慧は悩み考える
慧にとって、華凛は自分にないものを全て持っている、天上の人と呼んでも決して大袈裟でないほどの存在だった。
どんな苦境に立たされても前を向き、その局面に合った最適解を出せる人。そして、他者を引き寄せるカリスマを持った人。
しかし今、慧の目の前にいる彼女は何かにすがりつかなければ今にも崩れ去ってしまいそうだ。まるで親の死に目にあってしまったような目をして、慧にもたれかかるように華凛は言った。
「あの試合で、私は「足」を失った。走れない外野手なんてもうなんの価値もない。今まで輝いていた世界が一気に暗くなったわ。もう何を見ても綺麗に見えなかったし、楽しくなかった」
憧れの人のその言葉に、慧は吐き気と一種の切なさを覚えた。だってこの華凛はやはり、今まで見たことのない華凛だから。
「大切なモノを失くしてしまったから、この先どんなプレーをしてもそれはもう自分ではないと感じてしまうはず。そこまでして好きな野球を続けてもきっと惨めになるだけだから、高校に上がったらはもう野球は止そうと思っていたわ」
こんな華凛が本当に存在するのか。信じたくないあまりいっそ廊下の窓から飛び出してしまおうかという負のイメージを必死に心から排除し、華凛の告白をどうにか掬っていく。弱く、呟くような話し声はしかし、そこでいったん止まった。
「……そう、あの日まではね」
「えっ」
華凛の瞳に捉えられ、思わず慧は声を上げた。その瞬間、真っ直ぐに見つめてくるその目がいつもの、慧の脳裏に強く焼きついている華凛のものになっていた。
「三年生の時、体育祭があったわね。そこでクラス対抗リレーがあった。私は本当に憂鬱だったわ。なにせ走れない。皆の足を引っ張ることが確定していたんだもの。でもね、リレーだから全員が等しく走らなきゃならない。逃げられないのならやるしかないでしょう。私はしょうがなく覚悟を決めた。そうしてバトンを待っていたら……そこにどんな光景があったと思う?」
唐突な問い。華凛に何かを回答することは出来ないが、慧は一つのことを思い出していた。中学最後の体育祭。リレーで盛大に転倒した苦い思い出。汚点として脳みそから消し去りたかったがまだ残っていたらしい、あの負の記憶のことを。
「光よ」
華凛が言った。
「光があったのよ。形の整っていないぐちゃぐちゃしたものだったけれど、間違いなくこの世のどんなものよりも強く、美しく、綺麗に輝いていた……それがあなた。走れない私にとって、ウジウジして下を向いていた私にとって、慧。あなたの存在は光だったのよ」
だから私はあなたを野球部に勧誘した、と華凛は続けた。
究極の運動音痴で、性格も競技に向いていない、試合に出るよりベンチにいたい、本当に野球が好きな人間にとっては敵のような存在。
こんな何も持っていない自分を、そうではないと否定した唯一の人間。
声の出ない慧から、華凛は少しずつ離れた。
「……最後はあなたが決めること。でも、せめて私があなたに拘る理由だけは知っていて欲しかったの」
慧に背を向けてゆっくりと廊下を歩く華凛は、一度振り向いて慧に言った。
「ありがとう。こんな話を聞いてくれて」
それだけ言って、華凛は去ってしまった。
廊下には、慧を除いて誰もいなくなった。
慧は足元に視線を移す。
自分はいらない存在だと思っていて。
でも、誰かには必要とされているのかも知れない。
あの場所に立ちたくない自分がいて。
でも、必要とされているのなら――
慧は考える。
廊下には夕日が差し、人の気配のない校舎はまるで慧を包み込んでいるかのようだった。
翌日。
始業前の慌ただしい教室の中、慧は、机をまさぐる桃枝の前に立った。
「あっ、慧ちゃん」
一時限目に使うサイズの小さい教科書でも探していたのだろうか、懸命に手を机の中に入れていた桃枝は慧に気づくなりその手を止め、すっくと立ち上がった。
「慧ちゃん、昨日はごめんね。ビックリさせちゃって」
「こっちこそ、急に逃げちゃって……ごめん」
所狭しと話し声が交錯する教室にあって、二人の間には静寂が生まれた。
「……それでね慧ちゃん。文芸部のこと、考えてくれたかな」
切り出したのは桃枝だった。慧は少し目線が下向きになる。
しかし、慧は小刻みに震えながら、ゆっくりとその視線を持ち上げた。
「うん。わたし……」
慧は、気を抜いたらあっさり逸れてしまう目を出来るだけ真っ直ぐ、桃枝の目に合わせるようにして。
「……わたし、野球を続けようと思う」
そう告げて、頭を下げた。
桃枝は何も言わない。慧もまた、そこから何か言葉を続けることは出来なかった。
二人の間には、またも沈黙が発生した。
「……うん。オッケー」
沈黙を破ったのは、またも桃枝だった。
「慧ちゃんが決めたことなら、良いと思う」
桃枝は真っ直ぐ慧を見返し、柔らかな笑みを浮かべた。その顔を見て、慧は体が少し震えるのを感じた。
「がんばってね。応援してるよ」
可愛らしいガッツポーズのようなモーションを添えた激励の言葉を受け取ったのと同時に、始業のベルが鳴った。慧はまた頭を下げ、焦って自席に戻る。
席に着く直前、遠くの席にいる華凛と一瞬だけ目が合った。
華凛の目には刺すような鋭さがなく、どこか優しいような、安堵したような、そんな目をしていた。
慧は野球を続けることにした。
それが本当に自分にとって正しい選択なのかは、分からない。もしかしたら後悔するかも知れないし、挫折するかも知れない。今日からまた練習に出ることに対して憂鬱な気持ちもある。
しかし、慧は思った。
もしかしたら自分は必要のない人間ではないのかも知れない。誰かに必要とされているのかも知れない。
そして、自らの驕りでなければ、現在進行形で自分を必要としてくれている人がいる。
それならば、そのために自分に何か出来ることがあるのかも知れない。
昨日から考え、慧はそう思ったのだ。
先生が黒板に書き出す文字を追いながら、今日からまた訪れるであろう難しい局面の数々をイメージして改めて震えるが、少なくとも今は、これで良いと慧は思えた。
授業が終わったら、まずは華凛に改めて報告しよう――慧はシャーペンを一度だけ回して、直ぐに握り直した。