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「病弱な幼馴染を一人にはできない」と夫が言うので、二人の新居をご用意しました

掲載日:2026/10/10

「マルグリットを、一人にはできないんだ」


 朝食の席で、夫のユリウスはそう言った。


 銀のフォークを置き、真剣な顔で、まっすぐに私を見つめて。


「彼女は身体が弱い。あの広い屋敷で、夜にひとり咳き込んでいるかと思うと、僕は眠れなくなる。君ならわかってくれるだろう、コーネリア」


 わかっている。


 この一年、夫が週の半分をマルグリット様の屋敷で過ごしていることも。


 彼女の薬代や見舞いの花が、ヴァルモント伯爵家の帳簿から出ていることも。


 そして今朝の言葉が、相談ではなく宣言であることも。


 私は紅茶をひと口飲んでから、カップを置いた。


「わかりました」

「……本当か?」

「ええ。病弱な方を一人にはできない。とてもご立派なお考えだと思います」


 夫の顔が、ぱっと明るくなる。


 私は微笑んだまま、続けた。


「ですから、お二人の新居をご用意いたしますね」


   *


 私、コーネリア・ヴァルモントは、ヴァルモント伯爵家の当主だ。


 父が亡くなったのは四年前。一人娘だった私が爵位を継ぎ、その翌年、子爵家の三男だったユリウスを婿に迎えた。


 穏やかで、人当たりがよく、誰にでも優しい人。


 社交界での評判もよかった。私も、きっとそこに惹かれたのだと思う。


 ただ、結婚して少し経ってから気づいた。


 彼の優しさは、いつも「自分が優しくしたい相手」にだけ向いている。


 長年仕えてくれている使用人の名前は、いまだに半分も覚えていない。領地の不作の報告を持っていけば、「君に任せるよ」と微笑むだけ。


 けれど、幼馴染のマルグリット様が熱を出したと聞けば、夜会の途中でも飛んでいく。


「彼女には、僕しかいないんだ」


 それが夫の口癖だった。


 マルグリット様のご両親は健在で、男爵家には侍女も、かかりつけの医師もいるのだけれど。


 夫は、本気でそう信じていた。


 たぶん、悪気はひとつもなく。


 去年の秋、父の命日の晩もそうだった。


 親族が集まり、父の思い出話をしていたとき、男爵家から使いが来た。


 マルグリット様が咳き込んで眠れないらしい、と。


「すまない、コーネリア。彼女が心細がっている」


 夫はそう言って、席を立った。


 父の若い頃の失敗談を話していた叔父が、途中で口をつぐんだ。


 私は、どんな顔をして皆に詫びればいいのかわからなかった。


 翌朝、帰ってきた夫は言った。


「彼女、僕の顔を見たら落ち着いたよ。行ってよかった」


 その日の夕方、私は一人で父の墓に花を手向けた。


 怒りがなかったと言えば嘘になる。


 けれどそれ以上に、私は疲れていた。


 話し合いも、お願いも、この一年で何度も試した。


 そのたびに夫は悲しそうな顔をして、「君は冷たいな」と言った。


 病人を気遣うことの、何がいけないんだ、と。


 だから、もう説得はしない。


 彼の言葉を、そのまま受け取ることにした。


 朝食を終えると、私は執事のハンスを書斎に呼んだ。


「王都の東に、小さな家を一軒借りてちょうだい。二人で暮らせて、使用人を置かなくても回せる広さのものを」

「……旦那様と、男爵家のお嬢様のお住まいでございますか」

「ええ」


 ハンスは眉ひとつ動かさなかった。


「旦那様の書記官補としての俸給で、無理なく暮らせる家がいいの。家賃は半年分、私の個人資産から出します。家のお金には手をつけないで」


 ヴァルモント家の財産は、領地と領民のためのものだ。


 夫の望みを叶えるために使っていいものではない。


 そのことに、私はもっと早く気づくべきだった。


「意地悪をしたいわけではないのよ」


 言い訳のように付け足すと、ハンスは静かに首を振った。


「承知しております。旦那様が望まれた暮らしを、旦那様ご自身の手で始めていただく。それだけのことでございましょう」


「……ええ。それだけのことよ」


 ハンスは一礼して、書斎を出ていった。


 扉が閉まる直前、ほんの少しだけ、口元が緩んだように見えた。


   *


 五日後。


 私は夫を馬車に乗せ、王都の東、職人街の外れへと向かった。


「どこへ行くんだい?」

「新居です。お約束したでしょう」


 夫は少し照れたように笑った。


「君には感謝している。マルグリットも、きっと喜ぶよ」

「それはよかったです」


 馬車が止まったのは、石畳の細い路地だった。


 パン屋と仕立て屋に挟まれた、二階建ての小さな家。


 間口は、伯爵邸の玄関扉とほとんど変わらない。


「……ここ?」

「ええ。こちらが鍵です」


 私は真鍮の鍵を、夫の手のひらに乗せた。


 中に入ると、一階に台所と居間、二階に小さな寝室がふたつ。


 家具は寝台と食卓、それに椅子が二脚。


 窓の外には、隣家の壁がよく見えた。


 夫は天井の梁に頭をぶつけかけて、慌てて身をかがめた。


「コーネリア。これは、何かの間違いじゃないのか」

「いいえ。家賃は半年分、私の個人資産から前払いしてあります。当面の生活費として、金貨も少しご用意しました。あとは、あなたの書記官補としての俸給で、十分にやっていける広さです」

「いや、そういうことじゃなくて」


 夫は部屋を見回した。


「使用人は、どこに?」

「おりません」

「……馬車は」

「伯爵家のものですので、私が乗って帰ります」


 夫が、ゆっくりと私を見た。


 ようやく、何かがおかしいと気づき始めた顔だった。


「僕は、いつ屋敷に帰ればいい?」


 私は首をかしげた。


「マルグリット様を、一人にはできないのでしょう?」


 夫は口を開き、閉じた。


 反論の言葉を探しているのがわかった。


 けれど、どれも見つからないようだった。


 だってそれは、彼自身の言葉だから。


「私は、あなたのお気持ちを尊重したいのです。夜にひとり咳き込む彼女のそばに、いつでもいてあげられるように。ここなら男爵家のお屋敷よりずっと手狭ですから、どのお部屋にいても、声が届きますわ」


「待ってくれ。それじゃ、まるで――」

「まるで?」

「……僕を、追い出すみたいじゃないか」


「追い出すのではありません。あなたが選んだ方と暮らせるように、場所をご用意しただけです」


 私は手提げから、一通の書状を取り出した。


「それと、こちらを。本日から、私たちは別居となります」

「別居……?」

「ヴァルモント家の家法では、婿の離縁には三か月の別居ののち、親族会議の承認と、紋章院への届け出が必要です。ですから、それまでは、まだ夫婦ですわ」


 夫の手が、書状の上で止まった。


「離縁、するつもりなのか」

「手続きは、家の決まりどおりに進めます。ご意見があれば、親族会議の場でどうぞ」


 夫は何か言いかけた。


 私はそれを待たずに、一礼した。


「お二人の新しい暮らしが、穏やかなものでありますように」


 扉を閉めると、隣のパン屋から焼きたての匂いがした。


 帰りの馬車の中で、私は久しぶりに、深く息を吸った。


   *


 翌週の夜会で、私は叔母のアデライド夫人に、ありのままを話した。


 夫は病弱な幼馴染のそばを離れられないと申しましたので、二人で暮らせる家を用意いたしました、と。


 叔母は扇の陰で目を細め、「まあ。なんて献身的な旦那様でしょう」とだけ言った。


 噂は、三日で王都をひと回りした。


 マルグリット様は男爵家を出て、あの小さな家に移られたらしい。


 夫が、どうしてもとそう望んだのだと、叔母が教えてくれた。


 もっとも、彼女が新居の話を聞いたときには、少々行き違いがあったようだ。


 伯爵家の当主が用意する住まいなのだから、さぞ立派な別邸なのだろう、と。


 ところが、実際に案内されたのは職人街の小さな借家。


 最初は驚いたらしい。


 けれど、夫が「これで毎晩、君のそばにいられる」と喜ぶので、今さら嫌だとも言い出せなかったのだという。


 その話を聞いて、私は少しだけ考え込んだ。


 彼女は本当に、この暮らしを望んでいるのだろうか。


 けれど、私が口を挟むことではない。


 夫も彼女も、もう大人なのだから。


 それからひと月ほど経った頃。


 ある侯爵家の夜会で、私は久しぶりに夫の姿を見かけた。


 招待状はヴァルモント家宛てに届くものだから、彼のもとには、もう一通も来ていないはずだった。


 きっと、誰かの同伴で入ったのだろう。


 上着は、屋敷にいた頃の一着だった。


 袖口のほつれは、もう誰も繕っていないらしい。


 夫は、何人かの紳士に囲まれていた。


「ヴァルモント卿。奥方から伺いましたよ。ご病気のご友人のために、ご自分の暮らしをすべて投げ打たれたとか」

「いやはや、なかなかできることではありませんな」

「それでは今宵も、早めにお帰りに? ご友人が、首を長くしてお待ちでしょうからな」


 夫は笑っていた。


 引きつった笑いだった。


 否定すれば、病人を放って夜会で遊ぶ男になる。


 肯定すれば、ここにいる理由がなくなる。


 結局、彼は一曲も踊らずに帰っていった。


 誰も引き止めなかった。


 誰にも、引き止める理由がなかった。


 私は、何もしていない。


 社交界の人々はただ、彼が自分で言ったとおりの人だと信じているだけだ。


   *


 二か月が過ぎた頃、夫が屋敷を訪ねてきた。


 応接間に通すと、彼はソファに浅く腰かけ、落ち着きなく指を組み替えた。


 少し、痩せたように見えた。


「生活が、思っていたより……その、厳しくて」

「そうですか」

「書記官補の俸給は、薬代でほとんど消えてしまう。仕立て屋はツケを断ってきた。今までは、何も言われなかったのに」

「これまでのツケは、ヴァルモント家の名で通っておりましたから」


 夫は黙った。


 しばらくして、絞り出すように言った。


「馬車も、招待状も、仕立て屋の信用も……全部、僕のものじゃなかったのか」


 私は答えなかった。


 答えなくても、もうわかっているようだったから。


「コーネリア。屋敷に戻らせてくれないか。君は、僕の妻だろう」

「ええ。あと、ひと月は」


 夫の顔から、すっと色が抜けた。


「……君は、僕を愛していなかったのか」


 責めるような声ではなかった。


 本当に、わからないという顔をしていた。


「愛していましたわ」


 私は、正直に答えた。


「だから一年、あなたの優しさを信じようとしました。いつか、その優しさが私にも向く日が来るのではないかと」

「僕は、君にも優しくしてきたつもりだ」

「ええ。私が何も望まないあいだは」


 夫は、何も言えなかった。


 父の命日の晩のことを、この人はもう覚えていないのだろう。


 私も、今さら口にするつもりはなかった。


「マルグリット様は、お元気ですか」

「……文句ばかり言っている。食事が質素だとか、部屋が狭いとか、侍女がいないとか」

「でしたらそれは、マルグリット様とお話しになるべきことですわ。一緒に暮らしているのは、私ではなく彼女なのですから」


 夫は、何か言い返そうとして、やめた。


 この人は、彼女のために、と口にしながら、彼女自身に何を望むのかを尋ねたことがあったのだろうか。


 私に、一度も尋ねなかったように。


 夫は、来たときよりもずっと静かに帰っていった。


 その数日後。


 思いがけない人から、手紙が届いた。


 差出人は、マルグリット様だった。


『このたびは、多大なご迷惑をおかけいたしました。


 厚かましいお願いとは承知しておりますが、刺繍の仕事をいただける先を、どこかご存じではないでしょうか。


 身体のこともあり、外へ働きに出るのは難しいのですが、針仕事でしたら、寝台の上でもできますので』


 私は、その手紙を二度読んだ。


 お金の無心でも、夫を返してほしいという願いでもなかった。


 彼女は、自分にできることを、自分で探そうとしていた。


 あの家の隣には、仕立て屋がある。


 夫のツケを断ったという、あの店だ。


 腕のいい店主で、刺繍の上手なお針子を探していると、ハンスから聞いたことがあった。


 私は短い返事を書いた。


 仕立て屋の名前と、紹介状を一通だけ添えて。


 それ以上のことは、何もしなかった。


 彼女が何を望み、どう生きるかは、彼女が決めることだから。


   *


 三か月目の終わりに、親族会議が開かれた。


 ユリウスは出席しなかった。


 代わりに、短い書面が一通だけ届いた。


 異議はない、と。


 紋章院への届け出は、その翌週に受理された。


 こうして私は、ただのコーネリア・ヴァルモント伯爵に戻った。


 屋敷の暮らしは、驚くほど静かになった。


 夜会の途中で誰かが飛び出していくこともない。


 帳簿に見覚えのない花代が載ることもない。


 朝は領地からの報告書に目を通し、昼は執事のハンスと来年の作付けを相談し、夕方には庭の薔薇の手入れをする。


 ただそれだけの毎日が、こんなに軽いものだとは知らなかった。


 秋が深まり、父の命日がまた巡ってきた。


 今年は、叔父と叔母と、ハンスと、屋敷の使用人たちが、皆で墓へ参ってくれた。


 誰も途中で席を立たなかった。


 晩餐の席では、叔父が父の若い頃の失敗談を披露して、料理長まで声を上げて笑った。


 去年と同じ秋なのに、少しも静かではなかった。


 それが、こんなにうれしいものだとは思わなかった。


「奥様。近ごろ、よくお笑いになりますな」


 ある午後、ハンスがお茶を淹れながら言った。


「そう?」

「ええ。先代様がご存命だった頃のようです」


 私は温かいカップを、両手で包んだ。


 優しい言葉なら、いくらでも聞いてきた。


 けれど、優しさを口にすることと、相手の望みに耳を傾けることは、きっと別のものなのだ。


 窓の外で、手入れを終えたばかりの薔薇が、風に揺れていた。


   * * *


 王都の東、職人街の外れ。


 あの小さな家で、マルグリットが荷造りをしていた。


 ユリウスは戸口に立ち尽くしたまま、それを見ていた。


「どこへ行くんだ」

「施療院の近くに、下宿を見つけたの。お医者様に相談したら、そのほうが通いやすいって」

「下宿? 一人でか?」

「ええ」


 彼女は鞄の留め金を、ぱちんと閉めた。


 相変わらず細い指だった。


 顔色も、決してよくはない。


 それでも、その手つきに迷いはなかった。


「刺繍の仕事も、少しずつもらえるようになったの。家賃くらいは、自分で払えるわ」

「そんな無理をしたら、また身体を壊す」

「無理かどうかは、私が決めることよ」


 マルグリットは振り返った。


「ユリウス。私、こんな暮らしがしたくて、あなたについてきたんじゃないの」

「だが君は、一人では――」

「一人では、何?」


 ユリウスは言葉に詰まった。


「身体が弱いのは本当よ。でも、一人では生きられないなんて、私、一度も言ったことないわ。そう言っていたのは、いつもあなた」


 彼女は鞄を持ち上げた。


 ユリウスは、思わずその腕に手を伸ばした。


「待ってくれ。君を、一人にはできない」


 マルグリットは、小さくため息をついた。


「あなた、まだそんなことを言っているの?」


 彼女は扉を開け、出ていった。


 ユリウスは、追いかけなかった。


 追いかけたところで、彼に言える言葉は、たった今拒まれたあの一言しかなかった。


 小さな借家に、静けさが戻る。


 一人になったのは、彼のほうだった。

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