五章 第五話
背筋が粟立つような感覚に襲われながら、明たちは沙弥の頭上にできた力場から目をそらせずにいた。
村の人たちはその異様な光景にも驚く事なく、むしろより一層熱心に祈りを捧げ始めていた。
「この状況、明らかにおかしいだろ……! 何で誰も気に留めない!?」
「神様を呼ぶなんて大がかりな事なのよ。異常でないのが異常だと思われてんじゃないの!?」
明とキリエは引かない寒気をごまかすように小声で話し合う。一応、大声を上げて祭りを台無しにしようとかは思っていないようだ。
「だけど、これ……あんまり良い気配じゃないぞ」
「そうよね……。それにこの気配、どこかで感じた覚えが……」
明とキリエはこの状況を落ち着いて見られるほど達観はしていなかった。それに正直、気配が今まで感じた事のある類の物だったのだ。
確かに強大な力はひしひしと感じる。しかし、その気配はどこか禍々しさを感じさせるもので、とてもではないが神様なんて高尚なものとは思えなかった。
二人が体を震わせてその力に少しでも慣れようとしていると、さらに驚く事が起きた。
一心不乱に祈りを捧げる沙弥。その沙弥におもむろに近づく一人の神官。
「……っ! アキラ、あれ!」
いち早く気付いたキリエが神官の方に向かって駆け出す。その手には刀が握られていた。
「キリエ!? 一体何を!?」
キリエの初動についていけなかった明はキリエの行動に目を見開き、腕を掴んで止めようとする。
「あれが見えないわけ!? ほら、あの男! サヤにナイフ突き立てようとしてる!」
「んなっ!?」
どうやら本当に気付いてなかったらしく、明はキリエの言った事に本気で驚いていた。
明は立ち位置の関係上、どうしても神官の手に持っているものが見えなかったのだ。こればかりは彼を責められない。
明もキリエを追いかけるように走り出す。しかし、どうにもスピードが出ない。
「まさか……まだ薬が効果発揮してるのか!?」
もうとっくに薬の効果は切れてるものだとばかり思っていた明は顔色を青くする。
「くっ……このっ! 放しなさいよ!」
キリエはどうやら村人に捕まっているらしく、身動きが取れない状態になっていた。刀を振り回せば簡単に抜け出せるような包囲だが、さすがに人相手に剣を振るいたくはないらしい。
「アキラ! 止められる!?」
「やってみせる!」
キリエの隣を駆け抜けた明が沙弥の近くまで迫る。そのスピードは鬼の力を使っている時とは雲泥の差で、平均的な高校生の速度と大差なかった。
(くそっ! 鬼の力が使えないだけでここまで役立たずになるとは……)
迂闊に薬を飲んでしまった事を後悔する明。しかし、神官の刃はもう振り上げられる寸前だった。
すでに走って届く距離ではなく、鬼の力を使って腕を伸ばさなければ不可能な状態になっていた。明はわずかな可能性にかけて腕を大きく振りかぶる。
「届け……っ! 沙弥――――――――――っ!!」
だが、その手は伸びなかった。
明の大声に今まで一心不乱に祈っていた沙弥が弾かれたように明の方を振り向く。その顔は蒼白で、死の恐怖におびえていた。
何で気付かなかったんだろう。彼女は今日、自分が死ぬ事を前から知っていたのだ。
「あ――」
それを表に出さないために、不自然なまでに笑って明たちに優しくしてくれた。
ガチン、と明の脳裏で拳銃の撃鉄が落ちるイメージが弾ける。心が自分への怒りと嫌悪。同時にこのような事を平然と行う村人への怒り、憎しみ、殺意。
それらの感情が明の頭を灼熱させ、思考などという不要なものが切り捨てられる。
理性を捨て、感情に身を任せてしまおうと明の目が赤く染まり始めた時、沙弥の口が開かれた。
――お祭り、楽しんでいただけましたか? ……もしそうなら、嬉しいです。
蒼白な顔で、それでも困ったような柔らかい笑みを作ってみせ、沙弥は唇を動かした。
「待てよ……」
明はもはや怒りすら通り越した真っ白な表情で沙弥に近づこうとする。
だが、その歩みは今までと違って何の気迫もない。ゆえに簡単に村人に取り押さえられ、地面に顔が叩きつけられてしまう。
それでも明は顔を上げ、沙弥の様子を見逃すまいとする。
「待てよ! お前、死にたくないんだろ!? だったら生きろよ! 生きたい奴が生き残ろうとあがくのは義務だ! くそっ! 離れろよお前ら!」
「アキラ何やって――まさか、まだ薬が効いてるの!?」
いともたやすく村人に取り押さえられた明をキリエは信じられないような顔で見ていたが、すぐに理由が思い当たり、顔を青ざめさせる。
「ああそうだよ! この……っ! 生きろ生きろ生きやがれ! 俺の知っている人がこれ以上死ぬ事は許さねえ! だから生きろ! 俺のために生きろ!」
支離滅裂な言葉を沙弥に向かって叫ぶ明。
「……ありがとうございます。私にそんな事を言ってくれて、本当に嬉しいです」
会って間もない自分に対してそこまで必死になって叫んでくれる明に沙弥は心からの笑みを向けた。
「だったら生きろ! 俺より早く死ぬなんてダメだ! 絶対に……生きろ!」
明は思い通りにならず、体内で一向に沈黙を保つ鬼の力を必死に揺り起こそうとする。使えば寿命が間違いなく縮む。残り一日持てば良い方の命が間違いなく残り五時間程度まで縮まる。
――だが、明にそのような事はどうでもよかった。
もう自分の命を惜しみなどしない。この命、この体を使って助けられる人がいるのなら喜んで差し出す。
明にはもはや目的しか存在しない。キリエの運命を狂わせ、自分を取り巻く世界を破壊した鬼の元凶を倒す。
とはいえその可能性があまりにも低い事ぐらい明も承知していた。
何せキリエの能力で目的の場所に行けるかどうかも定かではないし、仮に辿り着いたとしても明は時間制限付き、向こうは時間制限なし、おまけに地力でも明の方が圧倒的に劣る勝負になる事は目に見えていた。
これだけの悪条件で勝てる可能性を五割以上だと言える人は楽天的を通り越して、都合の悪い事実に目を向けないだけになるだろう。
明は理解していた。自分の生き残る可能性はゼロパーセント。そして目的を達せられる可能性は五パーセントあれば良い方であると。
その五パーセントを上げる努力は可能な限り行うのはもちろんだが、明は別に五パーセントの可能性が四パーセントになろうとどうでも良かった。
どちらにせよ、今までになく危険な橋を渡ろうとしているのだ。それに今さら一パーセント下がったところでガタガタ言うような精神状態ではない。
「だから……! 目覚めろ! 俺の力! 鬼の力! 何だっていい! あいつを助けられる力があるなら何だって――」
明の言葉は最後まで言われる事はなかった。
神官のナイフが沙弥の心臓目がけて突き立てられたからだ。
ゆっくりと崩れ落ちる沙弥の体。相当の苦痛があっただろう。明でさえ味わった事のない死の恐怖が全身を取り巻いているだろう。
それでも、彼女は笑っていた。最後の最後まで、明に対して優しい笑顔を向けていた。
その笑顔を見た明の頭で、今度こそ何かが千切れる音を聞く。
「ア――アアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッッッッ!!」
気でも触れたかのように滅茶苦茶に地面をかきむしる。爪がはがれ、血がその辺りを染めても一切気にしない。
事ここに至ってようやく鬼の力が活動を始め、明の傷が急速に治り始める。そのタイミングに明は殺意だけで人の意識を奪えるほどの怒りを己に向ける。
「クソッタレガアアアアアアアアアアァァァァァァ!!」
ざわざわと体内を鬼に浸食される感覚を味わいながら、明は留まるところを知らずに溜まっていく怒りを咆哮する事で逃がそうとする。
すでに姿は鬼に変わり切っており、皮膚の色は鋼色ではなく錆びた鉛色に近づいていた。
雰囲気も以前まではかろうじて残っていた人間らしさは欠片もなく、キリエがいつも倒していた鬼を連想させる気配だった。
「アキラ!? あんたまた怒りに体を乗っ取られ――」
「ウガアアアアアアアアアアアァァァァ――黙れぇっ!!」
際限なく怒りに囚われ、その感情のままに周囲へ爪を向けようとしたところ、明が絞り出すような声でそれを制止する。
「ウ、グッ……黙れ……、黙ってろぉっ!! まだ、俺は俺でなくっちゃいけないんだ!!」
明はしばらく自分の体を抱えてうずくまっていたが、少し経つと明の体は人間の姿に戻っていった。
「沙弥……」
表面上は完全な人間に戻った後も明はその場で石のように丸まって動かず、沙弥に向かって黙とうを捧げていた。
少し知り合っただけの少女。明と彼女との関係は第三者から見ればそれだけだろう。
しかし、明はもう誰にも死んでほしくないと願っていた。自分の手の届く限り、全ての人を助けたいと願っていた。
それに知り合って間もないとはいえ、あれだけ親切にされたのだ。大切な人、とまではいかないかもしれないが、死なせたくない人にカテゴライズされてもおかしくはないだろう。
(また、失った……っ! 手のひらにあったものが……こぼれ落ちた……っ!)
嫌な感覚だった。自分にもっと上手くできていれば、このような事にはならなかったのかもしれない。そんな後悔が胸の奥から沸き上がり、明の心を際限なく責め苛む。
「アキラ! 今は上見なさい! 何か来るわよ!」
「……っ!?」
キリエの声にのろのろと顔を上げる明。頭の上には沙弥の頭上で広がっていたはずの妙な力場が自分の目の前で広がっていた。
明はとっさに大きく距離を取り、キリエのすぐそばに向かう。
『ひっ!?』
先ほどまでの明の姿を見ていた村人が怯えたように後ずさる。明は沙弥を救わなかった彼らに対して多大な殺意を持っていたが、なんとか自制してみせる。
「………………失せろ! お前らの顔を見てると吐き気がする!」
拳を大きく振るい、キリエの近くにいた村人を薙ぎ払ってキリエの隣に立つ。
「キリエ、立てるか?」
「もちろんよ。ありがとう……ね……」
キリエは差し出された手を掴んで立ち上がろうとするが、その際に明の顔を見て硬直してしまう。
「どうした?」
「あんた……目が……」
震える指でキリエが明の目を指差す。明は訳が分からないと言わんばかりに首をかしげる。
「目が……赤くなってる……」
「ああ……。とうとう肉体面にも変化が表れ始めたのか」
キリエの震える声とは裏腹に、明は至って冷静にその事実を受け止めていた。
明の予想ではもっと早くに起こるはずだったのだ。鬼の浸食が精神面だけだなんてまずあり得ない。いずれ肉体の方にも変化を及ぼすだろうとは思っていた。
その最初の変化が目の変色。これだけで済んでいるのだから、まだ安い方だろう。
「安心しろ。まだ俺は残ってる。……それより、あれをどうにかするぞ」
明は先ほどまで烈火のごとく怒っていた者とは似ても似つかぬ静かな表情で前を見た。
「……分かってるわよ」
キリエは沙弥の事について聞こうと思ったが、明が傷ついていないわけがないという事に気付き、何も言わない事にした。彼は彼なりに苦しみ、あがいた結果としてここに立っているのだ。この時代に来る前から彼の決意は揺るぎがなかったし、それは今の変わらないだろう。
「……また、失った。………………だから、もうできる事はっ!」
明は再び鬼の姿になり、大きく爪を広げる。
「これだけだ……っ!」
前に進み続ける。それが明の持つ答えであり、最後の決意だ。
そんな明に対して何か声をかけようとするキリエだが、それより先に目の前の空間に変化が訪れる。
何やら指のようなものが空間から出て来て、そこから穴が広がって腕が出てくる。
「あれ、は……!」
明が慄いたようにそれを指差す。
――三上たちを殺した、あの謎の腕だったからだ。
「あれ、が……。あれがっ!!」
明たちの倒すべき、最後の敵。
「……アキラ。泣いても笑っても、途中であんたが倒れてもこれが最終決戦。……準備は良い?」
「……当たり前だ。とっくの昔に腹は決まってる!」
明とキリエはお互いを鼓舞し合い、そして短期決戦だと意気込んで鬼の腕に突撃をかけた。




