一章 第十話
しかし、振り下ろされた刃が明の首を落とす事はなかった。
横合いから表れた腕がキリエを吹き飛ばしたからだ。
「が……っ!?」
「おい!?」
いきなり視界から消えたキリエを探して明は首を回して周囲で起こっている事態を把握しようとする。
「な……!」
右に首を向けた先にそれはいた。
己なんかとは比較にならない巨躯を持った鬼が。
皮膚は赤錆びた煉瓦色。体の大きさはざっと見積もっても二メートル半は下らない。いや、天井の一部に頭がめり込んでいる事も考えると三メートル以上あるかもしれない。
そして明の小さな角や牙とは比べるべくもない長大で鋭いそれ。触れただけで切り裂かれそうな威容すらある。
「――っ!」
喉が一瞬で干上がる。だが皮肉にも相手への恐怖が原因で体内を回る熱が全て消え去り、体の自由を完全に取り戻す事に成功する。
「おいっ! 大丈夫か! おいっ!」
明は鬼の姿のままキリエに駆け寄り、その驚くほど華奢な体を揺さぶる。キリエの柔らかそうな肉を見ても、破壊衝動は襲いかかってこなかった。
「揺らすんじゃないわよ……。血が出てんだからね……」
ひどく弱々しい声だが、返事が返ってきた。どうやら意識はあるようだ。
「今はそんな事言ってる場合じゃないだろ! クソッ!」
後ろにいる鬼はこちらの様子をうかがっているのか、飛びかかる気配はない。
だが、それがいつまで持つかは分からない。あの巨体で飛びかかられたが最後、まず間違いなく自分と腕の中にいるキリエはひき肉になる。
「ちっと我慢しろ。すぐ助けてやる」
わき腹から血が流れているのを見て顔をしかめるが、あの鬼に吹き飛ばされたにしては軽傷だ、と無理やり自分を納得させておく。
ぐったりしていて口答えする余力もないのか、口を開いて余計な体力を使うのを嫌がったのか、キリエは黙ったまま明に横抱きにされる。
(逃げ切れますように……!)
神様に祈るような心境で、明は先ほどまで見上げていた四角く切り取られた空へ向かって飛び出した。
幸い、鬼が追ってくる気配はなかった。
過去に都市開発を行われた場所から離れ、近場にあった廃屋の中に飛び込む。
「ひっ……!?」
そこには薄汚れた人がいた。どうやらホームレスの人が無断で使っている家のようだ。家の中に置いてあるビニールシートや新聞紙などがそれを裏付けている。
明が運ぶ途中で意識を失ってしまったキリエを抱えたまま無言で睨み続けると、ホームレスの人は半ばパニック状態のまま家から飛び出していった。
「緊急事態だから多めに見てくれよ……」
特に悪意もなく巻き込んでしまった手前、罪悪感が強い。今度それとなく食べ物を送っておこう、と心に決めてからキリエを何とか空いているスペースに横たわらせる。
「んっ……」
手荒く置いたつもりはないのに、キリエの体が軽く身じろぎする。うっすらと開いた目には焦点が定まっていないのが明でも分かった。
「お、おい!? 目が覚めたのか!?」
「え、ええ……。ったく、鬼喰らいのあたしがこんなミス……、情けないったらないわ」
そう言って、口が自嘲の笑みを描く。
「そんな愚痴はどうでもいいから! 体は大丈夫なのか!?」
明は己の置かれている状況も忘れてキリエの心配をする。キリエはそんな様子に少しだけ苦笑を見せた。
「あたしは鬼喰らいよ……。このくらいの傷、日常茶飯事だっての……。今回は頭を打ったみたいで、まだグラグラするけど……」
「頭がグラグラする……? それってヤバいだろ!」
あの鬼にすさまじい勢いで吹っ飛ばされたのだ。脳に異常が起きない方が難しそうだ。
「安心なさい。とっさに後頭部に手を置いてかばっておいたから、本当に衝撃で脳が揺れただけ。ほら、しゃべりもはっきりしてきてるでしょう?」
キリエの諭すような言葉に明は何度もうなずく。確かに瞳にも焦点が戻ってきているし、話し方も途切れ途切れではなくなってきている。
「けどさ! お前あんな怪我して……」
「まあ、万全の時みたいに動けないのは事実だけど……。あの鬼は倒さないと……」
未だ血の流れるわき腹を押さえ、ゆっくりと体を起こそうとするキリエを慌てて押しとどめる。
「バカか!? あんなデカイ鬼なんだぞ! 今の状態で勝てるわけないだろ!」
明は必死に考え直すよう言うが、キリエも怒った顔で反論してくる。
「でも、行かないとダメなのよ! あたしは鬼を狩るためにここにいるんだから! 鬼喰らいが寝てる間に犠牲者が出ました、なんて認められるわけないでしょ!」
「だからって今行ったところで喰われに行くだけだ! お前が死んだらそれこそ大勢の犠牲者が出る!」
休め。嫌だ、行く。とお互いが声を荒げて譲らない主張をする。
「この……っ!」
どうしてもキリエが引かないと分かった明は、何か言いたい事があったのにそれを無理やり飲み込んだようなため息をつく。
そして、横たわっているキリエの額にそっと手を当てた。
「分かった。もう止めはしない」
「そう、それでいいのよ……。あいつを倒したら、次はあんただからね……」
キリエの強がりにも聞こえる言葉に、明はためらう事なくうなずく。体が鬼になってしまった以上、キリエに喰われる運命なのは変わらないのだ。そして、こんな姿で生きようとも思わない明自身もそれを受け入れている。
「ただし! 五分でいい。ここで休め。それが条件だ」
ゆえに彼女には自分を喰ってもらうためにも、彼女を死地に向かわせるわけにはいかなかった。それがこの妥協案である。
「五分って……あんた、その間にどれだけの犠牲が出るか分かってんの!? 今は一分一秒が惜しいのよ!」
「それでもお前が死んだら元も子もないだろうが!」
今までの言い合いとは違う、本気の怒気をみなぎらせた明の声にキリエが硬直する。
「自分でも分かってんだろ!? 鬼からここを守っているのはあんたしかいないって事を! お前が死んだらそれこそヤバいって事をさ!」
キリエが死んだとしても警察が対処するかもしれない。だが、アレが並の人間にどうこうできるとは明には思えなかった。
「……っ、今夜中にはあたしの連絡した鬼喰らいが到着するわ。それにあたしだってタダでやられる気はさらさらない。せめて刺し違えるくらいは――」
痛いところを突かれたキリエは視線をそらして言い訳じみたセリフを言う。それが墓穴になるとも気付かずに。
「……その言い方だとお前、負けるって分かってるんだな」
明の指摘にしまったという顔をする。会話が一瞬だけ途切れるその瞬間を明は見逃さなかった。
「――俺が時間を稼ぐ。だからお前は五分だけでも休んでいろ」
「な……。あんたバカ!? どこの世界に鬼が鬼喰らいを助けるなんて話があるのよ! バカじゃないの! バカよね!?」
予想だにしなかった明の言葉にキリエは軽くパニックに陥っていた。
「バカバカ連呼すんな。自分でもどれだけ無謀な事やろうとしてんのかくらい分かってるつもりだ」
本当に俺らしくない、と内心で思う。以前の――つい先日までの自分はできない事はしない主義のリアリストだった……はず。
確信がないのは自分でも思い出せないからだ。なぜ、あんなに躍起になって小利口になろうとしていたのか、分からないのだ。
その点で言えば、明の精神は確実に蝕まれていた。もっとも、それは奇跡的にもマイナスに作用はしなかったのだが。
現在、明の体内では闘争本能がくすぶっている。ゾクゾクするような気分が腹の内に溜まっており、死の象徴と言っても良いバケモノと相対するというのに、恐怖が一切ない。
気持ちが昂ぶると表に出るそれは思考の前向き、という部分に作用しており、それが明の性格や人間なら誰しも持つ本能を変えてしまっていた。
明本人はそこまでハッキリと理解はしていないだろうが、少なくとも前の自分とはまったく違う事は自覚している。
草木明という人物が死んだわけではない。ただ、根底にあった本質が鬼になった事で表に出やすくなっているだけである。
だから明は気付いた。己の本心に従うのは、恐ろしく気分の良い物である事に。
「――あんたは命の恩人だ。恩人を見捨てて逃げるなんてできっこない」
それが明の本心。例え明の体が一般人のそれであったとしても、これだけは譲らない思い。
「あんた……本気で言ってるの!? 鬼の体と力があるからって調子乗ってんじゃないでしょうね!? いい!? あんたは一般人なのよ! 怖くてこっから逃げ出したって誰もあんたを非難しない!」
「誰がどう、とか関係ない。俺は俺がやりたい事をやるだけだ」
ずっと考えていた。どうすればこの恩を返せるのかを。そして、明の頭はようやくその結論を出した。
命を助けられた恩は、命を助ける事で返せるはずだ。
「とにかく黙って休んでろ。……もう、近くまで来てるみたいだしな」
明の耳が鬼の足音を捉える。キリエが何やら驚いて目を見開いているが、それも気にせず明は立ち上がり、ドアに手をかける。
「しっかり休めよ。お前の気配も何となく分かるから」
外に出る前に釘を刺し、今度こそ明は外へ出た。
一人薄汚れた家に取り残されたキリエは、明の出て行ったドアを茫然と見つめた。
「あいつ……。自分が何言ったか、分かってるの……?」
明はさっき、あり得ない事を言った。それは己の気配が何となく分かる事。そして――
鬼の気配が分かる事。
鬼の気配が分かるのは鬼喰らいだけであり、逆に鬼喰らいの気配が分かるのは鬼だけだ。両方を理解できるなど、あり得る事ではない。
……まあ、彼は姿が鬼になりながらも自我を失っていないという前例のない極めて希少な存在であるので、そういう事もあるのかと納得する事もできなくはない。
だが、それも鬼喰らいの気配が分かる方だけだ。
今の彼は簡単に言ってしまえば鬼と人間のかなり鬼寄りの位置に存在している。
ならば、どう考えても彼が感知できるのは鬼喰らいであるあたしだけのはずだ、とキリエは考える。
「なのに、何で鬼まで感知できるわけ……?」
同族同士で通じる何かがある、というわけでもなさそうだった。明の様子を見るに、どこにいるかがぼんやり分かる程度に見えた。
とにかく、キリエが何を言いたいのかというと、
「あいつ、鬼喰らいの能力も持っているってこと!?」
鬼でありながら、鬼喰らい。明の置かれている現状にキリエは目まいすら覚えた。
「わけ分かんない……」
ゴチャゴチャしてきて、頭が疲れてしまった。あいつの言葉に甘えて今は休もうと心に決める。
「今日は長くなりそうね……」
誰にでもなくつぶやいた独り言は真実を表していた。
一方、明の方は鬼と対峙していた。
場所は図書館からやや離れた空き地だ。ここなら多少暴れても目立たないし、何より人が来ない。明が鬼をこの場所で見つけた時は内心歓喜したほどだ。
(でも、やっぱ間近で見ると怖いな)
見る前は闘争本能が燃え盛っていたのだが、今は足が震えるのを止められない。先ほどまで胸に燃え盛っていた炎は完全に鎮火している。寒々しい恐怖が胸の中を吹き荒び、逃げろと訴える。
今の明は本能によって動いている状態に近い。それは本心からの行動であり、言い換えてしまえば理性など働いていない状態なのだ。
そんな状態で原初の恐怖を突き付けられてしまった。明の体は知らず知らずのうちに後ろに体重がかかり、いつでも逃げられる体勢を取っていた。
確かに現状、逃げ出したって誰も文句は言わない。キリエだって納得した事ではないし、明自身、勢いに任せて言ってしまったと今になって少し後悔もしている。
「……やるしかねえんだよ」
だが、ここで彼女を見捨てるのは後味がひどく悪い。
臆病な足に喝を入れ、意志の力で前に踏み出させる。
「助けるって決めたんだよ! だから恐怖は邪魔だ!」
周囲の事なんて一切考えず、自分に言い聞かせるためだけにはいささか大き過ぎる声を出して、己を鼓舞する。
決めたのだ。彼女を助けるという事を。
たとえ目の前の脅威を退けたとしても、その先に待っているのはキリエに喰われることのみ。それは分かっている。
様々な面から考えても、今の明の行動にメリットは一つもない。
しかし明は思う。誰かを助けるのに――いや、何かを成すには一々細かい理由が必要なのだろうか、と。
少なくとも、今の明には理由なんて必要なかった。
助けたいから助ける。それを成すために体が動き、精神は極度の興奮をもたらす。
つまるところ、今の明から恐怖は消えていた。
「オ――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォッッ!!」
自らの肉体に宿る力を信じ、明は駆け出した。
爪の先がわずかに淡い緑の輝きを宿している事に気付かずに。