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一章 第八話

「うん、そんときゃ一思いに喰ってくれ」


 キリエの衝撃的な発言に明は至って普通の態度で返事をした。別に気負う必要すらない、そう感じられる声色だった。


「……ずいぶん余裕ね。あんた、いつ鬼になるか分からないのよ?」


「鬼になったら理性なんて消えるんだろ? もちろん、鬼になる前までは全力で抵抗させてもらうけど、本当に鬼になっちまったら諦めるしかあるまい」


 その時には諦めるという理性すらなくなってるんだろうけど、と内心で思いながら自分なりの論を展開する明。


 そんな彼にキリエは完全に変態を見る視線を向けていた。


「……あんた、変な奴変な奴思っていたけどもう限界。いい? あんたのそれは異常よ!」


 明の顔面に指を突き付け、キリエが断言する。


「自分の体が得体の知れないものになってるのよ? もっと慌てふためくものでしょう? 専門家である私にすがったって誰も責めないのよ? 何でそんなに落ち着いていられるの?」


 それは奇妙な図だった。裏の世界の住人であるキリエが、表の世界の住人である明に常識を説いているのだ。明にも自覚があるのか苦笑いだ。


「さっき言った通り、わめいてどうにかなるものじゃないって事が分かってるから、かな」


「それでも言わなきゃ気が済まないのが人間でしょ! 理性だけで生きていけるわけないじゃない!」


「仕方ねーよ。性分なんだから」


 なんというか、どうせこの前なくすはずの命だったと考えてしまうと一気に落ち付いてしまうのだ。どうにもあの危機を乗り越えた事で肝が据わってしまったらしい。


 だが、これは良い事ばかりではない。恐怖を恐怖と捉えられないのは人間としての本能をなくすのと同義。


 つまり、明は順調に人としての道を踏み外し始めていることに他ならない。


「……もういいわ。何言っても意味なさそうだし」


 明の精神面で起きている異常に気付いたキリエは忌々しげに舌打ちをして、明から視線を外す。


 いきなり機嫌の悪くなったキリエを怪訝そうな顔で見上げつつ、明は自分の弁当箱を開けた。当然自作だ。


「はぁ。それでこれからどうするわけ? 俺がいつ鬼になるかなんて分からないんだろ?」


 弁当に入っている甘めの卵焼きをかじりながら疑問を投げかける。キリエも行きに買っておいたのか、コンビニの弁当を取り出して食事の用意をしながら明の質問に答える。


「そうよ。だからしばらく学校は休みなさい。教室の中でいきなり鬼になったらあんたの知り合いが何人か死ぬかも知れないわよ」


 割り箸を器用に操りながらご飯を口の中に入れつつ、キリエが現実を突き付けてくる。とてもではないが、食事中にする内容じゃない。


「それは……嫌だな」


 自分の死にはかなり無頓着なくせに他人の死を気にかける明にキリエは己がさらに不機嫌になっていくのを自覚する。


 嫌いなのだ。生きる努力を放棄しているようにしか見えない奴は。今の明からは生きようとする意志が感じられない。ただただ無気力に、あるがままの結果を受け入れる。そんな仙人のような生き方をしているようにさえ見えた。


「だったら人前は避ける事ね。いつ、どこであんたが鬼になるかなんて誰にも分からないんだから」


「……分かったよ。だけど、俺にだって買い物とかあるから外に出なければならない時もあるぞ。それに無駄だとは思うけど、調べ物もしたいし」


 ミニハンバーグを食べながら明が現実的な問題を指摘し、同時に自分の要望も加える。


「調べ物? あんた、鬼になる事受け入れてるんじゃないの?」


 意外とポジティブな事を言い出す明にキリエはかなり驚いた顔をする。先ほどまでの達観した様子は微塵も見られない。いったいどんな心境の変化があったのだろう。


「……あのな。俺だって死ぬのは嫌だぞ。確かに一度は落とすはずの命だったから、って思うと落ち着くのも事実だ。でも、せっかく助かった命なんだから全力で生き抜いてやろうと思う部分だってある」


「じゃあ、あんたのあの受け入れたような顔は何なの!? フリ? あたしをからかうためのフリ!?」


 だんだんヒートアップし、拳まで握り始めるキリエに慌てて明は後退して距離を取る。人の手首ぐらい簡単にへし折る力を目の前の少女は秘めているのだ。まともに食らったらシャレでは済まない。


「ち、違うっての! できる事を全部やり尽くした結果が鬼になる事なら受け入れるってだけだ! 何もしないで諦めるつもりは一切ない!」


「……何だ。それならそうと先に言いなさいよ」


 理不尽極まりないキリエの言葉にさすがの明も反論を試みる。


「いや、自分のスタンスを他人に言うって滅多にないと思うんだけど……」


「何か言った?」


 健闘空しく、再び拳が握られる。こいつ相手に下手な口応えは逆効果だと悟った明は弁当に集中してごまかしてしまう事にした。


「……そういう事なら、あんたに協力する事もやぶさかじゃないわ。分かった。街の案内も兼ねて調べ物をするわよ。……効果があるかどうか分からないし、あんたもいつ鬼になるか分かったもんじゃない。ひょっとしたら周りの人を巻き込む可能性だってある。それでも……やってみる?」


 覚悟を聞いてくるキリエ。お前はこれから大勢の人を無意識に巻き込んでしまうかもしれない。それでも我を貫くか? と聞いているのだ。


「――やるさ。それに他人は巻き込まれない」


 その質問に明は特に身構えた様子もなく答える。表情は淡々と、しかし瞳には爛々とした意志を乗せて。


「何でそんな確信持って言えるのよ。……まさか」


「そのまさかさ。その時はお前が、俺を喰ってくれるから安心だ」


 明の楽観思考は割と他力本願であった。キリエは肩から力が抜けてしまう。


「あんたねえ……あたしに衆人環視の中、鬼を喰らえっていうの!? 自分は死ぬからって他人事だと思ってるでしょ!」


「当たり前だろ。死ねば俺はそれまでじゃないか」


 さも当然のように言い切る明に対し、キリエがキレた。


「開き直るな! 少しは済まなそうな態度を取れ!」


 うがーっ! と吠えながら立ち上がる。キリエの膝にあった弁当が崩れそうになるが、そこは明がとっさに掴んで事なきを得ていた。


「大体あんたねえ! いつもいつものらりくらりしてて腹立つのよ! 男ならもっとこう……ピシッと生きなさい!」


 他にもどうたらこうたら、とキリエの説教が続く。まだ出会って二十四時間程度しか経っていないのに、相当なフラストレーションが溜まっていたようだ。


「そう言われても……」


 言いたい放題言われている明は苦笑して頭をかくしかなかった。言ってる事が曖昧過ぎて良く分からないというのもあるし、そもそも明自身もキリエと接している時の自分が本来の自分なのか判別がつかない状態なのだ。


「ったく……これじゃ柳に風ね……。もういいわ。あたしが大人になる」


 勝手に怒った挙句、勝手に自己完結されてしまった。明としてはうるさい説教が終わっただけマシ、と考えて黙々と弁当を食している。


「……んで、弁当食い終わったらどうするわけ? タイミングの悪い事にウチの冷蔵庫は氷河期状態だ。今日中に食料を買い込まないと悲惨な事になる。ちなみにカップラーメンなんていう文明の利器も我が家はない!」


 意外に高いのだ。明のように貧乏根性が根底まで染み込んでいる人間は基本的に買わない。せいぜい非常食に買うくらいだが、明はそれもやっていなかった。


「しょうがないわね……。そっちはあたしもついて行く事で何とか許してあげる。まずはここからサポタージュするわよ」


 少なくとも日数が経過し、明の鬼化が進行して鬼となる確率が高くなるよりかは、今の内に行った方が得策と判断したキリエも条件付きでそれを認める。


「ああ、よもや学校をサボる羽目になるとは……」


 楪に見つかったらどうなってしまうのだろうか、と消し切れない不安を抱きながら明は渋々立ち上がる。とはいえ本当に命の危機なのだ。背に腹は代えられない、と己に何度も言い聞かせておく。


「ほら、裏口から出るわよ」


「待った。なぜフェンスに足をかける。ここは五階だ」


「飛び降りるに決まってるじゃない。あんたも早く!」


 予想はしていたけど、外れてほしかった答えが来た。さすがの明も頬を引きつらせる。


「できるわけないだろ!? こんな高さから落ちたら死ぬぞ!」


 鬼喰らいであるキリエは大丈夫なのかもしれないが、鬼になりかけの明は精神面がまだ一般人を脱し切れていなかった。つまり常識的に無理だと考えてしまう。


「大丈夫よ。臭いから判断するに、それなりに身体能力は上がっているはずよ。あとは着地した瞬間に転がれば無傷で降りられるわ」


「簡単に言っても無理な物は無理! ってかスカートめくれてる!」


 五階ほどの高さとなると、いつもそれなりに風が吹いているのだ。フェンスに片足をかけたまま明の方を見ているキリエのスカートはそれはもう直視しがたい状態になっていた。


「スパッツ下に履いてるから気にしないでいいわよ。そんな事より早く来なさい! 首根っこ掴んで無理やりにでも連れてくわよ!」


 スパッツを履いていたとしても、男にとってスカートの中というのは禁断の花園なのだ。気にするなと言われても気になってしまう。


 だが、男のロマン以前に首根っこ掴まれて五階からノーロープバンジーは嫌だった。


 とはいえ、どう考えても逃げられそうにない。明は半ば以上死を覚悟した上でフェンスに足をかけた。


「こうなりゃヤケクソだ! どこへでも付き合ってやるよ!」


 明の必死な様子にキリエは少しだけ唇を持ち上げる。次の瞬間には表情を凛々しいものへと変えていたが。


「その意気よ! はい、ジャンプ!」


 キリエがちょっとした段差を飛び降りるかのように気軽な調子で身を宙に投げ出した。


「ええい、ままよ……っ!」


 少しでも声を出すと非常に情けない声が出るかもしれないと危惧した明は、唇を強く噛み締めて一歩を踏み出した。






「それで、学校を脱出したわけだけど。いったん着替えを取りに戻った方が良いと思うんだ」


 幸か不幸か、五階から飛び降りた両者は無傷で校舎から出る事ができた。明もこの事実の前には、己の体がおかしいという事に実感を持たざるを得なかった。


「そうね。それには賛成するわ」


「……マルトリッツさんは着替えを先生の家に置いてるよな」


「ええ。……まあ、あたしの方は別に良いわよ。気合と脅迫で何とかなるだろうし」


「最初の方は健全なのに、どうして二つ目が腹黒いんだよ……。しかも武力任せ」


 げんなりした様子の明だが、足は己の家の方に向かっていた。キリエの意見を取り入れて、自分の服をどうにかするつもりのようだ。


「うるさいわね。あたしは細々した話し合いは苦手なのよ」


 明の小言にキリエが唇を尖らせて開き直ってきた。


「見りゃ分かる」


「ぁんですって?」


「ほら、ウチ着いたぞ」


「ちょっと!」


 突っかかってくるキリエを適当にあしらいつつ、明が自宅を指差す。いつの間にかそんな場所まで歩いていたのだ。


「俺の家にようこそ。両親とかはいないからくつろいでくれていいぞ」


 ポケットから出した鍵でドアを開け、キリエを中に招き入れる。


「……そのセリフ、これからふしだらな事をしようとする奴が言うセリフよね」


 言われてみれば、と明も己の言った事を思い返して納得してしまう。


「しねえよ。押し倒す前に三枚におろされる」


 だが、それを理性で抑え込むのが人間という生物であり、明はあまり本能が表に出ない方の人間であるため、あっさりとそれを否定した。


「冷蔵庫の中に麦茶ぐらいはあるから適当に飲んでて」


 それだけ言い残し、明は二階へ上がる。


「……ずいぶんと慌ただしくなってきたな」


 そしてリアルな命の危機。あんな体験、一生に一度だと聞いていたし、思っていた。しかし、今度は自分が被害者から加害者になりかけているのだ。ここまで目まぐるしく状況が変わる事態に明は生まれて初めて巻き込まれていた。


「……ま、やれるだけやるかね」


 いつも通りだ。やれる事をやれるだけ。明が一人暮らしを始めてからモットーにしている言葉だ。


 適当に手に取った私腹に着替え、下に降りる。


「なあ、麦茶飲んでいいとは言ったけど、そこまでくつろいでいいとも言ってないぞ?」


 そこには麦茶を右手に、せんべいを左手に持ってソファーでテレビを見ているキリエがいた。思わず自分の目を疑ってしまうほど違和感がなかった。彼女はドイツ生まれの日本育ちだと言った方が違和感がない気すらした。


「別に良いじゃない。アヤメの家ではこうやるのがマナーだって聞いたけど?」


「そのマナーは間違ってる。それはぐうたらな人間のマナーだ」


 過去、楪の家にホームステイしたであろう外国人はみなこのマナーを身につけているのだろうか、と思うと不安で仕方がなかった。日本の文化が悪い方向に理解されそうだ。


「うるさいなあ……あたしが気に入ってんだから、それでいいじゃない」


「なんという傍若無人。この世に神はいないのか」


「神様なんていたら世の中、もうちょっと平和になってるわよ」


 達観したようなその言葉に反論できないため、何も言わずにキリエの隣に座ってせんべいをかじる。


「……そろそろ行くぞ。まずは図書館で調べ物がしたい」


「オッケー。あ、あたしの方は連絡しといたわよ。ただ、一番近い支部でもそこそこ遠いらしいから来るのは新幹線利用で今日の夜だって」


「……遅いのか?」


「遅いわよ。鬼喰らいにとって鬼の排除は最も優先すべきこと。飛行機でもなんなり使ってほしいくらいだわ」


 キリエのそれは明らかに本気の口調であり、そこまでして鬼を倒す事に執念を傾ける鬼喰らいという存在に明は初めて畏怖の感情を抱いた。


 ――俺の事を異常と言うが、こいつらの方がずっと異常だ。


「……その人が来たら、俺はどうなる?」


「……正直、あたしにも予測はできない。鬼と判断されてその場で殺されるか、“まだ”人間であると推測されて何とか治す方法を探すべく、あんたは拘禁されてありとあらゆる手段を試されるか……。言っておくけど、後者の方はかなり都合よく解釈した場合よ。向こうだって組織だからね。大を救うために小を切り捨てるくらいやるわ」


「どっちにしろ、辛い道のりか。嫌になるねえ」


 やれやれと言った風に首を横に振る明。厭世的な事を言う割に、その目には相変わらずの光が宿っていた。諦めるつもりは毛頭ないらしい。


「はいはい、あたしも可能な限り便宜を図るから。行くわよ」


 その様子が分かったのか、キリエも上機嫌にうなずいた。


「そんなのが必要ない展開になる事を祈るしかないな」


 皮肉げな笑みでキリエの言葉を受け取り、二人は立ち上がる。






 この時、今日という日がとてつもなく長くなるという事実を二人は知る術を持たなかった。

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