一章 エピローグ
翌日、明はかなりげっそりした表情で学校への道を歩いていた。
「うぅ……ついてねえ……」
体の節々が痛み、常人なら歩く事すらままならないほどの筋肉痛に襲われながら、それでも鬼の体力で耐え切れてしまう明は昨日の不幸を嘆いていた。
ロクに動く事もままならないキリエと明はお互いを支え合う事でかろうじて家への道を歩いていた。
「戦った後って……自動で拠点に戻ったりしないのかよ……」
「それはゲームの話でしょ……。山だって登ったら降りなきゃダメなのよ……」
世の中って理不尽だあれだけ死力を尽くしたんだからせめて誰か家まで送ってくれたっていいじゃないか、ええまったくその通りよ神楽とかいう子が送ってくれればいいのに、と愚痴を言いまくっている二人。先ほどまでの気迫なんて微塵も感じられない。
そんな時だった。
「草木っ! マルトリッツ!」
教師である楪が息せき切って表れたのは。
「先生……?」
キリエの方はキョトンとするだけだったのだが、明の方は顔を真っ青にしていた。ガクガクと震える膝を動かして、逃げようとまでしている。
「お前ら……今までどこで何やってた! アァ!?」
しばらく息を整えていた楪が次の瞬間出したのは、キリエですら縮こまるような怒声だった。明は即刻逃げられないと判断して土下座の姿勢に。
「すいませんっしたー!」
「謝って済むんなら警察はいらねえってんだ! お前ら……あたしに断りもなく早退した奴らの末路ってなぁ、分かってるよな……?」
明は思い浮かべる。過去に数人、似たような行動を取った連中の末路は……、
……不良だったのが翌日になると髪は七三分け、片手に辞書、そして眼鏡、といった模範生になっていた。まるで人が変わったかのように。
あんな末路だけは絶対にゴメンだった。だが、どう考えても非があるのは自分たち。とすれば明たちにできるのは謝る事だけ。
「すいませんでした!」
「本当にごめんなさい!」
キリエも話しの全容までは把握していなさそうだが、謝った方がよさそうだと理解したらしい。腰を直角に折り曲げて謝り始めた。
「……はぁ、そこまでしっかり謝られちゃぁ、事情を聞かない限りこれ以上怒るのは無理そうだ。何かわけありなんだろ?」
楪は頭を下げる二人に対し、優しい声音で聞いてくる。だが、明とキリエは脂汗をすごい勢いで流し始めた。
「ん? ……まさか言えない、なんてことはないよな?」
『………………』
二人がまったく同じタイミングで視線をそらす。言えるわけがなかった。二人でバケモノと戦ってました、なんて。
「そうか……草木、お前もあたしに隠し事をするようになったか……」
ぶん殴られる事ぐらいは覚悟していたのだが、明の予想に反して楪の声は暖かなものだった。いや、生温かい、と形容すべき声だった。
まさか、と嫌な予想に行き着いた明は己の置かれている状況を鑑みる。
まず一つ目に、キリエに肩を借りている。これは自分一人では動く事すら満足にできないからある意味仕方ないとも言える。だが理由を説明するのは不可能。そもそも自分でも上手く説明できるか自信がない。
次に、服装を見る。鬼になったとはいえ、明らかに自分より格上の鬼にぶつかっていったのだ。おまけに戦い方が多少のかすり傷は無視してとにかく突撃だったため、服はもはや二度と着れそうにないほどズタボロになっている。
ちなみにキリエは制服のままでここにいるのだが、明と同じく鬼と戦ったため、服としての機能は見る影もなくなっている。ところどころ下着の線が見えるのが扇情的だ。
「うん、何があったかは聞かない。だがな……」
顔面蒼白にして何か言い訳を探そうとする明に楪は優しく肩を叩く。そして次の瞬間には固めた拳を振り抜いていた。
「お前が会ってすぐの奴に手を出すとは思ってなかったよ!!」
先生の言う通りですよ、と薄れゆく意識で思いながら明は吹き飛ばされた。
以上があれから起こった出来事で、気が付いたら自宅で寝ていた。おそらく二人が運んでくれたのだろう、と希望的観測をする。帰巣本能で帰った線もあるが、それだと放置した二人に対して殺意を抱きそうだった。
服が着替えさせられていなかった事に汚されてない……、と胸を撫で下ろしたのは内緒だ。
「……何やらされるんだろう」
とはいえ、楪の事だから絶対にあれだけじゃ済まされない。あの程度で済むなら今までの人たちは更正なんてしなかったはず。
逃げたい、だが逃げたらもっとヤバい気がする。どっちを選んでも嫌な思いをする事が予想され、明は己の不運を嘆きながらも登校する事にした。
いつ爆発するか分からない爆弾を抱えている身だ。そんな自分を対処できるのはキリエのみ。ならば可能な限り一緒にいるべきだろう。
そう結論付け、明は学校への道をやや早足で歩き出した。
「……なんか疲れてんなぁ。草木」
学校に到着してカバンを置き、即刻机に突っ伏す。そんな明に三上が呆れたように声をかけてきた。
「今の俺にお前で遊ぶ余裕などないぞ」
「なんかここしばらくそれっぽいセリフ聞いてるような……っておい! 俺“で”遊ぶのか!? 人の事なんだと思ってやがる!」
「るっさい黙れ」
確かにここ最近は三上をぞんざいに扱い過ぎたかもしれん、と心の一部では同意しているのだが特に対応を変える気にはなれなかった。体が疲れているため、誰かを話すのが億劫なのだ。
「……お前さあ」
三上が突っかかり、明がそれを適当に流していると、三上が神妙な顔をしてきた。
「んだよ?」
真面目な話かもしれない、と思った明も机に突っ伏していた顔を上げる。
「最近、変わったよな。なんか冷めた感じがなくなった」
「そうかぁ? ってか、その言い方だと前の俺が冷たい奴みたいじゃないか」
三上の指摘に明は疑問の声を上げる。本人は一切気付いていないのだ。鬼になった事で自らの身に起こっている精神的な変化を。
「いやいや、実際そんな感じだったよ。まあ、今のお前の方が付き合いやすそうだけど」
「そうかい。俺としては変わった気はしないんだがね」
三上の言葉に明は苦笑で答え、そんな姿に三上は明の変化を実感する。昔までの彼ならばまともに取り合う事もせずに、ぞんざいに手を振ってあしらっているはずだ。
「おはよう、みんな」
明と三上が他愛のない雑談をしていると、キリエが朝の挨拶をしてくる。三上はキリエの声が聞こえた時点で体を硬直させていた。とことん初心な人間である。
「おはようさん」
例によって明は特に物怖じする事なく手を上げて挨拶を返す。三上は体を油の差してないブリキ人形のようにぎこちなく動かしながら会釈する。
何を思ったのか、そんな二人の方にキリエがつかつかと歩み寄ってくる。
明は怪訝そうな顔をしただけだが、三上の方はこれ以上赤くしたらヤバいんじゃないか? と思ってしまうほど顔を赤くしていた。
「アキラ、転校生が来るって知ってる?」
キリエの方は三上に目も向けずに明の方へ話しかけ始めた。明は見向きもされない三上に同情の涙を心で流しつつ、キリエの話題に答える。
「いや、初耳だけど…………まさか」
話自体は初耳なのだが、転校生と聞いて思い当たる節が一つあった。思い出されるのは昨日の発言。
『……そ、そこまで言うなら! 今回は特別に監視だけで済ませてあげます! ……決して、マルトリッツさんの熱意に押されたわけじゃありませんのであしからず』
ここで重要なのは当然、後半部分ではなく前半部分だ。特に『今回は特別に監視だけで済ませてあげます!』のくだりが話の核となっている。
「そのまさかよ。昨日、あたしの携帯に連絡が入ったわ。なんと上からの正式な命令よ」
キリエも未だ信じられないという顔をしている。明が昨日見逃されたのは、相手の詰めが甘かったからに過ぎないと思っていたからだ。
「鬼と鬼喰らい、両方の要素を持ち合わせたあんたを観察する方が一般人を守るより優先されたって事よ。……あんま楽しい話じゃないけどね」
苦虫をかみつぶした、喜ぶべきか悲しむべきか分からない表情をするキリエに対し、明は割とのほほんとしていた。
「まあ、俺としては当座の命が保証されただけでもマシだけどな。それに、ほら、俺の命はキリエのモノだし」
「な……っ、こんなところで言うんじゃないわよバカ!」
明としては純然たる事実を言っただけなのだが、顔を真っ赤にしたキリエに殴られてしまう。何かおかしい事でも言っただろうか、と本気で首をかしげていた。
「痴話喧嘩はそこまでにしろー。もうホームルーム始めるぞー」
キリエが明の変質ぶりに戦慄していると、楪がニヤニヤと楽しげな声をかけてきたため、慌てて席に戻る。
(……何があいつを怒らせたんだろう?)
明は明で、素っ頓狂な事に頭を悩ませていた。
(あいつ……相当壊れているわね)
無意識に普段通りを装って席に座る明を横目で見ながら、キリエは内心で頭を抱える。
今の彼は精神異常者だ。本人は気付いていないだろうが、彼と付き合いの長い三上や楪などは薄々感づいている。
まず、性格が変わっている。組織から送られた彼の経歴と大まかな行動を見て、彼はシニカルなリアリストにカテゴライズされる性格をしていると結論付けられた。
しかし、キリエが会った――つまり鬼に襲われてからの明はありのままを受け入れる仙人のような性格になっていた。おまけに相当自分の命を軽んじるようになり、誰かの救いになるなら喜んで投げ出す姿勢すら見受けられる。
美徳であるかもしれない。大勢の人を惹き付けるかもしれない。だが、それは人として歪過ぎる在り方だ。
さらに言えば、彼の心がこのまま停滞するとも思えず、今後さらにひどくなっていく事が予想された。
(ったく……あいつはあたしが喰うんだから、あたし以外の人間に殺されないようにしないと)
「――転校生、入って来い」
なぜか血の集まる顔を振って必死に頭を冷やしていると、楪の声が聞こえた。どうやら考え事をしている間に話が進んでしまったようだ。
キリエは一応の同業者とどう付き合おうか、今度はそれに頭を悩ませる事になる。
(……やっぱり、あいつか)
明が呆れとともに見つめる視線の先には右目を眼帯で覆い、キリエとは対極の位置にある艶やかな黒髪をポニーテールにした絶対に忘れないであろう姿。
……目からレーザーを撃ってきたのだ。忘れようと思って忘れられるものではない。
「七海神楽です。よろしくお願いします」
礼儀正しくペコリと頭を下げる神楽に対し、教室が騒然となる。
それもそのはず。キリエが来てからまだ二日しか経ってないのだ。その短い期間にもう一人転校生が来て、しかもそれがキリエに劣らぬ美少女とくれば誰だって騒ぎたくもなる。
しかし、明はそれに対して頭を抱えていた。
お願いだからこちらに警戒心丸出しの目を向けるのはやめてほしい。楪に『お前、何した?』という視線を向けられているから。根も葉もないから。むしろそっちから一方的に攻撃しているだけだから。
とか思っているのだが、あいにくと心の中を読める人間は超能力者だけだ。心の声は誰にも聞き取られる事なく、明の心の中だけで虚しく響く。
「席は……」
「すみません、そちらの席を譲っていただけないでしょうか? 皆さんの顔を早く覚えたいので、周りを見渡せる後ろがいいのですが……」
席を決めようとしていた楪の声をさえぎり、神楽がよりにもよって明の後ろの席に陣取る。ちなみに神楽が小首をかしげてお願いした男子は新たな自分の椅子と席を取りに走っていた。
……鼻血を流しながら全力ダッシュする姿は七不思議にランクインされ、今後二十年は語り継がれる伝説となる。
首のあたりにジッと見られているむずがゆさを感じながら、明はキリエに助けを求める視線を送る。だが、諦めなさいと言わんばかりに首を横に振られてしまう。
「……少しでも理性をなくすような事をしてみなさい。私が浄化します」
後ろからささやかれる殺人宣言。もういやだ、と心の汗を流しながら明は空を見上げた。
――今日はいい天気だ。
彼の非日常はこうして始まった。心に異常を抱え、肉体に人ならざるものを抱え、それを受け入れて彼は歩き出す。
それは後世に語られる事のない、知られざる英雄のお話。
これで一章……というか導入部分は終わりです。いかがでしたか?
……もうちょっと神楽を上手く動かさないと。出したはいいけど、予想以上にこれは難しい……。