやや甘いコースに入ってくる。華凛はそれに反応し、バットを出した。

「っしっ……!」

 甲高い金属音を残し、ボールは高く上がって行く。またもバットの芯とは遠い位置でのインパクトとなったが、重い金属バットに早くも適応しつつあった華凛のスイングにより、今度はフェアゾーンに打球が飛んでいた。

「さすが。この当たりでけっこう飛ぶのね」

「……でも打ち損じです。ほぼ定位置ですね」

 華凛の適応力を讃える捺と悔しさを隠さない華凛は同時に打球の行方を追う。

 打球はセンターに飛んでおり、そこには先程朝礼台から二十歩離れた場所に位置取りをした慧が呆然と立ち尽くしていた。


 慧の脳はここに至るまでの出来事をひとつひとつ思い出し、再度空中の白球に意識をフォーカスさせた。随分長い時間が経っているような感覚に陥るが、着実に白球の到着は迫っている。

「あ……あ……」

 慧は無意識に両手をかざした。本能的に白球を押さえる意識が働いたのだ。

 しかし、両手以外の各所が固まったまま一向に動く気配を見せない。必死に動かそうと念じるも、体はなんの反応も示さなかった。

「う、あ……あ……」

 やがて白球は加速し慧の眼前に迫る。

 猛虎のような威圧感で襲い来るそれを慧は直視することが出来ず、ついには目をそらした。

「……!」

 直後、ボールは慧のすぐ後ろで高く跳ねた。

 慧は両手で頭を防ぐ姿勢を取り固まっていたが、背後で聞こえた音から、恐怖は去ったことだけは判断出来た。

 ――こ……こわかった……。

 ひとまず顔を上げ、ボールを拾おうとする。その直後。

「おめー何逃げてんだよ! 取れんだろ今のくらいよ!」

 反射的に慧は竦み上がった。新たな恐怖を与える声の主は先刻慧を怒鳴り散らしていた清だった。慧の向かって右側、レフトの守備位置から獰猛な叫びを慧に浴びせる。

「こらー! どなっちゃだめでしょー!」

「全くですよ。練習なのですから」

 遠くから千秋と千春がなだめる。

「ちっ」

 三年生と副部長に同時になだめられ、清は咆哮を止め無言になる。

 しかしそれは慧の心を折るのに充分過ぎる役割を果たした。

 ――ひどい……あんまりだよ……。

 慧は涙目で再び動き出す小さい人間達の動きを眺めていた。


 それから何人かが代わる代わる打席に立ちバッティングを行ったが、うつろな慧はその様子を目で追うだけで頭にはなんの情報も入っていなかった。幸いその間センターには一度も打球が飛ばず、慧はうつろなまま佇んでいた。

 ――やっぱり……わたしなんかじゃ無理だよ……。

 慧の頭の中は空虚なネガティブ思考が幅を利かせていた。

 ――こんなどなられて……かんたんなことも出来ない……やりたくもないし……。

 負の思考の淵に嵌まり投げやりになる。

 ――もう……やだなあ……やめたい……。

「慧!」

 何者かが進展のない思考から慧を現実に引き戻した。声のした方向を見ると、未だ防具を身に纏っている捺が大きく手招きしている。

「……?」

 とりあえず自分が呼ばれていることは分かった慧は捺の元へ駆け出した。

「な、なんでしょう……?」

 息を切らせて辿り着いた慧に差し出されたのはバットだった。

「みんなあらかた打ったし、今度は慧の番! お待たせしたわね」

「え、えっ……?」

 自分が打つ側になることを完全に失念していた慧。人生で初めて握る金属バットを見つめる。頭は状況をまるで整理出来ていないが、誘導されるまま足はふらふらとバッターボックスに向かっていた。

投稿が遅れまして申し訳ありません。

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