三章 エピローグ
「……アキラ、大丈夫?」
建物に響いた声を頼りに駆けつけてきたキリエたちが見たのは、人の姿で子供のように泣きじゃくる明の姿だった。
「大丈夫じゃねえよ! 俺が! 俺が! 人を殺した……っ!」
心配そうに背中をさすりながら声をかけるキリエに明は涙に濡れた顔のまま悲痛な声を出す。
「そりゃ、俺だってあいつは憎かったさ。直接ではないかもしれないけど、父さんと母さんの仇だ。でもな……っ!」
自分の事が分からない明は滅茶苦茶に拳を地面に振り下ろす。鬼の力を一切使わなくても、地面にひびを入れてしまうほどの威力だが、そんな威力に何の保護もされてない拳が無事で済むはずがない。
皮膚が裂け、鮮血が飛び散る。しかし、それもすぐに再生しようとしてしまうため、傷が治らないようにまた打ちつける。
「やめなさい! そんな事しても死者の供養にも何にもならないわ!」
「分かってるよ! でもこうしないと自分が許せないんだよ! 人を、人を……!」
――笑いながら殺してしまった。
「それって……どういう……」
「言葉通りの意味さ……。あの時、俺は確かに実験体を潰す事に……快感を覚えていた……!」
キリエは戦慄したように頬を引きつらせる。鬼とは普通に戦える明だが、人が絡んだ戦いは極端に腕が重くなる。その明が楽しんで誰かを殺す事などあり得ない。
だが、そのあり得ないが起こってしまった。そして、明はその事実に呑み込まれそうになっている。
「俺が俺じゃなくなる……、どうすればいいんだよ!」
「明さん……」
「アキラ……」
かける言葉の見つからない二人は心配そうな視線を向ける事しかできない。
そして、退魔師の援軍が駆けつけるまでその時間は続いた。
退魔師の方々から一般人が出てくるな、というニュアンスの説教を受けたのだが、あいにくと今の明にそんな話をまともに聞く余裕などミリ単位で存在しなかった。
退魔師の方も明の顔色が悪いのを分かっていたらしく話は神楽だけで済まされ、すぐに帰宅する事となった。
明はどのようにして家に戻ったのか、ほとんど覚えていなかった。ただフラフラと神楽やキリエに支えられるままに歩いていたら家にいたのだ。
「あれ……?」
ぼんやりと服を見るが、そちらも着替えていた。こればっかりは自分でやったと信じたいところであった。
時計を見ると、すでに日付が変わる時間となっていた。
「キリエたち……まだいるのか」
一軒家程度ならば容易く気配を読めるようになった明が神楽とキリエの存在を察知する。こんな時間まで残すなんて何だか悪い事したな、と明は後頭部をかきながら階段を下りて行った。
「アキラ……」
「明さん、お腹は空きませんか? 一応、ご飯がありますよ」
そこにいたのはいつもと変わらぬ態度を取る神楽と、やや心配げな視線を向けるキリエだった。
「ん……、ちょっとでいいからくれないか?」
食欲などないに等しいのだが、それでも体はキッチリ空腹を訴えてくる。考え事もままならないと思った明はほんの少しだけ食べる事にした。
「はい、すぐに用意しますね」
明が少しはマシになっている事を神楽は我が事のように喜びながら、台所へ消えていく。
残されたキリエはソファーで体育座りをして、明の方を見つめていた。
「……隣、いいか?」
「……あんたの家でしょ。なに遠慮してんのよ」
「それもそうだな……。んじゃ、遠慮なく」
キリエの返事に明はわずかに苦笑し、キリエの隣に腰を下ろす。
「……くっつき過ぎよ。もっと離れなさい」
「……悪い」
謝るものの、明に離れる気配はなかった。キリエも特に言及する事なく、肩と肩を触れ合わせたままにする。
「…………なあ、キリエ」
「……何よ。あんたのどうにもならない愚痴ならもう聞かないわよ」
「はは……手厳しいな……。まあ、そっちの事じゃないから安心してくれ」
割り切ったわけではない。むしろ未だにそれは明の胸に深々と刺さっている。本音を言えば、今すぐにでも泣き喚いて何もかもに当たり散らしたいところだ。
「じゃあ何よ。聞くだけなら聞いてあげるわよ」
キリエは明に背中を向け、体重をかける。明も同じように背中を向け、体重をかけて背中合わせに座る。
「そうだな……。俺、もう鬼になるのをやめようと思う」
明は予想以上に小さくてやわらかなキリエの背中に若干心動かされながらも、言いたい事を話す。
「それがいいわね。鬼になって何が起こるか、なんて誰にも分かってないんだし。少なくとも鬼になるのをやめさえすれば、これ以上ひどくなる事はないでしょうね」
あっさり肯定するキリエに明は呆けたような視線を向ける。彼に強くなれと言ったのはキリエなのだ。そのキリエが簡単に自分の言った事を忘れたようには思えなかったのだ。
「……どうしたのよ。そんなアホみたいに口開けちゃって」
「いや……、お前だぞ? 誰よりも強くなれって俺に言ったのは」
「……そういやそんな事も言ったわね。だけどね、あたしだって嫌がる奴を無理やり鍛える趣味はないわ。そもそも、あたしは鍛錬なんて嫌いな方だし」
色々とぶっちゃけたキリエに明は呆れて物も言えないようで、頭痛を感じてしまったこめかみをもみほぐす。
「……まあ、あんたが決めた事ならあたしからとやかく言う事はないわ。むしろ、あんたに頼ってきたあたしたちがダメなのよ。あそこまでやっておいて今さらかもしれないけど言わせてちょうだい」
キリエはいったん言葉を切る。そして息を吸って、明の耳元でささやくような声で言った。
――あんたはまだ人間よ。アキラ。
「………………」
キリエの労わりに満ちた言葉にも明は特に返事をせず、ただ顔をうつむける。
「どうしたのよ。あたしが珍しく慰めてやってんのに」
「……“まだ”人間だ。確かに、俺は人間だよ。……でも、俺はいつか……」
――完全な鬼になってしまう。そう遠くないうちに。
「それが怖い。今までは恐怖が麻痺したみたいな事言ってたけど……、全然違った。バカだったんだ。知らなかっただけなんだ。俺は……人でなくなる事を、こんなにも恐れてる」
ガタガタと震える体を抱き締め、明は懺悔するような気持ちで心中を吐露する。
怖かった。自分が自分でなくなる事が、ではない。もちろんそれもあるにはあるのだが、本当に怖がっている理由に比べれば微々たるものである。
自分が自分でなくなった末、己に課していた禁忌をアッサリ破って誰かを傷つけ、殺めてしまう事が怖いのだ。
「あいつは憎い。それは変わらない。でも……あいつ、最後の最後に死にたくないって言ったんだよ……!」
「あのクソアマ……。最後の最後までアキラを傷つけてったのね」
キリエは忌々しげに、すでに故人である最上の名をつぶやく。そして、振り向いて明の震える背中に手を当てる。
「大丈夫よ。安心しなさい。あんたが人のままでいられる保証まではしてあげられないけど……。万に一つ、あんたが完全な鬼になったその時は――」
――誰も傷つけない内に喰ってあげるわよ。
「……そりゃ、ありがたい。……でも、その時はためらうなよ。絶対に、完膚なきまでに俺を殺せ」
自分を徹底的に殺してくれ、なんて懇願する人間は後にも先にも明くらいだろう。キリエは自分の命を簡単に投げ出す明に対してわずかな苛立ちと、彼に身に起こった事からそれも仕方ないと思う心が半々になっていた。
「……分かったわよ。瞬きする暇も与えないくらいの速さで殺してやるわ。……ったく、何であたしがこんな事しなきゃなんないのよ」
「それは……俺が鬼だからだろ」
「違うわよ。あたしはね、自殺志願者を殺してやるつもりは毛頭ないのよ。……あんたが理性も何もない、あたしが見てきた鬼になっていれば楽に殺せたのに……」
「昔の事だろ。あれから一ヶ月ぐらいしか経ってないけど……。ずいぶんと色々な事があった」
明はしみじみと夏休み最後の日――明の何もかもが変わった日について思いをはせる。
あの日が自分の転換期だった。あの日以来、キリエと出会い、神楽と出会い、自分が鬼になって、さらに鬼喰らいにまで覚醒して、おまけにその反動で性格まで捻じ曲がってしまった。
……とても一ヶ月で起こった事とは思えないほどの密度があった。
「前に言ったよな。俺はお前に喰われてやる時まで全力で生きるって」
「ええ、言ったわね。あたしもそれに了承してあたしが喰う時までアキラを全力で鍛えるとも言ったわ」
微妙に言った事が違う気もした明だが、黙っておく事にする。ここで水を差すような真似をするほど空気が読めないわけではない。
「生きるのが怖い……。傷つけるのが怖い……。もう、どうしたらいいのか分からねえんだよ……っ!」
すでに導火線の火はついてしまっている。もはや後は起爆して爆発するのを待つだけ。遅かれ早かれ、明が明でなくなる事は確定事項だった。
「……俺は、いつまで俺でいられるんだろう」
「……分からないわ。ただ、決まっているのは一つ。…………あんたはもう、長くは生きられない……」
キリエは分からないと言ったが、明には薄々と分かっていた。
おそらく、今日から一切鬼の力を使わずに鬼喰らいとしての力をずっと使い続ければ、二ヶ月は持つだろう。両方を使わなければ一ヶ月程度。
そして、鬼の力を使った場合は……、
(長く見積もって二週間、だな……)
わずか二十日足らず。いくら善処しても三ヶ月にも満たない。それが明に残された時間だった。
「……キリエ、もうちょっとだと思う。それが済めば……お前は強くなれるはずだよ」
「………………こんな強さ、あたしは望んでないわよ。バカ」
キリエは明の背中に置いた手を腹に回し、少しだけ力を込めた。
「……これは現実的な話だけど、あんたが鬼に変わるのは山なりに――つまりゆっくりと変わっていくはずよ。肉体的にも、精神的にも」
「……ああ。それがどうかしたか?」
「なら、あんたの精神が変わらないままいられる方法が一つだけあるわ」
「本当か!?」
キリエがつぶやいた思いがけない一言に明は心底からの驚きを見せる。
そんな明を見たキリエはあっけらかんと笑い、こう言った。
「前のあんたを、あたしが覚え続けてあげる。んで、あんたがらしくないと思ったら遠慮なく言わせてもらうわ。どうよ?」
「……それなら、確かに俺が俺でいられそうだ」
キリエの提案に明は今度こそ、ハッキリとした苦笑を見せた。
未だ心の傷は癒えず、おそらく今後も癒える事はない。明も自覚しているし、誰に言われなくても人を殺した事実は変わらずにあり続ける。
「温まりましたよ。食べましょう……って何やってるんですかあなたたちは!?」
「あ、悪い悪い。ほら、食べようぜ」
罪の意識に苛まれるだろう、苦しめられるだろう。それも分かっていた。
「ええ、いっぱい食べるわよ」
それでも、この家は暖かかった。明の傷を治すとはいかなくても、ゆっくりと立ち上がれるようにしてくれるぐらいには。
「まったく……、まぁ、俺を気遣ってくれたんだろうし――」
――ありがとう。二人とも。
明は誰にも聞こえない声で、そっとつぶやいた。
これにて三章も終わりです。そして確実に明の終焉は近づいて来てます。
次に閑話を一つ挟んで、四章へ移ろうと思いますのでよろしくお願いします。
………………ちなみに本作は五章か六章で終わる予定です。