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「おはようございます、芙蓉さま!」
「おはよう、紫苑」
敷地内にある、ちいさな祠。
そこには、陶器でできた狐の像がある。
彼女たちは土着神で、軫の家ができる前から住んでいた。
「この土地には、土着神がいるんだな。昨日は分からなかった」
「はっ! はじめまして! わ、わたし、紫苑と言います!」
朔と葩を見つけた紫苑は、腰を折り、慌てふためいて頭をさげた。
彼女は珍しくも狐の土着神だった。
ぴんと立った狐の耳が、すこし生ぬるい風にふわっとゆれる。
「あと、もうひとりいるんだけど。白藍はどこにいるんだ?」
「白藍さんなら、ちょっと出かけてくる、と仰っていましたけど……。いつ帰ってくるかはわかりません……」
「そっか。まあ、いつも通りだな。紫苑、留守番をたのむよ。油揚げ買ってくるから」
「!! ありがとうございます芙蓉さま! いってらっしゃいませ!」
無駄にりっぱな門をくぐり、まだ人の通りが少ない通りへ出る。
だが、まったくいないというわけではないので、葩と朔を見た人間たちは、喉から悲鳴を絞りだした。
「あれって妖怪じゃないか……!?」
「しっ、軫家の陰よ。昨日、私見たの。あの陰がお屋敷の中に入っていくところを。あれは、招き入れたに違いないわ……。だって軫のお家は……没落寸前じゃない。聞いたことあるの。陰を招き入れると、その家に福をもたらす、って……」
ひそひそと小声で話している男女に、芙蓉の眉が不愉快そうに寄る。
自分の家を悪く言う人間はたくさんいるし、彼はそれを気にしていない。
だが、この葩と朔を嫌味たらしく言われるのは嫌だった。
「ふん。どの世にもいるものじゃの。われらを恐れるものどもは。まあ、われらは気にはせぬが」
「葩……」
「なぁに、そなたも気にすることもあるまい。それよりわれは反物が見たいぞ。早く連れて行くがよい!」
葩は、本当に気にしていないようだった。
彼女のとなりにいる朔も、何らかわりない表情をしている。
「うん、分かった。じゃ、行こうか」
通りに人が通るたび、こちらをちらちらと見つめる気配を感じる。
没落しそうになっている軫家の人間を嘲笑っているのか、葩と朔をおそろしがっているのか、どちらかわからない。
あるいは、どちらもかもしれない。
りん、とまだ気の早い風鈴の音がする。
それが、「鈴や」のいわゆる看板だった。
「あら! 芙蓉さまじゃありませんの。それに、珍しいお客様をお連れになって」
のれんをくぐった先、出迎えたのは女将だった。
はつらつとした表情と音は、芙蓉の数少ない友人――鈴山ミチルとよく似ている。
「イチルッ! 芙蓉さまがお見えになっているわよ!」
「うるせぇな! 今行くからちょっと待ってろ!」
部屋の奥から威勢のいい声が聞こえる。
次期鈴やの当主になるはずのミチルだが、とにかく客に対する口が悪い。
だがそれが気持ちがいいという客もいるので、ミチルの母である鶴子はあまり強く言えないと聞いた。
どたどたと足音をたてて歩いてきたのは、短い黒髪の青年だった。
線は細いが、どこか恰幅がいいと思えるのは、強気そうな表情が相まっているからだろう。
「よお芙蓉。久しぶりだな。と、誰だこいつら? 見たところ、人間じゃないみてぇだが」
「陰だよ。父が呼んだんだ」
「へえ、まあいいや。客には違いねぇ。中に入れ。浴衣の反物を見にきたんだろ? ちょうど、いいのが入ったんだ」
ミチルは二人が陰だと気づいても何も言わなかった。
彼らしい、とおもう。
細かいことは気にしない、と自身でも言っていた。
陰が細かいことなのかどうかは分からないが。
「……いい店だな、ここは」
「そうだろ? なにせ、妖怪だろうと何だろうと客ならわけ隔てないからな」
朔がぽつり、と呟いたことばを、芙蓉は笑って返した。
店に上がると、飾り棚にぎっしりと反物が並んでいる。
浴衣の反物が多いのか、藍か白が特に目にはいった。
「藍染めはいいぞ。おまえの肌に映える」
興味津々に反物をみつめる葩に、ミチルは目を輝かせた。
「この柄はなんという? 見たことがない!」
「外来の花だ。たしか、バラ……と言ったか」
「ばらか。よい柄よ」
ミチルと葩が話しているが、朔は周りを見渡しているだけだ。
それを見つけた鶴子は、さっと寄ってきて、にっこりとほほえんだ。
「あなた、お名前はなんとおっしゃるの?」
「朔という……」
「朔さまね。あなたに似合いそうな生地があるの。すこしだけでも見てみない?」
朔は戸惑ったように、芙蓉を見た。
「いいよ、行ってきな。好きなものをあててみたらいい」
「わ、わかった……」
芙蓉は店員が持ってきた座布団の上にすわって、ふたりを見渡した。
葩のうれしそうな顔。
朔の戸惑っているもどこか嬉しそうな表情。
それを見ていると、どこか幸福な思いになる。
ひさしく感じていないそれは、やはり飽きることはない。だが、貪欲になってはだめだ、といつも感情のどこかで規制がかかっている。
それはいいことなのか悪いことなのか――芙蓉には分からない。
「芙蓉。われはこれにするぞ」
持ってきたのは前にライラから見せてもらった本に描かれた植物だった。
たしか、「バラ」と言った気がする。
「いいんじゃないか。きっとよく似合うよ」
白地にバラの赤。赤と言っても、鮮烈ではない、にじんだような優しい赤だ。
葩はうれしそうに反物を見下ろしていた。