二章 第七話
『ん? お前、同族なのか?』
「お前と、一緒にしないでほしいね!」
しゃべる鬼に対して、明は接近して爪を振るう。しかし、それは手首の方を鬼に掴まれて阻まれてしまう。
『違うのか? ……ああ、確かに。お前は臭いが違う。我らが嫌う臭いも持っている。どういう事だ?』
そのまま手首を掴んで明の体を持ち上げた鬼が不思議そうな顔をする。鬼の表情など分からないから、明の勘で言っているだけだが。
「そんなの……こっちが聞きたいね!」
掴まれた腕に全力で足を振り上げ、腕に爪を食い込ませる。
『むっ!?』
獲物だと思っていた存在からの手痛い攻撃に驚き、鬼が腕を離す。着地し、明は手首の調子を確かめ、すぐに追撃に移る。鬼の再生力を身をもって知っている身なのだ。その脅威は一番良く分かっている。
「神楽! 援護頼む!」
「任せてください! 術式展開、縛の式!」
神楽の声とともに鬼の体にどこからともなく現れた荒縄が巻き付かれる。
『ぬぅっ!?』
その隙を逃さず、明が爪で連続攻撃を先ほど作った腕の傷に一点集中して叩き込む。肉を抉る感触と撒き散らされる鉄の臭いに吐き気を覚えるが、それで止まるわけにはいかなかった。
『小癪な餓鬼どもがぁ!!』
「えっ!? 力任せに引きちぎった!? 明さん、離れて!」
「言われなくても!」
神楽の警告が届く前に明は地面に着地していた。鬼の状態である明の方が直感には優れているのだ。
『お前らなど我らに喰われていればいいのだ! 家畜が飼い主に牙を剥くなど言語道断!』
「お前に飼われた覚えはない!」
『ふん! 何も知らぬ愚か者どもが!』
「え……? それはどういう――」
神楽が疑問の声を上げるが、それより先に鬼の剛腕が振るわれた。
「かぐ――」
ら、と続けようとした明だが、鬼の腕が圧倒的なスピードで神楽を薙ぎ払ったため、続けられなかった。
(あの体で俺より速いのかよ!)
動きは目で追えたものの、一切反応のできない速度に明も戦慄を隠せない。それよりも、今は神楽の怪我を見る事が優先だった。
「神楽! 大丈夫か!?」
あれだけの質量を信じられない速度で受けたのだ。何の対策もなしだとしたら、神楽の体は目も当てられないほどバラバラになっているはず。
「ケホッ……何とか防御術式が間に合いました……。ですがアバラが二、三本折れてます」
「そうか……」
神楽の怪我の様子ではまともに戦えそうになかった。どう考えても戦線離脱は免れない。
(どうする? これ以上まともにやり合っても勝ち目は間違いなくゼロ。俺だけじゃあいつを倒すなんて土台無理。キリエがいれば何とかできたかもしれないけど……今はない物ねだり。この状況下で取れる手段なんて少ない……)
次の一手に繋げられて、なおかつ自分でもできそうなこと。明の頭は必死にそれを探す。
「……神楽、治癒はできるか?」
「はい。……けど、あなたに比べれば微々たるものですし、この状況で使えるものでは――」
「それでいい、使ってくれ。……時間稼ぎは俺がやる」
結果として、明の出した結論は時間稼ぎだった。彼はまだ戦い方をよく知らず、おまけに切り札と呼べるものがほとんどない。
鬼喰らいの能力はすごいものがあるが、爪の威力まで底上げはしてくれない。そもそも、明の爪では鬼の体を両断まで至れないのだ。傷口を広げるように殴り続ければ話は別だが、そんな時間を目の前の敵が与えてくれるとは思えない。
(……ん?)
そこまで考えて結局特攻かけるしかないか、と半ば諦めたところで何かが思考に引っ掛かった。何か、まだ見落としている気がするのだ。
(落ち着いて考えろ……。俺は鬼であって鬼喰らい、目の前にはおそらく新種の鬼。鬼喰らいとしての能力使用は残り一回が限界。自分に使うにしても、効果が切れたら動けなくなる事は必至。鬼としての身体能力もあいつに劣る――あ)
ようやく思い至った。今まで見落としていた部分を。
(俺は――鬼喰らいでもあるんだ……!)
名前の通り、鬼を喰らう事によって力をつける存在。
彼が鬼を喰った場合、どんな事になるか誰も想像ができない。だが、この状況下ではそれが最善の手だった。
少しずつでも構わない、牙であいつの肉を喰らう事により地力であいつを上回る。
(地道な作業だし、おまけにあいつの懐まで入る必要がある。だけど、生き残るにはそれしか方法がない……!)
神楽を抱えて、あるいは置いて行っても逃げられる相手ではない事は分かっていた。そのため、初めから逃げる選択肢は存在しない。
(だけど……こうして見ると怖いな)
一人で相対するとなると、どうしても恐怖が生まれてしまう。背中を任せられる存在がいかに重要であるかを学ぶ一方で、カチカチと鳴ってしまう歯を強く噛み締める事で恐怖を抑えつける。
こんな恐怖を感じるのなら、最初に戦った鬼の時みたいに感情などなかった方が良い、と情けない心は思ってしまう。
「……勝負っ!!」
その全てを前に出る事で忘れ、明は強大な壁に向かって走り出した。
『餓鬼が図に乗るなあ!』
やはり振るわれた腕は明が回避できない速度だった。
だが、明にもそれは分かっていた。ゆえに回避なんて手段を取らず、受ける事を目的にしていた。
「ぎ……っ!」
明の左肩に鬼の腕が喰い込み、不自然な形にひしゃげる。骨が折れるよりもひどい苦痛に意識の八割強が持っていかれるが、気を失う事だけは免れる。
受け止めた腕が離れないうちに、無事な右腕で掴み返す。そして思いっきり牙を立てて肉を噛み裂く。
『むぅっ!?』
鬼の驚くような声を無視して、転げるように距離を取って肉を咀嚼する。
(これは……)
お世辞にも美味いとは言えない味だった。血の臭いはするし、歯応えも固い。
だが、恐ろしいまでに甘美な快楽が明の全身を包んだ。
血の一滴が、肉の一欠けが、細胞の一つまでもが自らと一体化し、存在そのものを高める快感。味がどうこうという問題ではない。
「――はっ! こんなにすごいのなら、キリエがあんなに夢中になるのも分かる気がするね! 力が底知らずに上がっていくのが分かる!」
それもちょっとかじった程度の肉だけで、だ。もしもこれをあの鬼の巨体全てで味わえるとしたらどれほどの快楽だろう?
そう思うだけで明の体に震えが走る。今すぐに捨て身でも何でもいいから突っ込んであの肉を貪り喰らいたい気分だ。
しかし、ここでそんな事をすればズタズタにやられてしまうだけだ。
忘れてはならない。今の明は後ろに失いたくないものを抱えている事を。それを助けるために全力を尽くすのだという事を。
(……まあ、あんなのでも最近は人当たりも良くなってきたし、死なれたら寝覚めが悪いからな。それにあいつ死んだら俺も死ぬし)
明に鬼を倒す力は求められておらず、ひたすらに時間を稼ぐことのみが目的なのだ。鬼の肉を喰らうのもこちらに注意を惹きつけながら己の力を強化するという一石二鳥に過ぎない。
『そうか……! 我の肉を喰らった途端、力をつける……。お前、我らの敵の血も入っているな!』
「正解! こっちの能力は戦闘には向かないんでね。お見せできないのが残念だよ」
自分の能力強化に使う手もあるが、決定打にはならないのが分かっているので使えない。
『ならばこれ以上喰わせるわけにはいかないな……、死ねぇっ!!』
そう言った鬼は腕をその場で振るう。絶対に当たらないと分かっている位置からの攻撃に明は怪訝そうな顔をするが、すぐに意味を思い知らされることになる。
薄く鋭くなり、なおかつ伸びてきたのだ。
「ひ……っ!?」
喉から引きつった声が漏れ、足がもつれて尻もちをついてしまう。その頭上を風を切り裂く音とともに刃状になった腕が通り抜ける。
避けられたのは運が良かっただけだ。一歩間違えれば首、あるいは上半身が斬り飛ばされていただろう。
「明さん!?」
後ろから聞こえる神楽の声に明はかろうじて親指を立てる。もっとも、震えまくっているので格好はつかないのだが。
『今のを避けたか……褒めてやろう、と言いたいところだがその様子では単なる幸運のようだな』
「…………」
舌打ちの一つでもかましてやりたい明だが、全身の震えが口内にまで伝染して話す事すらままならない。
立ち上がろうにも足が生まれたての小鹿のごとく震えて、地面を踏みしめる事すらできない状態の明に鬼がゆっくりと腕を振り上げる。次で仕留めるつもりだ。
『……お前、我らの仲間にならないか?』
殺される覚悟をして目を閉じていた明にかけられたのは思いもよらない言葉だった。思わず呆気に取られて鬼の方を見つめてしまう。
『お前からは確かに嫌いな臭いがする。だが、同族の臭いがするのも確か。我らは同族を殺すのを好まない。どうだ? 我らの仲間になれば命は助けてやるぞ?』
「…………」
魅力的な提案ではあった。自分の命が助かり、これ以降鬼に狙われる事はなくなる。その代わり鬼喰らいに狙われる事になるが、これほどの鬼が他にもいるのならほぼ百パーセント安全だ。
「…………」
後ろを振り返る。神楽の治癒術式はまだ終わらず、立てる状態にはなかった。
「あなたが……選んでください。どちらにしろ、遅かれ早かれ道は別れます。あなたが鬼として生きるか、鬼喰らいとして生きるか……」
「……ああ、そうさせてもらう」
明は立ち上がり、鬼の方を見る。不思議なほど落ち着き、体の震えが消えていた。
「俺は――」
「――どっちも選ぶかバカ!!」
「な……っ!?」
「何で俺が鬼喰らいだとか、鬼だとかそんなもんにならなきゃならねえんだよ! そんなの俺はゴメンだ!」
一度声を出した事で吹っ切れたのか、次々と叩きつけるように叫ぶ明。その姿を神楽と鬼が呆けたように見ている。
「いいか? 俺はな――」
「――俺なんだよ! 忘れるな!」
明とて鬼として生きるか、鬼喰らいとして生きるか、悩んだ事はある。普通に生きられるとは思っていなかったので、平凡な人生は最初から視野に入れなかった。
もちろん、明とて健全な高校生だ。堅実に生きる願望の他に、刺激的な世界を生きてみたいという願望はあった。そんな世界に生きる自分を夢想した事だってある。
そして思い知らされた。刺激的な世界は明の考えている以上に厳しい現実を突き付けてくるという事を。
それらも含めて、明の出した結論はこうだった。
鬼とか、鬼喰らいとか、裏とか、表とか、全てが自分に少しずつ関わっているというのなら、自分は自分のままであり続けてみよう。
「結局、俺はどこまでいっても俺にしかなれない。鬼であり、鬼喰らいでもあり、裏の世界の住人でもあり、表の世界の住人でもあり、そして――全部ひっくるめて草木明だ」
それが自分の在り方。明はそう決めた。
迷いもする。悩みもする。表か裏か、苦しみもするだろう。でも、自分が自分である事だけは揺るがせてはいけない。
「……バカみたいです。そんな甘っちょろい事、すぐに叩き潰されるのがオチです」
『……所詮、家畜は家畜止まり、か』
鬼からダメ出しを受けるのはともかく、神楽にまで否定されるとは思わなかった明はちょっと泣きそうになった。
「何とでも言え。……まあ、あんたに助けてもらえないのは残念かもしれないけどな。それより、後悔すんのが嫌になっただけだ」
命と意地、天秤にかけて後者を取ってしまう自分の精神異常はまだ治ってないのかもしれない、と内心で思いながら明は鬼の問いかけに対する返事をした。
「つーことで神楽。お前は絶対に守る。理由は聞くな。これと言ってハッキリした理由はないから」
後ろを振り返り、神楽の方に力強い笑みを向ける。今の明に恐怖はなく、あるのはさざ波のように小さく、けれども確かな昂揚だけだった。
「いや、人としてそれはどうかと思いますけど……」
一応、助けられる人としては理由も聞きたいですし、という神楽のぼやきを明は華麗に流して鬼と対峙する。
『……どうやら家畜らしい死を選んだようだな。なら、我はお前を同族とは思わない』
「そりゃどうも。俺もお前と同族扱いされるなんてゴメンだね。……あんたを倒す」
話している間に明の傷は完治していた。例え傷が治っていなくても、今の彼に傷の痛みなどさしたる効果を成さないだろうが。
『家畜にできると思うな!』
「家畜言うな! 俺は――俺だ!」
拳を握りしめた明が突撃し、それに迎撃の拳が放たれる。
二つの拳がぶつかり合い、火花を散らす。
ここで弾かれるのは体格的に小さく、力もない明だろう。
だが、弾かれたのは両方だった。
『ぬぅっ!?』
「へへ……火事場の馬鹿力ってやつかね」
鬼は信じられないような様子で、明はある種の確信を込めてニヤリと笑う。
――ここに来て、明は相手の土俵に立つ事ができた。
ようやく主人公らしい見せ場です。以後、明はずっと“己”である事を貫くために動き続けます。
…………体調崩しました。こんな調子で大学行けるのだろうか……。