激しい衝撃
「さあ、行くわよ!」
大船の船長と見まがう程に堂々と、誰よりも早く一目散に駆け出して行ったのは捺。
その後には、絶対的主将に引っ張られるように香椎東高校女子野球部の面々がぞろぞろと続いた。
しかしその足取りは一様に重く、まるで泥海の如き荒地の中、涙を堪えながら道なき道を健気に進んでいるかのよう。
そんな希望の見えない行進の最後尾に慧はいた。照りつける真夏の太陽の下、混乱の真っただ中で暑さなど忘れていた。
慧には自信があった。この場の誰よりも絶望の淵にいるという自信が。それは、慧の前方右側で頻繁に咳き込んで普段のクールビューティがすっかり沈痛の表情に変わってしまっている梓や、前方左側でだらりと両腕をたらし目は虚ろ、最大の魅力である陽気さが消し飛んでしまっている直子よりもなお自分の方がより崖っぷちであるという確かなものだった。
しかしながら、こんなことに自信を持っても虚しさしかない。眼前に広がるのは茶色い土と緑の芝のコントラスト。向かう先には兵隊のように装備を整えた対戦相手。キャンセルなど受けつけてくれない待ったなしの状態。
頭がふらついて倒れそうになりながら、誰にも聞こえないであろう小さな声で慧は呟いた。
「ああ……どうしてこんなことに……」
慧が野球部への復帰を決めてからは、毎日があっという間に過ぎた。
皆は何か月もいなかった慧を咎めるどころかこれまで以上に歓迎してくれ、あまつさえ『おかえりなさい会』まで開いてくれた。慧は皆の気持ちに応える最適解が分からず、とにかく目の前のこと――これまでのブランクを取り戻すための練習――に向き合い続けた。
慧は弱かった。日々の中で何度も練習を休みたくなったり逃げ出したくなったりした。どれだけ『頑張ろう』と決意をしても、辛いものは辛い。元よりスポーツは自分に合っていないものなのだろうと慧は薄々感じていた。
しかし、慧は皆に対する負い目や後ろめたさを感じつつも、結果的に踏みとどまることが出来た。それは、慧がダメになりそうな時、華凛や豊、捺や直子、チームメイトの皆が励ましてくれたからである。
都度掛けられたその言葉は『今日もお疲れ様』とか『頑張ったね』とか月並みなものではあった。しかし、そこにある温かさというものは、きっと本物だった。慧は、その気持ちにはどうにか報いたいと思えたのだ。
相変わらず実力は初心者のそれ。気持ちは前を向いたり後ろを向いたり、そんな日々を送りながら時は経ち、気づけば夏になっていた。
夏になるということは、試合が近いということである。
それは練習試合などではない。決して落とすことの出来ない、軽い気持ちで臨めない試合なのだ。慧の中で張り詰めた気持ちが次第に割合を大きくしていった。
そんなある日。
「みんな、お待たせ」
放課後。練習に向けて皆の集まった部室に、捺が珍しく遅れてやって来た。
「おっ、最後なんて珍しいねえ。クラスで何か始末書でも書かされてたかい?」
いたずらっぽく茶化す直子をよそに、捺は右手でドアを閉めながらもう片方の手で手際良く肩掛け鞄から一枚の紙を取り出した。
「トーナメント表が来たわよ」
瞬間、部室に時が止まったような緊張感が走った。捺の言う『トーナメント表』が何を指しているかは慧にもすぐに分かった。だからこの場の誰もが一瞬で気づいたはずだ。それは夏の県予選のトーナメント表。夏の県予選とはつまり、三年生にとって最後の大会。
「おっ、やっと来たか。どれどれ見せて見せて」
張り詰めた空気から一転、既に普段のあっけらかんとした調子を取り戻していた直子が真っ先に捺からトーナメント表を奪い取った。
「直子、破けてしまったらどうするのです。もっと丁重に扱いなさい」
「へーへー」
直子は反射的に肩をすぼめる。軽率な行為を一喝したのは千春だった。
「しかし私達のブロックもさることながら、天神商業や柳川女子、和白といった強豪校の位置も気になるところですね」
千春は平静を保つように、直子の持つトーナメント表を覗き込む。それに続くように全員がトーナメント表に群がった。
「こ、これは……」
直後、皆が息を飲む。
それは香椎東の一回戦の相手を見たからだろう――とトーナメント表を後ろの方から覗き見た慧は直感した。
久留米国際高校。去年の夏、香椎東を一回戦でトーナメントから退場させた高校がこの夏もまた初戦に当たる事実がそこには記されていた。