五章 第八話
二人はやる気を見せ、頑張ろうとしている。しかし思い出してほしい。明は作戦があると言った事を。
ぶっちゃけた話、二人とも何も思いつかなかっただけなのだ。
口元まで進んだ明は吹き飛ばされ、そこで何も思いつかなくなってしまった。口の中に腕を突っ込んでの内部破壊が一番可能性の高い方法だったのだが、呼吸で吹き飛ばされるようでは実行どころの話ではない。
「……キリエ、なんか良いアイデアない?」
「あんたの力であたしの力を強化して、あいつをいなかった事にする……、っていうのを考えたんだけど無理みたい」
「どうして? 悪くない考えだと思うけど……」
「あいつはこの世界の人間じゃない。この世界から消しても、あいつ自体を殺す事には繋がらない。やるとしたら……あたしたちがやってきたみたいにちゃんと殺さないとダメ」
キリエの能力は切り札であったため、明としても苦い顔をしてしまう。
「……とにかく、もう少しぶつかって情報を集めよう。当てもないまま能力を使ってジリ貧だけはゴメンだ」
「そうね。今はそれが一番現実的。特にあたしたちの能力は使い勝手が悪いからね」
能力自体は非常に強力なのだが、使いどころが難しいのだ。やるとしたら一撃必殺を狙うつもりでいかないとあっという間に体力を使い果たしてしまう。
「そうだな……。キリエはまだ余裕がある方だけど、俺は一回ミスったら後がないからな……っと!」
明は勢いをつけて立ち上がった。立ち上がった際、明の足に鈍い痛みが走る。どうやら、完治したのは表面だけのようだ。
「チッ……」
いつも通りに動かそうとすると、どうしても足の痛みが気になってしまう。先ほどまでの動きが望めなければ、鬼の攻撃を避け切れない可能性が出てくる。
「……やっぱ、あのスピードでの回復じゃ完治はできないのね。……いいわ。少し休んでなさい」
キリエの提案に明は目を丸くした。時間稼ぎが行えるのは自分しかいないと分かっていたからだ。
「バカ言うな!? どっちがあいつとの相性が良いかくらい、お前だって分かるだろ!? いや、お前なら俺より良く分かってるはずだ!」
明の言っている事はもっともだった。すでに明の身体能力はキリエを遥かに超えており、人類の最高点に位置するといっても過言ではない。
その明でさえ、近づく事に手こずる相手。キリエが一人で立ち向かったところで、結果は見えていた。
「ええ、分かってる。……それでもよ。あんたは下がって体力の回復に専念しなさい」
「やめろ! 無駄死にするぞ!」
生まれたての小鹿のように足を震わせながら明が立ち上がろうとする。キリエはそれをそっと腕で押さえ、明を地面に座らせる。
「無駄じゃないわよ。それに死ぬつもりもないし。……あんたと同じよ。アキラ」
キリエは今まで見た事のないほど綺麗な笑顔を浮かべ、明の額に人差し指を当てた。
――あんたに助けられた恩、ここで返すわ。
「ずっと前、あたしたちが始めて一緒に戦った時もあんたはそう言って死地に向かったわ……。だから、今度はあたしの番」
「あの時と今じゃ全然違う! 勝ち目のあるなしなんて問題じゃない。俺は……俺は……!」
違うと強く否定したかった。だが、図らずも状況はあの時と酷似していた。
片方は傷を負い、脅威は未だ去らず。そして残された片方は時間を稼ぐと言って死地に赴こうとしている。
「……アキラは? どうしたの?」
言いたい事がまとまらず、顔をうつむかせる明の頭上に響く柔らかな声。
顔を上げるとそこには慈母のごとき笑顔を浮かべたキリエがいた。その笑顔の意味が明には分からず、形容しがたい感情に襲われる。そしてその感情に突き動かされるままに口を開く。
「俺は――」
――お前に傷ついてほしくないんだ。
「……うん、そうなんだ」
キリエは明の言葉に心から嬉しそうな笑顔をし、背中を向けた。
「でも、アキラの頼みでもそれは聞いてあげられない。今のあんたが動けなくて、あたしが動けるのは変わらない事実なんだから」
「少しの間隠れていれば傷は治る! そうすれば二人で戦う事だって……!」
キリエの固い決意を半ば感じ取りながらも、明は駄々をこねる少年のように何かを言い募ろうとする。
「ダメなのよ、それじゃ。それじゃあたしの心が納得しない。もちろん、あたしの理性はあんたの言い分にもうなずいてるわよ? だけどね、この戦いに関してはそういう事じゃないの」
「違うだろ! 俺たちが勝たなきゃ何もかもおしまいなんだぞ! それにあいつは感情任せで勝てるやつじゃない!」
「それ、アキラが言うんだ?」
先ほどキレかけた手前、そう言われてしまうと何も言い返せない。
「アキラの気持ちは嬉しい。ひょっとしたら泣いちゃうかもしれないくらい。……だから行くのよ。あたしは――鬼を喰らう者だから」
キリエの決意に明は何も言えなくなってしまう。そこまで固い決意を邪魔されるのはかえって腹が立つ事である事を明は知っていた。
「……バカだよ、お前」
「うん、知ってる。でなきゃあんたに生きてほしいなんて思わないわよ」
明はキリエの言葉に言い知れない歓喜が胸の奥から込み上げるのを理解しながらも、同時にキリエの変わらぬ決意に怒りを抱いていた。
「ホント、大バカだ……! 約束しろ。無傷で戻ってこい! それができなきゃ、俺が前に出て自爆だろうと何だろうとしてあいつを倒す! いいな!」
「……あははっ、十七歳にもなって指きりげんまん? ……ええ、それであんたの気が済むならやってあげるわよ」
キリエの細い指と明の鋭い爪が生えた小指が絡まり合い、何度か上下に揺さぶられる。
「……行ってくるわね」
「なるべく早く頼む。治り過ぎて暇になるかもしれない」
「言ってなさいっての」
明の発破にキリエは苦笑いを残し、その場から消えた。
(さて、あいつは強がってたけど、あの怪我はどう考えてもすぐに治るもんじゃないわね)
あれだけの高さから落ちたのだ。両足は粉砕骨折で済むほど軽い怪我ではないだろう。いかに明が異常な再生力を持っていると言っても完治には時間がかかるはず。
当然、話している最中だってすさまじい痛みが明を襲っていたはずだ。明はそれを表に出さなかったが、それが彼の意志によるものか、すでに痛みすら感じられないほど鬼になっているのか、キリエには分からなかった。
「信じてるからね。アキラ……」
キリエは明への絶対の信頼を込めた言葉をつぶやき、さらにスピードを速めた。
鬼の方へ近づくにつれ、顔を上に向けねばならず、足元の付近まで近づくと限界まで首を上に向けても全容が把握できないほどの巨体だ。
(アキラじゃないけど、この壁をどう崩す? 足元から切りつけたところで、あたしに足を切断する技量はない。能力を使えば不可能じゃないかもしれないけど、ジリ貧になる可能性が高い。……本当、八方塞がりね)
キリエは状況を打破すべく思考を巡らせるが、打つ手がほとんど見つからない事が分かっただけの結果となり、自嘲で唇をゆがめる。
「まあ、それでも……あいつは向かっていったのよね」
勝てないと分かっている相手に。鬼や鬼喰らいについてほんの少し知っている程度のただの高校生が。鬼の体を得たからと言って、恩は返さないといけないと言って、明は立ち向かった。
初めて鬼と相対したのだ。怖くなかったわけがない。キリエだって初めての実地では怖くて怖くてたまらなかった。一緒にいた奈美音がいなければパニックを起こしていただろう。
明はキリエが最初に相対した奴とは比べ物にならないほどの鬼と戦った。その恐怖は推し量れるものではない。
「だったら……あたしがやらないでどうするってのよ!」
ならば、四年以上鬼と戦っているキリエはこの程度の相手、軽々と倒さねばならない。まだ鬼喰らいの世界に一ヶ月ほどしかいない奴に、何もかも持っていかれるのは彼女の鬼喰らいとしてのプライドが許さなかった。
キリエは大きく刀を振りかぶり、まずは足の甲に叩き付ける。
石でも斬ろうというような重い感触と衝撃が腕に伝わり、キリエは刀から手を離しそうになるが、気合を込め直して刀をより強く握る。
すると、ほんのわずかではあるが肉を切り裂く感触が腕に伝わる。そこからは簡単に骨まで刃を届かせる事ができた。
(皮膚を越えれば中は柔らかい!? ……ならば!)
『ぐおおぁぁっ!? 小癪な小娘がぁ!』
追撃の刀を振り上げようとしたキリエを、鬼が右足を振り上げる事によって蹴り飛ばそうとする。
「危ない!」
キリエはしっかりと出を見極めていたため、紙一重でそれを避ける。風圧だけで体が地面から離れそうになるが、刀を地面に突き刺して何とか堪える。
「これはおまけ……よっ!」
地面に顎が付くほど体を低くし、キリエは振り上げられていない左足を切りつけた。赤い鮮血がキリエの刀を伝い、腕に流れる。
(良く斬れる! カグラ、ありがとう!)
以前までの量産していた刀ではこうはいかないはずだ。むしろ最初の攻撃で折れていたはず。相変わらず使っている刀は量産物ではあるが、神楽の施した霊的加工が功を奏している。
『小娘が調子に乗るな!』
足元でちょこちょこと動くキリエに業を煮やしたのだろう。鬼が振り上げた右足を振り子のように戻す。ただし、その軌道はキリエにぶつかるようになっていた。
「甘いっ!」
キリエはそれを左足の陰に隠れる事によってやり過ごす。同時に巻き起こる風は左足のかかとに刀を突き刺して耐えた。
「あたしはねえ――あのバカより強くなきゃならないのよ! 絶対に!」
キリエと明の間にある約束。それは明が強くなったらキリエが明を喰らうという内容のものだ。
ところで、この明が強くなるというのはどれほどなのだろう?
明は今でも十二分に強くなっている。特に力の使い方を知ってからの成長は著しい。力のピークに達している今は神楽を遥かに超え、キリエですらやり方次第では容易く倒せるほどに成長した。
彼の力がもうピークである事は疑いようがない。しかし、キリエは明を喰おうとしない。では、彼女の言う強くなったというのはどのくらいなのだろうか?
答えは簡単。自分より強くなったら、である。
故にキリエは強くなり続ける必要があった。明を喰う己を見たくないから。人を喰ってまで強くなりたくないから。そして――
――この世で一番大切な人を殺すなんて真似、できるわけがないから。
「あたしはっ、誰よりも強くあり続けるのよ! あのバカを喰わないためにもね!」
刀を振り上げるキリエの脳裏に浮かぶのは明の様々な姿だ。
自分との鍛錬でボロボロにやられる明。しかし、実戦では自分以上に活躍して見せ、同時に行った事への苦悩をする人間らしい明。平時では何かと突拍子もない行動を取る神楽たちに手を焼かされ、苦笑ばかり浮かべていた明。でも、満更でもなさそうな優しい笑みにも見えた。
キリエはそんな明にいつの間にか惹かれていた。最初は宣言通り、明が強くなってキリエに喰われるまで一緒にいる、それだけの関係だった。
しかし、そんな自分を明は家族として迎え入れ、キリエのピンチには必ず駆けつけた。そしていつだってボロボロになりながらも掴んだ手は離さなかった。
ちょっと他より力のある人間が、ただ己の強い意志だけを持ってここまで駆け抜けた。そんな極上の男に自分は何をしてやれる?
「そんなあいつに応えるためにも! あんたぐらいの壁、あたしは越えないとダメなのよ!」
その答えをここで見つけたキリエの瞳に、逡巡は一切なかった。
自らの体に付着した血が、妖しく蠢いている事に気付かずに。