一章 第三話
「……で、遅刻の言い訳はあるか?」
明たちが学校に到着後、待ち構えていたのは笑っていない笑顔を顔に浮かべた楪だった。
初対面のキリエでも一歩たじろいでしまうほどの気迫を放っていた楪に、明は全力で逃走の姿勢に入った。そのまま姿をくらませて一週間ほど旅に出る予定まで立てた。
しかし、そこですかさず楪が持っていた出席日誌を投擲。一直線に明の後頭部に当たったそれはメキャッ、と人体の中で出してはいけない音を明から出させた。
そのまま気絶してしまった明を楪が素晴らしい笑顔で職員室まで引きずっていき、それにキリエも付いてきた次第である。
そして現在、ようやく意識を取り戻した明に楪が尋問をしているところだ。
明は全てを――それこそ自分の生存すら諦め切った表情でそこに立っている。例えるなら人生に疲れ果てた死刑囚。
「……こいつが電車一本乗り遅れたんです」
「電車を? そりゃあ仕方ないかもしれないけど、ここまで遅くなる理由にはちっとばかし足らんねえ。それじゃせいぜい一時間前後の遅れで済むはずだよ」
「う……」
ぐうの音も出ない正論だった。明は頭を必死に回転させ、何とかして上手い言い訳を探そうとする。
「……今なら、まだ素直に謝れば許してやらん事もない」
「すいませんでしたー!!」
明は悩む素振りすら見せずに土下座してみせた。誰だって命は惜しいのだ。特に一昨日失くすはずだった命とあればなおさらだ。
「お前の理由はあとでじっくり聞かせてもらうとして……。マルトリッツ、お前さん確か日本語大丈夫だよな?」
教師と生徒の正しいのか激しく疑問なやり取りに圧倒されていたキリエは、反応が遅れてしまう。
「え? あ、はい」
「うし、その様子なら話す分には問題ねえな。書くのは?」
楪は学級日誌に手早くキリエの名前を書き込み、そこに『語学能力問題なし』と書き入れる。
「そっちも問題ないです。現代文ぐらいなら」
「古文は……おいおい何とかしてもらうしかねえな。……ところで、一つ聞きたいんだが」
楪の目が楽しげな光を宿す。直感的にこれからの展開を予測した明はすぐさま身を起こし、キリエの手を引く。
「じゃあ俺たちはこれで! もう昼休みだからついでにこいつの学校案内やっときます!」
そして慌ただしく職員室から飛び出していった。残された楪は――
「ほほぅ……、割と他人行儀な草木がこいつと呼んで、さらには手をつなぐ仲か……。初々しいねえ」
広められたらはた迷惑極まりない勘違いをしていた。
明の方はキリエの手を掴んだまま、廊下を歩いていた。
「ちょっと……離しなさいよ!」
ある程度歩いたところで、業を煮やしたキリエに強引に振り払われてしまう。思いのほか力強かったため明が軽く体勢を崩すが、お互い特に気にもしなかった。明にも性急過ぎた自覚はあるのだ。
「で、どうしてあんな行動に出たわけ?」
「あー……」
明は頭をバリバリとかいてどうしたものかと思考を巡らせる。ハッキリ言ったところで信じてもらえるか疑問なところであるし、何よりこの予想が外れていたら自意識過剰も良いところだ。
「あのままじゃロクな事にならないと思ったから。根拠は俺の勘」
「……あんたの勘だけで走らされたあたしに対する釈明は?」
キリエの声はかなり低く、相当怒っている事が容易に推し測れた。
「悪かった。昼飯おごるから許してくれ」
怒らせたのは自分であるし、それにあのバケモノを倒せるような彼女を怒らせたら今度は自分が細切れにされると思った明は即座に謝った。
「飲み物も付けてくれたら考えるわ」
「へいへい、分かりました分かりました」
とはいえ、キリエも根に持つタイプではないのであっさりと明を許す。ちゃっかり飲み物までおごらせているのはさすがとしか言えない。明も言いだしっぺであるがゆえに断れず、苦笑しながら請け負っていた。
「昼休みは有限だし、案内するって言ったからサクサク行くから。というわけで購買でパン買ってくる」
そう言って明は駆け出し、廊下の曲がり角に消えていった。その姿をキリエは呆気に取られたように見て、
「変な奴……」
とつぶやいた。
キリエは明に対し、それほどの感情を抱いているわけではない。せいぜい名も知らぬ一般人以上、知り合い以下だ。
……明の観点では一応知り合い程度にはなっているのだが、こちらは毛ほどもそんな事を思っていないようだ。
そんなキリエの彼に対する評価はとにかく変わった奴。これに尽きる。
まだ知り合って数時間と経ってないのだが、キリエは確信に近いものを抱いていた。そしてそれはほぼ間違っていない。
彼は自分が常識人であると思っているが、得体の知れない技を見せてバケモノを退治してみせたキリエ相手に物怖じしないのは異常の域だ。
普通、人間というのは異端を恐れ、排斥する。その点では明もバケモノを日常を壊す存在として忌避しているので間違っていない。
しかし、同じく日常を壊す可能性のあるキリエに対しては普通に接している。あいつには恐怖心とかないのだろうか、などと邪推すらしてしまう始末だ。
それでも、悪い気はしなかった。
「……まあ、怖がられるよりかマシだけどさ」
キリエは誰にでもなく一人ごちた。
見慣れぬ生徒ばかりが行き交う廊下の真っただ中、唯一の見覚えのある姿が目に入った時に自分でも意図せずにホッとしてしまったのは秘密だ。どうやら異郷で柄にもなく緊張していたらしい。
「ほれ、買ってきたぞ」
そう言って明は袋の中身を見せる。そこには誰でもつまめそうなサンドイッチがいくつか入っていた。
「……サンドイッチだけ?」
「色々挟んであるから食えるかと思って」
予想外の返答にキリエは思わず明の顔をマジマジと見てしまう。大真面目だった。
「挟む内容がダメとか考えなかったの?」
「それも考えて複数買ったんだけど」
「全部キワモノばかりじゃない!」
いい加減堪え切れなくなったキリエの突っ込みが入る。突っ込むつもりはないのに、どうしても彼の奇行を見ていると突っ込んでしまう。
「時間が遅かったみたいでさ。人気あるやつはほとんど売り切れてたんだよ。悪いが我慢してくれ」
「……まあ、あんたに当たってもしょうがないか」
別に好き嫌いがこの中にあったわけでもないキリエは適当に腕を突っ込み、袋から一つトマトとツナという明らかにミスマッチしているのが分かるサンドイッチを取り出した。
「んじゃ、案内するからついて来てくれ」
明も袋から生クリームと生ハムというメーカー側の正気を疑うサンドイッチを取り出して口に入れた。
……味は二度と食べたくない食べ物ランキングで堂々の一位を飾れるほどだった。
「はい、学校内の地図な。ここ現在地」
明はそう言って、壁に描かれた地図を指差す。
五階建てで十年ほど前に改築されたため、比較的新しくて大きい。取り立てて騒ぐような場所はないが、どこもしっかりした作りをしていて地震が来ても安心設計となっている。
「……それで?」
「これ見て覚え――冗談だよ。だから拳を振り上げるな」
いきなりの投げっぱなしにキリエは拳を強く握りしめてしまう。それに目敏く気付いた明はすぐに前言撤回して距離を取った。
「上から順に見てく。まずは屋上だ。ついでにそこでこれ全部処理しちまおう」
もはやこれは食べるという行為ではない。無心に行う作業だ、とは明の弁。
「あんた食いなさいよ」
「善処する」
買い出しっぺである自覚はあるのか、明は特に文句を言う事なく了承の意を示す。しかし、袋の中にある混沌としか形容のできないサンドイッチを見て、非常にげんなりした表情をしていたが。
「ここが屋上。高い場所にあって風が強いので、適当に風避けを探すのが吉。スカートの中身をさらけ出したい人なら別に止めないけど」
「そんな趣味ないわよ!」
「いつっ! 叩くな軽いジョークだろう!?」
「あんたねえ……初対面の人にそんなデリカシーのない事言ってんじゃないわよ」
キリエは呆れて物も言えないとばかりに額に手を当てる。
「お前とは会うの二度目だろ。それに俺だっていつもこんな事するわけじゃないさ。TPOはわきまえる方でね」
それを見た明が心外と言わんばかりに反論した。明だって初対面の人にこんな接し方をするような人間ではない。
ただ、再開した時のやり取りなどがあるため、今さら取り繕うのもどうかと思っているだけである。
「じゃああたしにもわきまえなさいよ」
「それは嫌だ。クラスメイトを差別する趣味はない」
キリエが何を言っても明は飄々と流してしまう。まさに柳に風だ。
「はぁ……あんたには何言っても無駄なようね。さっさと食って案内しなさい」
「へいへい、分かってますってお嬢様」
「――やめて、その呼び方」
明の何気ない一言に、キリエは過剰とも言える反応を示した。
「悪い。ちっと調子に乗り過ぎた」
どうやら押してはいけない場所を押してしまったようだ。それに気付いた明も素直に謝罪する。
「……いいわ。知らないだけだし。あたしも大人げなかった」
そのまま二人は黙り込み、もそもそと明がサンドイッチを咀嚼する音だけが屋上に響いた。
「……とまあ、ざっとこんなもんだな」
気まずい雰囲気のまま食事を終え、明は自分の所為で崩れてしまった雰囲気に罪悪感と居た堪れない気持ちを抱えながらも、律儀に校内を案内してみせた。
「……ありがと」
キリエもあまり居心地のよさそうな顔はしていない。明もそれに気付き、どうにかしようと思っていた。しかし、切り出すタイミングが掴み切れなかったのだ。
それを今掴んだ。好機を逃すつもりもない明は口を開いた。
「さて! そろそろ授業も始まるから、その辛気臭い顔はやめとけ。自己紹介は第一印象が大事だぞ?」
手を猫だましのようにパンパンと叩いて、キリエの肩を二度ほど叩こうとして――払われた。
「ドサクサに紛れて何しようとしてんのよ」
「あらら、残念」
特に悪びれず、明は肩をすくめた。キリエはそれを見て、
「……変な奴」
今度は本人もいる前でつぶやいた。明は聞こえなかったフリをしたが、内心では割と傷ついていた。
「つーことで留学生だ。仲良くするように」
教室に入ってきた不良教師の開口一番はこれだった。つーことでってどういう事ですか? と教室の中に漂う雰囲気が雄弁に語っていた。
この中で唯一真実を知る明はだらけた表情を隠さずに机に突っ伏していた。昨日もそうだが、今日も一日動いて疲れたのである。
明としてはあのまま一直線に教室へ向かいたかったのだが、楪にも連絡を入れておく必要があるのは当然の事であり、それを無視したまま話を進めてしまうのは楪に対して喧嘩を売っているのも同義である事は分かっていた。
先生としても人としても楪を敵に回したくない明は渋々職員室に戻った。そこで待っていたのはいつも通りの皮肉げな表情に、どこか楽しげな視線をプラスした楪の姿だった。
その顔をした楪に「お前はもう戻れ。こいつとは少し自己紹介の時とかを話しておく必要がある」と至極まっとうな事を言われてしまう。
絶対に裏があると確信しているのだが、ぐうの音も言えない正論を吐かれてはすごすごと引き下がるしかなかった。
(……不安だ)
そこまで思い返し、今後の展開が一切読めないという事態に明は嫌な予感を感じていた。
「入って来い。マルトリッツ」
「はい」
しずしずと、しかし堂々とした風格を漂わせながらキリエが教室に入る。そして教壇の前に立つ。
クラス中の誰もが息を呑んでいた。騒ぐだろうと予測されていた男子たちですら、キリエの美しさに圧倒されたように黙り込んでいる。
そんな空気の中、楪は特に気にした様子もなく黒板に彼女の名前を書く。
「キリエ・マルトリッツだ。ちなみに日本語はペラペラだから遠慮しないように。マルトリッツ。軽く自己紹介頼む」
「ご紹介に与りました。キリエ・マルトリッツです。しばらくの間ですが、よろしくお願いします」
にこやかな笑顔を浮かべ、そつのない挨拶をこなすキリエ。
(まあ、無難な挨拶だな。俺といた時みたいな話し方されても困惑の方が目立つだろうし)
明はそう思って内心でうなずいていた。やはりTPOというのは大切なのだ。いくら第一印象が重要とはいえ、外していい場面とそうでない場面は存在する。
キリエは挨拶を終え、一礼をした。そこで初めて湧き起こる怒号にも近い大歓声。様々な声が混ざり、もはや何を言っているのか分からない状態だ。
「静かに」
だが、その怒号は楪の普段と変わらぬ、しかし異様な迫力を放つ声に鎮められた。このクラスの危機察知能力はなかなかのものがある。
「席は……草木の隣でいいか」
またも怒号が起きかけ――楪の睨みによって事前に潰された。
(なぜに!?)
全力で突っ込みたいのだが、楪に睨まれてそれもできない。というか金縛りに遭ったように足が動かなかった。どんな目力してんですか、と明は腹の底から恐怖を叫びたい気持ちを必死に抑えながら思った。
ちなみにクラスメイトは先ほどまでは羨ましい位置にいる明を妬みの視線で見ていたが、楪の視線をまともに受けて金縛りに遭っている姿を見た瞬間、憐みの視線にシフトした。好き好んで火中の栗を拾いに行く奴はいないようだ。
「じゃあよろしく」
明の隣に座ったキリエが愛想笑いを見せるが、笑顔を返す余裕は今の明にはなかった。
休み時間――は時間がなかったので放課後。キリエは転入生が誰もが一度は通る道である質問攻めに遭っていた。
『どこから来たの?』
「ドイツね。割とマイナーな場所にいたからそっちは言わなくていいわよね」
『その髪って地毛?』
「染めたら髪が痛むのよ。やる人の気持ちが分からないわ」
『どこに住んでるの?』
「昨日まではホテルだったけど、今日からはこの住所にすむ予定」
などと地が出た様子で話していた。すでに態度は明と話している時と変わらない。
明は午前と午後で使った体力の回復に努めていたため、ほとんど話を聞いてなかった。そのため、キリエが一緒に帰るお誘いや町の案内のお誘いを断っていたのも知らない。
「……起きなさい!」
「ぐあっ!?」
割とぐっすり寝ていたところ、後頭部を殴られて覚醒する。
「いつつ……。何だよいったい」
「こっちが言いたいわよ! あんた、まだ聞きたい事があるだろうと思ってお誘い全部断ったっていうのになに!?」
「あー……それはすまんかった」
殴られた事に対しては腹が立つが、さすがに自分が怒らせた自覚はあったので、明は特に言い訳もせず謝る。
「それで、何が聞きたいの?」
キリエは先ほどまでとは違う酷薄な表情で、問うた。
まだ日常パートです。もう少しお待ちください。