五章 第六話
明は目の前にある巨大な鉛色の腕に対して渾身の力で爪を振るう。
しかし、その攻撃は腕を覆う皮膚によって呆気なく弾かれてしまう。
「なっ!?」
爪を鋭くし、鉄骨だろうと切り裂ける威力にまで上げた攻撃だ。明はこの攻撃ならどんな奴でもダメージを与える事くらいはできると思っていた。
それがまったくの無傷で防がれてしまったのだ。驚きもする。
ただ、向こうに痛みを与える事はできたらしく、腕が痛みにもがいて周囲を薙ぎ払う。
「きゃっ!? アキラ! そいつ迂闊に攻撃しない方が良いわよ! 攻撃範囲が広過ぎるから、あたしたちのリスクの方が高くなるわ!」
キリエはそれを難なくかわす事に成功するのだが、逃げ遅れていた村人が何人か吹き飛ばされていた。おそらく、あの大質量の攻撃を受けて無事ではいられないだろう。
「じゃあどうすればいいんだよ!? あいつ、俺の攻撃がほとんど効いてないぞ!」
明も攻撃を避けながら、キリエに怒鳴るように聞き返す。村人の悲鳴が重なっているため、かなりの大声じゃないと聞こえないのだ。
「落ち着きなさい! バカの一つ覚えで突撃かければ勝てる相手じゃない事は分かったでしょ! 作戦立てるわよ!」
キリエの言葉も一理あったので、明は大人しく腕の攻撃範囲から離れてキリエの前に立つ。
キリエは明が到着するわずかな間、村人の避難作業を嫌そうな顔をしながら手伝っていた。
沙弥を死なせた事に対し、キリエも怒りはあった。だが、それはここで奴らを見殺しにする事と同義にはならない。彼らには後にしかるべき罰を与えるべきだ。
「……んで、どうする? 今のところあれはまだ腕だけだけど、あの様子だと遠からず全身が出てくるぞ」
「それはそれで怖いもの見たさがあるけど……。とにかく、あれを攻撃した感想を聞かせて。今は少しでも情報が欲しい」
キリエが平坦な声を出し、明に指示をする。明はキリエが予想以上に冷静な事に驚き、同時に自分がいかに頭に血を昇らせていたかを理解して反省を心の中で行う。
「……俺の全体重を乗せた一撃が弾かれた。皮膚が硬過ぎてまともに打撃ではダメージは与えられそうにない」
「じゃあ、斬撃なら?」
「よほどの達人じゃないと難しいだろうな。普通に切りつけたんじゃ絶対に弾かれる」
それこそ斬鉄でもできない限り難しいだろう。おまけに相手は動くのだ。動き回る相手にそれを行うのは非常に難しい。
「数撃ちゃ当たるがあたしの心情なんだけど……。あんたの能力とあたしの能力を組み合わせて何とかできないかな?」
「……分からない。ただ、一撃ぐらいは入れられるだろうな。ちょっと消耗が激しいからリスクも高いけど」
明の鬼喰らいとしての能力は二回だけしか使えない。キリエの能力だって三回が限界だ。
「……でも、勝たなきゃいけない勝負よ。負ける気はないわ」
「こっちだってそうだ。……これしかないんだからな」
明にとって残された最後の目的だ。これが終わったその時こそ、明はキリエに喰われるつもりでいた。彼がまだ自分を保っていられたなら、の話だが。
「そうよ。あたしたちは鬼喰らいの人やカグラ、師匠の意志を持ってここまで来たのよ。……ずっと続いていた鬼と鬼喰らいの戦いにあたしたちが終止符を打てる。これってすごい名誉な事じゃない?」
「さあね。俺はその辺知らないからな。これがすごい事だ、なんて言われても分からん。ただ……」
言葉を切り、明は自分の握り拳に視線を落とす。
「俺は――もう何も背負ってない」
「……続けなさいよ。まだ時間に余裕もありそうだし、それに一度言い始めたら止まらないでしょ?」
キリエの気遣いに明はうなずき、再び口を開いた。
「学校の連中を……友達を、先生を、何もかも失くしてきた。死に逝く者の遺志を継いだ、なんて事もない。みんな何かを言う前に死んでいった」
明の頭の中に浮かぶのはもう会えない人たち。以前は彼らを守ろうと意気込んでいた部分も確かに存在した。
だが、そんな存在は残らず消えてしまい、明の中には空虚な穴だけが残ってしまった。
「背負うべきものなんて残ってない。意志も遺志も、何もない。ましてやお前みたいに鬼と何年も戦ったわけじゃないからキリエの言ってるような使命感もない」
明の脳裏ではあるフレーズが浮かんでいた。よく戦闘物の漫画やアニメなどで言われる事である。
いわく、背負うもののある人間の拳は重いらしい。
その背負うものを明は全て失くした。ならば彼らの言い分では明の拳に重さがない事になる。
「――キリエ」
「なに?」
「俺の拳は重いか? なにも背負ってない。目的だけがそこに存在する俺の拳は……重いか?」
「重いわ」
キリエは考える様子すら見せずに即答する。明はキリエの返答の早さに目を見開く。
「……なに驚いた顔してんのよ。そりゃ確かにあんたは何もないかもしれないけど、懸けてるものがあるじゃない。とても大きなものを」
明には分からなかったようで、眉が小さくひそめられる。キリエは指を立て、それを言った。
「あんた、自分の全部を懸けてるでしょ?」
「当たり前だ。これが最後の戦いなのに、出し惜しみする理由がどこにある?」
キリエの断言に明はそれこそ当然だと言わんばかりにうなずく。
「それよ。あんたの言いたい事は何となく分かるけど、普通どんな状況でもためらわずに自分を捨てられる人間なんてそうそういないわ。まして守るべきものがあるならなおさら、ね」
というより、ためらわずに自分を捨てられる人間など自殺志願者ぐらいのものだろう。それだってわずかな逡巡くらいはあるはずだ。その部分を完璧に捨てられる明は人として異端の部類に入る。
「でも……ここではあんたの方が正しいと思うわ。他人の意志を背負って自分はたかが命しか懸けない連中よりも、あんたみたいに存在全てを懸けて戦う姿の方があたしは好き」
彼らは戦う理由を他人に預けているだけだ。自分の足で立ち上がり、自分で考えた結果として明はここにいる。そして明は拳に己の存在全てを乗せていた。
「自分の命と他人の意志だけを懸ける奴と自分の存在――それこそ命だけじゃなくて記憶とか、人としての尊厳とか、何もかも投げ出すあんたの拳、比べる方がおこがましいわよ」
明には誰もない。何もない。だが、その代わりに自分の全てを懸けている。そんな明の拳が重くないのなら、本当に重い拳は一体何を懸ければよいのだろう。
「……下らない事を聞いた。ちょっとした気の迷いだ。忘れてくれ」
「忘れないわよ。あんたが弱音を吐くなんて滅多にないしね。……ってこれは前にも言ったかしら?」
弱音を吐いた自覚のある明は顔をしかめてしまう。確かに拳に込められた意志の有無を問うなど、無意味も良いところだった。
肝心な事は二つしかなかった。今、目の前の敵を倒せるのは二人だけで、それを成すか成さないかに明の言ったような哲学的な禅問答に意味はないという事だ。
「そうかもしれないな。……背負ってるものがどうとか関係ないんだ。目の前のあいつを倒す。それができなきゃどんな崇高な意志を背負っていようとただの犬死だし、できればそこにどんな下劣な考えがあったとしても、それは称えられるべき事だ」
明は現実を追求した事を言い、現実主義者であるキリエもそれにうなずく。要するに勝てば官軍なのだ。
「……それじゃ、行く?」
キリエは広がる穴から出てくる巨大な体を見上げながら、刀を構えた。
「もちろんだ」
明も爪を伸ばして剃刀のように鋭くし、キリエの隣に立った。
そこでようやく腕しか見えなかった敵の全貌が月の光のもとにさらされる事となった。
まず目につくのはその巨体。森の木々では体の腰ほどまでしか足りない。
その大きさに挑むキリエと明はさながら蟻のようなものだ。
皮膚は今まで出会った鬼と同じく鉛色。だが、その強度がケタはずれである事は明が身をもって知っている。
そして明たちからは見上げなければ分からないが、大きな角が生えていた。日が出ていれば陰で分かったのだろうが、さすがに月の光だけでは判断しづらかった。
平たく言ってしまえば――明たちが思い浮かべる鬼の巨大版のようなものだ。
「でかっ……」
だが、その大きさは明たちが戦慄するにふさわしいものであり、特にキリエは鬼は体が大きいほど強いという事を経験則で知っているため、身震いが起こるほどだった。
「おおっ、神様……」
この期に及んで逃げていなかったごくわずかな村人がその姿をあがめようと跪いて祈りを始める。
明はその姿を引き裂いてやりたい衝動に駆られるが、その行動は実行に移される事はなかった。
「えっ……」
祈り始めた村人はもちろん、明たちも何が起こったのか一瞬では分からなかった。
その巨大な鬼が祈っている人々を無造作に掴んで、口に放り投げたのだ。
「……鬼喰らいは鬼を喰らい、鬼は人を喰らう。当たり前の習性よ。……そしてあいつはこの世界に来たばかり。要するにとっても腹ペコってわけ」
「……シャレにならないって事か?」
鬼についてほとんど知らない明でも分かる事だった。腹を空かせている動物というのは基本的に凶暴化するという実に単純な習性。
しかし、この空間では最悪の展開だった。ただでさえ大きくて硬い鬼の親玉(らしい。ほぼ確信は持っているが、確証がない)が凶暴になっているのだ。不利どころの話ではない。
『……矮小なる者よ』
「しゃべった!?」
「落ち着け。前見た事がある。……あんた、何者だ?」
鬼が話した事に話には聞いていても実際に見た事のないキリエが驚きを露わにし、一度見た事のある明は冷静に対応した。とはいえ、すでに目が赤く明滅しているため、必死に激情を抑え込んでいる事が容易く理解できる。
『ほう……お前は珍しい。我の因子と……そちらの言葉で言うところの鬼喰らいの因子が同居しているな』
低く、腹の底まで震えが走るような声だ。明は威圧感に気圧されそうになる自分を自覚しながらも必死に頭を巡らせ、口を動かす。
「ご明察。……質問に答えろ」
知りたい事は山のようにあるのだ。全てとはいかなくても、ある程度は知っておきたい。それは考える生命である人として当然の事であり、今まで鬼の性質が分からないせいで三上たちは死んだのだ。明にとってこれは知らなければならない事であった。
『それにしても……ああ、見覚えがあるな。お前、これより先の時間から訪れたのか』
「……どうしてそれが分かる。いや、待てよ……!」
宿敵を目の前にした明は今までにない冷静な思考で敵の一言一言からヒントを見出そうとする。そして明は一つの答えにたどり着いた。
「お前まさか……、俺を知っているのか!?」
『知っているともさ。今よりしばしの後、お前とは出会っている。ほんの一瞬だけではあるが』
その言葉を聞いて明は確信した。目の前の存在は未来にも存在し、ここにもこうして存在する。
そして――その意識はまったく同じである事を。