香椎東対久留米国際7
左バッターは流さなくて良い。
灼熱のグラウンドで、唐突に慧はそんな言葉を思い出した。ツーストライクと追い込まれたこの最悪の状況に暑さが相まって思考が定まらないのだ。愚かな自分自身を思わず笑いそうになった。
「あっ……」
しかし、相手投手がセットポジションから足を上げたその時、記憶はまるで自嘲を止めさせるように鮮明になっていく。瞬く間に蘇ったそれは、長い間野球から遠ざかっていたブランクを取り戻そうと練習に励んでいたここ数カ月の間のワンシーンだった。
「慧はいつもどんなことを考えて素振りをしている?」
全体練習の終了後、少しだけ素振りをしようとバットを手に取った慧の元に華凛がやってきて言った。
「えっ、それは、えっと……」
慧は言葉を詰まらせる。自分がどのように振っていたか頭をフル回転させ、意識している項目を必死に取り出そうとする。バットの出る軌道をイメージしていたか、それともフォロースルーに気を配っていたか。
しばらくして、堪え切れず慧は華凛に視線で救いを求めた。
「意識、していなかったのね」
少しだけ目に涙が滲む実感があった。考えなんて何もない。自分はただ漫然と振っていたということを思い知らされたのだ。
「まあ仕方ないわ。むしろ、今気づけて良かった。イメージするのとしないのでは、ただの素振りが全く意味の違うものになるということに」
「そ、それってどういう……」
立ちどころに浮かぶ疑問を制すように、華凛が手で促してきた。その意味を即座に理解した慧は持っていたバットを華凛に手渡す。
「良く見てて」
そう言うと、華凛はおもむろに構えを取った。慧が後ろに下がったのを見計らったかのように一振りする。フォロースルーを終えると、ゆっくり構え直してまた一振り。
綺麗。
目の前で繰り広げられる演舞のような素振りを見て、慧は素直にそう感じた。チームメイトとして日頃から目にしている動作ではある。しかしこうして改めて見ると、そのレベルの高さは素人の慧が見てもはっきりと分かる。惚れ惚れする、優美なスイング。
こんなスイング、自分には絶対に出来ない。まずバットに振られるほどの非力がどうしようもない。次にフォームのぎこちなさ。他にも欠点は挙げればキリがない――そんなことを考えているうちに華凛は五本目の素振りを終え、バットのグリップを杖代わりに腰に当て、地面に着けた。
「今私が見せたのは素振りの基本。どんなところが基本だったか分かった?」
華凛の瞳はまっすぐこちらを見据えてくる。慧は思わず目を逸らす。
今のスイングに基本が詰まっていたかどうかなど、勿論分かるはずがない。それどころか目を向けていたのは華凛ではなく自分の実力不足なのだ。
「……わ、分からなかった、です……」
苦心の末にかろうじて一言だけ告げる。恐る恐る華凛を見ると、しかし特に怒っているような様子ではない。腰にやったバットをまた握り直すと、芯の部分を両手で持ち慧に見せた。
「バッティングっていうのは、当たり前だけどいかにピッチャーのボールを真芯で打ち返すことが出来るかどうかよ。そしてピッチャーっていうのは、バッターを打ち取るためにストライクゾーンの四隅に投げ分けてくる。でも、そこまで完璧に投げ切れるピッチャーなんて中々いない。失投だってあるわ……詰まるところ、内角低め、内角高め、外角低め、外角高め、そしてど真ん中。この五つのコースを押さえることがバッティングの基本だと私は思っているわ」
華凛の言葉に、慧は黙って頷き続けた。基本を押さえたバッティングというものが果たして自分に出来ていたかどうか。答えはノーだ。ただ漫然と打席に立ち、緊張に負けていた。
そんな慧を助けるように華凛の言葉が染み渡ってくる。基本というものは不思議だ。その存在を知るだけで、下手くそな自分でも何となく打てそうな気がしてくる。
「だからこそ、素振りの時はコースをイメージする。実際にボールが四隅に来ると思って、相応しい振り方をするの。内角なら引っ張る、外角なら流すイメージね」
そう言いながら華凛はバットを真横に向け、それぞれのコースに合わせる。体から随分離れた外角から次第にバットの芯が内角に寄ってくると、いかにも窮屈な腕の形になった。
これがコースを打つということ。改めてバッティングの難しさを思い知ると同時に、分からないことへの霧がかった気持ちが少しずつ晴れていく。分かるということは大事なことなのだ。
「だけど一つだけ教えておくわ、慧。左バッターなら、とある状況ではもっと簡単に振って良いの」
「えっ?」
不意に投げかけられた言葉に、思わず慧は声が漏れた。
「特別な状況ではどんなコースも関係ない。それはファースト、セカンドにランナーがいる時。この時は何も考えず『引っ張り』だけをすれば良い。流す必要はないの。なぜだか分かる?」
「そ、それは……」
再び出された華凛からの難題に、どうしても答え切れずにどもってしまう。
「それはね、最低限ランナーを進められるからよ。とにかく一塁側に叩きつける。慧の足ならゲッツーにもなりにくいわ」
一塁側に打てばランナーを進められる。なぜそうなるのか良く分からなかったが、華凛が言うのならそういうものなのだろう。慧は無理やり納得させて説明を聞き続けた。
「ケイちゃーん、がんばれー!」
大きいがどこか力の抜けた声により、華凛との学びのひと時から急速に現実へと戻される。それはネクストバッターズサークルから声援を送ってくれる直子のものらしかった。
慧の結果がよほど最悪でない限り回ってくるはずの打席。それなのに届いた声には緊張感がない。その理由を、慧は何となく理解した。直子もまた、バッティングの基本をきっと押さえているのだ。
「……よしっ!」
ピッチャーはもうボールを投げた。泣いても笑ってもあとストライク一つ。やるしかない。慧はハイスピードでやって来るボールに対して懸命にバットを出した。