欠けたツール
走れない。確かに華凛はそう言った。
「慧。本当にごめんなさい。これまであなたに強引にし過ぎたことは自覚している……それでも、それでも私はあなたに、ここにいて欲しい」
華凛は一度伏せたその目を再び慧へと向けた。いつもの華凛には当然のように備わっているはずの自信に満ちた輝きは、そこにはない。あるのはただ何かを怖がっているような震えだけだった。
こんなのは華凛じゃない、と慧は直感した。いったい何がどうなっているというのか。「走れない」と口にしたその瞬間、華凛は今まで見たこともないほど弱々しかった。
走れない、走れない、走れない――その言葉を脳内で反芻し、必死に意味を考えようとする。しかしそれは単なるフェイクで、思考のロジックはひたすら処理を空振りさせるのみ。そうすることで慧は答えを見ないようにしていた。何故だか分からないが、良くない予感がしたのだ。
慧は何も喋れず、それでいて華凛から視線を外すことも出来ない。そんな慧をよそに華凛は一つ短い溜め息をついた。
「……中学の頃ね。慧がまだ野球に出会っていない頃、私はその時も野球をしていた。楽しく、真剣にね」
はしゃぐ子供を見守る親のように、遠い目をしながら華凛は言う。
「私は野球が好きで、自分で言うのもなんだけど当時から一生懸命だったと思うわ。私なりにただひたすら、野球と向き合い続けた。そうしたら県選抜のメンバーにも選ばれていた。中学の頃は、そうね……怖いものがなかった」
華凛が有名な選手だということは知っていた。同世代で野球をやっている身なら知らない者はいない、スタープレイヤー。しかし、そのことと今の状況は慧の中では紐付かない。なぜ華凛は唐突に昔の話をするのか。その行為が、吐き気に似たぐにゃぐにゃした気分を慧にもたらす。今はただでさえ誰の話も聞きたくないのに。
「選抜メンバーでは全国大会にも出たの。県を背負って戦う緊張感はまた格別だった。特にあの試合の日は空が真っ青でね……それはもう、陽射しがとにかく突き刺さるようだったわ」
ゆっくりと、沁みるような華凛の声によって、慧は次第に耳を占有される。
声は少しずつ耳から身体へ浸透し、そこにはやがてこの場に相応しくない騒々しさがやってきた。耳をつんざく大歓声と滴る汗が蒸発してしまいそうなほどの熱気は、いつの間にか慧の意識が知らないどこかへ飛んでいることを示していた。そしてその場所がなんなのかはほとんど勝手に入ってきた。華凛の言葉によって、慧の頭にイメージされた映像。華凛がかつて見た全国の舞台と同じ景色を慧は今見ているのだ。
「敵も味方もとにかくハイレベルだった。私が守っていたセンターなんてバッターから最も遠い位置にいるっていうのに、弾丸みたいなスピードでボールは飛んできたわ」
灼熱の太陽のような熱さのイメージはしかし、華凛の声と共にいつしか暑さとは異なる違和感に変わっていき、後には冷気にも似た感覚だけが残った。
張り詰めた糸は、突然の渇いた打球音によってスッパリと切られた。その打球はその言葉通り、打者というスナイパーによって発射された弾丸となって華凛を襲う。
しかし、慧の脳裏に映る華凛はその恐怖を全て跳ね除け、熱狂の大歓声を一身に受けながら真っ直ぐフェンス方向へ走り出す。ターゲットだったはずの華凛を通り越しスタンドへ着弾しようとしたボールにみるみる追い付き、まるで上手な裁縫のように綺麗にグラブに収めた。
その姿は、慧の脳裏に光のイメージとなって焼き付いた。恐れることなく堂々と、目の前のことに向き合っている。これでこそ華凛。怖いことがあっても俯かない、唯一無二の強い心を持った人。
そしてそんなプレーが行えるのは、自信とそれを裏付ける技術、そして身体能力にあると慧はぼんやり感じていた。特にそのスピードに対しては目を見張るものがあった。これが本気を出した華凛の脚力――あくまで華凛の言葉によって脳内に湧いたイメージに過ぎないその映像に、慧は見とれてしまっていた。
しかし、次の瞬間慧は違和感を覚えた。これだけ素晴らしい守備を披露した華凛の顔が、歪んでいく。
「でも、そのプレーの直後だった。私はもう、その場にうずくまるしかなかった」
一層トーンを下げる声に呼応するように、イメージの華凛が倒れていく。苦しそうに足を押さえ、仲間が駆け付けても立ち上がることなく、最早動くこともしなかった。
「そう、切れてしまった。私の足は、それ以来走ることを止めたの」
アキレス腱断裂。
福岡県選抜のメンバーにまで登り詰め、その圧倒的実力でカリスマを誇った伊勢崎華凛。
選手として幾重ものツールを持っていた彼女がその一翼を失い、その目が最も深く底の底に沈んだ時。
彼女の夏は終わったのだ。
かなり間が空きましたが、また更新していきます。
よろしくお願いします。