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「志乃、どういうことだ! 芙蓉が生きているではないか!」
父である高瀬の怒声で芙蓉は目が覚めた。
布団のなかからでもよく聞こえるその声は、おそらく屋敷じゅうに響いたのではないか。それほど驚くべきことだったのだろう。
「うるさいな……」
布団のなかから這い出て、朝から冴えないため息をはき出した。格子戸の窓のむこうから、芙蓉の重たい思いとは反対に、さわやかな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
朱塗りの衣紋かけに掛けてある、藍染めの着流しをはおり、手早く帯で締めた。
壁に埋め込まれた楕円の鏡は古く、額にはステンドグラスのような色とりどりの硝子がはめ込まれている。
そこに映った芙蓉はひどく憂鬱そうな顔をしていて、自分でも笑ってしまった。
この鏡は、実母のものだと聞く。だが、彼女の名は、芙蓉に知らされていない。どんな顔をしているのかも、生きているのか死んでいるのかさえ、知らない。
高瀬からも、母のことを聞いたことがなかったし、聞こうとも思わなかった。無駄だと知っているからだ。
身支度をととのえ、襖を開ける。
そろそろ朔と葩を迎えにいかなければならない。
長いだけの廊下を歩き、時折下女と行き会うも、ひどく驚いているような表情を隠すこともせず、目を見開いていた。
それを無視して、先に朔の部屋にたどりつく。
襖は柳に燕が描かれていて、銀箔がところどころにちりばめられており、葩の部屋と同様に広い部屋となっていた。
「朔」
襖のむこうにいるであろう朔に声をかけるが、返事が返ってこない。すこし心配になり、ゆっくりと襖を開ける。
広い部屋のなかには、ぼんやりと立っている朔がいた。
「なんだ。いるんじゃないか」
「すまない。聞こえてはいたんだが……」
「?」
「……あまりにもひどい声が聞こえて」
「ああ。朔が気にすることじゃないよ。葩をむかえに行こう。昨日のことも謝らなきゃ」
朔はまるで子どものようにこくりと頷く。
外見は朔のほうが年上だが、内面はどこか彼のほうが年下のように感じる。
実際は、芙蓉が生まれるずっとずっと昔からいるのだろうけれど。
「葩」
牡丹と蝶が描かれた襖を開けると、葩はすでに着替え終わり、窓のそとを見つめていた。
声をかけたあと、すぐにこちらを見た彼女は白袴を引き、どこか怒ったような表情をしている。まだ昨日のことを根に持っているのだろうか。
「まだ昨日のことを怒ってるのか?」
「芙蓉。そちは悔しくないのか」
「なにがだ?」
まさか、あの声が葩にも聞こえていたのだろうか。
葩はちいさなくちびるをぐっと噛みしめて、緋色の瞳を芙蓉にむける。
「……悔しさは、あった。でももう、昔のはなし。今はもう聞き慣れてるし、気にしていないよ」
「――ひとという生き物は、難儀じゃの。いやな気持ちも、慣れるものなのか」
「葩はやさしいな」
白鴉の羽根のように白い髪の毛がそっとゆれた。
「ば、馬鹿にするでないと言ったであろう。しかし、悪い気はせぬ。不思議なものじゃな」
「うれしい?」
「分からぬ」
朔が問うも、葩はすなおに「わからない」とかぶりを振る。
芙蓉はそっとほほえんで、顔をあげた。そろそろ朝餉の時間だろう。芙蓉自身のぶんがあるかどうかは分からないが。
「葩、朔。朝餉ができていると思うけど」
「なに!? 朝餉までもあるのか!」
「隠だって食事くらいするだろ?」
「俺たちは、食事をしなくても存在し続けられる。ただ、食べることもできる。それだけだ」
「……そうか」
「しかし、われは食事というものは好きじゃ。何故かは分からぬが、幸福な思いになるからの」
本当に食事が好きなのだろう。今まで見たこともないような笑みをうかべた。