三章 第九話
「へぇ……初めて見ましたが、その姿は結構興味深いですねぇ……。姿は鬼でありながら、理性を保ち続ける……。あなた、わたしの実験材料になりませんかぁ?」
「お断りだ。キリエをさらっておいてぬけぬけとそんな事を言えるお前の神経を疑うね」
明が戦闘時の強い光を宿した瞳で最上を見据える。確固たる決意に裏打ちされた意志に揺らぎはない。
「まったく……あんな作戦でもここまで上手くいくのはどうかと思いますよ」
明のやってきた場所から神楽も出て来て、疲れた顔をする。
「……ところで、どうやってここまで来たんですかぁ? 一応、警備はガチガチに固めたはずですけどぉ」
「ん? ……ああ、簡単だよ。俺の姿、良く見てみな」
明はそう言って自分の体を指差す。そこには鬼となる事で鋼色になった皮膚と、頭に生えた長大な角。そして戦闘用に伸ばされた鋭い爪の他に変わった部分はなかった。服も破れておらず、特にこれと言った変化はなかった。
否、
「……枝葉ですかぁ? 何でそんな物が」
「簡単な事だよ。石を投げたりして色々と調べてみたところ、あれは一定の質量が定められたラインを越えた瞬間に攻撃を開始するものだ。大方、それなら安全だと思ったんだろうが……良く考えれば穴のない作戦なんてないんだよ」
もし、最上が本当に指揮官としての訓練を受けていたのなら、明はなにも思いつかずに特攻を仕掛けていただろう。しかし、彼女は研究者であって軍人ではなかった。そのため、素人である明にも突破口が見いだせたのだ。
「要するに明さんの筋力で木を引っこ抜いていくつか投げ込んだんです。あとはそちらに実験体が向かっている間に悠々と潜入し、次に明さんの感覚でキリエさんの位置を大まかに特定して、そこに至るまでの途中にある壁を――」
神楽と明が同時に腕を突き出し、拳を作る。
『ぶっ壊して進めば良いだけ』
「だろう? キリエ。ちなみにあのタイミングで入ってこれたのはただの偶然だ」
「……ええ、その通りよ! 立ち塞がる壁はぶっ潰す! ほら、やっちゃいなさい! ……あと、そういう事はぶっちゃけない方が良いわよ。あたしの感動が薄れるから」
「言われなくても! 神楽!」
明は後ろに下がり、キリエの拘束を解きにかかる。その際にかかる時間を稼ぐべく、神楽が前に出て右目の眼帯に手をかけた。
「ちょっと!? どうなってんのよ! 何であんたが前に出ないわけ!?」
「今回やるべき事はお前の救出だ。だからお前を助けたらとっとと逃げる! ただでさえ退魔師の人たちと連携取ってないんだ。まともにやり合ったらまずジリ貧だっての!」
知恵を振り絞ったとはいえ、あんなお粗末な作戦で入れたのが奇跡だと思えるくらいの綱渡りを彼らは行っているのだ。これ以上危険な橋は渡りたくないのが本音である。
「それじゃあのクソアマ殴れないじゃない!」
「後にしろ! 生きてここを出るのが先決だ!」
キリエが騒ぐが、薬を注射されていたため明でも容易に抑えつけられるぐらいのものだった。
「……このっ!」
拘束具を明は腕を剃刀のように鋭くする事で斬り落とし、キリエの体を自由にする。
「動けるか?」
「……悪いけど無理。ゆっくり歩くくらいならできるかもだけど……、走るのはダメ」
正直に自分の体の様子を話すキリエの体を明は軽々と抱え、神楽の方を向いて叫ぶ。
「神楽! 目的は達した。逃げるぞ!」
「任せてください! ……はぁぁっ!!」
神楽が右目に宿った破魔の力を解放し、実験体を複数一気に薙ぎ払う。
そうしてできたわずかな隙間に明と神楽がその体をねじ込み、無理やりに脱出口を開いた。
「それにしても神楽、さっきのやつすごい威力だな! 助かった!」
「……いえ、お気になさらず。それより、先ほどのは一発が限界です。その証拠に……ほら」
神楽が浄眼を使ってから、ずっと手で隠していた右目を明に見せる。そこには血の涙が流れていた。
「浄眼はもう使えません。ひょっとしたら視力も落ちてるかもしれませんが……今は必要ない情報ですね」
特にショックを受けた様子もなく己の状態を語る神楽に、明は済まなそうな顔をしながらも言い切った。
「そうか……、悪いとは言わない。お前も覚悟して臨んだ事だろうから。でもこれ以上の無理はしないでほしい」
「善処します……よっと!」
神楽は明の言葉に頬を緩めつつも、追撃の実験体相手に呪符を投げつけ、牽制する。
「捕縛術式展開! 明さん、急ぎましょう! わたしの力に余力は一切ありません!」
「こっちにだってねえよそんな……のっ!」
明もキリエを抱えた左腕は使わずに右腕だけで近寄ってくる実験体を薙ぎ払う。その際に肉を引き裂く感触が明の中で何とも言えぬ吐き気を催させる。
(考えるな……! これはもう人じゃないんだ! 殺らなきゃ殺られる! ……くそっ!)
いくら自分に言い聞かせても、吐き気が収まらない己に嫌気が差す。明はぎりぎりと下唇を噛み締めながら足を速める。
「アキラ……」
「大丈夫だ。やるべき事は見えているんだ。まあ、どうしようもないジレンマってのはあるけど……。まだ、折れるほどじゃない」
明の腕に抱えられながらも、心配そうに見上げるキリエ。その視線に気づき、明はここに来るまでにしてきた自らの決意を語る。
「人を殺す覚悟はできてない。でも……彼らはどうすればいい?」
明は自分に襲いかかってくる実験体を悲痛な目で見つめる。元は人間であったはず。それがこんな人と呼べない存在になってしまった。
「……それは本人に聞かない事には分からない事ね。もしかしたらこんな姿になってもまだ生きたいと思うやつはいるかもしれない。いえ、きっといるわ。これだけの数がいるんだもの」
おそらく、実験に使われた鬼喰らい以外にも普通の人が実験に使われたりもしたんでしょうけど、でなきゃ量産なんてできっこないわ、とキリエが実験体に対する考察を語る。明も概ね予想していた事なので、特に反論せずにうなずく。
「でも、俺にそれを聞く方法はない。だったら――」
「相手の事なんて知った事じゃない。自分のやる事の邪魔をするなら薙ぎ払う、でしょ?」
「……よくお分かりで」
言いたかった事をキリエに取られてしまい、明は苦笑するしかなかった。だが、すぐに現実がその笑みをかき消す。
「明さん! あれを!」
神楽が切羽詰まった様子で明たちが侵入に使った道を指差す。
そこには外で注意を引いていたはずの実験体が群れをなしてやってきており、とてもではないが突破できる数ではなかった。
「おいおいおいおい! もう戻ってきたのか!?」
「むしろ今まで戻ってこなかっただけでも奇跡ですよ! それにまだ隠れる事もできる状況です。ここは前向きに考えてどこかに隠れましょう!」
「カグラに賛成! あの群れを突破するより現実的よ! それにもしかしたらクソアマを殴れるかもしれない!」
キリエの目がやたらとキラキラしており、相手を殴るという暗い決意に満ちたものとは思えないほどだった。というか他人を殴るのに、何で目が健康的な光を宿しているのだろう。
「そっちが本音だろ! ……ああくそっ! 分かったよ! どこか隠れられそうな場所探すぞ!」
ガシガシと頭をかきながら、明と神楽が視線を走らせて隠れる場所を探す。こうしている間にも着実に実験体は迫っているため、明と神楽の顔はいつも以上に大真面目だった。
「部屋を見つけた! とりあえずそこに入ってバリケードなり何なり作って時間稼ぎだ!」
「分かりました! ……そりゃぁ!」
女性が出すにはいささか適切ではない掛け声とともに神楽がドアを開く。そしてそれに続くように明たちが転がり込む。
中は実験室のようで、ビーカーやらフラスコやらが中身の有無を合わせて大量に存在した。
それには目もくれず、明は大きな戸棚やテーブルなどを鬼の膂力で複数一気に持ち上げ、ドアの前に片っ端から並べて行く。
ドアの姿が見えなくなるほどに物を押し込み続けると、ドアの向こうからガンガンと固い何かで叩くような音が連続して聞こえてくるようになった。どうやら実験体たちが追いついて来て、ドアを破ろうとしているらしい。
しばらくは明たちも体を固めていつでも動けるようにしたが、三分ほど何もないのを確認して問題はないと判断し、ドアから発せられる音をBGMに休む事にした。
「ふぅ……。安心できるわけじゃないけど、少しは休めそうだな」
明は鬼の姿のまま、地面に腰を下ろしてどっかりと座り込む。神楽は戸棚から止血に使えそうなガーゼなどを探し、明の右隣に座った。ちなみにキリエは左隣で寝かされている。
「そうですね……。傷の手当てもしたいですし」
清潔な布を見つけたので、それをガーゼ代わりにしようと神楽が手でそれを引き裂いて眼帯の下に貼り付ける。見る見るうちにガーゼが赤く染まるのが痛々しい。
「神楽は……大丈夫そうか?」
右目から流れる血が止まらないのを懸念して、明が気づかうような声をかける。
「……おそらく、視力の低下は免れませんね。先ほども見えていたので、失明には至らないでしょうが。それにしたって今日以降しばらく使わなかった場合です。つまり、もうわたしは役立たずって事です」
神楽はそれを自嘲の笑みで受け答えする。キリエはそれにムッとした表情を作り、口を開こうとして明に先を越される。
「そんな事はないっての。さっきだって捕縛術式組み立ててくれただろ? あれがなかったら俺たちがここまで逃げる事すらできなかった。とっくに奴らの腹の中にいただろうさ。正直、感謝してもし切れない。ありがとな」
「アキラの言う通りよ。カグラにはあたしたちにできない事が山のようにできる。それに神楽がそんな事言うんだったら、真っ先に捕まったあたしは何なのよ?」
明とキリエが神楽の言葉を否定し、両者が力強く笑ってみせた。それを見た神楽も落ち込んでいるのは相変わらずだが、それでも少しだけ明るくなった表情で微笑んだ。
「……まあ、今のわたしにできるのは簡単な捕縛術式がせいぜいです。ちなみに先ほどの捕縛術式は結構力を使うので、もう使えません」
「オッケー、把握した。キリエは大丈夫か?」
明は神楽の身体状態、能力がどの程度使用できるかなどの情報を頭に叩き込み、キリエの方に視線を向ける。キリエは不貞腐れたように頬を膨らませ、視線を背ける。
「……キリエ?」
「……一般人なら死ぬくらいの筋弛緩剤と発熱作用のある薬と麻痺毒を注入されたんだってさ。それでもしゃべる事くらいはできるラインを見切ってんだから、クソアマって本当に忌々しいわ……!」
最後の方はもはや呪詛のレベルだった。頬を引きつらせながら、明はキリエは戦力にならないという事を頭のメモ帳に書き込んでおく。
「ですが、これは明さんの力だけで切り抜けられる状況だとは思えませんよ。明さんの力は今や認めざるを得ない域まで上昇していますが、何事にも相性はあります」
「まあ、それには同意する。戦闘時の思考もできないし、何が一番効果的なのかも分からないしな。おまけに実戦の量は一番少ない」
明もスペックだけみればそれなりに高いのだが、いかんせん他が低過ぎる。それでも明が生き残れたのは土壇場に見せる意志の力によるものが大きい。あとは咄嗟に最善の行動が取れる、などと言った運の要素も多大に絡んでいる。
「窓もこの辺にはないし……、あったらあったでそっちの方までバリケードが作れないだろうからお陀仏なんだろうけど、それでも今はない事を悔やむな……」
「かと言って策もなしにノコノコ出たところでなぶり殺しにされるのが目に見えてます。いえ、むしろあの人が相手ですから死ぬよりひどい目に遭うかもしれません……」
「おそらくそうでしょうね。あたしなんてあと一歩で貞操の危機にさらされたわよ」
キリエが言った事に神楽は身を震わせ、明は自分には関係ない事だな、とホッとして胸をなでおろす。
「アキラも他人事じゃないでしょう。あんたはその再生力があるんだから、死のうにも死ねないんじゃない? 延々と解剖地獄とかあるかもね。あのクソアマだったら」
キリエがいたずらっぽく言ったセリフに明も身を震わせる。さすがにそんな地獄は味わいたくない。
「…………仕方ない。あまり使いたい手段じゃなかったんだけど」
しばし明が顎に手を当てて考えたポーズをした後、苦渋の表情で一つの事を決断した。
「なになに? この状況を打開する手段でも思いついたわけ?」
「一応な。ただ、これをやっても成功する確率はめっちゃ低いし、おまけに俺がすごく痛い思いをする。ひょっとしたら体のどこかが動かなくなるかもしれない」
キリエが興味津津と言った風に聞いてくるのを明は苦い表情で受け答えする。その表情が本物である事を見抜いたキリエも表情を真面目なものに切り替える。
「……聞いてやろうじゃない。どんな内容なのよ」
「内容自体はかなり簡単なものだ。……この作戦の鍵はお前だ、キリエ」
「あたし……?」
「いいか? やるべき事は簡単だ――」
――俺を喰え、鬼喰らい。
明はちょっと買い物に行くのと同じくらい気軽な声で、そう言った。