二章 第九話
結局、鬼の死体は折よくやってきたキリエの胃に入る事となった。明の傷が治る頃にはどうしたって腐ってしまうのが予測されたからだ。
「んで、傷は大丈夫なわけ?」
「まだ。さすがに折れた骨が内臓に突き刺さってるのは治りが遅い」
体内で骨が元の場所に戻ろうと蠢いている感覚はあまり気分の良いものとは言えなかった。というか痛い。
明は痛みと良いとこどりをしたキリエの事に顔をしかめていた。
「……ところで、キリエはどうしてここが分かったんだ? 俺はかなり適当な説明をしたと自負してるんだが」
「そんなところで誇らないでほしいわね。……ぶっちゃけると、カグラのところに来た命令内容を見せてもらったの」
「どうやって?」
「ハッキング。昔っからそういうのは得意なんだ。後はあんたの気配を追うだけ」
彼女は組織内で厄介者扱いされる理由を少しだけ理解できた気がする明だった。そしてそんな無茶をさせてしまった事に対して罪悪感も抱く。
「あー……悪い。キリエに無茶させた。それと昨日の事も悪かった」
「別に気に病む必要なんてないわよ。あたしも結構楽しんでるし。あと、昨日の事はあたしも悪かったわ。ごめんなさい」
「いや、あれは俺が悪いだろう。無神経だった」
「いいえ、あたしがバカだったわ。あんたにもあんたの苦しみがあるって事、すっかり忘れてた」
「いや、俺が……」
「あたしが……」
際限のない謝り合戦に終止符を打ったのは神楽だった。
「あー、はいはい、お二人とも悪いと思っていらっしゃるんでしたら、喧嘩両成敗で終わりにしましょう。話が進みません」
二人の間に割り込み、非常に疲れた顔で二人を引き離す。明たちもそれで納得し、口を閉じる。
「……そろそろ傷も治ってきた。あとは安静にしていれば大丈夫だと思う。いったん戻らないか?」
明の提案に反対する者はいなかった。
「んじゃ、今回の件について話すか。俺一人が布団で寝てて悪いけど」
「いいえ、明さんが一番重傷なのですから、気にしないでください」
神社の方に戻り、未だ満足に動ける状態ではない明が布団に横になってから、三人で考察会をする事になった。
「まずは組織への報告ですが……悪霊との交戦中、鬼が出現。さらに鬼が悪霊を吸収し、人語を解するようになったってところですかね」
「……質問があるんだけど」
「奇遇ね。きっとあたしも同じ質問だわ」
明とキリエがまったく分からないと言わんばかりに首をかしげていた。
『今さらだけど、悪霊ってなに?』
「……そこからですか」
「だって、あたし鬼喰らいだし」
「お前が詳しく説明する前に戦闘に入ったから」
悪びれもせずしれっとしている二人に神楽は殺意を覚えたかどうかは定かではない。
「はぁ……。悪霊というのは言葉の通り人間の霊魂、とでも言いますか……、とにかく人の負の想念が凝り固まって意思を持った、と考えてください」
「……なんか普通」
「そうね。テレビで言われているのと大差ないじゃない」
言いたい放題の二人に神楽は拳を強く握りしめる。今度こそ本物の殺意を覚えた。
「少し黙ってくださいね。黙らせますよ?」
『ごめんなさい』
明も布団から起き上がってキリエと一緒に土下座した。今の神楽からは逆らってはいけないオーラが出ているのだ。眼帯をチラチラと動かすのはやめてほしい。
「……まあ、悪霊の方はさておいて。あの鬼はいったい?」
「こればっかりはどうにもね……。あたしは最後の方に来ただけだから何とも言えないわ。カグラ、あんたは何か分かる?」
「そうですね……。やはり、鬼は悪霊を一定数取り込むと人語を解するようになるのでは、という事ぐらいです。他にも理性のある鬼は様々な攻撃をしてきました。腕を伸ばしたり、全身から針を飛ばしたり、皮膚を光らせてわたしの浄眼を反射したり」
言葉にしてみるとあまりに多彩な攻撃だったと明と神楽は二人で遠い目をする。よく生き残れたもんだ。
「……あんたたち、苦労したわね」
二人の様子からどれだけの激戦を生き抜いたのか悟ったキリエはしみじみとうなずく。明と神楽は肩を叩き合ってお互いを慰め合った。
「ええまったくです。そもそも、悪霊の数だって報告より多いですし……。これは向こうの怠慢です。わたしはこれから徹底的に組織に文句を言うつもりですが、キリエさんはどうします?」
「あたしはこいつ見てるわ。まだ傷も治り切ってないし、日本支部じゃあたしは外様だから」
神楽が立ち上がり、携帯片手に部屋を出て行くのを見送ってから、キリエは明に向き直る。
「……で? あんたは大丈夫なわけ?」
「まあ、ね。あの傷もそろそろ治りかけだ。ったく、恐ろしいんだかありがたいんだか」
布団の中で明は肩をすくめる。人間にはあり得ない回復力をまざまざと見せられた事に対しては恐怖を抱くが、今回はその回復力がなければ間違いなく死んでいた。
「じゃあ、面倒な事を考えるのはやめてあたしに喰われる?」
明の弱音を見抜いたキリエが犬歯を見せていたずらっぽく威嚇してくる。明はそれをおざなりに手を振る事で拒否した。
「お断りだ。俺を喰うんだったら俺が死んだあとにしろ」
そう言って明は布団をかぶってキリエに背を向ける。
「ったく口が減らないわね……。今すぐ喰ってやっても良いのよ」
明の様子をキリエは面白くなさそうに見て、その体の上に覆いかぶさる。
「なっ……!?」
さすがの明もこれには狼狽し、何とか抜け出そうとする。だが、体の傷が痛んでいる現状では容易く抑えられてしまう。
「んふふ……、今のあたしにあんたは抵抗できるかしら?」
舌舐めずりをして明を見下ろすキリエ。そのゾッとするほど艶めかしい姿に明の背筋が冷える感覚を味わう。
キリエは獲物を前にした獣のように頬を上気させていた。左右から流れている髪が明の首筋をくすぐり、むずがゆい感触を与える。
(これは……マズイかもしれん)
理性がどうこうではなく、喰われるかどうかの危険だ。ついでにこの光景を神楽に見られた場合、社会的地位が底辺に落ちるのも明の気にかかる内容だった。
「……ヤバ、見てたら本気で喰いたくなってきた」
キリエの瞳の焦点がどんどん合わなくなっていき、表情をも虚ろなものとなっていく。どうやら理性は向こうの方が先に失われていくみたいだ。
(って我慢比べしてるわけじゃないんだから、んな事は別に良い! この状況は……ヤバい!)
何がヤバいって命がヤバい。このまま手をこまねいていたら冗談抜きで死ぬ。
「こ……のっ!」
首筋に降りてきた端正な顔に対してかち上げるようにアッパーカット。綺麗に決まったかどうかは素人の明には分からないが、キリエの目が白目を剥き、体が不自然に崩れ落ちた事から成功したと見えた。
「ったく油断も隙もあったもんじゃない」
げしげしとキリエの体を蹴っ飛ばして遠くに追いやる。さりげなくキリエの服が乱れるが、そんな事より身の安全が大事だと明は一切気にしなかった。
一通りの安全を確保してから、明はようやくキリエの格好に目がいく。そしてこれは非常にマズイと考えた。
「よっこいしょっと……。寝ても覚めてもはた迷惑な奴……」
起きてる間は明の事を虎視眈々と狙っている上、寝ていても明の社会的立場を殺そうとしてくる。確かにこれだけ見れば迷惑極まりない。
だが忘れてはいけない。少なくとも現状でキリエを寝かしつけたのは明に他ならないという事を。
自分のやった事を棚に上げ、明は布団から這い出てキリエに毛布をかけに向かう。立ち上がろうとすると生きてるのが嫌になるほどの苦痛が走るため、ほふく前進みたいな動き方をしている。
「……何でこんなことしてるんだろう」
明自身もバカバカしい事をしている自覚はあるようで、非常に形容しがたい顔でキリエに近づいていく。
眠っているキリエの顔はその辺の機微に疎くなっている明をもってして見惚れさせるほどだった。驚くほど長いまつ毛。わずかに開いた唇から洩れる吐息も艶めかしい。
自分でも意図せずに心臓がバクバクするのが抑えられない。その事に首をかしげながらも、明はキリエに毛布をかけようとして――
「いやー、今まで溜まりに溜まった鬱憤を晴らしていたら時間がかかっちゃいました」
妙に晴れ晴れとした顔をしている神楽が入ってきてストップした。
「………………」
「………………」
空気が痛かった。神楽は虫けらを見るような目で明を見下ろし、明は明でごまかし切れないと悟ったのか、脂汗をダラダラと流していた。
明もよくよく考えてみれば、この状況は第三者の視点から見ると、マズイ通り越して性犯罪者になってしまう事にようやく気付く。今まではただ漠然と危機感を感じていただけだが、ここにきてようやくハッキリと自覚した。
「あの、実は――」
「――天誅!」
せめてもの弁解をしようと思って口を開いた瞬間、神楽の抜き手が明の喉に直撃した。
「っ!? ごほっ!!」
呼吸がままならなくなった喉にこれはヤバい、と明は命の危険を再び察知するが、すでに神楽は追撃の準備に入っていた。
結局、肉を打つ音でキリエが目覚めるまでの十分間、明は死の淵に行ったり来たりを繰り返した。
「その……本っ当にすみませんでした!」
「いいよいいよ。あれは俺が悪かったし」
切腹せんばかりの勢いで謝り倒す神楽に明は苦笑で返す。思い返してみれば、あの時正義があったのはどう考えても神楽の方だ。むしろ誤解されるような行動を取った自分に非があると明は思っていた。
実際に口に出すと神楽がうるさくなるため、言うつもりはないのだが。
「じゃあ、傷を冷やしたいからタオルを水につけて来てくれないか? うん、あれは俺も悪かったと思うし」
「はいっ!」
勢いよくうなずく神楽の耳に犬耳が幻視されたのは明の矜持にかけて黙っておく事にした。
バタバタと出て行く神楽の後を見送りながら、明はキリエの方に向き直る。
「キリエ」
「なによ性犯罪者」
のっけから拒否されて泣きたくなるが、グッと堪えて話を続ける。
「俺はお前のモノだ」
「な……、何言ってんのよ。そんなの当たり前じゃない。あんたはすでに予約済みなんだからね」
いきなりの言葉にキリエは面食らうが、すぐに気を取り直して、やや赤くなった顔のまま言葉を返す。
「でも、俺は俺だ。その事だけは覚えておいてほしい」
「……あんた、何かあったの?」
今までの明を見ていた者からは想像もできない事を言った明に、キリエは怪しいものを見る視線を投げかけた。
「まっ、ちっとばかし心境の変化があってね。色々と考えるのはやめた」
その視線に苦笑しながら、明は自分の意思をハッキリと述べる。
「いつかお前に喰われる。それが俺の死因となるか、死後の出来事かどうかは分からない。ただ――」
「ただ?」
「俺が俺でなくなったと判断した時は……容赦をしないでほしい」
後悔を抱え、腐って生きるなんて明はゴメンだった。腐って生きるより輝いて死ぬ。自己中心的な考え方である事は明も承知していたが、死ねば他人を気にかける事などできなくなる。
ならば気にしないでいいじゃないか、と明は自分勝手に生きてしまう事を決意した。どうせ親はいないのだ。早く死んでも親不孝にはならない。
そんなある種の開き直りみたいな考えを今の明はしていた。
「……分かったわ。あたしから見てあんたらしくないと判断したら……あんたを喰う」
「それで良い。頼んだぞ」
明はこう見えて結構不安を抱えている。これからどうなるのかという未来への不安はもちろん、自分の体の抱える不確定要素の多さや、その自分を狙ってくるであろう何かに対する不安も存在する。
一々不安になって震えている自分を想像し、明はそれが嫌だった。だからどんな事実が襲ってきても、変わらない一つを抱える事にした。
それが先ほど言った、自分が自分であり続けると言う事。
「まっ、そこまで重苦しく捉えなくても良いさ。その時は頼むって事だよ」
明がようやく見つけた変わらないものを誰かに言うつもりはなかった。神楽は成り行き上聞いてしまったが、あれはノーカンだ。
「……ったく、あんたって本当に変な奴」
キリエも最初は真剣な顔で聞いていたが、すぐに呆れた顔に変わっていった。
「――でも、嫌いじゃないわ。あんたみたいなバカ」
そして最後には優しい笑顔になって、そう言った。