香椎東対柳川女子:夏1
「あれ?」
直子の呟きを慧は聞き逃さなかった。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、先発ピッチャーがあの凄いのじゃないんだなあって思って」
直子が指差した先には黙々と投球練習を続ける相手投手の姿があった。チラチラ見える背番号は「1」。しかし、それは鍛治舎玲央ではなかった。
「どうやら噂は本当だったみたいね」
腕組みをして捺が言った。
「噂ってのは?」
「直子、あなたは先頭打者なんだから行ってこないと。帰ってきたら教えてあげるから」
「なんだよ、めっちゃ気になる」
直子はそう言いながらも捺の言うことに従い、急いでヘルメットを被りベンチを飛び出した。その様子を見送り、改めて慧に向き直る。
「鍛治舎玲央はもう投げられない」
そう言って捺は相手ベンチを睨んだ。その視線を追うと、ベンチ内に玲央の姿があった。
「もう試合に出られないんですか?」
「恐らくはそうね。どうやら私達との試合の後、痛めてしまったみたいね」
慧の問いに捺は淡々と答える。
ケガ。高校球児の大敵と噂で聞いたことのあるその特質は、時に試合に出られない程のものなのか。慧は言葉を失ってしまう。
「まあ、相手がどうあれ私達は勝つだけだわ」
捺はそう呟き、自らもヘルメットを被った。三番打者として回ってくる出番に備え出したのだ。
慧は改めて相手ベンチを見る。玲央は腕組みをして険しい表情でグラウンドを見守っている。その様子を見て、最も身近な「ケガ」を抱える人のことを思った。ケガにも度合いがある。とても悔しい、悲しい思いをしても、試合に出られているのならそれはまだ幸せなことなのかも知れない。でも、本人はそれとずっと向き合っていかなければならないのだ。それがどんなに辛いことなのか、慧には想像もつかない。
「慧」
不意に肩に置かれた手に思考は止められる。ハッとして振り返ると、華凛がそこに立っていた。
「どうしたの、ボーっとして」
「……ううん、なんでも」
「そう、なら良いけど」
華凛は視線を慧からマウンドへ移した。
「鍛治舎玲央が投げられないというのは、私達にはラッキーと捉えるべきね。まずはなんとか一点を取りましょう」
そう言って慧の横に並んで立った。
華凛は幸せなのか、それともやっぱり不幸なのか。華凛の横にいながら、慧はそんなことをまた考え出した。
その時、球審が声高らかに試合開始を宣言した。負けられない戦いが、始まった。