「病弱な幼馴染を一人にはできない」と夫が言うので、二人の新居をご用意しました
「マルグリットを、一人にはできないんだ」
朝食の席で、夫のユリウスはそう言った。
銀のフォークを置き、真剣な顔で、まっすぐに私を見つめて。
「彼女は身体が弱い。あの広い屋敷で、夜にひとり咳き込んでいるかと思うと、僕は眠れなくなる。君ならわかってくれるだろう、コーネリア」
わかっている。
この一年、夫が週の半分をマルグリット様の屋敷で過ごしていることも。
彼女の薬代や見舞いの花が、ヴァルモント伯爵家の帳簿から出ていることも。
そして今朝の言葉が、相談ではなく宣言であることも。
私は紅茶をひと口飲んでから、カップを置いた。
「わかりました」
「……本当か?」
「ええ。病弱な方を一人にはできない。とてもご立派なお考えだと思います」
夫の顔が、ぱっと明るくなる。
私は微笑んだまま、続けた。
「ですから、お二人の新居をご用意いたしますね」
*
私、コーネリア・ヴァルモントは、ヴァルモント伯爵家の当主だ。
父が亡くなったのは四年前。一人娘だった私が爵位を継ぎ、その翌年、子爵家の三男だったユリウスを婿に迎えた。
穏やかで、人当たりがよく、誰にでも優しい人。
社交界での評判もよかった。私も、きっとそこに惹かれたのだと思う。
ただ、結婚して少し経ってから気づいた。
彼の優しさは、いつも「自分が優しくしたい相手」にだけ向いている。
長年仕えてくれている使用人の名前は、いまだに半分も覚えていない。領地の不作の報告を持っていけば、「君に任せるよ」と微笑むだけ。
けれど、幼馴染のマルグリット様が熱を出したと聞けば、夜会の途中でも飛んでいく。
「彼女には、僕しかいないんだ」
それが夫の口癖だった。
マルグリット様のご両親は健在で、男爵家には侍女も、かかりつけの医師もいるのだけれど。
夫は、本気でそう信じていた。
たぶん、悪気はひとつもなく。
去年の秋、父の命日の晩もそうだった。
親族が集まり、父の思い出話をしていたとき、男爵家から使いが来た。
マルグリット様が咳き込んで眠れないらしい、と。
「すまない、コーネリア。彼女が心細がっている」
夫はそう言って、席を立った。
父の若い頃の失敗談を話していた叔父が、途中で口をつぐんだ。
私は、どんな顔をして皆に詫びればいいのかわからなかった。
翌朝、帰ってきた夫は言った。
「彼女、僕の顔を見たら落ち着いたよ。行ってよかった」
その日の夕方、私は一人で父の墓に花を手向けた。
怒りがなかったと言えば嘘になる。
けれどそれ以上に、私は疲れていた。
話し合いも、お願いも、この一年で何度も試した。
そのたびに夫は悲しそうな顔をして、「君は冷たいな」と言った。
病人を気遣うことの、何がいけないんだ、と。
だから、もう説得はしない。
彼の言葉を、そのまま受け取ることにした。
朝食を終えると、私は執事のハンスを書斎に呼んだ。
「王都の東に、小さな家を一軒借りてちょうだい。二人で暮らせて、使用人を置かなくても回せる広さのものを」
「……旦那様と、男爵家のお嬢様のお住まいでございますか」
「ええ」
ハンスは眉ひとつ動かさなかった。
「旦那様の書記官補としての俸給で、無理なく暮らせる家がいいの。家賃は半年分、私の個人資産から出します。家のお金には手をつけないで」
ヴァルモント家の財産は、領地と領民のためのものだ。
夫の望みを叶えるために使っていいものではない。
そのことに、私はもっと早く気づくべきだった。
「意地悪をしたいわけではないのよ」
言い訳のように付け足すと、ハンスは静かに首を振った。
「承知しております。旦那様が望まれた暮らしを、旦那様ご自身の手で始めていただく。それだけのことでございましょう」
「……ええ。それだけのことよ」
ハンスは一礼して、書斎を出ていった。
扉が閉まる直前、ほんの少しだけ、口元が緩んだように見えた。
*
五日後。
私は夫を馬車に乗せ、王都の東、職人街の外れへと向かった。
「どこへ行くんだい?」
「新居です。お約束したでしょう」
夫は少し照れたように笑った。
「君には感謝している。マルグリットも、きっと喜ぶよ」
「それはよかったです」
馬車が止まったのは、石畳の細い路地だった。
パン屋と仕立て屋に挟まれた、二階建ての小さな家。
間口は、伯爵邸の玄関扉とほとんど変わらない。
「……ここ?」
「ええ。こちらが鍵です」
私は真鍮の鍵を、夫の手のひらに乗せた。
中に入ると、一階に台所と居間、二階に小さな寝室がふたつ。
家具は寝台と食卓、それに椅子が二脚。
窓の外には、隣家の壁がよく見えた。
夫は天井の梁に頭をぶつけかけて、慌てて身をかがめた。
「コーネリア。これは、何かの間違いじゃないのか」
「いいえ。家賃は半年分、私の個人資産から前払いしてあります。当面の生活費として、金貨も少しご用意しました。あとは、あなたの書記官補としての俸給で、十分にやっていける広さです」
「いや、そういうことじゃなくて」
夫は部屋を見回した。
「使用人は、どこに?」
「おりません」
「……馬車は」
「伯爵家のものですので、私が乗って帰ります」
夫が、ゆっくりと私を見た。
ようやく、何かがおかしいと気づき始めた顔だった。
「僕は、いつ屋敷に帰ればいい?」
私は首をかしげた。
「マルグリット様を、一人にはできないのでしょう?」
夫は口を開き、閉じた。
反論の言葉を探しているのがわかった。
けれど、どれも見つからないようだった。
だってそれは、彼自身の言葉だから。
「私は、あなたのお気持ちを尊重したいのです。夜にひとり咳き込む彼女のそばに、いつでもいてあげられるように。ここなら男爵家のお屋敷よりずっと手狭ですから、どのお部屋にいても、声が届きますわ」
「待ってくれ。それじゃ、まるで――」
「まるで?」
「……僕を、追い出すみたいじゃないか」
「追い出すのではありません。あなたが選んだ方と暮らせるように、場所をご用意しただけです」
私は手提げから、一通の書状を取り出した。
「それと、こちらを。本日から、私たちは別居となります」
「別居……?」
「ヴァルモント家の家法では、婿の離縁には三か月の別居ののち、親族会議の承認と、紋章院への届け出が必要です。ですから、それまでは、まだ夫婦ですわ」
夫の手が、書状の上で止まった。
「離縁、するつもりなのか」
「手続きは、家の決まりどおりに進めます。ご意見があれば、親族会議の場でどうぞ」
夫は何か言いかけた。
私はそれを待たずに、一礼した。
「お二人の新しい暮らしが、穏やかなものでありますように」
扉を閉めると、隣のパン屋から焼きたての匂いがした。
帰りの馬車の中で、私は久しぶりに、深く息を吸った。
*
翌週の夜会で、私は叔母のアデライド夫人に、ありのままを話した。
夫は病弱な幼馴染のそばを離れられないと申しましたので、二人で暮らせる家を用意いたしました、と。
叔母は扇の陰で目を細め、「まあ。なんて献身的な旦那様でしょう」とだけ言った。
噂は、三日で王都をひと回りした。
マルグリット様は男爵家を出て、あの小さな家に移られたらしい。
夫が、どうしてもとそう望んだのだと、叔母が教えてくれた。
もっとも、彼女が新居の話を聞いたときには、少々行き違いがあったようだ。
伯爵家の当主が用意する住まいなのだから、さぞ立派な別邸なのだろう、と。
ところが、実際に案内されたのは職人街の小さな借家。
最初は驚いたらしい。
けれど、夫が「これで毎晩、君のそばにいられる」と喜ぶので、今さら嫌だとも言い出せなかったのだという。
その話を聞いて、私は少しだけ考え込んだ。
彼女は本当に、この暮らしを望んでいるのだろうか。
けれど、私が口を挟むことではない。
夫も彼女も、もう大人なのだから。
それからひと月ほど経った頃。
ある侯爵家の夜会で、私は久しぶりに夫の姿を見かけた。
招待状はヴァルモント家宛てに届くものだから、彼のもとには、もう一通も来ていないはずだった。
きっと、誰かの同伴で入ったのだろう。
上着は、屋敷にいた頃の一着だった。
袖口のほつれは、もう誰も繕っていないらしい。
夫は、何人かの紳士に囲まれていた。
「ヴァルモント卿。奥方から伺いましたよ。ご病気のご友人のために、ご自分の暮らしをすべて投げ打たれたとか」
「いやはや、なかなかできることではありませんな」
「それでは今宵も、早めにお帰りに? ご友人が、首を長くしてお待ちでしょうからな」
夫は笑っていた。
引きつった笑いだった。
否定すれば、病人を放って夜会で遊ぶ男になる。
肯定すれば、ここにいる理由がなくなる。
結局、彼は一曲も踊らずに帰っていった。
誰も引き止めなかった。
誰にも、引き止める理由がなかった。
私は、何もしていない。
社交界の人々はただ、彼が自分で言ったとおりの人だと信じているだけだ。
*
二か月が過ぎた頃、夫が屋敷を訪ねてきた。
応接間に通すと、彼はソファに浅く腰かけ、落ち着きなく指を組み替えた。
少し、痩せたように見えた。
「生活が、思っていたより……その、厳しくて」
「そうですか」
「書記官補の俸給は、薬代でほとんど消えてしまう。仕立て屋はツケを断ってきた。今までは、何も言われなかったのに」
「これまでのツケは、ヴァルモント家の名で通っておりましたから」
夫は黙った。
しばらくして、絞り出すように言った。
「馬車も、招待状も、仕立て屋の信用も……全部、僕のものじゃなかったのか」
私は答えなかった。
答えなくても、もうわかっているようだったから。
「コーネリア。屋敷に戻らせてくれないか。君は、僕の妻だろう」
「ええ。あと、ひと月は」
夫の顔から、すっと色が抜けた。
「……君は、僕を愛していなかったのか」
責めるような声ではなかった。
本当に、わからないという顔をしていた。
「愛していましたわ」
私は、正直に答えた。
「だから一年、あなたの優しさを信じようとしました。いつか、その優しさが私にも向く日が来るのではないかと」
「僕は、君にも優しくしてきたつもりだ」
「ええ。私が何も望まないあいだは」
夫は、何も言えなかった。
父の命日の晩のことを、この人はもう覚えていないのだろう。
私も、今さら口にするつもりはなかった。
「マルグリット様は、お元気ですか」
「……文句ばかり言っている。食事が質素だとか、部屋が狭いとか、侍女がいないとか」
「でしたらそれは、マルグリット様とお話しになるべきことですわ。一緒に暮らしているのは、私ではなく彼女なのですから」
夫は、何か言い返そうとして、やめた。
この人は、彼女のために、と口にしながら、彼女自身に何を望むのかを尋ねたことがあったのだろうか。
私に、一度も尋ねなかったように。
夫は、来たときよりもずっと静かに帰っていった。
その数日後。
思いがけない人から、手紙が届いた。
差出人は、マルグリット様だった。
『このたびは、多大なご迷惑をおかけいたしました。
厚かましいお願いとは承知しておりますが、刺繍の仕事をいただける先を、どこかご存じではないでしょうか。
身体のこともあり、外へ働きに出るのは難しいのですが、針仕事でしたら、寝台の上でもできますので』
私は、その手紙を二度読んだ。
お金の無心でも、夫を返してほしいという願いでもなかった。
彼女は、自分にできることを、自分で探そうとしていた。
あの家の隣には、仕立て屋がある。
夫のツケを断ったという、あの店だ。
腕のいい店主で、刺繍の上手なお針子を探していると、ハンスから聞いたことがあった。
私は短い返事を書いた。
仕立て屋の名前と、紹介状を一通だけ添えて。
それ以上のことは、何もしなかった。
彼女が何を望み、どう生きるかは、彼女が決めることだから。
*
三か月目の終わりに、親族会議が開かれた。
ユリウスは出席しなかった。
代わりに、短い書面が一通だけ届いた。
異議はない、と。
紋章院への届け出は、その翌週に受理された。
こうして私は、ただのコーネリア・ヴァルモント伯爵に戻った。
屋敷の暮らしは、驚くほど静かになった。
夜会の途中で誰かが飛び出していくこともない。
帳簿に見覚えのない花代が載ることもない。
朝は領地からの報告書に目を通し、昼は執事のハンスと来年の作付けを相談し、夕方には庭の薔薇の手入れをする。
ただそれだけの毎日が、こんなに軽いものだとは知らなかった。
秋が深まり、父の命日がまた巡ってきた。
今年は、叔父と叔母と、ハンスと、屋敷の使用人たちが、皆で墓へ参ってくれた。
誰も途中で席を立たなかった。
晩餐の席では、叔父が父の若い頃の失敗談を披露して、料理長まで声を上げて笑った。
去年と同じ秋なのに、少しも静かではなかった。
それが、こんなにうれしいものだとは思わなかった。
「奥様。近ごろ、よくお笑いになりますな」
ある午後、ハンスがお茶を淹れながら言った。
「そう?」
「ええ。先代様がご存命だった頃のようです」
私は温かいカップを、両手で包んだ。
優しい言葉なら、いくらでも聞いてきた。
けれど、優しさを口にすることと、相手の望みに耳を傾けることは、きっと別のものなのだ。
窓の外で、手入れを終えたばかりの薔薇が、風に揺れていた。
* * *
王都の東、職人街の外れ。
あの小さな家で、マルグリットが荷造りをしていた。
ユリウスは戸口に立ち尽くしたまま、それを見ていた。
「どこへ行くんだ」
「施療院の近くに、下宿を見つけたの。お医者様に相談したら、そのほうが通いやすいって」
「下宿? 一人でか?」
「ええ」
彼女は鞄の留め金を、ぱちんと閉めた。
相変わらず細い指だった。
顔色も、決してよくはない。
それでも、その手つきに迷いはなかった。
「刺繍の仕事も、少しずつもらえるようになったの。家賃くらいは、自分で払えるわ」
「そんな無理をしたら、また身体を壊す」
「無理かどうかは、私が決めることよ」
マルグリットは振り返った。
「ユリウス。私、こんな暮らしがしたくて、あなたについてきたんじゃないの」
「だが君は、一人では――」
「一人では、何?」
ユリウスは言葉に詰まった。
「身体が弱いのは本当よ。でも、一人では生きられないなんて、私、一度も言ったことないわ。そう言っていたのは、いつもあなた」
彼女は鞄を持ち上げた。
ユリウスは、思わずその腕に手を伸ばした。
「待ってくれ。君を、一人にはできない」
マルグリットは、小さくため息をついた。
「あなた、まだそんなことを言っているの?」
彼女は扉を開け、出ていった。
ユリウスは、追いかけなかった。
追いかけたところで、彼に言える言葉は、たった今拒まれたあの一言しかなかった。
小さな借家に、静けさが戻る。
一人になったのは、彼のほうだった。
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