五章 第一話
「……ん?」
明はぼんやりを目を開け、周囲を見回す。
何やら体が浮いているような気がして、ついでに言うと天井は吸い込まれるように真っ青だった。
「……っ! そうだ、キリエは!?」
しばらくぼんやりとその天井を見上げていたのだが、頭が目覚めるにつれてキリエの存在が気にかかり始める。
体を起こそうと手足に力を込める明。しかし、明の体は起き上がらず逆に沈んでしまう。
「ぶぼっ!? ぷはっ! 水!?」
一度したたかに飲んでしまったが、海水特有の塩辛さは感じられなかった。そしてある程度の広さがある事から湖のようだ。
「ってそんな事はどうでもいい! キリエは!?」
現状の把握は充分に済んだため、明はキリエを探してその辺を探してみる。
湖のほとりにキリエの体が横たわっているのが見つかり、明は急いでそちらに泳いで近づいた。
(一体どうなってんだ? ここが鬼のいる空間? もっと禍々しいのを想像してたんだけどな……。それに気絶してた時間は結構あるはずだけど、襲われた様子もない。……本当にどうなってんだ?)
近づく間に明は今置かれている状況の不可解さについて思考を巡らせる。だが、本当のところを知っているのは能力を発動したキリエだけだろうし、それにくっついて来ただけの明には分からない事だった。
「おいキリエ! おいっ!」
キリエのそばまで近寄った明はその体を乱暴に揺さぶり、起こそうとする。胸が緩やかに上下している事から呼吸はしているようだし、心臓も動いている。
「……んぅ、もうちょっと……あと三年……」
「三年寝太郎か! いいから起きろ! 鬼に喰われるぞ!」
「えっ!? 鬼!?」
明が言った鬼という単語に反応したキリエが飛び起きる。手元にあった刀を抜刀し、明の方に向かって全力で振るう。
「うおっ!?」
しゃがむ事でそれを避け、明は訳が分からずキリエの手首を掴んだ。
「一体どうした!? 俺だ、明だ!」
「アキラ!? ……ゴメン。ちょっと寝起きで気が動転してた。今のあんた、以前とは比べ物にならないくらい鬼の気配が強いのよ」
「……そっか」
キリエの一言に明は自分の体が順調に鬼へとなりつつあるのだと確信する。
「でも、こっちに来る前よりか強くないわね。カグラの薬でも飲んだの?」
「いや、飲んでないはずだけど……」
キリエは不思議そうに首をかしげるが、これは明も分からなかった。確かに良く感じてみれば、今までよりも鬼の力が弱まっている……というより、鬼の力以外の何かが強まっている気がした。
「まあ、深く考えても分かりそうにないし、今はお互い生きてる事を喜ぼうじゃないの。作戦の第一段階は成功……したの?」
特に考え込まないキリエは今生きている事を喜ぶが、同時に自分が今どこにいるのかが理解できずに疑問符を浮かべる。
「……まさか、お前もここがどこか分からないのか?」
明はなるべく考えたくなかった可能性が真実である気がして、思わず頬を引きつらせてしまう。
「そうよ。あたしだってあんな力の使い方は初めてだったんだから仕方ないでしょう」
「そりゃ……そうだけど。でも、これって不味くないか?」
「まあ……手応えはあったから成功しているとは思うんだけど……」
能力の手応えってどんな感じなんだ、と明は疑問に思ったが、口には出さないでおく。
「……けど、鬼の気配だって感じないぞ。鬼の親玉がいる空間だとしたら、もっとうじゃうじゃといるんじゃないか?」
「うん……確かにあたしもあんた以外の鬼は感じられないわ。……もしかして」
キリエは額に冷や汗をかき、明はこめかみに手を当てる。
「別の場所に飛んだ……とか?」
「確証はないけどな。こんな場所に見覚えないし、そもそも親玉のいる空間だって俺たちが勝手に思い描いていただけだから、ひょっとしたらこんな風にのどかな場所って可能性すらある」
明は肩をすくめて言いながら、荷物を肩にかける。
「とにかく、移動しよう。いつまでもここにいたって仕方ないし、少しは周辺の調査も必要だ」
明の提案にキリエもうなずき、自分の荷物を手に取った。
「あ……」
立ち上がろうとするキリエだが、足に力が入らないらしく上手く立てない。
「どうしたんだ?」
「力を使い過ぎたみたい……、体が動かない」
全身がしびれているような倦怠感に包まれながらも、キリエはハッキリとした口調で明に状態を報告する。
明の脳裏には刀を振るわれて紙一重で避けた先ほどの記憶が蘇るが、キリエの様子を見たところ、あれはどうやら火事場の馬鹿力だったようだ。
「参ったな……。しょうがない、少しここで休んでいこう。動けるようになったらすぐ出発だな」
「分かった。……悪いわね。あんたの事を考えるならすぐにでも出発するべきなのに」
キリエは申し訳なさそうに謝るが、明はそんなキリエの様子に苦笑するだけだった。
「……何よ。ニヤニヤして」
「いや、なんでもないさ。……ただ、俺たちの目的は親玉を倒す事だからな。俺一人で行って負けても意味がない。そもそも、俺の力なしでお前は帰れるのか?」
ほぼ死地に向かうような今回の作戦である上、仮に成功したとしても両者がそろっていない限り、元の場所に帰る事は適わないのだ。
成功の報告がしたければ明とキリエ、両方とも生き延びる必要がある。
改めて考えると非常にシビアな成功条件に明は苦笑を深めてしまう。
「……そうね。謝る意味なんてないか」
明の言った事にキリエはふむふむとうなずき、その場に力を抜いて横たわる。
「食料、少しならあるぞ。食べるか?」
「食べた方が治りが早いからね。全部は出さなくていいけど、少し頂戴」
明はリュックサックを下ろし、中身を見る。念には念を入れて食料を防水加工の袋に入れておいたのが幸いし、ほとんど浸水もなく無事なままだった。
その中からチョコレートを取り出し、明は半分かじりながら残りの半分をキリエの口元に運んだ。
キリエは明の気遣いに甘える事にして、目の前のチョコレートにかじりついた。
「ん、美味しい。ミルクがあれば完璧なんだけど」
「水で我慢しろ。まあ、飲み物がないと口が甘ったるくなるのは否定しないが」
明は自分の体に自信があるのか、湖の生水をそのまま飲む。キリエにはもちろん水筒に入っている水を渡した。
「大丈夫なわけ? 生水は体に毒よ」
「俺の体だから大丈夫。生半可な寄生虫程度なら気にもならない」
もはや人間の領域など遥かに超越した明だ。病気にかかって死ぬようなヤワな体ではない。
「それでも、よ。あたしがあんたを心配するのに理由がいる?」
予想だにしなかったキリエの一言が明の心臓を大きく跳ねさせた。
努めて平静を装いながら、明は残りのチョコを咀嚼して胃に送る。
「……ん、美味しかったわ。ありがとね」
「はいはい。んじゃ、俺はちょっと辺りを見てくる。気をつけておけ……っ!?」
言葉を不自然な場所で切った明が急に立ち上がり、辺りを警戒し始める。キリエは起き上がる事はできないながらも、必死に周囲の気配を探ろうとした。
「……何かいるわけ?」
「確かに感じた。今のは明らかに人の気配だった」
ザクザクと草を踏みしめる二本の足音に、ドクドクと聞こえる心臓の音。どれも明の脳が人間という答えを出していた。
「……マズイな。こっちに向かって来てる」
「どうするわけ!? 先手必勝!?」
明の情報にキリエが慌てふためき、何やら物騒な事まで言い始める。
「落ち着け……。この際だ。情報収集ができたと思って前向きに行こう。会う人全てが敵ってわけでもないだろうし」
明も一瞬倒すか倒すまいかで悩んだのだが、それを表には出さずに情報を得る事を選択した。
「……ただ、お前は一応隠れとけ」
そのためには弱味になりかねないキリエが邪魔だった。明はキリエの体を抱え、その辺の草むらに放り込んで隠そうとする。
「え? あ、ちょ! どこ触ってんのよ!」
「わき腹抱えてるだけだ。ちっとは我慢しろ」
顔を赤くしたキリエが暴れようとするが、まだ力が入らないらしくふにゃふにゃと変な動きになっていた。
抱えた明も明でキリエの細い腰に思うところがなかったわけではなく、視線をキリエに合わせようとせずに背中を向ける。
「……こっちから声をかけるべきだよな」
向こうから見つけてもらっても良いのだが、こちらから話しかけて会話の主導権を握った方が良いはずだ、と明は自分なりに考えて行動に移す。
「すみません、そちらに人はいませんか?」
明は茂みの向こうに声をかけてみた。
「えっ? 誰かそっちにいるんですか?」
案の定、向こう側から声が返ってくる。声の柔らかさと高さから若い女性のようだった。
「ええ。少し道に迷ってしまって……。そちらに行ってもよろしいですか?」
「あ、はい。大丈夫です。……何かしませんよね?」
草むらの向こうから若干怯えた声が来る。
若い女性の声だと気付き、少し考えれば分かる事だった。明は己の浅慮を悔やみながらも、可能な限り信用されるような言動を心掛ける。
「えと……どうすれば信用してもらえるのか分かりませんが、こちらには何もするつもりはありません。旅をしていたのですが、その道中で迷ってしまって……。正直、今日誰にも会えなければ死んでいた事でしょう」
我ながら良く口が回るものだ、と明は心の中で感心しながらも口を止めない。
「そうだったんですか!? 今行きますから、待っててください!」
明の話した内容が相当切羽詰まったものであったからか、女性の声が慌てたものになる。ウソをついた明としては心苦しいものがあるのだが、気にしない事にした。結果としては問題ないどころか、最上の結果になったのかもしれないのだから。
「……二枚舌」
キリエがボソッとつぶやいた一言には明も深く賛同した。
「今日理解した自分の新たな一面だな。まさか土壇場であんなに口が回るとは思わなかった」
「そうね。あたしも初めて知ったわ。……ところで、どうするわけ?」
「んー? とりあえず適当に情報収集して、最低でもここが本当に親玉のいる場所なのか、くらいは知っておきたい。違ってても、現在地くらいは知りたいな」
「……まあ、妥当な感じね。悪いけど、あたしは動けないからあんたに任せるしかないわ。適当に怪我人の演技くらいはしてやるからあとは頑張りなさい」
キリエの言葉に苦笑したあたりで、近くの草むらがざわめく。どうやらすぐそばまでやって来たようだ。
「すみませんっ、お待たせしてしまってっ」
「いえ、すぐに危なくなるというわけではありませんから、安心してください」
女性の声が本当に近くで聞こえたため明も若干驚くが、その驚きを表に出す前に草むらがかき分けられ、女性の姿が露わになった。
やや小柄な体躯を麻でできた着物のような服で覆っていた。
(……ふむ)
そして思わず明がうなってしまうほどの美少女でもあった。全てが平均化された顔は誰が見ても普遍的に美しいと言われるのだが、彼女はまさにそれだった。
無論、だからと言って無機質な美しさではない。ややタレ目がちな優しい目元に、常に緩やかな笑みをたたえている薄桃色の唇。そして背中のあたりまで伸ばされた黒髪が何とも艶やかな印象を与える。
(どうにも、俺がこんな体になってから女性との縁が増えたな……)
しかも極上の美少女と、だ。女運だけを強くして、その他の運勢を最悪にしたらこうなるのではないかと明自身も勘繰ってしまうほどだ。
「あの……?」
明が女性を見て動きを止めてしまい、その姿を怪訝そうに眺めていた女性が恐る恐る話しかけてきた。
「っ! ああ、すみません。久しぶりに相方以外の人と会ったので、つい嬉しくて……。あ、自分は明と申します。お名前を聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」
成るべく丁寧な言葉遣いを心掛けながら、明はさりげなく名前を聞いてみる。
「あ、はい。言ってませんでしたね。私の名前は――」
「沙弥と申します。よろしくお願いしますね」