まずは帰る
「……なんていうか、さ」
試合終了後、整列と校歌斉唱を済ませ余韻に浸る間もなくベンチを片付け、荷物を抱えられるだけ抱えて何かに急かされるようにベンチを出てノンストップで通路を通り、あっという間にたどり着いた球場の外。壁に面した空きスペースで次々に荷物を下ろすメンバーに向けて、直子はボソッと呟いた。
「なんかアッサリしすぎっつうか、まあ……良いことなんだけど」
直子は今日、慣れない役回りを強いられたため多少なりとも疲労感というものがあるはずだが、そんな様子は全く感じられない。まるで休日に外で遊ぼうとしたら予報外れの大雨で行き場を失くした少年のように、肩透かしを食らってエネルギーを持て余してしまっているように慧には見えた。試合開始前のどんよりした空気が嘘のよう。底抜けのタフさに慧は感心せざるを得なかった。
「勝ちは勝ち、ではありますが、予想外の大勝ですからね。多少の違和感があることには同意します。少し景気が良過ぎる故のしっぺ返しが無ければ良いのですが」
直子の問い掛けのような呟きに千春が反応する。慎重に言葉を選んでいるその様子は、勝利を純粋に喜ぶ最後の夏のど真ん中にいる高校生とは少し違っている気がした。
慧は全員の顔を一人ずつ見比べる。十人十色の顔色に共通するのは、今千春が言ったようなことを、どうやら皆感じているらしいということだった。
「まあ、確かにちょっと出来過ぎね」
その時、暗雲から僅かに差す陽射しのような雰囲気の声が場に響いた。それは主将である捺のものだった。
「傍から見ても圧勝と言って良いくらいのゲーム。ちょっと足元をすくわれそうになる気持ちは分かる……でも、だからと言って不安がるものでもないわ。千春の言う通り、勝ちは勝ち。ここは素直に喜びましょう。どんな好ゲームだろうが、負けてしまっては意味のない戦いなんだから。これは、ね」
場の全員を諭すような落ち着いた声。捺が話すとどんな状況でも冷静さを取り戻せる気がする。これが主将の主将たるゆえんなのだろう。
捺はゆっくりと全員を見た後、穏やかな視線を直子に向けた。
「今日は特に、直子が本当に頑張ってくれた。急に決めちゃったことで申し訳なかったけど、しっかり応えてくれてありがとう」
「あ、ああ、お安い御用ってもんよ」
直子は照れたように頭をかく。
「おやすいごよう、ってことはないでしょうよ。あれだけ動揺しまくってたんだから」
「う、うっせー!」
すかさず豊が茶々を入れる。直子はばつが悪そうに悪態をついた。しかし、そのやり取りは皆の顔に笑みを宿すには十分だった。全員の笑い声が優しく空気に溶け込む。
案外、息の合ったバッテリーなのかも知れない。慧は和んだ場の空気を感じてそう思った。日陰の風が涼しく感じる。試合による独特の緊張から、ようやく抜け出したような気がした。
慧は周囲に目を向ける。会場は時々人が通り、グラウンド内とは趣の異なる熱気が存在した。噂話のような話し声が慧たちにも聞こえてくる。
「さっきの試合、凄かったね」
「圧倒的だったねー。守備も良かったけど、打線がすごいわ。どこからでも点が入るんだもん。特に三、四番は要注意って感じ」
「香椎東高校ってあんまり聞いたことなかったけど、要注目かも」
慧は一瞬、耳を疑った。見知らぬ他人がウチの話をしている。まだたったの一試合をこなしただけなのに。
これが二試合、三試合と続くともっと大きな声になるのだろう。これが勝ち進むということなのだ。慧は照れ臭さと使命感が入り混じったような、何とも言えない気分になった。
「さて、共有しておきたい良い点や反省点はいろいろあるんだけど……とりあえず、今日はもう帰りましょうか」
そう言いながら捺は、何かを気にするように視線を一方に向ける。その先には、体育座りで地面にうずくまるようにしている梓がいた。
「そうですね。今日はすみやかに帰宅し体力の回復に努めましょう」
捺の言葉に副部長の千春がすかさず同意する。梓は今にも横たわりそうなほど青ざめた顔をしている。帰ろうという意見に異を唱える者は誰もいなかった。
もしかしたら今日最も奮闘したのは彼女かも知れない。辛いことをおくびにも出さず共に打球を追った梓の姿が慧の脳裏によみがえる。ナイスファイト、と声を掛けたかったが、言える立場でもないので心の中に留めることにした。
学校へ帰り、道具を片付け、この日は解散となった。
慧は一人、家路へと向かう。
「今日、勝って良かったな」
誰にも聞かれないようにひっそりと呟く。
慧自身、今日の試合はいろんなことがあった。思い出したくないような失敗もある。しかし、一つだけ確かなのは、少なくとも次の試合までは三年生と一緒にいられるということ。恐らく今、大事なのはそこなのだ。
慧はふと、あの日のことをぼんやりと思い出した。