表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

復讐の正当防衛

作者: 影野 葬

ビルの屋上、春風が吹き荒れる中で、岸田翔一は人生の淵に立っていた。「俺がいなくなれば、すべて終わる」——鳴海課長からの心ない罵倒に蝕まれ、自ら命を絶とうとしたあの日。しかし、彼が目を覚ましたのは、白い病室のベッドの上だった。そこには、失われた両脚と動かない右手が、彼が「生きてしまった」現実を突きつける。


あれから2年。絶望の淵から這い上がった岸田の胸には、新たな感情が芽生えていた。それは、かつて自分を地獄に突き落とした男への、静かで冷たい復讐心。モニターに映し出された鳴海高志の名。高額な年収と役職。すべては、岸田が仕組んだ復讐劇の駒に過ぎない。「ようこそ。俺の城へ」——歪んだ口元が、彼の秘めたる狂気を物語る。これは、一人の男が絶望を乗り越え、復讐という名の「希望」を掴むまでの物語の序章である

高層ビルの屋上から、岸田雅志は身を投げた。風を切る音が、彼の耳元で冷たく響く。28年間、真面目に生きてきた。奨学金とアルバイトで学費を捻出し、家族の期待を背負って国立大学に進学した。卒業後は大手企業に就職し、ようやく報われると信じていた。しかし、鳴海健司という名の「悪魔」が、彼の人生を寸断した。鳴海の陰湿で執拗なパワハラは、岸田の精神を蝕み、心身ともに限界まで追い詰めた。毎日のように浴びせられる罵倒、理不尽な業務の押し付け、そして周囲からの見て見ぬふり。それはまるで、生きたまま少しずつ臓腑を抉り取られるような苦しみだった。あの時、彼はもう、生きていること自体が拷問だと感じていたのだ。


アスファルトが目前に迫る。死の瞬間が、緩やかに、しかし確実に訪れる。脳裏に、かつて夢見た平凡な幸福な日々が走馬灯のように駆け巡った。だが、その幸福は、鳴海の手によって無残にも打ち砕かれた。


意識が遠のく中、奇跡的に彼の体は工事用の足場に引っかかった。数メートルの落下は避けられ、彼は辛うじて命を取り留めた。しかし、それは決して平穏な生還ではなかった。都内の大学病院の集中治療室で、岸田は薄れゆく意識の中で、自身の体がズタズタになっていることを悟った。激痛が全身を走り、呼吸をするたびに肺が軋む。数日後、彼の意識がはっきりした時、目の前には現実が突きつけられた。医師の口から告げられたのは、残酷な宣告だった。「両足と左手を失いました」。彼の視線は、白く清潔なシーツの下に、虚しく盛り上がりのない部分で止まった。左手も、かつてはあったはずの重みが、そこにはなかった。車椅子での生活を余儀なくされるという事実に、岸田は絶望した。もう二度と、自分の足で歩くことはできない。大好きな本を両手で開くこともできない。彼の人生は、文字通り、足元から崩れ去ったのだ。


病院のベッドで、岸田はただ天井を見つめていた。彼の訴えは、会社には届かなかった。「証拠が足りない」。その一言で、彼の受けた苦しみ、そして失った人生の全てが、まるで幻だったかのように扱われた。労災も下りず、会社からの補償も一切ない。冷酷なまでに切り捨てられた現実に、彼の心には怒りが渦巻いた。なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか?なぜ、苦しめた側の人間は何の咎めも受けずにのうのうと生きているのか?


「もし、あの時死んでいたら、すべてが終わっていたのか…」。


自問自答を繰り返す中で、ふと、ある考えが彼の脳裏をよぎった。生き残ってしまったからこそ、できることがある。この地獄のような苦しみを味わった自分だからこそ、成し遂げられることがある。それは、単なる復讐とは異なる、もっと深い、もっと本質的な意味を持つものだ。


「これは復讐ではない、正当防衛だ」


彼の心に、冷たくも確固たる決意が宿った。鳴海に与えられた苦痛は、彼が今後、鳴海に与えるであろう苦痛の、何よりの理由となる。これは、自分自身の尊厳を守るための、そして、これ以上誰かが同じ苦しみを味わわないための、最後の抵抗なのだと。彼の壊れた心に、歪んだ論理が形成されていく。そして、その論理こそが、彼のこれからの人生を支配する唯一の道標となった。病院の白い壁が、彼の心に生まれた暗い炎を、静かに映し出していた。


---


病院を退院しても、岸田雅志の生活に保証はなかった。労災は却下され、会社からの補償もゼロ。残されたのは、両足と左手を失った体と、わずかな貯金、そして障害者年金だけだった。それまでの彼の人生設計は完全に破綻し、未来は閉ざされたかに見えた。車椅子で天井を見上げる日々は、彼をさらに深い絶望の淵へと突き落とすかのように思えた。しかし、彼の心には、あの高層ビルから身を投げたあの日、命を奇跡的に繋ぎとめた時に芽生えた「正当防衛」という名の復讐心が、静かに燃え続けていた。


「このまま終わってたまるか」


彼はまず、自身の失われた機能と向き合った。残された右手一本で、できること、できないことを把握し、日常生活の動作を一つ一つ練習した。車椅子での移動、食事、着替え。どれもが彼にとっては、まるで生まれたばかりの赤子が世界を学ぶかのような、困難な道のりだった。だが、彼の内なる炎は、その困難を乗り越える原動力となった。同時に、情報収集にも時間を費やした。インターネットや書籍を通じて、企業の買収、経営コンサルティング、そして法的な抜け道に至るまで、手当たり次第に知識を吸収した。特に、パワハラの立証の難しさや、精神的な攻撃が法的に問われにくい現状を知るにつれ、「正当防衛」という彼の歪んだ正義は、より一層、その根拠を固めていった。


そんな日々の中で、かつてのSNSのつながりから、一通のメッセージが舞い込んだ。それは、経営不振に陥っている零細企業を格安で譲りたいという話だった。当初は半信半疑だったが、詳細を聞くうちに、岸田の心に一つの「ひらめき」が生まれた。


「これだ…」


鳴海健司を追い詰めるための、彼を「深淵」へと引きずり込むための舞台。それこそが、この経営難の零細企業だった。彼は数週間をかけて、その企業の財務状況、事業内容、そして何よりも「人」について徹底的に調べ上げた。社員数も少なく、売り上げも低迷しているが、買収額が破格の1000万円であること、そして何よりも、社員が比較的素直で、経営者の介入を受け入れやすい環境であることが、彼の計画に都合がよかった。


彼にとって、1000万円という金額は、全財産に近い額だった。しかし、彼の決意は揺るがなかった。失われた未来、失われた身体。それらを取り戻すことはできない。だが、この金を使って、鳴海に「報い」を与えることはできる。それは、彼にとっての唯一の希望であり、生きる意味となっていた。


岸田は、自身の名前と肩書きを一切明かさず、信頼できる友人を通して別人の経営コンサルタントを名乗り、その小さな法人を買収した。登記上の代表者には、友人である弁護士の名前を借りた。彼はあくまで「裏方」として、影から全てを操る存在となる。


そして、準備が整った。計画の第一歩は、鳴海健司をこの「舞台」へと誘い込むことだった。


岸田は、鳴海の経歴、現在の役職、そして何よりもその傲慢な性格を熟知していた。彼は、鳴海の承認欲求と金銭欲に訴えかける「餌」を用意した。月給100万円という破格のオファー。それは、経営難の零細企業としては考えられないほどの高額な報酬だった。


「小規模ながら、再建中の会社。あなたの力が必要です。これまでの経験と実績を、存分に活かしてください」


メッセージは、鳴海の自尊心をくすぐるように慎重に練られた。再建中の会社、あなたの力、経験と実績。これらの言葉は、鳴海が抱える承認欲求と、自身の能力への過信を刺激するのに十分だった。鳴海は、自身のキャリアに新たな箔をつけられるチャンスだと捉え、迷わずそのオファーに乗った。彼は知る由もなかった。その高額なオファーの裏に、自らを破滅へと導く巧妙な罠が仕掛けられていることを。


岸田は、車椅子に座り、壁に貼られた組織図を静かに見つめた。その組織図の最上部には、鳴海健司の名前が記されていた。彼の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。


「ようこそ、地獄へ」


---


再建チームの責任者として鳴海健司がオフィスに姿を現した日、その空気は一変した。鳴海は45歳。これまで培ってきた「成功体験」と、それに裏打ちされた根拠のない自信が、彼の全身から滲み出ていた。彼は一言一句、その場にいる全員を品定めするかのように、傲慢な態度で挨拶した。「この会社を立て直すために呼ばれた。俺の言う通りにすれば、必ず成果は出る」と、初日から威圧的な口調で宣言した。


彼のマネジメントは、過去と何ら変わらなかった。「これじゃダメだ」「言葉を選ぶな、はっきり言え」。社員たちの意見は頭ごなしに否定され、些細なミスも許されなかった。彼の高圧的な態度に、経験の浅い若手社員たちは委縮し、顔には怯えの色が浮かんでいた。鳴海は、自身の経験こそが絶対であり、部下はそれに従うべきだと心から信じていた。彼にとって、自身の強引な指導こそが、かつて自分を成長させた「厳しい指導」の再現であり、部下のためなのだという歪んだ正義があった。


しかし、鳴海の知らぬところで、この「舞台」の演出家である岸田雅志は、静かに、そして周到に手を打っていた。岸田は、鳴海に指示された部下たちに必要以上の裁量を与えるよう、影から指示を出していた。鳴海が「これをやれ」と指示を出しても、部下たちは表面的には従うフリをしつつ、実際には岸田から渡された「マニュアル」に従って動いていた。そのマニュアルには、「鳴海氏の指示は表面上は受け入れ、しかし決定権は最終的に本人に委ねる」「鳴海氏が具体的な指示を出さない限り、自主的に進める」といった、鳴海のコントロールを巧妙に回避する内容が記されていた。


鳴海は、部下が指示通りに動かないことに苛立ちを募らせた。「なぜこんなこともできないんだ」「俺の言っている意味が分からないのか」と、怒鳴り散らす回数が増えた。しかし、部下たちはあくまで「自分で考えてやりました」という体で、鳴海の明確な指示を待たなかった。


さらに、岸田は無理な納期を鳴海に課した。新規プロジェクトの企画、顧客への提案、業務改善計画。どれもこれも、通常の倍以上のスピードで進めるよう求められた。鳴海は、それらの指示がどこから来ているのか、明確には把握していなかった。ただ、「経営陣からの指示」として彼のもとに降りてくるだけだった。彼自身がかつて岸田に押し付けた「今日中に」「明日まで」という無茶な要求が、今度は彼自身に向けられたのだ。


そして、最も鳴海を追い詰めたのは、不明瞭な業務責任と周囲からの無関心だった。プロジェクトの失敗は、常に鳴海の責任とされた。しかし、その失敗の原因が、彼の指示の曖昧さや、部下への権限移譲の欠如によるものなのか、それとも無理な納期によるものなのか、明確な線引きはなかった。鳴海が助けを求めても、部下たちは「それは鳴海さんの担当ですから」と、にべもなく突き放した。彼らが岸田から「鳴海氏の業務範囲は明確に、ただし協力は必要最低限に留めること」という指示を受けていたからだ。


かつて岸田が経験した「パワハラの風景」が、今、鳴海自身を包み込んでいた。強圧的な態度で部下を支配しようとする鳴海は、逆に部下たちによって巧みに操られ、追い込まれていく。彼は徐々に孤立し、疑心に陥っていった。「なぜ、誰も俺を助けてくれないんだ?」「なぜ、俺の言う通りにならないんだ?」鳴海の目には、常に疲労と苛立ちの色が濃くなっていった。


岸田はあくまで裏方として、オフィスにはほとんど姿を見せず、定例報告だけを遠隔で受け続けた。報告書には、鳴海のプロジェクトの進捗の遅れ、部下との摩擦、そして彼の精神的な不安定さが、客観的なデータとして記されていた。その報告を読みながら、岸田の心には何の感情も湧かなかった。ただ、彼の計画が、寸分違わず進行しているという事実だけが、静かな満足感を与えていた。


---


半年が経った。鳴海健司の顔からは、かつての傲慢な自信は消え失せていた。目の下には深いクマが定着し、その頬はげっそりとこけ、髪には白髪が目立つようになった。朝、出社する彼の背中には、疲労と諦めが色濃く漂っていた。プロジェクトは完全に空転していた。目標達成は遥か遠く、設定された無理な納期は次々と破綻。経営陣から降りてくる叱責の言葉は、全て鳴海に向けられた。しかし、彼が部下たちに助けを求めても、彼らはまるで壁のように、冷たく、そして無関心だった。


「自分を信じて動いたのに、なぜ裏切られる?」


鳴海の心は、疑心暗鬼に蝕まれていた。部下たちは、表面的には指示に従うが、彼の意図を汲み取ろうとはしない。そして、彼らが何か問題を起こしても、それは常に鳴海の指示の不明瞭さや、リーダーシップの欠如に帰結させられた。かつて彼が岸田雅志に浴びせた言葉、そして精神的な圧力の全てが、まるでブーメランのように彼自身に跳ね返ってきていた。


鳴海は、誰もが自分を陥れようとしているのではないかと疑い始めた。オフィスで耳にする些細なひそひそ話、自分に向けられる冷たい視線。それら全てが、彼を追い詰める幻聴や妄想に聞こえた。彼は次第に、オフィスにいることが苦痛になった。自分のデスクに座っているだけで、全身から冷や汗が噴き出すような錯覚に陥った。夜遅くまで一人オフィスに残って、プロジェクトの資料を読み込み、なんとか打開策を見つけようと試みた。しかし、どれだけ考えても、状況は好転しない。むしろ、袋小路へと迷い込むばかりだった。


そんなある夜のことだった。鳴海の自宅に、一通の匿名メールが届いた。差出人は不明。しかし、そのメールに添付されていたファイルを開いた瞬間、鳴海の顔から血の気が引いた。


再生されたのは、聞き覚えのある自分の声だった。

「おい、岸田。こんな簡単なこともできないのか?」「お前みたいな役立たずは、社会のゴミだ」

「辞めちまえよ。どうせお前はどこに行っても通用しない」

それは、紛れもなく、彼が過去に岸田雅志に浴びせた暴言の録音だった。

そして、その録音の下には、具体的な日時と、当時の状況を詳細に記した複数の証言がテキスト形式で添付されていた。証言の中には、彼が覚えのない、陰湿ないじめの具体的な描写も含まれていた。


「これは、あなたが岸田雅志に言った言葉です」


メールの最後に、ただそれだけが記されていた。鳴海の心臓が激しく脈打った。手が震え、マウスを握る指から力が抜けた。過去の記憶が、彼の脳裏に鮮明に蘇る。あの時の岸田の顔、その絶望に歪んだ表情が、まるで昨日のことのように目の前に現れた。


彼は知っていた。これは、岸田に報復されたのだと。しかし、どうやって?なぜ今?

鳴海の全身から力が抜け落ち、その場に崩れ落ちた。夜のオフィスの片隅で、彼は膝を抱え、嗚咽していた。声にならない叫びが、がらんとした空間に虚しく響いた。


数日が経った。鳴海は会社に来なくなった。連絡も取れなくなった。

そして、ある朝。鳴海健司は、自宅で首を吊って亡くなっていた。

彼の死体は、彼の妻によって発見された。妻は、夫が残した書き殴りのメモを握りしめ、茫然自失のまま警察に通報した。


---


鳴海健司の死から数日後。都心の喧騒から少し離れた場所にある、警視庁の薄暗い取調室に、岸田雅志は車椅子に乗って現れた。その顔には、深い疲労と、しかしどこか晴れやかな、奇妙なまでの平穏が浮かんでいた。彼は自ら警察署を訪れたのだ。「鳴海健司を精神的に追い込み、死に至らしめました」。その静かな告白は、刑事たちを困惑させた。


対応したのは、ベテランの刑事、田中だった。長年の経験から、様々な事件を見てきた田中だが、岸田の供述は前例のないものだった。

「……もう一度、おっしゃっていただけますか?」田中は眉間に皺を寄せ、岸田の目を見据えた。

岸田は、ゆっくりと、しかしはっきりとした口調で繰り返した。「私は、鳴海健司を精神的に追い詰め、結果的に彼を自殺に導きました」。


田中は、手元のメモ用紙にペンを走らせながら尋ねた。「どういう手段で、彼を追い込んだと?」

岸田は、淡々と語り始めた。自身が鳴海から受けたパワハラの詳細、高層ビルからの飛び降り、両足と片手を失ったこと、そして労災も補償も得られなかった現実。そして、いかにして零細企業を買収し、鳴海を雇い入れ、彼に「同じ風景」を見せたのか。必要以上の裁量、無理な納期、不明瞭な業務責任、そして周囲からの無関心。全てが、彼がかつて鳴海から受けた苦痛を再現するための仕掛けだったと。


田中は黙って聞いていた。岸田の言葉は、まるで手記を読み上げるかのように感情がなく、しかしその内容は、聞く者の背筋を凍らせるものだった。

「自殺教唆、あるいは脅迫の事実はありますか?」田中は、核心に迫る質問をした。もしそうであれば、自殺幇助罪や脅迫罪で立件できる可能性があったからだ。

岸田は、首をゆっくりと横に振った。「いいえ。私は彼に『死ね』とは一言も言っていませんし、物理的な暴力も、具体的な脅迫も加えていません。私から彼への接触は、匿名メールで過去のパワハラの証拠を送ったことだけです。それも、彼が私にしたことの『事実』を突きつけたに過ぎません」。


田中の顔に、明らかな困惑の色が広がった。法律の専門家である彼の頭の中では、様々な条文が巡っていた。

「…脅迫や自殺教唆がないのであれば、立件は困難です」。

刑事は、苦渋の表情でそう答えるしかなかった。精神的に追い詰めたという供述はあれど、直接的な教唆や明確な犯罪行為がなければ、法的に責任を問うことは極めて難しい。特に、今回のケースでは、岸田が意図的に「法に触れない」範囲で、かつて自分が受けたパワハラの構造を鳴海に経験させた、という点で、従来の犯罪の定義に当てはまらない側面が強かった。


その言葉を聞いた瞬間、岸田は静かに、しかし明確に、笑った。

「それが聞きたかった」。

彼のその笑顔は、勝利を確信した者のそれだった。冷たく、そしてどこか悲しい響きを持つその笑いは、田中の心に深く突き刺さった。鳴海は、彼の「復讐」によって自死を選んだ。しかし、その行為は、現在の日本の法律では「犯罪」として裁かれない。岸田は、その事実を確かめるために、わざわざ警察署を訪れたのだ。


取調室の空気は、一層重くなった。田中は、法と倫理の狭間で、深い葛藤に囚われていた。目の前にいる男は、確かに一人の人間を死に追いやったと自白している。しかし、法は、その行為を「犯罪」とは断じない。この歪んだ現実こそが、岸田の「正当防衛」の核心だった。彼は、法が裁けない領域で、自らの復讐を完遂したのだ。


---


鳴海健司の死から半年後。季節は巡り、都心の喧騒も、秋の終わりと共に冷たい風をまとい始めていた。岸田雅志は、一人暮らしのアパートのベッドで、静かに目を閉じた。彼の傍らには、処方された睡眠薬の空になったシートが散乱していた。病室の天井を見上げながら、あの「正当防衛」の誓いを立ててから、彼の人生は、復讐という名の炎に照らされてきた。その炎は、目的を達成した今、静かに燃え尽きようとしていた。彼は、自らの意思で、この命を終わらせようとしていたのだ。


ベッド脇には、黒いUSBメモリと、丁寧に折り畳まれた一通の遺書が置かれていた。彼の体は、両足と左手を失ったままだ。車椅子での生活も、もう半年以上になる。だが、彼が自らの手で選んだこの結末に、後悔はなかった。


ゆっくりと意識が遠のいていく中、彼の脳裏には、鳴海が追い詰められていく姿が鮮明に浮かんだ。疲弊しきった顔、混乱した瞳、そして最後に届いた、嗚咽する鳴海の声。それらが、彼の心をわずかに揺さぶったが、彼が抱いたのは罪悪感ではなかった。むしろ、深い満足感と、ある種の達成感だった。


翌日、アパートの管理人によって発見された彼の遺体の傍らに、USBメモリと遺書は残されていた。警察が遺書の内容を確認し、後にその一部がネットに流出することになる。


遺書には、彼の最後の言葉が記されていた。


「これは懺悔でも反省でもない」


書き出しからして、彼の揺るぎない覚悟と、社会への挑戦状が込められていた。彼の死は、自責の念からくるものではない。すべては、彼の計画の、そして彼の「正当防衛」という論理の、最終章だったのだ。


「僕は復讐を遂げ、法律にお墨付きをもらった。これは“合法”の仕返しだった」


彼の言葉は、法というものが持つ限界を、そしてその限界がもたらす矛盾を、鋭く突きつけていた。彼は、ナイフも銃も使わず、暴力も脅迫もせず、ただかつて自分が受けた精神的な苦痛を、法に触れない形で相手に再現させた。それは、彼にとって、何よりも重要な「証拠」だった。


「鳴海は、自分がかつて上司にされたやり方を僕に繰り返した。彼には罪の意識もなかった。でも、それが人を壊すことだと、彼の身をもって証明してやった」


鳴海の死は、彼自身の過去の行為の帰結であり、彼自身の「正当防衛」だったのだと、岸田は主張する。鳴海は、自分が正しいと信じ、無自覚に人を傷つけ続けた。その行為が、どれほど人を破壊するのかを、鳴海自身が、その身をもって知ることになった。


「精神を殺すのにナイフも銃もいらない。組織と立場と沈黙があればいい」


この一文は、パワハラという、現代社会が抱える病巣を的確に表現していた。物理的な傷跡を残さずとも、人間を内側から破壊できること。そして、その破壊行為を、組織という名のシステムと、周囲の無関心という名の「沈黙」が許してしまう現実。岸田は、その構造そのものに、静かな怒りをぶつけていた。


「だから僕は、彼に“同じ道”を歩かせた。ただし、合法的に、静かに」


岸田は、鳴海を殺したのではない。彼が歩んできた「破壊の道」を、そのまま彼自身に歩ませたのだ。そして、その行為が法に触れないという事実が、彼の「復讐」を「正当防衛」と定義する、決定的な根拠となっていた。


「これは復讐ではなく、正当防衛だった。罪意識は、ない」


この強い言葉は、彼の最期の瞬間まで、その信念が揺らがなかったことを示している。彼には、誰かを殺したという罪の意識はなかった。なぜなら、彼の行為は、自らを守るための、そして自身が受けた不正義への対抗策だったからだ。


「どうか、この記録を読んだ人たちに伝えてほしい。やられたら、やり返せるという事実があるだけで、救われる人がいる。法に触れずにできる抵抗があると知ることが、次の犠牲者を減らす道になる」


彼の遺書は、単なる自己弁護に留まらなかった。それは、同じように苦しむ人々へのメッセージであり、社会への最後の問いかけだった。法が救いきれない弱者が、自らの手で、しかし法の下で抵抗できる道があること。その事実こそが、彼が残した「希望」であり、「救い」なのだと。


「僕は、壊れたままでも、最後まで自分で選んで生ききった。それが、僕の誇りです」


身体は壊れ、心も深い傷を負った。しかし、彼は最後まで、自身の意思で行動し、自身の選んだ方法で生を全うした。その選択こそが、彼に残された唯一の誇りだったのだ。遺書は、彼の生涯をかけたメッセージであり、彼の死の、そして彼の復讐劇の、揺るぎない声明だった。

叩き台なので、クオリティには少し難があったと思います。

読んでくださった方、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ