いったい
登場人物
若月慧
高校一年生。文芸部へ入部する決意を固めたものの、野球部へ入部させられてしまう。
伊勢崎華凛
高校一年生。慧を野球部に誘う。周囲の視線を奪う容姿の持ち主であり中学時代は名のある選手だったらしい。
天宮捺
高校二年生。野球部部長。楽天的な性格。
近藤千春
高校二年生。野球部副部長。部費の管理を任されている。
林直子
高校二年生。基本的にテンションが高い。
中川幸
高校三年生。眼鏡をかけている方。
佐倉千秋
高校三年生。眼鏡をかけていない方。
二年生1、二年生2、二年生3
詳細は次第に明らかに。
憂鬱感が心を支配する。
どんな行動をとっても確実にやってくる時。それから逃げることは出来ないのだと直感が告げる。
「……」
慧はベッドの上に座った状態で、未だ目覚めきらない頭と体を静止させていた。
このまま倒れ、ふとんの中にもう一度潜り込みたい。しかし、残酷にも時間はただ過ぎ去っていくのみである。
「もう……んしょ、っと……」
学生としての習性か、自動的に登校の準備を始めようとする頭が、ベッドへ依存する体をそこから無理やり剥がした。流れるような動作でそのまま支度を始める。未だ寝ぼけた状態の体は、しかし手際よく準備を進めていく。
――簡単に学校休めればいいのに。
慧は心でごちる。思いとは裏腹に時間を気にしてテキパキと動く体がどこかもの哀しかった。ふと慧は机の脇に置いてある鞄を目に留めた。
「……やっぱり、違和感だなあ」
つい数日前、ロードワークの練習を行った際に直子の紹介で手にした鞄。いかにも野球部であることを周囲にアピールしてしまうそれを、慧は今日、ついに解禁することになるのだ。それこそが、慧を支配する憂鬱感の正体でもあった。
「ああ……やっぱやだなあ……」
入手直後に感じたはずのなじむような感触も忘れ、ただただ嫌悪感が訪れる。
「わたしがこんなのしょって、登校なんかできるわけないよ……」
およそ自分には到底似合っていないであろうその鞄を、嫌々ながら肩にかけてみる。予想通りどうにもしっくり来ないむず痒さを感じ、たまらず部屋を出る。そのままの勢いで靴を履き玄関を開け外に飛び出した。
慧は昨日までこの鞄を使わず通常の格好で登校していたが、今日は金曜日。いわゆるグラウンド解放日である。そのためジャージでなく専用の練習着を着用する必要があり、必然、普段使用している鞄では入りきらない。そこで満を持して――慧にとっては憂鬱なことだが――野球鞄が登場してくるというわけだ。
慧はひとり気を重くする。自らの体と野球鞄のいびつな組み合わせ。本来であれば誰にも見られたくないその姿。
「あら、似合ってるじゃない」
「おお、バッチリバッチリ! もっと早く持ってくれば良かったのにー」
「良いですね。良く映えていると思いますよ」
しかしそんな姿が放課後、謎の称賛に出くわすことになった。
「そ、そんな……」
既に部室に到着していた捺、直子、千春に立て続けに好意的なコメントを寄せられる慧。それに羞恥しながらも褒められたとあっては悪い気分はせず、ニヤリとするのを必死で堪えていた。
「似合ってんだからずっと持って来てればよかったのに」
「もしかして、恥ずかしかったのかしら?」
「い、いや、えへへ……」
糾弾してくるチームメイトを愛想笑いでやり過ごす。鞄を手にしたのは火曜日なので、その気になれば野球鞄で登校する機会はあった。しかし今朝感じた思いと同じ感情を今日までずっと抱えており、それがどうしても拭い切れず、お披露目はお預けとなっていた。このすわりの悪さの原因が何かは慧自身もよく分かっていないが、捺の言う「恥ずかしいから」もあながち間違いではないのかも知れないとひとり考え事をしていたその時。
「おつかれさま~」
「こんにちわー」
和気あいあいとした部室の雰囲気を壊さない穏やかな声が、同じような調子でふたつ聞こえてくる。それと同じタイミングで部室のドアが開かれた。
「お疲れ様です。先輩」
捺が挨拶をする。にこやかな笑顔で返事をしたその人物は、慧の鞄に目を留めた。
「あっ。けいちゃん、かばんもってきたんだね~」
「ほんとだー。いいかんじだねー」
おっとりとした口調でこちらもまた野球鞄を肩にかけた慧を称賛してくる。
「あ、ありがとうございます……」
慧は申し訳なさそうに首を竦める。ふたりはにこにこと笑顔を絶やさない。
この、およそ運動部とはにわかに信じがたいような雰囲気を醸し出すふたりが、野球部唯一の三年生である。ふたりとも仕草や雰囲気が非常に似通っているが、眼鏡をかけているかいないかで判別が出来る。
「今日はグラウンドで練習するからかばんもってきたの~?」
「はい。そうなんですよ……」
眼鏡をかけている方である中川幸に話し掛けられ、すかさず返事をする。
慧とふたりの初対面はロードワークの翌日の練習だった。ふたりの作り出す空気がどこか自分と似ている気がして、話す機会が欲しいと慧は感じていた。今、自らの挙動に反応を貰えたことが嬉しくなり、知らず口調も軽やかになっていた。
「新品は、いいよねー」
眼鏡をかけていない方である佐倉千秋は羨ましそうな目で慧の鞄を眺めている。
「そうですね。まだなじんではないんですけど、手触りとかいかにも新品って感じです!」
「いいな~」
「わたしもなにか道具新しくしようかなー」
羨望を受け照れ臭くなる。
「あっ……そういえば」
ふとロードワーク時から心の隅に引っ掛かっていた事柄を思い出し、直子の方を見る。
「あ、あの……」
「ん?」
「この鞄や練習着って、お金払わなくて本当によかったんですか……?」
「ああ、部費で落としたから良いわよ、気にしないで。ちょっとしたプレゼントみたいなものだと思って」
直子に質問したつもりが、捺が回答をくれた。
「いいわよね、千春?」
「ええ。構いません」
副部長、ならびに部費の管理も行っている千春は大きくひとつ頷いた。
「本来であれば、事前に連絡は欲しかったのですがね」
頷いた後で直子に鋭い視線を向ける。直子は首を竦めた。
「ちゃーす」
直子を救うかのようなタイミングでまたも部室のドアが開き、三人が立て続けに入室してきた。慧にとっては幸、千秋同様ロードワークの翌日に初対面を果たした二年生の三人である。最下級生なのでひとまず挨拶をしようとしたが、まるでそれを遮るようなタイミングで華凛が入室してきた。
「おお~、いっきにたくさんだね~」
「ねー」
最年長のふたりが緩やかなリアクションを取る。今、部室には十名の野球部員が揃った。
「集まったわね」
捺がスクリと立ち上がる。
「今日は今年度初のグラウンド練習よ。張り切っていきましょう!」
「おー!」
威勢の良い声が上がる。
十名という人数が実際に一堂に会すると、この広々とした部室でも流石に多少の窮屈さが顔を出す。それでも、ひとりひとりの顔に暗い陰は見当たらない。皆この雰囲気を楽しんでいた。
――あれ……なんか楽しい。
なぜだか慧もまた、この空気を悪くないと思った。皆を近くに感じられるこの独特の空気を、心なしか楽しんでいた。
「……と思ったのに」
気付けば慧は広大な大地にひとり佇んでいる。周りを見回すが、人の姿ははるか遠い。見知った顔はあるが、それもやはり遠い。
現状を理解しないま訳も分からず立ち尽くす。右手にはグローブが嵌められていた。
遠くで金属音が聞こえる。ふとその方向を見る。そこを起点に空高く舞い上がった白い物体が、自らへ向けて急降下してくる。
「うぅ……」
接近を続ける物体に呼応するように、慧の心臓は早いテンポで傷んでいた。
予告より掲載が遅れまして申し訳ございません。