愛してると伝えたいだけ
共通プロローグ企画なのですが、プロローグの素敵さに私の文章が全く追いついていない(´;ω;`)
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
パチパチと炎が弾ける音にリサは目を覚ました。
目の前の天井はこの1年ですっかり見慣れたもので、帰ってきてしまったのかと小さくため息をついた。
「起きたのか?」
かけられた声はこれまたこの1年で慣れ親しんだもので、リサは首だけでそちらを向く。
「何か食べるか?一応スープとパンがあるが、腹が空いてないようならとりあえずスープだけでも飲んでくれ」
質問をしているようで勝手に自己完結した男は慌ただしく台所へ向かう。
すぐにコンソメのいい香りが部屋中に広がって、その匂いにつられたのかリサのお腹が軽快に音をたてる。
そういえば自分はもう丸1日何も食べていなかったな。
「スープだ。熱いからゆっくり飲んでくれ」
ベッド脇に置かれたスープはほかほかと湯気をたてていて、視覚からも嗅覚からもリサの食欲を刺激する。
「料理なんてできたんですね」
「騎士の独身寮は食事係が当番制なんだ。
そこに10年も居たら嫌でも出来るようになる」
「……初めて知りました」
「そうか?……いや、そうか。まだ話していなかったな」
突然曇った表情にしまったと思ったがリサはあえて言及することはしなかった。
こうして意図せず地雷を踏むことはこの1年でもう幾度となく繰り返していた。
初めは気まずくて謝ったりもしていたが、何事もなかったのように流す方が傷が少ないと学んだのだ。
手持ち無沙汰にスープに手を伸ばし一口飲めば、玉ねぎの甘さがじんわりと染み渡る。
「美味しい…」
思わず漏れた呟きに男は顔を綻ばせる。
自分の言葉でそんな顔をするのかと罪悪感に胸が痛むが、今の自分には胸を痛ませる権利すらないのだと気づき余計に苦しくなる。
そんなリサの中にある罪悪感を慰めるように男の手が頬に触れ、その優しい触れ方に今度は胸が甘く痛んだ。
「もう、やめましょう」
幾度となく口にした言葉をまた口にする。
「私は貴方に大切にされる価値なんてないんです」
部屋の中の写真がなくなっているのを知っている。
知らない思い出を見て私が傷つかないように。
夜中に肩を震わせているのを知っている。
愛した人に忘れられたのだから当然だ。
向けられる瞳が愛していると囁いているのを知っている。
でも私はそれに答えることができない。
「もう1年です。1年経っても私は貴方とのことを何一つ思い出せません。
そんな女を傍に置いて、一体貴方に何のメリットがあるんですか?
私は貴方に愛してると言うことさえできないのに」
過去に囚われてほしくなくて何度か脱走も試みたが、元々身体が強くないリサはいつも数日のうちに捕まるか生き倒れているところを回収される。
今回も早々に行き倒れているところを男に捕獲され今に至る。
「お願いですから離縁してください。貴方を私に縛り付けていたくないんです」
「俺と別れてどうやって暮らしていくんだ。
手に職もなく、体力もない貴女を雇ってくれる店などどこにもない。
頼れる身内もない貴女の行き着く先など想像に難くない。
愛してる人をわざわざそんな過酷な状況にやる男が一体どこにいるというんだ」
男の言葉は正論すぎて、リサは唇を噛み締める。
「とにかく今はゆっくり休め。
それから俺に負担をかけたくないと言うならいい加減家出をするのはやめてくれ。
君がいない家に帰ったとの絶望感は結構堪えるんだ」
甘やかされているな。
部屋から出ていく背中を見つめながらそんなことぼんやりと考える。
自分こそが一番傷ついているにも関わらず、いつだって男はリサの気持ちを一番に考えようとしてくれる。
そのことが嬉しくて、同時に苦しいと感じてしまうからこそ、彼女は男の隙をついて脱走を試みているのだが未だ成功の兆しは見えない。
モヤモヤとした気持ちを振り払うかのようにすっかり冷めてしまったスープを口に運んだ。
長年身体に染み付いた習慣は抜けないらしく、目覚ましなどなくても勝手に目が覚める。
昨日の今日で若干身体はだるいものの、熱などはないようだったので念のためいつもより厚着をしキッチンへと向かう。
スープを作りつつじゃがいもを潰していると、カタカタと音がして男が起きてくる。
身体は大丈夫なのかと心配そうに尋ねる男に大丈夫だと返せば、彼は納得はしていないもののそれ以上は追求せずリサの好きなようにさせてくれた。
スープとサラダとオムレットをテーブルに並べ、近所で買ってきたバケットを3枚切って添える。
男が食べている間に手早くサンドイッチを作りバスケットに詰める。時間があるときは付け合せも添えるが今日はそんな時間はなさそうだ。
ダイニングで男のごちそうさまが聞こえたので、微妙に空いたバスケットの隙間にリンゴを詰めて蓋を閉める。
既に身支度を整え玄関で待機している男にかけよりバスケットを渡せば満面の笑みでいってきますと囁かれ、うつむきがちにいってらっしゃいと呟く。
その後自身も食事を済ませると洗い物、洗濯、掃除を行う。
気付くと大きく昼を過ぎていて、簡単に昼を済ませ足早に家を出る。
15分ほど歩くと小さな診療所が見えるが、ここは記憶を失ってから毎週通っている場所であり、勝手知ったるそこはいつものことながら今日も患者は1人もいない。
「ルーナ先生?リサです。居ますか?」
意識して大きな声を出せばガタガタと音がして仮眠室のドアが開く。
寝乱れた長い髪を申し訳程度に整えながら出てきた彼女は今の今まで寝ていたことを隠そうともしていないのだろう、大きなあくびをしながらリサに手を振る。
「先生、女性がそんな大口を開けるなんてはしたないですよ」
改善されないことは短くない付き合いでわかってはいるが、ついつい小言が口をつく。
「しょうがないだろ、眠たいんだから」
「また遅くまで研究なさってたんでしょ?とりあえず顔を洗ってきてください。
どうせ何も食べてないだろうと思ってサンドイッチを持ってきたんです」
右手のバスケットを持ち上げてみせれば、ルーナの今まで半開きだった目が大きく開かれ慌てて洗面所に走っていく。
現金な人だな、とその後ろ姿を見つめる。
ああしていたら凄腕の精神科医になんてとても見えない。でもそんな親しみやすい人だから私も気負わずにここに通えるんだろう。
1分ほどして戻ってきたルーナはプラチナの髪も1つにくくり、だいぶんさっぱりとしていた。
「いやぁ、リサのサンドイッチは絶品だからね。ありがとう」
お礼もそこそこにサンドイッチにかぶりつく様はお世辞にも上品とは言えないが、元来の美しさからかそれさえも絵になる。
「ルーナ先生ってもったいないですよね。そんなに綺麗なんだからもうちょっと身なりに気をつかったら男も女も引っ掛け放題ですよ」
「君の口から引っ掛け放題なんて言葉が出るとは思わなかったな。それに君は私に引っかかってはくれないじゃないか」
「いくら絶世の美女でもこんなだらしない姿見せられて引っかかるなんてできませんよ」
それもそうだねとルーナはまたサンドイッチにかぶりつく。
「騎士殿とは、あれからどうなのかな?」
あくまで雑談の1つのような聞き方だったが、リサの心は大きくざわめいた。
「そうですね。また脱走して心配をかけてしまいました。今度こそうまく逃げられると思ったんですけど」
口の中のものを飲み込んで仕事モードに入ったルーナは散乱した机の上からカルテを引っ張り出し、何やら書き込む。
「前にも言ったけれど、今のままじゃ駄目なのかい?彼はゆっくりでいいと言ってくれたんだろう?」
「それは彼がリサ・ベイリーを愛しているからです」
「だから「でも、それは私じゃない」
ずっと気づかないようにしていた気持ちを吐き出した。
既に自分だけで抱えるにはこの感情は大きくなりすぎてしまったし、本当はずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
とにかくリサは今まで曖昧な言葉で濁していた気持ちを初めてルーナに打ち明けた。
「私、彼が好きなんです。だってかっこよくて優しくて笑顔が可愛くて料理もできて、そんな人が自分にだけ特別扱いしてくれて、好きにならずにはいられません」
ルーナの悲痛な瞳を見ていられなくて、リサは視線を足元に落とす。
「でも彼が好きなのは記憶がなくなる前の私。私がリサ・ベイリーだから優しくしているにすぎないんです。
変ですよね?自分で自分に嫉妬するなんて」
優しくされて、甘い瞳を向けられて、心が踊らなくなったのはいつからだっただろう。
もうその頃にはきっと彼のことが好きだった。
「彼は記憶が戻るのをずっと待っているんです。でも私は戻らなければいいのにって、今の私を好きになればいいのにって思うんです。
でもそんなこと言えません。彼が愛した人と同じ顔で、彼が愛した人を殺してしまうようなこと、私言えません」
「逃げてしまうかい?」
かけられた言葉に顔をあげれば、優しい瞳のルーナがそこにはいた。
「私はね、どんな時でも患者の味方なんだ。
だから君がどうしても辛くて、どうしても協力してほしいと言うなら、私はなんだってしてあげよう」
それはリサにとって魅力的な提案だった。
彼女はもう自分だけの力ではこの袋小路から抜け出せないことはとっくにわかっていたのだ。
「私…ひどい女ですね」
「大丈夫。汚いものは何もかも私がかぶってあげるから。
ほら、美しい薔薇には棘があるっているだろう?」
「それ、ちょっと違いますよ」
帰宅したケンは家の灯りがついていないことに疑問を覚えた。
いつもなら妻が夕食を作っている時間なのに、今日は物音1つ聞こえない。
警戒しながら中に入るが、家の中が荒らされた様子もなく、普段と別段変わった様子もない。
先日逃げ出したばかりの妻は未だ体調が万全ではなく、また逃げ出したとも考えにくい。
そのときケンは彼女が通う病院を思い出し、家を飛び出す。
リサの足ならば15分の道のりも現役の騎士のケンでは5分もかからない。
古ぼけたドアをノックもせずに開ければ診察室の椅子にルーナが座っていて、突然入ってきた彼に驚くこともなく静かに微笑んだ。
「リサは、どこだ」
その微笑みだけでルーナがリサをかくまっていることを悟ったケンは、剣の柄に手をかけながら彼女に近づく。
「突然人の家に押し入って、随分な物言いだな」
「リサは、俺の妻は、どこだ」
怒りを一言一言に込めながら、ゆっくりと話す。
そうして自分を自制していなければ彼は今にもルーナを切り捨ててしまいそうだった。
「君が探しているのはリサ・ベイリーかい?それともリサかい?」
「今は貴様の問答に付き合っている余裕はない」
「問答なんかじゃないよ。君だってわかっているんだろう?
記憶をなくしたリサが前のリサとは違うって。
だから聞いてるんだ。君が私を殺してでも取り戻したいと思っているのはどちらのリサなんだい?」
ルーナはケンとの距離を詰め、彼の胸元を軽く押す。
「その答えが出るまでリサは返してやらないよ。
私はね君がどんなに可哀想でも、美味しいサンドイッチを作ってくれるリサの味方なんだ」
「…可哀想だと思っているのならせめてリサと話をさせてくれ」
「駄目だよ。彼女と約束したんだ。今度こそ本当に逃がすって」
「リサは……彼女は無事なんだろうな」
「私の命に代えて、誓おう」
「なら、いい。…邪魔したな」
随分と憔悴しきった顔でケンが出ていくのを見送ると、ルーナは仮眠室の扉を開く。
無言で涙を流すリサを丸椅子に促すが、彼女は一向にその場から動こうとしない。
「私は…結局いつだってあの人を傷つけてばっかりですね」
「リサ…」
「今までも今日も自分が傷つきたくないからって逃げてばかりで…。
先生、私やっぱり帰ります」
涙を拭ったリサは先程までとは一転して晴れやかな表情を浮かべていた。
「…いいのかい?」
「はい。もう自分からも彼からも逃げません。
その決心がやっとつきました。
それもこれも全部先生のおかげです」
ありがとうございました、と頭を下げると、リサは夜の町に飛び出していった。
診療所を出て最初の角を曲がったところでケンの姿を発見したリサはその背中に向かって叫んだ。
「ケン!!」
今まで一度だって口にしたことのなかったその名前は、しかし呼んでみれば彼女にとってとても馴染みある響きだった。
突如自分の名前を叫ばれた彼は驚きの表情で振り返り、そこで誰が叫んだのかを確認すると驚きのあまり目を見開いた。
「ケン!」
再度夫の名前を口にし、その場で固まる彼に飛びつく。
反射的にその身体を受け止めた彼だったが、慌ててその手を離し所在なさげにその場にさまよわせる。
「ごめんなさい。…私、貴方が好き、好きなの。今の私として貴方が好き。
貴方が私の記憶がないことを悲しんでいるって知っていたのに、私は記憶なんて戻らなければいいのにって、今の私を好きになってくれればいいのにって、ずっと思っていたの」
ケンの隊服をぎゅっと掴めば背中でさまよっていた手がリサの身体を優しく包み込み、その温もりに泣きそうになってしまう。
「リサ…」
愛する男の口から自分の名前が出たことが嬉しくてずっと彼の胸元を見つめていた視線を上げれば、そこにはリサの予想に反して穏やかな眼差しの彼がいた。
「あのときルーナからどちらのリサを探しているのかと聞かれて俺は答えられなかった。
俺は…どちらのリサも愛しているから。
俺を旦那さまと呼んでいた声も、ケンと呼ぶ声も、バスケットの隙間に果物を詰めるところも、すぐに泣いてしまうところも、案外強気なところも、太陽みたいな笑顔も、俺を好きになってくれるところも、記憶をなくして変わってしまったところも変わっていないところも、全て昔も今も変わらず愛しいと思うんだ。
君がリサでもリサ・ベイリーでも俺のこの気持ちは変わることはない。
そのせいで君を傷つけてしまったことを後悔しているがな」
夫の口から出る言葉は全てリサにとって都合のいいもので、思わず自分の耳を疑わずにはいられない。
「…私が、リサ・ベイリーを殺しても構わないって言うの…?」
「言っただろ?
おれにとっては君は何も変わってないただ一人のリサなんだ。
それで君が楽になれるならそれにこしたことはない」
「でも、だって……夜中に一人で泣いていたじゃない!」
そう詰め寄ればケンはバツが悪そうに視線を逸らす。
「知っていたのか。
それは…君が辛い思いをしているだろうに何もしてやれない自分が不甲斐なくてな」
「でも「リサ」
ケンの鋭い眼差しがリサを射抜く。
そのくせ頬を撫でる手は壊れ物を扱うかのように優しくて、たまらずその大きな手に頬をすり寄せてしまう。
「俺はリサが欲しいし、リサしかいらない。
もし君も同じ思いならお願いだから俺の元に帰ってきてくれ」
愛する人にここまで言われて、頷かない女の子などいるのだろうか。
リサは拭っても拭っても溢れる涙をそのままに、ケンの首に腕を回した。
「それで?
記憶は戻りつつあるのかい?」
「まだ少しだけだけど。
最近ふとした瞬間に昔の記憶が蘇ることがあるの」
久しぶりに診療所に顔を出したリサは全身から幸せオーラを発していて、語られる内容は砂糖菓子のように甘い。
「ケンがね、出かけに私にキスをして、その瞬間今より少し若い彼の姿が頭の中をよぎったの。
今も素敵だけど昔のケンも可愛いから思い出せて嬉しいわ」
あの寒い夜の逃走劇は一体なんだったのだろうと思わなくはないけれど、それでも目の前で嬉しそうに語る彼女が幸せそうで本当によかった。
ルーナはもうしばらく友人のノロケに付き合ってあげようと、カルテを置いた。