三章 第七話
キリエがさらわれてから、ようやく到着した応援はみな退魔師を名乗っていた。
「明さん……彼の保護をお願いします。彼はこの件にわたしたちが巻き込んでしまったタダの一般人です」
神楽が明の保護を願い、それに応じた退魔師の人々が放心状態の明を連れていく。
「…………」
明は何の光も宿さない瞳をしたまま、ただ成されるがままに引きずられていった。その様子を神楽が痛ましげに目で追う。
「……ここを調べて得た事を報告します。案内してください」
だが、明を追いかけたところで意味はない。考えを切り替えた神楽は退魔師の長に報告へ行った。
退魔師の人々が研究所の付近にテントなどを張り、簡易型の拠点を作る。明はそこに連れられ、温かい飲み物を渡された。
今さらだが、テントに入る直前にようやく明は今が夜になっている事に気付く。放心状態になっているのが長過ぎたのか、はたまた研究所に入ってからの時間が長かったのか、今の明には判断ができなかった。
「ここにいればもう大丈夫だから。怖かったでしょう?」
年上のお姉さん風な――それでも巫女装束は着ている――女性が明に優しい笑みを投げかける。どうやら今の明が怯えてしまっているように見られているらしい。
「あはは……ありがとうございます」
曖昧な微笑みを返して、明もそれをごまかす。飲み物であるホットコーヒーに口をつけ、無糖である事に顔をしかめる。
「苦っ……」
おまけに酸味が自己主張し過ぎているため、初心者には癖の強過ぎる味わいになっていた。コーヒーなど滅多に飲まない明にはハードルが高かった。
「あははっ、坊やにはまだ早かったかな?」
明の顔を面白そうに見た女性が砂糖を取りに行こうとする。
「……いえ、お構いなく。これくらいが丁度いいです」
今の俺には、とは言わずに女性を制止する。
「そう? じゃあ、わたしは仕事があるから行くけど、君はここでじっとしてるのよ?」
「はい……」
女性が去るのを愛想笑いで見届けてから、明は思いっ切り苦いコーヒーを飲み干す。
「苦い……な」
慣れないコーヒーの苦味を味わった後、うなだれてコップも落としてしまう。
「畜生……っ! 畜生、畜生、畜生……っ!!」
誰もいなくなったテントの中で一人、明は己の失敗を嘆く。
実のところ、冷静さを欠いて突進を選んでしまったキリエのミスも少なからず存在する。だが、明はそれでも自分の所為だと思ってしまう。
あの時、誰かの死を厭わずに破壊を選んでいたのなら、キリエがさらわれる事などなかった。
(俺の所為だ……!)
自分の心をえぐり、その痛みに堪えるようにうずくまる。自虐に満ち満ちた事をやっていても、止める人は誰もいない。
普段、明が無意識的に行う自虐というか自分への執着の薄さはいつもキリエが止めていた。そのキリエがいない以上、明の行為を止める人物は存在しない。
「くそっ、くそっ、くそっ……チクショウ!」
握った拳を振り上げ、テントを傷つけるわけにはいかないと思い留まる。しかし、握った拳から力は抜けずに爪が食い込む。
爪が皮膚を突き破り、ポタポタと血が流れ落ちる。鬼の回復力をもってすれば十秒かからずに完治するような怪我を、明は爪を食い込ませ続ける事で治らないようにする。
筋肉が裂け、さらなる痛みが明の脳天を直撃する。思わず意識が飛びかけるが、そんな甘えは明自身が許さなかった。
こんなところで腐っていても意味はない。明も良く分かっている。だが、こうでもしなければ自分が許せないのだ。
キリエが――こんな命も残りわずかな人間に関わるべきでない人間が死ぬかもしれないのだ。
(成すべき事を成せ……! でも、それは……)
明のタブーである、殺人も視野に入れる必要があった。自分のような鬼でも鬼喰らいでもない半端な奴が未来のある人を殺す。
明自身はそこまで難しく考えて殺人を嫌っているわけではないだろうが、言葉にするとこのような思いが眠っているのは間違いない。
「……チクショウッ!!」
やるべき事は分かり切っているのに、あと一歩の決断ができない。そんな自分にやはり苛立ちが先行してしまう。
手のひらに食い込んだ爪が骨まで達そうと言う時、後ろから声がする。
「やれやれ……、まさかキリエさんがいないだけでここまで腐るとは思ってませんでしたよ」
「か、ぐら……」
突然割り込んできた声に明は茫然を神楽を見返す。あまりに唐突な登場で力が抜けたのか、握られていた拳も開かれ、急速に治癒が始まっていく。
「そうです神楽です。退魔師であって、あなたと同じく今回の事件に一番深く関わっている人間です。……明さん、」
神楽は言葉を切り、つかつかと明のもとへ近づく。そして、
明の頬を思いっ切り引っ叩いた。
パァン! と快音が周囲に響き渡り、明の首が真横に向く。神楽に打たれた頬は呆けたように目を見開くばかりだ。
「なに自分一人の罪だ、なんて不幸に浸ってるんですか。自分の間違った選択でキリエさんを奪われてしまった。ああ、わたしはなんて不幸なんでしょう、とでも言うつもりですか」
「……っ! お前っ!」
「事実でしょう? それともなんです? 反論があるならどうぞ。聞きますよ」
「……くそっ!」
神楽の小馬鹿にしたような物言いに反論できない。その事実がさらに明を苛立たせる。
そんな明を神楽は心底呆れかえったような目で見つめ、静かに口を開いた。
「いいですか? あの場にいたのはあなただけじゃないんです。わたしもいたんです。そして……わたしもあの場でキリエさんが連れて行かれるのを止められなかったんです。……わたしの所為なんです」
「そんな事、」
「ない、なんて言ったら今度は浄眼で撃ち抜かせてもらいます。わたしの責任まで奪って、自分に酔いたいですか?」
「……神楽」
「わたしもキリエさんを止められませんでした。あなたが自分を責めるというのなら、わたしも己を責め抜かなければなりません」
神楽の言葉に明は何も言わず、ただ神妙な顔をして瞑目する。
「……すまん。ちょっと腐り過ぎていた」
そして、開いた時の明の目には爛々と輝く決意が宿っていた。
「……それで、これからどうするつもりですか?」
明の目に光が灯った事に気付き、頬を緩めた神楽が当たり前の事を聞く。
「決まってる。キリエを――助け出す!!」
「そのためには人を殺さなければならない場面があるかもしれませんよ?」
「そんな状況を作らなければいい。それでもダメな時は……その時考えるさ」
何も気にする事はない、と言わんばかりに前を見据えている明を見て、神楽はようやく明の調子が戻って来た事に安堵する。
「やっと思考がまともになりましたか……。まったく、こういう時は悠長にしている暇なんてないんですよ?」
「分かってる。……正直、人を殺す覚悟なんてのはできてない。俺がおかしいのか分からんけど、俺は誰かの死を許容できない」
もし殺す事になったら……、そう思うだけで明の手には震えが走る。殺人――自らの同族を殺すという生命最大のタブーを犯すかもしれないのだ。明でなくとも怖気が走るだろう。
「それは普通の事です。殺人嗜好症なんていう救えない人も中にはいますが……、わたしたちを含め、誰かが死ぬなんて事はない方が良いって思うのが当然なんです」
つまりあのマッドの方が異常なわけです、と神楽は言い切ってみせた。
「それでも、キリエが死ぬ事は何よりも防がないといけない。だって、あいつが、あいつだけが――」
――俺を殺していいんだから。
明の中でキリエに殺される事は何よりも優先すべき事象になっており、それは今まで明が行ってきた利他的なスタンスよりも優先されるべき事なのだ。
「はぁ……。明さんも大概変人ですね……。嫌いじゃありませんけど」
自分を殺すであろう相手を助けるために全てを投げ出しても構わない、と笑いながら言い切って見せた明を神楽はまぶしそうに、どこか憧れを含んだ視線で見つめる。
「さて、それじゃあそろそろ現実を見ましょうか」
「……やっぱり?」
意気込みも充分、と分かったところで神楽は本題に入る。もともと、明の慰めはついでに過ぎないのだ。そうしないと話が進みそうにないため、先に行ったのだが。
「もちろんです。……明さん、キリエさんがどこへ連れ去られたかお分かりですか?」
「…………」
脂汗を流しながら明が顔を背けてテントの壁を見る。
「仮に特定できたとして、わたしたちだけでキリエさんを奪還できる保証はあるんですか? 相手は最低でも実験体を複数従えているような奴ですよ?」
「…………」
光の当たり方によっては赤にすら見える汗を流し、明はテントの壁と目を合わせる。どうやら助ける事だけは思っていたものの、現実的な方法や問題はさっぱり考えていなかったらしい。
「……まあ、先ほどまで腐っていた人ですからね。それも仕方ありませんか」
「なあ、さっきからそのネタ引っ張るのやめてくれないか? 地味に傷つくんだけど」
腐ってる腐ってる連呼されて嬉しい人間など、特殊な性癖を持った人間ぐらいだ。そのような性癖のない明はげんなりした顔をしていた。事実ではあるが、いつまでも引っ張ってほしいものではない。
「これは失礼しました。さすがにいつまでも腐ってる腐ってる言うのは明さんに悪いですものね」
「…………分かった。俺はもう何も言わない。行動で挽回してみせる」
何を言ってもしばらく言われる事を悟った明はこれ以上の追及をやめた。泣きたい気持ちではあるのだが、ここで泣いても神楽がやめてくれるとは思えないのだ。
「明さんが腐っていたのはさておきまして……。キリエさんの居場所ですが、ぶっちゃけるとすでに場所は判明してます」
「本当か!? 嘘じゃないよな!」
「ええ、ここでウソをつけるような腐った人間ではありませんので」
いい加減泣きたくなってきた明。人間誰しも落ち込む時くらいあるだろうに、この仕打ちはあんまりではないだろうか。
「冗談は置いといて……。こちらの呪符を使いました」
そう言って神楽が取り出したのは長方形の板に字が彫ってあるもので、平安時代に使われたとかいう木簡に似てるな、と明は感想を抱く。
「これは特殊な加工と霊力を込めてある呪符です。木でできていても呪符ですから。間違えのないよう」
「は、はぁ……」
やたらと呪符である事を強調する神楽に気圧される形で明がうなずく。それを見て、神楽は説明を続けた。
「それでですね……。この呪符を千切った破片を相手に付着させると、発信器のような役割を果たすんです。ただ、感知できる範囲が使用者の実力に比例しますので、汎用性があまり高くないんです。ちなみにわたしの範囲は大体10キロ前後です。明さんの能力を使えば伸びるでしょうけど……」
「うん、説明はギリギリ理解できた。ぶっちゃけ俺とは縁のない話だよね?」
退魔師は純粋な人間しか習得できない技術のため、明には意味のない話だった。
「すみません。ちょっと話がそれました。要するにですね――」
――わたしの感知できる範囲に、まだキリエさんの反応があるんです。
「……なるほどね」
明が不敵な笑みをこぼし、神楽も同様に力強い笑みを交わす。
「もちろん、この事はすでに報告済みですから他の退魔師の方々は追跡に入ってます。ですので、明さんはここにいればキリエさんを取り戻したという報告を一番に聞けますよ? どうします?」
「決まってる。俺は報告を座して待つなんてのは性に合わないんだ……。だから、」
――一般人がキリエを取り戻したっていう報告をする側に回る!
「つー事で、神楽も一緒に来てくれ。俺一人じゃ追跡できないし」
「言われなくてもそのつもりでしたよ。わたしだって責任は感じてるんですから」
「それもそうだな……。よし、行くぞ! しっかり掴まれ!」
明は素早く鬼の姿に変わり、神楽の小柄な体を抱き上げる。
「えっ? ってなにを、」
明の突然の行動に目をパチクリさせ、微妙に頬を赤らめる神楽だが、明は知った事ではないと口を開く。
「方向を教えてくれ! 俺がお前を抱えて飛んだ方が早い!」
「なるほど、そういう事ですか……。あっちの方角です!」
北とか説明されても、すぐには分からないだろうと判断した神楽は指で方向を教える。
明はその方角へ全力で跳躍し、夜の闇に消えて行った。
後書きに出るのは結構久しぶりな気がします。アンサズです。
そう言えばキリエが見せ場を作ってる場面って結構少ない気がする……。改善しないと。
さておき、今日から大学の授業が始まります。ついていけるだろうか……。あと、サークルも決めないといけないし……。