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「父上は、俺を生贄にしようとしたようだ」
黒くつややかな短い髪をゆらせて、芙蓉はわらった。
黒い紋付き袴をつけた齢18の少年は、しかし年齢よりも上に感じられる。それはおそらく、疲れ切ったような表情をしているからだろうか。
「生贄? だから言ったであろう。命などとらぬ」
「いや、別に疑っているわけじゃないんだ。だけど、そうか――。父上、がっかりするだろうな」
「……きみの父上は、きみが死ぬことを望んでいたのか?」
「たぶんね。でも、まあしかたないさ」
ガラス戸のむこうは暗く、ぼんやりとした街灯のあかりだけが部屋のなかにふりそそいでいる。
袴をかつげ、立ち上がった芙蓉の顔を見上げた葩は、緋色の瞳をまたたかせた。
「おまえたちの部屋は用意してあるから。案内するよ」
「部屋?」
「きみは、俺たちに部屋を与えてくれるのか?」
目を見開く葩と朔に、反対に芙蓉が驚く。
なにがおかしいことがあるのだろうか。命すらとらず、ただいるだけで幸を運んでくる隠に、敬意を示さないで、どうしろというのだろう。
「なにかおかしいことでもあるか?」
「いや……。ほとんどの主たちは座敷牢に俺たちを入れていた。たぶん、恐ろしかったんだろう」
廊下は静かだ。
下女たちや、父である高瀬は部屋にこもっていて、衣擦れの音さえしない。
「ほんとうにここに人が住んでおるのか? あまりにも静かじゃ」
「みんな朔のいうとおり、怖いんだろう。――異界の妖たちは、いつも……すぐそばにいるっていうのにな」
「きみは――。そうか、俺たちのように姿を現世に現せるものだけではなく、ちいさなものたちを見ることができるのか」
廊下を歩く、かすかな木のきしみの音が聞こえてくる。
芙蓉はそっとくちびるをつぐんだ。
「すまない。おかしなことを聞いただろうか」
「いや。そんなことはないよ。でも、少なくなったよな。妖たちを見ることが出来る人が」
それがすこし、寂しい。
深呼吸をするように呟く。葩はその言葉にわずか、驚いたようだ。
「そうか。やはり、少なくなっておるのか……」
「俺たちが最後にこの現世に出てきたのは、およそ50年前くらいだ。そのときは、ほんの少しだけいたが、もっと少なくなっているんだな」
「寂しいよな。そういうのって。俺たちが生まれる前より、ずっとずっと昔からいるのに」
芙蓉がたちどまった場所は、牡丹と蝶が描かれた襖の前だ。暗いなか、ぼんやりと浮かぶ金色の襖。
すっと襖を開けるとそこはとても広く、屏風さえも敷かれた部屋だった。
「……ここは、牡丹と蝶の部屋だから、葩のほうがいいか。ああ、布団も敷かなきゃな」
「布団もあるのか!」
「それはそうだろう。畳にじかに寝ても、体痛くなるだろ?」
「う、うむ。そうだな」
布団で眠ることすら慣れていないのだろうか。
おそらくこのふたりは、人間にいいように使われていただけなのだろう。ひとのことを助けるために来ているというのに、なぜそんな仕打ちができるのか、芙蓉には分からない。
「布団は敷けるのか。葩」
「ばっ、馬鹿にするでない! 布団を敷くくらい、どうということないわ!」
「そうか。ならいいのだが」
朔は別段馬鹿にしたつもりではなく、ただ単に心配しただけなのだろう。表情を見れば分かる。
「もうよい! われは休む!」
ぱしん、と襖をしめられてしまった。
どうやら怒ってしまったらしい。朔は不思議そうな顔をしているし、彼女がなぜ怒ってしまったのか分からないのだろう。
「葩は、なにを怒っているのだろうか」
「女の子はむずかしいからじゃないのか」
「そうなのか。芙蓉は物知りなんだな」
「そんなんじゃないよ」
そっと笑った。
黒い紋付き袴は、死に装束。
芙蓉が死んでも誰も困らない。
誰も――悲しまない。
芙蓉の世界は狭いのだから。