四章 第二話
「アキラ? あんたどこ行くの?」
その日の授業が終わった時、明がそそくさと帰る支度をしているのに気付いたキリエが声をかける。
「ん、ちょっと寄り道しながら帰る。神楽とキリエには悪いけど、先帰っててくれ」
「ふーん……? まあ、監視する側から言わせてもらえばあまり褒められた事じゃないけど……別にいいわよそれぐらい。あんたなら逃げ出す事はないだろうし」
キリエの言葉は自分を信用しているのだと言い聞かせ、明はうなずいて教室から出た。
「あ、待ってください! お夕飯はいりますよね!?」
教室内で大声で神楽がそんな事を聞き、クラス内は静寂に包まれる。同時に明の足もピタリと止まる。
『おい、どういう事だ?』
クラス内に漂う空気がそう言っているのが明でも理解できる。男子の見る目には殺意が混じり、女子の見る目には軽蔑が混じっていた。端的に言って非常にマズイ。
「明さん?」
だが、この中の空気が読めなかった神楽が小首をかしげて追い打ちをかけてくる。明は自分が崖っぷちに片手だけで捕まっている自分を幻視しながら、かろうじてうなずく事で答えた。
「はいっ、待ってますね」
いつもなら絶対言わないそのセリフを満面の笑顔とともに言われ、明は崖から自分の手が離れたのを理解した。
(これからどうなるんだろう……)
(カグラ……天然なのかしら? 容赦ないわね……)
キリエと明は諦観の眼差しのみで語り合っていた。そしてキリエは明に憐憫の目も向けていた。助ける気は微塵もないようだ。
「草木……、ちょーっと話を聞かせてもらっても良いかなぁ……?」
「……じゃっ」
三上の目が血走っており、すさまじい気迫を発していたため、明は何も言わずに逃走を選択した。
「あ、待て! って恐ろしく速い!?」
鬼の力は使ってないものの、鬼の因子で自然と強化された明の身体能力は国体選手以上のものとなっていた。もっとも、本人はこれでタイムを計った事などないので特に気にも留めていないのだが。
廊下をすさまじい速度で駆け抜けながら、明はぼんやりとどこに寄り道をしていくべきか考える。
「草木! てめぇ、あたしの目が黒いうちに廊下を走るたぁ良い度胸だ! 歯ぁ食いしばれ!」
「げっ、先生まで!?」
どこに寄り道するかを考える前にまずは目の前の脅威を排除する方が大事になった。さすがに楪に捕まったら殴られるだけじゃ済まされないに違いない。
明と楪のスーパーマンも真っ青なデッドヒートは校舎全てを駆けずり回る大規模な物となった。
「ぜぇ、ぜぇ……何とか逃げ切れたか……」
明は学校から少し歩いたところにある公園で休憩をしていた。それにしても怖いのは楪だ。鬼の力を使っている明に追従できる身体能力とあの蛇のような執念深さには明も恐怖を感じたほどである。
「あの先生、ホントに人間かよ……?」
明も本気を出した自分の力が人間とかけ離れている自覚はある。もちろん、本気を出すという事は鬼になるという事で、寿命をガリガリと削る事に直結するからやらないが。
ともあれ、何とか楪を撒いた明はベンチに腰を下ろして息を整える。そして、
「出て来てくださいよ。そこの茂みに一人、木の上に二人、公園の出口付近に一人。いるのは分かってますから」
ベンチに背を預け、首だけを動かしてそう言い放った。
「…………驚いたな。まさか我々の居場所までピタリと当てるとは」
観念したのか、茂みから若い女性が歩み出てくる。タイトなスーツとズボンに身を包み、口元を引き結んだ凛々しい顔立ちをしており、硬質なイメージの漂う女性だった。
そして右手にはキリエの使う刀の倍以上の大きさがある野太刀が握られていた。
「俺と同じ空間にいて完全に気付かれないようにしたければ、心臓の音を止める事ですね」
明はそれらを全て見ながらも取り乱す事なく落ち着いて女性と目を合わせる。
「なるほど。報告通りだ。淡々としている、なんて言葉で済ませられるものではないな。君の目からは一切の色がない」
「でしょうね。安心してください。自覚はあります」
女性の方は淡々と、明はゾッとするほどの無表情で話し合う。第三者が見たら同じような顔に見えるのだろうが、当事者の間では決定的な違いがあった。
「ふむ……挑発に応じる様子もない、か……。単刀直入に言う――」
女性は何か納得したように何度もうなずき、おもむろに野太刀を取り出す。
そして、ちょっと窓を開けてくれとでも言うような気軽な声音でこう言った。
「――死んでくれ」
その言葉とともに女性が人間の領域を越えた速度で明に詰め寄り、野太刀を振り上げる。
「どうせそんな事だろうと思ったよ」
野太刀が振り下ろされ、ベンチが粉砕される。しかし、すでに明の姿はそこにはなく、明は悠然と距離を取ってその場にたたずんでいた。
「鬼にはならないのか? 自慢ではないが、ここにいる連中はそれなりに腕が立つぞ」
「鬼になる必要がないって判断されたのさ。悔しかったら実力で俺を鬼にさせてみるんだな」
もっとも、鬼になる気は毛頭ないが、と明は内心で付け加える。ただでさえこれ以上の鬼化は問答無用で草木明という人格が死ぬ危険性を秘めているのだ。こんなところでなるわけにはいかない。
とはいえ、今の明は人間の姿を保ったままでも腕を伸ばしたりする事くらいはできる。さすがに全身から針を生み出す事などはできないが、それだけでも十分な戦力だ。
「その通りだな。では、お言葉に甘えて……っ!」
女性が果敢に明の懐へ向かい、野太刀を縦横無尽に振るう。明はそれらを持ち前の反射神経と死への諦観からもたらされる異常なまでに冷静な思考で丁寧に避けていく。
時に大きく、時に紙一重に避けるだけ。一切の反撃が来ない事に女性が苛立ったように距離を取る。
「……なぜ私を攻撃しない? お前ほどの体術の使い手なら、いくらでも反撃の機会はあるはずだ」
「さぁ? 何ででしょう?」
明は小馬鹿にしたように笑うが、背中には冷たい汗をいくつもかいていた。確かに避ける分には簡単だが、そこから攻撃に移ろうとすると途端に難易度が上がるのだ。
実に淀みなく、次に繋がって滑らかに次の斬撃が来るため、明は常に太刀筋に全神経を集中させないといけないのだ。一瞬でも途切れたら明の体は真っ二つに斬り飛ばされるだろう。
(これだけの剣技……、技術面だけならキリエよりも遥かに上だ。体術も攻撃の隙を与えてくれない……)
「挑発か? 私にそんなチャチな手が通じるとでも?」
「違うね。これは挑発じゃない。攻撃の一手だ」
言うが否や明から飛びかかり、女性の懐まで一瞬で潜り込む。人間の反応速度では目で追う事すらできない速度だ。
「なっ!?」
しかし、懐に入った明はガラ空きの腹部を狙わず、襟首を掴んで体を持ち上げただけだった。
「そらよっと!」
そして女性を明が敵のいると断定した場所へ放り投げる。
「しまっ……盾か!」
「そういう事!」
空中に浮いて身動きの取れない女性の影に隠れ、明は一気に木のもとへ接近する。木を垂直に駆け上がり、上にいた男二人の鳩尾を強打して意識を飛ばす。
首筋を狙って打ち込む事で安らかに意識を落とす方法もあるのだが、あいにくと明はそんな曲芸じみた事はできなかった。
二人が倒れたのを確認してから、明は未だ空中に浮かんでいる女性を見つけて木から飛び降りる。
途中で幹を蹴って方向転換し、宙に浮かぶ女性の真下に入り込む。そして再び襟首を掴み、今度は地面に叩き付けた。
「かは……っ!」
肺から息を吐き出す音を聞きながら、次に公園の出口に向かう。だが、出口付近の人物は何やら札を前に集中しており、結界を張っている事が推測された。
(って事は……退魔師か! じゃあこいつは狙わない方が良さそうだな……)
この結界が壊れたら外界にどんな影響を及ぼすか想像もつかない。ついでに言えば、結界が壊れて衆目にさらされたところで彼女たちは逃げればそれで済む話だが、明の場合は社会的に死ねる。
人間として死ぬのは構わない、むしろ鬼として死ぬより大歓迎な明だが、社会的に殺されるのはさすがに嫌だった。人として大切な何かをなくしそうだから。
念のために場所だけを覚えた明はすぐさま女性のいた場所に戻る。しかし、女性の姿はそこにはなく、どこにも気配が感じられなかった。
「甘いんだよ……っと!」
だが、心臓の音が聞こえる時点でこの公園内の気配ぐらい簡単に読める明には意味のない事だった。明は腕を伸ばして女性のいる位置を正確に撃ち抜く。
「甘いのはお前だな。……燃えろ!」
女性も明の攻撃は予測していたらしく、野太刀を収めてこちらを強い目で睨んでいた。
「なっ!?」
すると、明の拳の先に炎が出現した。これには明も驚き、腕を咄嗟に引き戻す。その隙を逃すほど女性は甘くはなかった。
「食らえ! 風刃!」
今度は風が不自然に渦巻いたのを明の五感が感じ取る。これはマズイと直感で判断した明は腕が戻ってきた反動を利用して後ろに大きく跳躍した。
風刃という言葉にウソはないらしく、数瞬前まで明がいた場所に風が吹き荒れ、落ち葉などが微塵切りにされていた。
対処を一歩間違えば自分がああなっていた事に明は背筋が寒くなる思いをするが、少なくとも鬼になって殺されるわけじゃないからまだマシだ、と妙な安心の仕方をして気を落ち着けた。
同時に攻撃に使用した右腕が少し焦げ、風刃にもかすっていたため切り傷があったが、見る見るうちに消えていった。
今の明は人の理性を保ったまま、最も鬼に近づいている状態だ。この程度の傷を再生する事など造作もない。
「ふむ、これが鬼の再生力か。我々も鬼とは相対するが、君の再生力はそれとも一線を画しているみたいだな」
「まあ、否定はしない。だけど……そろそろ教えてくれないか? 俺がどうして襲われるのか。どうして狙われるのか。返答次第では俺も全力を出す必要がある」
もちろんウソだ。明とて好き好んで地雷原に足を突っ込む趣味はない。ただでさえ残り寿命は片手で数えられる程度なのだ。それをさらに減らすような自殺志願者ではない。
「そうだな……、だったら私を倒す、というのはどうだろう? やれるものならな」
明の疑問を女性は強気な笑みで受け流し、野太刀を再び抜刀する。それを見て、明はこれ以上の戦闘は避けられそうにないと戦う覚悟を決めて――
「師匠! 何やってるんですか!」
聞き慣れた声が、あり得ない言葉を発して硬直する事となった。
「キリ、エ……?」
「アキラ!? あんたどうしてここにいるの!?」
「いや、それはこっちが聞きたいんだが……。ん、師匠?」
明は急速に出揃いつつある情報に半ば混乱状態にあった。
必死に情報を整理しようとする明と何で明がここにいるのか分からないキリエが頭を抱える姿を、女性はさも楽しそうにくつくつと笑いながら見ていた。
「キリエ、良く分からない事だらけだけど、今やるべき事はハッキリしてると思うんだ」
「奇遇ね。あたしもそう思ったわ。とりあえず――」
明が拳を握り、キリエが腰に隠している拳銃を手に取る。
『こいつ殺そう』
「ま、待て。特にキリエ。お前師匠の顔を忘れたのか?」
無表情になって迫る二人に女性も危機感があおられたのか、一歩下がりながら弁明しようとする。
「やだなあ、忘れるわけないじゃないですか。……あの時散々ボコられた恨み、ここで晴らしてくれるわ!」
最初はにこやかに、しかし後の方はすさまじい形相で叫ぶキリエ。その気迫は向けられていないはずの明でさえビビらせるものだった。
「そういきり立つな。私はお前の頼みを受けてやってきたんだぞ。わざわざ極東の島国まで」
「師匠は日本人でしょ! でなきゃあたしの日本語はどこで覚えろってのよ!」
「まあまあ落ち着け……。いい加減話が進まない」
さすがにこのやり取りを続けるわけにもいかないと判断した明はキリエを羽交い絞めにして、女性の方に視線を向けた。
女性は明の視線を受けて佇まいを正し、力強い目を向けて言った。
「私はキリエの師匠であり、この度日本支部長を任された三原奈美音だ。よろしく頼むぞ?」