三章 第五話
「ぐっ……」
胸の焼けるような臭気に目まいを感じたのか、明がその場に膝をつく。
「明さん! 大丈夫ですか!?」
明の隣にいたため、すぐに気付けた神楽が明の背中をさする。しゃべる余裕もないのか、明はそれに片手を上げる事でお礼の意を表した。
「……カグラ、アキラの様子はどう? ヤバいようならいったん退いて。あたしはこの中を調べるから」
「ちょっと待て……。こりゃ、明らかに血の臭いだ。俺も行く……。臭いにも慣れてきた……」
未だ顔色は良くないものの、それでも先ほどよりは幾分しっかりした足取りで明が立ち上がる。神楽もそれに付き添うように立ち、の背中に手を添えている。
「神楽、助かった。俺はもう大丈夫だから、キリエの方に行ってくれ」
「でも……」
「大丈夫」
神楽の不安そうな声を打ち消すようにもう一度言う明。その姿を見て止め切れないと悟った神楽は明に言われた通り、明ほどではないにしてもかなり顔色の悪いキリエの方に向かった。
「ありがと、カグラ。けど、あんたも少し休憩してなさい。あたしはこの手の光景に耐性があるから」
「……そう、ですね。申し訳ありません、ちょっと休みます」
「アキラ! あんたは来なさい! ……遅かれ早かれ、いつか見るであろう光景よ」
「……まあ、覚悟はしたつもりだ」
キリエと初めて出会ったあの日に見た鬼がバラバラにされる光景。それに類似した光景を明は想像していた。
だが、その考えは甘過ぎた。
部屋の中に入った瞬間、キリエは顔を真っ青にして口元を押さえ、明はあまりのおぞましさに耐え切れず目をそらしてしまう。
「何よこれ……」
「……ひでえな」
キリエと明、お互いにかろうじて絞り出すと言った程度の声を出す。明はようやく心の準備ができたのか、目をそらさず真っ直ぐにそれを見つめる。
――肉と臓物、血を撒き散らされた人の成れの果てを。
「……さすがのあたしもここまでひどいのは見た事ないわ。鬼に一般人が喰い荒らされた光景ぐらいなら見た事あるけど……。あれだってせいぜい一人か二人だしね」
「そんなもん、普通の女子高生は見ないっての。俺はちょっとこれを調べてみる」
そう言った明は顔色は悪いものの、平気そうな様子で肉の塊に近づく。
「あんた、もう大丈夫なわけ?」
「……大丈夫だ。むしろ今の俺には――」
――食料に見えるくらいだから。
「――っ!? あんた!」
人として言ってはいけないその一言にキリエが剣呑な視線を明に向ける。
「心配するな。鬼の本能なんだろうけど、大した強さじゃない。まだ充分に抑えられる。…………俺の命、秒読み段階だな」
「……? あんた、何か言った?」
「いや、何にも。それより調べるぞ。何かあるかもしれん」
明は机の上にある資料などを片っ端から目を通し、それらしき情報を探し求める。キリエはかろうじて見つかる服などの破片から行方不明になった人たちであるかどうかを割り出そうとした。
「カグラ、あんたは大丈夫?」
「はい、何とか……。お二人とも、良く大丈夫ですね」
「あたしは少し耐性があるから。……それよかあいつがヤバいわよ。ゆっくりと鬼に進み始めてる」
今の明は人を死体とはいえ、食料と見えてしまうようになっている。人としても鬼喰らいとしても異端なそれは鬼の思考だ。
「……もしもの時はわたしが、」
「ううん、あたしが殺すわ。それがあいつとの約束であり――鬼喰らいであるあたしの使命」
「…………そう、ですね。あの人もやはりそれを望んでいるでしょうし」
鬼喰らいと鬼。決して相容れないはずの存在である明とキリエの間には、神楽でさえ理解できるハッキリとした絆があった。
(…………)
神楽は胸の奥にハッキリしないモヤモヤを抱えながらも、表情には出さず明の方を見る。
「……こっちはダメだ。通称とか略称が多過ぎて意味が分からない。この惨状から見るに何らかの研究機関だろうけど、中の人から聞き出すのが一番手っ取り早い」
明はすでにこの空間でも平然と調べ物ができていた。顔色を変える事なく臓物に目をやり、それを拾い上げて見つめる。
「……死んでからそんなに時間は経ってないみたいだな。研究レポートの日付を見る限りでもつい最近みたいだ」
キリエと神楽が話し込んでいるのを尻目に一人淡々と素人なりの考えで調べている明。その様子を見て、二人も慌てて調べ物に戻った。
(……あいつの様子、絶対何か気付いてるわね)
キリエはレポートを見る振りをしながら、明の方を盗み見ていた。向こうは相変わらず淡々と調べ物をしているだけだ。
(このペースで鬼に近づいていくと……、持ってあと半年から三ヶ月ってとこかしら)
明の存在は前例がないためハッキリとした確証はないが、おそらくその程度だろう、とキリエは大よその見切りをつける。
(あたしたちは相当な勘違いしてたみたいね。あいつがなぜすぐ鬼にならないか、それは――)
――鬼喰らいの因子が抵抗しているからだ。
(そう考えれば辻褄が合う。あいつは鬼の力をコントロールできているわけではなく、鬼と鬼喰らいの両因子がギリギリで拮抗できているだけ)
キリエの考えはおおむね正しく、補足するなら明の心も微々たるものではあるが、明が理性を保つのに一役買っていた事くらいだ。
(あいつが鬼喰らいの力に目覚めた時も思った事だけど、あの時だけだと思ってた。でもそれってきっと間違い。あいつの中では今でも鬼と鬼喰らいの力が戦い合ってる)
いつ崩れてもおかしくない拮抗の上に、今の明が存在する。その事実にキリエは背筋が冷える感覚を味わった。
だからと言って鬼喰らいの力を使うようになればまた安定する、と言われるとそうでもない。鬼の力は鬼を喰らえばどうとでもできるが、鬼喰らいの力は使い込んでもすぐには上達しない事の方が多いのだ。
おまけに彼の力は鬼喰らいからしてみれば強力極まりないが、本人からしてみればひどく使いづらい能力なのだ。あの力を強化するのはなかなかに難しい。
(……まあ、本人も気付いているでしょう。あいつ、基本的に頭の回転は速いみたいだし。それに……最後は決まってるんだから)
――あいつが何を思い、どんな道を歩んだとしても。最後にはあたしが喰う。
そう胸に秘め、キリエは再び調べ物に没頭した。
「……ふぅ」
一方、明は特にその事を危惧してはいなかった。当然気付いてはいる。だが、些事であると思っていたのだ。
長生きできない? 元より承知している。あの日消えるはずだった命が未だに永らえているのだ。その終わりが見えてきているだけである。
自分の命がどのくらいかは分からない。だが、少なくとも一年以上は絶対に持たない。それだってこれ以降、一切鬼にならなかった場合だ。
最近の厄介事の集中率が異常なのは疑いようがない。それは明も自覚しているため、これ以降も鬼にならない保証などない。むしろ鬼になる確率の方が高いくらいだ。
(……まあ、やるだけやってやるさ)
最後の最後まであがき続ける。どんなに絶望しようと泣き喚こうと結局のところ、人間それしかできないのだ。明が不幸の嵐に揉まれながら得た真理である。
「そろそろ移動しないか? ここにいつまでもいるわけにはいかないし、これ以上の情報を得る事は無理っぽいぞ」
「そうね。カグラ、先進むわよ。………………少しだけ待ってください。あとで必ず、埋葬させていただきます」
明の言葉にキリエがうなずき、遺体に黙とうを捧げてから部屋を出る。神楽もそれにならい黙とうを捧げる。
「…………」
明はこれだけ無惨な現状に心動かされない自分に嫌気が差しながらも、キチンと黙とうを捧げてキリエたちに続いて部屋を出た。
「証拠も掴んだし、応援も一応呼んでおいた。あとは……叩き潰すだけ」
情報はほしいけどね、と言ってキリエは刀を鞘から抜き放つ。
「もう我慢しなくて良いんですね……。ふふふ、右目が早く解放してくれって言ってるのが聞こえます……」
「おい待てよ……。中にまだ人がいるかもしれないんだぞ。その人たちはどうするつもりだ?」
「好き好んで殺すつもりはないけど……、ここを破壊する過程で死んだらご愁傷さまね」
あっけらかんと言い切るキリエに明は愕然とする。キリエの言った事は、自分の命よりも人の命を優先する明としては耐えられない事だった。
「好き好んで殺さないならせめて避難勧告ぐらい出しておくべきだろ! 中にもまだ囚われている人がいるかもしれないんだぞ!」
「これ以上の長居は危険なのよ! だったらさっさと破壊してしまうべき! カグラも賛成してるのよ!」
「それでもだ! 俺たちはここに囚われている人を助けに来たんだろ」
「――それは違うわ」
キリエは先ほどまでの荒げた声を一変し、ゾッとするほど静かな声を出す。そのあまりの迫力に明も黙り込む。
「あたしたちのやるべき事はこの研究所の破壊。言葉は悪いだろうけど、その過程で誰が死んだってあたしたちには関係ないわ」
「……だけどなあ!」
「納得しろとも割り切れとも言わないわ。ただ、人を助ける事を優先して目的が達せられない事が一番ダメなの。あんたなら分かるはずよ」
「……っ!」
キリエの言葉に明は反論できない。確かに明は目的のためなら多少の手段は選ばない面もあり、誰かを助けるためならば、ためらわずに茨の道を歩める。つまり、目的を何よりも重要視するのだ。
だが、明の言う目的はいつだって誰かを助ける事が前提条件である。彼の中には人の命より優先される目的などない。
「……カグラ、先に行きましょう。あんたがそこで立ち止まるのは一向に構わないから」
何も言えない明に対し、キリエは落胆したようなため息をついて明に背を向けた。
「……俺も行く。お前らのやってる事に納得できたわけじゃ間違ってもないけど……俺は俺のできる事を全力でやる。キリエたちだって可能な限り殺しはしたくないんだろ?」
「当たり前じゃない。あたしたちは快楽殺人者じゃないっての。……だけど、あんまり長くはいられないわよ。それにあんたの攻撃力が要でもある。あんまりグズグズするようならぶった切るからね」
「手厳しい事で」
キリエの言葉に苦笑しながら、明はキリエの隣に立つ。先ほどあんなに言い合ったにも拘らず、明の立つ位置はキリエの隣であり、キリエもそれを当たり前のように受け止めている。
その後ろに神楽が続き、三人は再びリノリウムの硬質な床を歩き始めた。
「まず、奥から壊していった方が楽になるわ。壊し損ねた部分も出ないだろうし、含んでいる情報も全部壊せるから」
「ふむふむ、一理あるな」
「そうですね。同感です」
キリエの説明に神楽と明は何度もうなずく。満場一致で奥から破壊していこう、と決定した三人は足を速めて研究所の中を進む。
「……普通に怖くなってきた」
不気味な静寂を保つ廊下に明は背筋を震わせる。今までは気分が高揚していたため平気だったのだが、先ほどの光景も合わせて言い知れぬ恐怖が背筋を上ってくるようになっている。
「今さらな事言ってんじゃないわよ。さっさと終わらせましょ」
「……階段も含めて、さっさと終わらせましょう。あの部屋なんてどうです?」
『賛成』
いい加減面倒臭くなっており、さっさと済ませたいキリエと明が断るはずもなく、神楽の指差した部屋の中に転がり込む。
しかし、彼らは失念していた。
この研究所の中に人がいないなんて事、あり得ないという事を。
「おやおやぁ? 実験体が向こうから来ましたよ? こりゃあラッキーですね」
小柄で三つ編みにした髪を垂らした白衣姿の女性がこちらに向き直る。
眼鏡をかけており、その奥から冷徹ともまた違う――生物を見る目で明たちを見渡す。
「一応、自己紹介でもしておきましょうかぁ? ――わたしは研究室室長の最上あやこです。ちなみに名前は平がなです」
短い付き合いでしょうけど、よろしくお願いしますよ? と女性――最上あやこは笑った。
――親から新しい玩具を与えられた子供のように。
どうも。大学が始まって書く時間がイマイチ取れません。アンサズです。
主人公の状態はすでにいつ起爆してもおかしくない時限爆弾と同じです。人としての理性が消えて喰われるか、あるいはそうなる前に鬼の因子を消す方法を見出すか……お楽しみください。