一章 第五話
「……マルトリッツさん?」
明がそう呼ぶのを、キリエは少しだけ驚いた瞳で見た。あそこまでフレンドリーに接する癖に、友人とそうでない者の分け方はしっかりしているようだ。
「……何だよ」
もちろん、キリエとしても明に必要以上に踏み込ませるつもりもないため、対応は素っ気なくする。
「別に。何でもないわよ」
「そうかい」
特に詮索する事もなく、明は再びカバンを持ち直してキャリーケースを引きずる。対するキリエは手ぶらだ。
この光景を第三者が見たら誤解を招きそうだが、明としてもこれは自分から言い出した事なので、特に泣き言も言わず黙々と運んでいる。すでに背中は汗だくだ。
「あ、お前の家ってどこになるんだ? ちょっと住所見せてくれよ」
「はい」
手渡された紙をマジマジと見て、すぐに返す。少なくとも、明が今まで行った事のある場所ではなさそうだった。
「知ってる場所だった?」
「いんや、知らない。その辺は行った事ないからな」
地元民とはいえ、そこまで色々な場所をかけずり回っているわけではない。特に明はどちらかと言うとインドア派なので、休日は家にいる事が多かった。
「ふぅん」
キリエも特に答えを求めた質問ではなかったので、あまり驚いた様子も憤慨した様子も見せずに再び歩き出す。
「えっと……あ、見えてきた。たぶんあれよ」
そう言ってキリエが指差したのは木製の、どう見てもボロアパートの分類に入るであろう建物だった。
「……アパートだな。そういや、あそこを買ったのか? それとも留学生としてホームステイなのか?」
「今回はホームステイ。学校に通う以上、ある程度の体裁は取り繕わないと」
彼女の後ろにある組織は話から推察するにかなりの規模を誇っているはずだ。いざとなれば適当なマンション程度はポンと買えるだろう。
……無論、そのためには組織がマンション代を払ってやっても良い程度にキリエが鬼喰らいとして強くなっているのが必須条件だが。
アパートの中に入り、キリエがやや不安げな足取りで一歩一歩歩くたびに軋む階段を上る。明は先ほど見かけた郵便受けに見慣れた名前を一瞬だけ見たような気がして、首をひねっていた。
その疑問もキャリーケースを抱えたまま階段を上るという苦行のため、忘却の彼方に消えていったが。
「……ここみたいね」
紙に書かれている番号と何度も照らし合わせ、キリエが見上げる。
「なあ、ここってもしかして……」
もしかしても何もなかった。かかっている名札を見れば一目瞭然であり、明はそれを見て回れ右をして逃げようとした。
「待ちなさい。せめてあたしのバッグとか置いて行きなさい」
「置いてくから! 頼むから逃げさせて! 俺、この場所、あまりいたくない!」
「なに片言になってんのよ……。一応、これからお世話になる人だからね。あんたも顔ぐらいは知っておいた方がいいでしょ」
いや、すでに何度も見た顔だと思う、という否定はできなかった。それより先に別に疑問が浮かんできたからだ。
「……何で顔を知っておく必要があるんだ?」
「え? あんた、これからも荷物持ちしてくれんじゃないの?」
「そこまでするか! 今回だってちっと引き留め過ぎたから悪いと思っただけだ! そうそう何度もこんな重いもん運んでたまるか!」
さも当然のように首をかしげるキリエにさすがの明も突っ込む。こんな重い荷物、自分のせいで相手に迷惑をかけたならともかく、特に理由もなく運ばされるのはいくら恩があるとはいえ、遠慮したかった。
「まあ、そこまで言うなら無理に止めはしないわ。今日は色々と助かったわ。私だって重い物運ぶのは嫌だし」
重い物を好き好んで運ぶ人がいるのか、明は疑問だった。仕事としてする人はいるだろうが、自分から望んでする人を想像するのは割と難しい。
「じゃあ、また明日」
「ええ、また明日」
「んじゃ、また明日な草木」
階段を降りようとしたら、聞き慣れた声の主に肩を掴まれて阻まれてしまう。明は動きの悪いブリキ人形のようにぎこちなく振り向く。
「よう、二時間ぶりだな。草木」
そこにはラフなシャツとジーンズを着こなしている明の見知った人――クラスの担任である楪の姿があった。
「………………人違いです」
明は必死に目をそらしながら、訳の分からない言い訳を言い始める。ただでさえキリエと一緒に来てしまったのだ。午前の時みたいに誤解されてもおかしくない。
「そう言うなって。お前さんが逃げようとしてたの、ちゃんと見てんだから」
「…………記憶にございません」
楪に掴まれている肩がミシミシと嫌な音を立て始めている事を全力で無視しながら、明は悪あがきをする。すでに顔に出ている汗は脂汗だ。
「……まあ、聞きたい事があるんだ。茶ぐらい出すからちょっと寄ってけや。な?」
「…………お茶は麦茶でお願いします」
骨の軋む痛みと、目を合わせなくても感じる威圧感に明はついに屈した。
膝から崩れ落ちた明の姿を楪は楽しそうに見て、今までのやり取りに圧倒されていたキリエに視線を戻す。
「さて、マルトリッツ。今日からここがお前さんの家だ」
「え? あ、う、え?」
キリエは何がどうなっているのかまったく分からず、口をパクパクさせる事しかできなかった。
そんなキリエの様子を見て大笑いする楪。そして未だに肩を押さえて痛みに悶える明。第三者が見たらまず首をかしげる光景が展開されていた。
最も早く正気に戻ったのは楪だった。さすがにこの状態はご近所さんに迷惑だと気付いた彼女は、何とか動けるようになった明に目配せし、硬直しているキリエの体を二人がかりで家の中に運んだ。この時ばかりは楪も察しの良い明に感謝した。
アパートは1DKの狭い部屋だった。しかし、アパートの中は明の予想に反して意外と綺麗に使われていた。楪の事だから、てっきり私生活はだらしないものだとばかり思っていたのだ。
不思議そうにキョロキョロと部屋の中を見回す明を楪はジト目で見る。
「……草木。お前まさか、あたしの部屋が汚くないのが不思議そうな顔だな。もう一回肩握るぞ」
「勘弁してください。二度目は砕けます」
明は開き直ったのか、特に悪びれることなく自白する。その姿に毒気を抜かれた楪は軽く舌打ちし、今なお呆けているキリエの顔の前で手を振る。
「おーい、いい加減起動しろー」
そんな楪の言葉には耳を貸さず、キリエは手近にあったコップを引っ掴み、中に注がれている液体を飲み干す。
「あ、俺の麦茶!」
隣からそんな声が聞こえたが、キリエは気にも留めなかった。そして五秒後、
「な、何で先生があたしの家族なんですか!?」
ようやく覚醒したキリエの叫び声が楪と明の耳を直撃した。特に目の前で手を振っていた楪のダメージは半端じゃない。
「…………草木、生きてるか?」
「か、かろうじて……。耳がワンワン鳴ってますが」
まともに食らった明と楪は自分の耳をトントンと叩きながら、意識を真面目なものに切り替える。
「……じゃあ、そろそろ説明してもらっても?」
明が端を発し、それに追従するようにキリエも食らいつく。
「こいつの言う通りです。あたしも理由が知りたい」
「……まあ、そんな小難しい事情が絡んでるわけでもないんだがな」
大真面目な顔をしている明とキリエを見て、楪はどう言ったものかと頭を悩ませる。
(まさか、この人が日本の鬼喰らい組織の一員だとか言うんじゃないだろうな?)
(知らないわよあたしだって! 外国の組織なんて存在しか知らないのが普通なのよ!?)
楪が目をつむって言いたい事をまとめている間に、明とキリエがひそひそと小声で意見を交わし合う。
「ウチ、ホームステイの受け入れ先やってんだわ」
「……は?」
ゴチャゴチャと難しく考えていた二人の頭に、それはストンと落ちてきた。あまりに滑らかに落ちてきたので、楪の言葉はまるで異国の言葉のように受け入れられた。
「いや、マルトリッツは今回ホームステイって形で来てる。んで、そいつはあたしのクラスの人間。だったら、一日でも早く馴染めるようにあたしがこいつの家族に立候補しちゃダメか?」
「…………素晴らしい考えで」
嫌味じゃなく明はそう思った。この一見粗暴で中身も粗暴な教師はその実、生徒の事をよく考えている。
「おう、敬えよ」
楪も明の言葉に悪意がないのを感じ取り、誇らしげに胸を張る。
「まあそれはそれ、これはこれで」
それに明の中で彼女の評価は最上位だ。これ以上評価を上げる事なんてできない。
「チッ、相変わらず他人行儀だなぁオイ。もっとフランクになれよ」
楪は無意識に感じ取っているのかもしれない。明が肝心な部分に踏み込ませない、あるいは絶対的な壁を両者の間に作っている事を。
……そのような事をしている当の本人はしれっと麦茶を飲んでいるのだが。大概彼の神経も図太い。
「……あの、先生?」
話から置いてけぼりにされていたキリエがおずおずと会話に入る。
「ん? ああ、悪いマルトリッツ。ちょっと無視しちまったな」
「いえ、理由は分かりました。……それで、何でこいつを一緒に入れたんですか?」
キリエ個人としては聞く事などほとんどないのだが、それだけは聞いておきたかった。
「あ、じゃあ俺はこれで。麦茶、ごちそうさまでした」
こういう場面での危機察知能力はキリエよりも明の方が高いらしく、明はすぐさま逃げる準備に入った。
「まあ待て。あたしの要件は終わってないぞ」
しかし、楪に首根っこを掴まれてしまい、脱出は失敗となる。もとより成功するとは思ってなかったのだが。
「う……手短にお願いします」
「ああ、手短さ。質問はたった一つだからな」
その質問に対して嫌な予感しか感じられないから逃げるんです、と明は言おうとしたのだが、首を力強く掴まれているため上手く喋れなかった。
「質問? なんですか?」
ここに来てまで己に迫った命の危険とはまた別種の危険を感知し切れないキリエが、火に油を注ぐような発言をしてしまう。
その発言を聞いた楪はにんまりとしたお世辞にも上品とは言い難い笑みを浮かべ、明は諦観の表情になった。
「なあに、あたしみたいな教師としては聞いておかなくちゃならない質問さ。という事で草木」
「……何でしょう」
「お前さんらの関係は? 友達、とかじゃなくて恋愛面で」
「な……」
爆弾を投下されてから自分がいかにうかつな発言を繰り返していたのか気付いたらしく、キリエが驚きなのか、怒りなのか判断しがたい顔で固まる。
対する明は逆に無表情になっていた。話している時に意外と表情を変える彼にしては違和感が強い表情だ。
「別に、ただの知り合いですよ」
明がそう言って、キリエの頭にも冷静さが戻ってくる。
「そうですね。知り合いです」
キリエの本心としては知り合い一歩手前の存在なのだが、それを言えばどうなるかぐらい予測がつく。
「……本当みたいだな。ったく、変わった関係だよ」
二人の言葉に嘘偽りがないのが分かった楪はつまらなそうに自分の分である麦茶を飲む。
変わった関係。明とキリエを結びつけているのはバケモノだけなのだ。それに関連する話題や事件が終わってしまえば、後はただの名前をお互い知っているだけの存在になる。
明としては命の恩人なため、困っていればなんとかしてやりたいとは思うが、キリエにはそんな感情一欠片もない。一般人にあまり踏み込まれても迷惑なだけなのだ。
「じゃあ、俺はこれで」
質問は終わったと判断した明が自分のカバンを持って立ち上がる。
「ああ、気を付けて帰れよ」
楪も今度は引き留めずに手をひらひらと振って明を見送る。
分かってます、と明は苦笑とともに答えて今度こそ、ドアを開けて帰っていった。
「はぁ……疲れた」
帰り道、明はひどく疲れた表情でとぼとぼと歩いていた。そこに先ほどまでの楽しげな表情は見受けられない。
「ったく、ずいぶんと馴れ馴れしかったな、俺」
それもそのはず。明は今日一日の己を思い返し、自己嫌悪していたのだ。
まったくいつも通りじゃない。普段の自分はあんなに明るくない。だからと言って元の性格はどんなものか、と言われると言葉に詰まってしまうのだが。
「……まあ、明日からもあの調子が続くんだろうな」
自分がボケたり、冗談を言ったり。キリエがやたらと肉体行動に訴える突っ込みを入れたり。
「……あ、三上たちはどう対応するんだろ」
出方次第では何か考えないといけないかもな、と明は一人ごちる。
そんな事をつらつらと考えて――そこで頬の筋肉が心持ち吊り上がっている事に気付く。
どうやら自分はあの環境を、それなりに楽しんでいるらしい。世界の裏側というか、凄惨な世界を知ってしまった後だというのに。
「……明日の事は明日考えればいいか」
知ってしまった鬼の事や、これからも必然的にしばらくキリエと一緒にいる事で起こるであろう問題など、考えるべき事は山ほどあるのだが、その全てを明は放棄した。
今だけは、あの空間の余韻に浸っていたかった。
今のところはまだ日常パートです。もう少し、おそらく七話あたりからシリアス入ると思います。