四章 第七話
皆の不安は最高潮だが、ゆえになおさら明に泣く事は許されなかった。
表には出さないものの、慕っていた教師の死に明は少なからず――ひょっとしたら両親を亡くした時以上にショックを受けていた。
(人は……こんなにも簡単に死ぬんだな)
分かり切っていた事だった。キリエや神楽だって鬼に頭をやられれば簡単に死ぬ。いや、それどころか鉛弾一発でも人は死ぬ。
ほとんどの傷をすぐ再生できる明が例外であり、人の死は例外なく訪れるものだ。
(でもさ……こんなのってねえよ……!)
目頭が熱くなってきたため、唇を思いっ切り噛み締めて口内に血を充満させながら、必死にそれを堪える。
目の前で恩師が死んだのは当然明も悲しい。むしろ自分だったらどれほど良かった事か。残り少ない命を誰かのために使って死ねる。最高じゃないか。
そんな思いも虚しく、彼女は死んだ。その現実が明の胸を重くする。
何よりも辛い事はもう一つあった。これは彼がほぼ鬼になっている事の証拠でもあった。
遺体となった楪が美味そうに見えてしまうのだ。
恩師を食料として見なしてしまう自分に激しい嫌悪を抱きながら、明は必死に遺体から目をそらす。幸い、周囲の者たちは明が悲しんでいるのだと思っているため、何か言われる事はなかった。
(早く戻ってきてくれ……キリエ、神楽……)
とにかく今は一秒でも早く安心したかった。自らの体が鬼となる恐怖に苛まれ、親しい者を襲ってしまうのではないかという不安に震えながら。
「そう……アヤメが……」
神楽より先に全身に鬼の返り血を浴びたキリエが戻ってきた。肩で息をしており、かなり辛そうではあるが五体満足だ。
明が事の次第を話すと、キリエは痛ましげに顔を俯けて目を閉じた。
「……遺体は?」
「……あっちにある。……俺が……俺がっ! 俺が……!」
説明している間にその瞬間の事を思い出したのか、明がまた己を責め始める。手のひらに爪を食い込ませ、皮膚を突き破り筋肉を引き裂き、骨まで達してもなお力を緩めない。
「……仕方ない事、で割り切れなんて言わないわ。でもね、これがあたしたちのいる現実なの。次はあたしたちがああなってもおかしくないのよ……!」
血の滴る明の拳をキリエが両手で優しく握り、ゆっくりと拳を開かせる。
「分かってるんだよ……。分かってるんだけど、やり切れないんだよ……」
ままならない現実に明はいやいやをするように首を振る。
「……今は鬼の気配を感じない。少し気を鎮めなさい。……って言ってできれば苦労はないか」
キリエは明に言い聞かせた内容があまりにも無茶である事に気付き、苦笑いをする。
そして明の体をキリエはゆっくりと抱きしめた。
「キリエ……?」
「大丈夫……大丈夫だから……」
キリエは明の背中を優しく叩きながら、言い聞かせるように大丈夫とつぶやく。根拠なんて特にない、でも誰かに言ってほしかった言葉だった。
「…………っく」
明に泣くつもりはなかった。だが、目から勝手に温い液体が流れてしまう。これはきっと血だ、と己の言い聞かせた明は絶対に泣き声を漏らすまいと、唇を強く噛み締めた。
「大丈夫……大丈夫……」
そんな明をキリエは抱きしめ続け、背中を叩き続けた。
「楪先生が……。こう言うのが正しいのか分かりませんが……、惜しい人を亡くしました……」
ほどなくして神楽も戻ってきたため、三人揃って楪の遺体に黙とうを捧げる。
しばしの静寂。周囲の人間もみな楪に黙とうをし、安らかに眠ってくれる事を祈った。
「……皆さん。絶対に一人にならないようにしてください。俺たちはもう移動せずにここにいます。トイレなどはキリエか俺に言ってください」
やや目の赤い明が指示を出し、三上たちもそれにうなずいた。先ほどの剣幕が指示を通りやすくするための働きをしているのは明らかだった。
「……草木、その……」
「……何だよ。言いたい事があるならハッキリ言えよ。……何言われたって、覚悟はできてるつもりだから」
三上の瞳に若干の怯えがある事を明は見抜いていた。それも仕方がないだろう。楪を殺した鬼を明があっさり殺して見せたのだ。それも素手で顎から縦に引き裂くという残忍極まりないやり方で。
「……悪い」
三上は何か言おうと口を開くが、結局何も言えずに目を背けてしまう。
「……気にすんな。お前の感覚が正常だから」
明はそんな三上に苦笑しながら立ち上がり、キリエの方に向かった。
「なあっ!」
すると三上が大声を出して明を呼び止めた。何事かと思って振り返ると、三上は何度も口を開け閉めしながらある言葉を絞り出した。
「ありがとうな! お前のおかげで命拾いした!」
「……なら良かったよ。拾った命、無駄にすんじゃねえぞ」
三上が言った一言は明の心をえぐるものだった。命拾いした、と言っても楪の命まですくい上げる事に成功したわけじゃない。
もちろん、人間が完璧など不可能である事は明も承知している。それでも、せめて楪と三上だけは絶対に守りたい存在なのだ。
(絶対にこいつだけは守る……。絶対に!)
心の傷は癒えないままだ。しかし、明を取り巻く状況は明の心の準備ができる事など待ってはくれない。
なら、どれだけ辛くても、逃げ出したくても、悲しくても前を見るしかない。
鋭い剣で刺されているように痛み続ける胸の奥を意図的に無視しながら、明は三上のそばを離れた。キリエと一緒に今後の方針を立てるためだ。
「……これからどうする? 状況は絶望的だぞ」
「そうね。……ったく、鬼の出現率が半端じゃないわ。いつどこに出てくるかまったく予測できないのがこんなにも厄介だなんて思いもしなかった」
キリエは下唇を強く噛みながら、鬼と鬼喰らいの戦いがいかに鬼に有利に傾いていたのかを痛感していた。今までは一体だけで難なく対処できたものの、数で押し寄せられるとこんなにも呆気なく形勢が逆転してしまうのだ。
「あたしは師匠に連絡取ってみるわ。あれだけの事言って出てきた手前、あまり頼りたくないのが本音だけど……、事態はあたしたちだけじゃ収拾できないところまで来てる。もうなりふり構ってられないわ」
キリエは携帯を取り出してボタンを操作し、耳を当てた。どうやら電波は今でも無事なようだ。
「……もしもし、師匠? ……うん、あたしたちはみんな無事。……え? どこにいるか? 学校。生き残ってるのは……あたしたち含めて三十人前後。他は見てない」
沈痛そうな表情でキリエが周囲を見回す。学校には大勢の生徒がいたはず。なのに、今いる生徒は明らかにその十分の一以下だった。
「……分かった。皆さん! これから救助がこちらに来る事になっています! 救急隊とかではなく、ちゃんとした訓練を受けたあたしの仲間です! もう安心です!」
キリエの言葉に教室内からホッとした空気が流れる。あと少し、あと少し我慢すれば生きて帰れるのだ。安心しない方がおかしいだろう。
明もこの報告には頬を緩め、みんなが助かる事を素直に祝福した。次の瞬間には助けられなかった楪の顔が浮かんでしまったが。
「……先生。あなたの死に打ちひしがれて他の人を助けないのはマズイですよね」
明は疑問の形をした断定を楪の遺体に投げかける。
『当然だろ。あたしが死んだからって他の人を助けちゃいけない理由になんてなりゃしねえ。ってか、そんな下らねえ事を理由にしたらあの世でぶっ飛ばすぞ?』
「え……?」
空耳と呼ぶにはハッキリし過ぎている声がどこかから聞こえ、明は思わず振り向いて辺りを見回してしまう。
「ハハ……。ホント、あの人はせっかちだよ」
もうあの世まで到着してしまったのか、と明は苦笑を隠せなかった。
(おそらく錯覚だろうがな……)
理性は現実的な答えを突き付けていた。しかし、明は別にそれでも構わなかった。ただ、今の言葉で少しだけ前に進む気力が湧いた。その事実さえあれば他はどうでも良かった。
(……先生、俺はきっとそう遠くないうちにそちらに向かいます。勝手に姿をダシに使ってしまった事やこれからする事は全部後で謝りますから……、今だけはあなたを軽視させてください)
大切にすべきは死者ではなく今を生きている者たちだ。明も頭では理解していた事であったが、今までは感情が楪の事を思うべきだとささやき続けていた。
だが、それも一時的ではあるが吹っ切る事に成功した。どうせあと三日足らずで尽きる命だ。楪にはあの世でゆっくり謝る事にしよう、と明は考える事にした。
「……よし! 今が踏ん張り時だ! 救助が来るまで頑張るぞ!」
気合の入った明の声にキリエと神楽は嬉しそうに笑い、力強くうなずいた。彼女らも明の身を心配していたのだ。
「オッケー! あたしとカグラは一緒にちょっと廊下の見張りしてくるわね。救援部隊が来た時に鬼の露払いを頼まれてるの」
キリエと神楽は廊下に出るが、あまり離れずに付近の見回りを行う。姿だけでも見せるようにしているあたり、一般人の不安を少しでも減らそうとしているのだろう。
明も集中して心臓の音どころか空気の流れる音まで捉えながら、危険な物がないかを捜索する。
その時だった。
「え……?」
特撮映画の怪獣のような大きさの腕が明たちのいた教室の窓から見えたのは。
「あ――」
明でさえ気付いただけで反応はできなかった。その腕は明たちが気付いた頃を見計らったかのように振り下ろされ、明たちのいた教室を粉々にしたからだ。
(みん、な――)
瓦礫にもみくちゃにされ、その都度急速に再生しながらの激痛に体が耐え切れず、明の意識は驚くほど簡単に闇へと沈んだ。
「――ラ! アキラ! しっかりしなさい! 生きてるのは分かってるのよ! 死んでたら生き返るまでぶっ叩くわよ!」
体が強烈に揺すられる事で明の意識はゆっくりと起き上がる。まるで寝起きを起こされたかのように気分が良いのだが、すぐに頭は現実を思い出す。
「……っ! キリエ!? みんなは!? みんなはどうなった!?」
明はすでに痛まない体を不気味に思う事すら忘れ、三上たちの安否を心配する。
「………………ゴメン。あの攻撃はあたしたちにも見えたけど、たぶん耐え切れたのはあんただけだと思う」
それにしたって明は鬼の腕の攻撃範囲からギリギリ逃れた教室の外側にいたからだ。もっと奥の方にいた彼らの状態は火を見るより明らかとなっているはずである。
「そんなの行ってみなくちゃ分かんねえだろ! 退いてくれ!」
それでも明はキリエを押し退けて瓦礫をどかし始める。掘り出されるものが肉片であったり、腕に赤くてぬるぬるした液体が付着しても、生き残りがいると信じて疑わずに明は手を動かし続けた。
そしてようやく、明の腕が瓦礫以外の何かを掴む。
「ほら! 生きてる人がい……」
た、とは続けられなかった。
確かに人はいた。それも明が失いたくないと思った三上だ。
この情報だけならば喜ぶべきなのだろう。だが、明には到底喜べるものではなかった。
下半身がなくなり、虚ろな瞳をした遺体となっていたからだ。
「ぐっ! ……ごぼっ!」
明は口元を押さえて必死に嘔吐しまいと堪えるが、親友の惨状に耐え切れなかった。
「アキラ! ……ひどい」
キリエは明の背中をさすり、神楽に視線で指示を出して三上の遺体を埋葬するように頼む。神楽も何も言わずにうなずき、黙々と言われた事をやり始める。
「どうしてだよ……、どうしてみんな死んでいくんだよ! 俺が何したって言うんだよ……」
一しきり胃の中身を吐き出した後、明は何もかもなくしてしまった者特有の虚ろな瞳で弱音を吐く。キリエは明の背中をさすり続けながら、内心で彼にこのような仕打ちをした神様を心から呪っていた。
(神様。あたしはあなたを信じた事もないし、祈った事も有りません。ですが……今だけは存在を信じ、こう言わせてもらいます)
キリエは空に向かって親指を下げる。
――地獄に堕ちろ。下衆が。
「……キリエ」
女性が言うのはいささか問題のある言葉を並べ立てた呪詛を、神様に対して内心で叫びまくっていたキリエは明の方を振り向く。
「……なに?」
「さっきのあれは、何だ?」
一切の感情が抜け落ちたように見えて、底の方には真っ暗な感情が煮えたぎっている声だった。明がこのような――最上相手にキレた時以上に昏い声を出した事にキリエは背筋を寒くしながらも、首を横に振る。
「……あたしには分からない。でも、一部始終を見てたけどあれは腕しか出現していなかった」
「腕だけ? ……鬼のいるであろう場所から腕だけを出して攻撃したって言うのか?」
「おそらくはね。鬼喰らいの定説では鬼はこの世とは違う空間に存在しており、そこから自由に来てるっていうのがあるくらいなの。……つまり、あたしたちからじゃ手出しができないのよ」
「そうでもないぞ」
キリエが痛ましげに顔を背け、明も手の打ちようがない現実に歯噛みしていたところ、後ろから女性の声が響いた。
「師匠!? どうしてここに!?」
やって来たのは相変わらず上下黒のスーツに身を包んだ奈美音だった。野太刀を背負い、油断なく辺りを警戒しながらキリエに話しかける。
「救援に私が来た。それだけの話だ。それより明くん。今回の状況はどうやら鬼の親玉が出しているようだ。先ほどの攻撃を見て確信できた」
「どういう事……ですか?」
明は訳が分からない状況に苛立ちながらも、奈美音の話を最後まで聞こうと先を促す。
「向こうはいい加減焦れてるのさ。思い通りにならない私たちにな。今回の大攻勢もそれが原因だ……と我々は考えている」
「推測じゃないですか……。結局、何を言いに来たんですか?」
「ふむ、単刀直入に言わせてもらおうか」
――キリエ、お前が鬼の親玉を倒してくるんだ。