閑話 後編
「ねーえー、やーきーそーばー」
明の周りをチョロチョロとキリエが纏わりつき、焼きそばを買うようにねだる。
「……そこまでほしいのか?」
いい加減うっとうしくなってきたキリエを追っ払えるなら多少の出費は安いものだ、と自分を納得させた明は財布を取り出す。
「やたっ! 楽しみだったのよねえ、日本の海で食べるやたらと高い焼きそば」
「ふむ、お前が海の家で焼きそばを食べたい気持ちは分かった。だが、まずは泳いでこい。あれは疲れた状態で食べる事で初めて効果を発揮する」
何も運動していない時に食べたって普通の焼きそばとしか思えない。あれはクタクタになるまで遊んでから食べないと意味がないのだ。
「ふーん、そういうものなんだ。じゃあ泳ぎましょ!」
「待った。こっちだって少しは先生とか七海さんを手伝ってこないとダメだろう。それに今回の海水浴は何のために来たのか忘れたのか?」
「焼きそばのためじゃないの?」
言いだしっぺがコンセプトを忘れている事実に、明は思わずキリエの後頭部をはたいて突っ込みを入れてしまう。
「あまりの返答につい手が出てしまった」
「いつつ……なにすんのよ!」
「いや、すまん。それより戻るぞ」
いきなり頭を叩かれたキリエがいきり立つ。明は一言謝ってから、キリエの手を掴んで歩き出した。
「あ、ちょっと!」
「一応、七海さんも誘わないとダメだろう。お前だって固い雰囲気撒き散らされるのは嫌なはずだ」
「あぁ……そんな事言ったっけ」
「覚えてろよ……。お前が言い出した事だぞ」
焼きそば以下の立ち位置にいる神楽にさすがの明も同情の念を禁じえない。これは自分だけでも真面目にやらなくては、と気合を入れる。
「それにしても……」
神楽たちのところへ戻る時、明がチラッとキリエのわき腹に視線を向ける。以前、そこには鬼の爪で切られた生々しい傷跡が存在した。
しかし、そこには滑らかな白磁の肌があるばかりで、傷の線すら見受けられない。
「……スケベ」
明の視線に邪まなものを感じたのか、キリエがわき腹を隠すような仕草をする。傷の事を心配していた明としてはやり切れない。
「違う。そういう意味で見てたんじゃない。ただ……傷は大丈夫かって思っただけだ」
あまり表情を変えずに淡々と理由を述べる明にキリエは危機感を抱いた。
「ああ、そういう事……。……感情減退が進んでいるわね……。あんま良い傾向じゃないわ……」
「ん? 何か言ったか?」
キリエが何か言ったのを耳ざとく聞き付ける明。キリエはそれに首を横に振って気にするな、というサインをする。
「何でもない。傷は大丈夫よ。あんたほどじゃないけど、鬼喰らいだって治癒力は高いんだから」
「……ならいいけど。あまり無茶するなよ。男の傷は勲章で済まされるけど、女の傷は醜いって思われる事が多いからな」
明の言葉を曖昧に笑ってごまかす。この少年は自分の言っている事のおかしさに気付いていないのだろうか。
確かに鬼であり鬼喰らいである彼は異端者に分類される。
だが、その精神は多少壊れかけているとはいえ、未だ一般人を脱し切れていない。裏の世界の厳しさを何も知らない無垢な少年なのだ。
その彼が裏の世界の住人である自分を心配する。もちろん、気にかけてもらっている事に悪い気はしないが、それにしたって己を省みなさ過ぎる。
このままではそう遠くない未来、彼は殺されるだろう。感情を全てなくして自分に喰われるか、はたまた助けようとした相手に裏切られるか、もしくは別の脅威に叩き潰されるか。
(……どっかで感情を無理やりにでも思い出させた方が良いわね)
その方が明のためにもなるだろうし、何より自分の精神安定になる。何だか今の明は動じなさ過ぎてキリエでさえ不気味に感じてしまうのだ。
「あー……七海さん?」
キリエが脳内で『アキラの感情を復活させようの会』を発足し、自分A、B、Cと熱弁を交わしていたところ、明は一人で神楽に話しかけていた。
「あ、はい……何か用ですか?」
神楽はすでにオイルを塗ってもらった後なのか、皮膚がそこはかとなく光沢を放っていて艶めかしく、耐性のない男性なら卒倒できる破壊力があった。事実、神楽の周辺にいた男性たちは一人残らず彼女らしき人に叩かれている。
「一緒に遊ばないか……、って誘いに来たんだけど……」
ビーチパラソルの下には神楽の姿しか見えなかった。楪も一緒にいたはずなのだが、姿が見当たらない。
「先生なら先ほど、飲み物を買いに行きました。もうすぐ帰ってくると思いますよ」
神楽は警戒心もあらわに明に返答する。もう少し何とかならないものかと、情動の少ない明でさえ辟易してしまう。
「……じゃあ、俺もここで待つ事にするよ。キリエはどうする?」
「うーん……。あたしは泳いでくるわ。もっと人数揃わないとビーチボールでも遊べないだろうし」
キリエはやや考えた素振りを見せ、すぐに立ち上がって海へ向かった。去り際に明へ応援の視線を投げかけていくあたり、彼女も神楽の態度は問題だと思っているのだろう。
……明に丸投げしているため、他力本願も良いところだが。
「………………」
「………………」
明が隣に腰を下ろすが、神楽は一言もしゃべらない。例によって気まずい空気が当たりに蔓延し始める。
「あー、七海さん? 俺の事を監視し始めてそろそろ一週間になるんだから、もうちょっと態度を軟化させても……よろしい……じゃないかと……俺は愚考するんですけど……」
撒き散らされるわたし不機嫌です的なオーラにだんだんと委縮していき、最終的にはぼそぼそとつぶやくような事しか言えなくなってしまう明。
「……たは」
「ん? 悪い、聞こえなかった。もう一回言ってくれないか?」
「キリエさんがハッキリと言わないので、今まで黙っていましたが……。もう限界です。言わせていただきます。今のあなたは異常です」
威圧感の籠った瞳で神楽は明を見下ろす。明はそれに対し、特に動じる事もなく言葉を返す。
「異常なのは分かり切った事だろ? ほら、俺の体って鬼と鬼喰らい、両方持ち合わせているんだし」
「そういう事ではありません!」
「じゃあどこ指して言ってるんだよ」
明の的外れな答えに激昂する神楽だが、明は顔の筋肉すらまともに動かす事がない。強いて言えば瞳が呆れの色を宿しているくらいだ。
神楽は明の精神に起こっている異常をハッキリと見定め、同時に感情を失い始めている明が機械のように見えてしまい、背筋に悪寒が走るのを止められない。
「……わたしはキリエさんじゃありませんから、あなたに遠慮なんてしません」
「キリエは遠慮してないと思うけど……」
あそこまでズケズケとものを言ってくるのだ。遠慮のえの字も存在しないだろう。
「――今のあなたは心が壊れかけています」
「……は? 何言ってんだ? 心が壊れる? 俺、そんなキツイ目に遭ってないぞ?」
神楽の言った事が突拍子もない事に聞こえ、明はバカにしたような返答をしてしまう。しかし、神楽は厳しい目を緩めなかった。
「あなた、鬼になった事による変化が肉体だけで留まると思ってるんですか? それだったら今までの鬼になった人たちだって無事に済むでしょう」
「それは……確かに……」
認めたくないが、認めざるを得ない正論を突き付けられ、口ごもってしまう明。神楽はそれを見て、さらに追及する。
「鬼になるだけのみならず、鬼喰らいにまで覚醒した。これがどれだけ異質な事か分かります? 今までにも類を見ない事を成し遂げて、変わったのは体質だけなんて都合の良い話、そうそうありませんよ。世の中そんなに上手くできてません」
「……っ」
確かに、今の今まで気にしなかった――いや、意図的に気にしないようにしてきた事実を眼前にぶら下げられ、それを見ないようにできるほど明は器用な人間ではなかった。
苦虫を噛み潰したような苦々しい表情になる明に、神楽はなおも言いつのる。
「大体今のあなた、鏡見てます? すごいですよ。あなたの心境は苦々しいものがあるんでしょうけど、実際には眉が少し寄せられているだけです」
そう言って神楽が手鏡を取り出し、明の前に突き付ける。そこに映っていたのは――
――一切の感情が抜け落ちた人形のような己自身の顔だった。
「な……っ! 冗談、だろ?」
思わず顔を背けてしまう。自分でもそんな顔をしているとは信じられなかった。
確かに明自身、今までの自分と比べてかなり変わっている自覚はあった。だが、それはキリエがやってきたり、鬼との修羅場に片足を突っ込んだりと、明を取り巻く環境がガラッと変わったことに起因するものだとばかり思っていた。
「あいにくと現実です。おそらく、今のあなたは感情表現をこれまでの生活で身に付けた反射で補っているようですね。幸い、あなたの人間関係はそう広くなかったために今のところはごまかせていますが、三上さんや楪先生と言った付き合いの深い、あるいは人を良く見る性質の人は薄々気付き始めています」
「………………」
反論のしようもない言葉に黙り込むしかない。言っている事自体はひどく正論であり、明が目を背けてきた事実そのものだからだ。
「あなたはこのままいけば、いずれ心をなくして本物の鬼になるでしょう。そして、キリエさんに喰われます」
「それは……嫌だ」
「なぜです? あなたは確か、キリエさんに喰われる事を受け入れてませんでしたか?」
心底分からない、と言った風に首をかしげる神楽。明は声をわずかに荒げて立ち上がる。
「そいつは受け入れている! けどさ……!」
言葉にできないモヤモヤとしたものが胸に溜まり、上手く言葉にならない。
「そう……なんて言うか……、しっくり来ないんだよ。お前の言ってる通り、今の俺はあいつに喰われるために生きている。だけどさ……こういうのって、なんか違うんだよ!」
「…………」
神楽は黙ったまま明の言い分を聞いている。しかし良く見ると、その唇がわずかに弧を描いていた。当然、自分の事でいっぱいいっぱいな明は気付かない。
「俺は……!」
「おーい! 何話してんだ草木?」
その時、楪が両手にジュースの缶を抱えて戻ってくる。神楽は興味をなくしたように明から視線を外し、そっぽを向く。
「……帰り際、もう一度聞きます」
印象付けるように、あるいは明が逃げ出さないように釘を刺しながらの言葉だった。
三上たちと泳いだり、楪にパシられて酒を買いに行かされたりしながら、明はどうして自分がキリエに喰われる事を受け入れているのかを思い出していた。
あれはなぜだ。そもそも、どうしてあんなトチ狂った言葉を受け入れた。
死に方として悪くないと思っていた? それは確かにある。明の思いつく限り、美少女の手によって殺されるのはかなり上等な部類に入る死に方だ。
だが、それでは最終的に受け入れる理由にはなるが、現在の状態になる理由にはならない。
諦めていたからではないか? 鬼になりつつあった異常な状況に放り込まれ、何をすべきかも分からず途方に暮れていたあの瞬間、目の前にぶら下げられた魅力的な解決策にすがっていただけなのではないか?
自分は――できる事を何もせずにただ、滅びを受け入れていただけなのではないか?
一瞬でもそう思ってしまうと、たとえ感情減退の著しい明でもなんとかせねば、という思いが募る。何もせずに滅びを受け入れられるほど、彼の心は達観していなかった。
「……七海さん」
決心を決めた明は帰り際、他のみんなが帰る準備をしている時を狙って神楽を引き留める。
「何でしょう」
明は先ほどの死んだ顔とは違う、ほんのわずかではあるが意志の光をにじませた瞳を見せた。
「俺、少しだけあがいてみようと思う。なんて言うか……。今までの自分はただ、受け入れるって言葉を免罪符に逃げていただけなんじゃないかって思うんだ。うん、その気持ちは今でもある」
気付いたとはいえ、明の心が完全に治ったわけではない。今でも明の心は諦めろ、全てを受け入れて流されてしまえとささやき続けている。
だが、それをしたら明は自分の最も嫌う『自分では何もしない癖に、与えられた結果には文句を言う』最低な奴になってしまう。それは何としても避けたい事であった。
「そりゃ、最後の最後。本当に理性をなくしたらキリエに喰われてやってもいいさ。その時に俺の理性なんてないだろうしな。だけど、その時までは全力であがく。俺みたいな変わり者、今まで例がないくらいなんだろ? だったら、俺が初めての鬼から人間に戻った奴として歴史に残ってやるよ」
それは今までの受動的な明からしたら、驚くほどの進歩だった。しかし、これでも明は今まで通りになってなどいない。これはまだ、過去の己を投影したらどう行動するかを考えて無意識のうちに行われている、ある種の反射のようなものだ。
「……ふぅ。まあ、良いんじゃないですか。今のあなたの方が人間らしいです」
「……七海さん?」
明の決意を聞き届けた神楽は視線を和らげ、今までになく柔らかな態度で明に話し始める。
「正直、わたしが今まで見てきたあなたは受動的で自分からは何もしない、機械みたいな印象を受けて来ました」
「……まあ、そう言われても仕方のない行動をしてきたから。今は違うんだろ? だったらいいさ」
「……そうですね。……今のあなたならこう言ってもよさそうです」
そう言った神楽は初めて見る笑顔を浮かべ、明に手を差し出した。
「――初めまして、明さん。わたし、退魔師の七海神楽と言います。神楽とお呼びください」
今、ようやく草木明と、七海神楽という人間が出会いを交わした。
「……アキラ、あたしは確かにカグラとは仲良くなれと言ったわ。だけどね、あたしの事を放っておいていい理由にはならないのよ? 分かる? 分からないなんて言わせないわよ」
……その後、ずっと放置していたキリエが拗ねまくり、明がご機嫌取りに海の家の食事を全品おごらされたのはまた別の話。
ちなみに明は考え事に夢中になり過ぎたため、ほとんど泳いだ記憶がなかった。今回、俺はただの財布役だったのでは? と首をかしげざるを得なかった。
主人公、自分の歪みを自覚するの巻です。
次回から二章が始まります。よろしくお願いします。
……後書きのネタがない。