秘密にしておきたかった
駅前の喫茶店を後にして家に帰る。商店街を抜けて、踏切を渡る。この見慣れた光景も3月末には見られなくなる。行きかう電車・駅前の風景・駅前から家までの数分の道のりも、あと少しで見られなくなると思うと悲しかった。できればずっと大阪に住んでいたかった。こんな目にあわせた奴らに対して、改めて激しい怒り・憎しみ・恨みがこみ上げてきた。あいつらがいじめさえしなかったら、これからもずっと私は生まれ育った大阪で暮らすことができていたはずなのに…。人の生活を滅茶苦茶にした相手からは何の謝罪もないどころか、私はいじめられて当然と言わんばかりに、毎日のように暴言を浴びせかけて、気に食わないことがあれば殴る蹴る。自分は被害者なのに、なぜ自分の方が逃げるように生まれ故郷を離れなければならないのか、理不尽さにやり場のない怒りを感じていた。
クリスマスが終わって、いよいよ年末に向けて慌ただしくなるが、私たちは少しでも引っ越しの時に荷物が少なくなるようにと、使わなくなった物と必要な物とに分けて、少しずつ身の回りの整理をし始めていた。少しずつではあるが家の中の物が少なくなっていくのはもの悲しさを増幅させる。使わなくなった物にも、一つ一つ思い出があって、捨てるのは忍びないのであるが、荷物はできるだけ少なくしなければいけないので、少しずつ片付けていた。
大晦日を迎えて紅白を見ているうちに私はいつの間にか眠ってしまっていて、気がついたらベッドの中で寝ていた。どうやら父が私を抱きかかえてベッドに運んだらしい。年が明けて昭和59年を迎えて、家族皆に挨拶を済ませて、母が作ってくれたお雑煮をいただく。白みそ仕立てのあっさりしたお雑煮はわが家のお正月の定番である。私にとって、小学校生活は残り2か月半余りとなっていた。母が
「あんた、友達皆に山口に引っ越すこと言わんでええの?」
と言っていたが、私は誰にも言いたくなかった。できればひっそりと引っ越ししてしまいたかった。引っ越しするって話すとそれがまたいじめの対象になるのを恐れていたのである。なので、何らかの事情がない限りは親友であっても言うつもりはなかった。姉は学校の中のいい友達や陸上部の皆には話したらしいが…。
正月三が日が過ぎて星田が遊びにやってきた。星田は広島のおばさんの実家に帰省いしていたらしい。広島名物のもみじ饅頭をお土産に持ってきてくれた。皆が新幹線で帰省する中、星田は在来線を乗り継いで帰省したと言っていた。ローカル列車を乗り継いでの旅は楽しかったと言っていた。この時代はまだ、各地で長距離鈍行列車が運転されていて、岡山駅から下関駅まで走り通すような列車も多数設定されていた時代である。長距離鈍行列車の旅は私もしてみたいと思っていて、いろいろと東海道・山陽本線の名所を教えてもらうことができた。
そんな私であるが、年明け早々熱を出してしまい、3学期の始業式を休むことになった。私が寝込んでいると姉のクラスメイトがやってきて、いろいろとお喋りをしていた。ずっと寝込んでいた私はトイレに行きたくなったのと、寝たままだったので腰が痛くなっていたので、少し起きて体を休めようと思って台所のテーブルで腰かけていると、姉のクラスメイトが私について、私の方を見ながら、姉に話しているのが聞こえた。
「あんたとこはええなぁ。毎日肝試しができて。あんな気色悪い弟がおったら、うちやったら嫌やわ」
そう話していた。その一言を聞いた姉の顔色がみるみる変わっていった。
「なんでそんなん言わなあかんの?うちの弟が何したって言うん?もう帰って」
確かに私は体調を崩して顔色がよくなかったかもしれない。それでなくてもいじめによる過度なストレスによって、食欲が落ちて、体重もかなり減っていたので、やせ細っていたのも事実である。それでもまったく見ず知らずの人間にまで化け物扱いされて、正直もう誰も信じられなくなっていた。ほんとうは姉も心の底では私のことを疎ましく思っているんじゃないか?そんなことも思っていた。
私はこのころから私は神や仏と言ったものを一切信じなくなった。どれだけ助けてほしいと願っても、その願いは通じるどころか、いじめは酷くなるばかりで、頼れるのは自分一人だという思いが強くなっていった頃である。誰も信じないし、神や仏も信じない。それどころか、もしこれが運命だというのであれば、こんな運命にあわせた自分の先祖さえもい憎んでいた。あの世で私が苦しむ姿を見て喜んでいるのではないか。そんな風に思っていた。だから、私の祖父の月命日のお祈りも
「このクソジジイにクソババァ。俺をこんな目にあわせやがって」
という思いで、見かけ上は手を合わせていたが、心の中では仏壇に祭られている祖父母には憎しみしか抱いていなかった。この神や仏を信じないというのは、今の私に通じるものであり、そんなものくそくらえという思いで今に至る。
そして冬休みが終わって、いよいよ小学校最後の3学期を迎えた。3学期が始まって早々、クラスメイトからある提案が出された。
「卒業して、ゴールデンウィークにみんなでこの教室に集まれへんか?」
という話であった。ゴールデンウィークのころには私はもう大阪にはいない。自分には関係のない話だと思って関心もなかった。皆は
「ええ話やなぁ」
「賛成」
「先生どうでしょう?皆で集まって楽しく過ごしません?」
などと大いに盛り上がっていた。その中で私は一切何も言わないので、怪訝に思った先生が
「リンダ、お前はどうなんや?」
と私に参加の意思があるのかどうか聞いてきた。私は
「あぁ、俺には一切関係のない話ですから。皆が集まりたいんやったら好きに集まったらええんとちゃいます?」
と話した。先生は
「関係のない話ってどういうことなんや?」
と聞いてくるので、もうこれ以上私が山口に引越しするという話を秘密にしておくのは無理だと思ったので、私は正直に話した。
「俺は卒業式が済んだら、3月の終わりに山口に引っ越しするから。せやから俺には関係のない話やねん。お前ら、散々俺に出て行けとか、死ねとか言ってたよな。お前らの望みが叶うんやからよかったんちゃうんか?お前らの望み通りお前らの前から姿を消してやるよ。どないしたん?素直に喜べや。嬉しいんやろ?もっと喜んだらどないなんや」
それまで盛り上がっていた教室が一気に静まり返った。さらに私は言葉をつづけた。
「俺はお前らのせいで、人生を滅茶苦茶にされたんや。お前らに俺の人生を滅茶苦茶にする権利なんかあるんか?お前らに俺の家族5人の生活とか滅茶苦茶にする権利があるんか‼俺の親父は今まで長い間勤めてきた会社を辞めて、ごっついお金を払って山口で家を買って、向こうで大変な思いをしながら生活せなあかんのやぞ‼お前ら、俺と俺の家族の人生を返せ‼」
そう言って私は泣き崩れた。先生は
「ごめんな。お前ばかりに辛い思いさせて。俺の力が足りひんかったばかりにいじめを止めることが出来んで申し訳ない」
そう言って私に謝った。しかし先生が謝ればいいという問題ではない。謝らなければいけないのは、このクラスでいじめに加担した奴や首謀した奴。いじめを見てみぬふりをしたきた奴なのである。こいつらの誰かが少し勇気を出して
「もういじめはやめようや」
と言えばここまで事態が悪化することはなかったかもしれない。いじめに加担したグループは
「自分がいじめ加害行為をしないと、今度は自分がやられる」
という恐怖心に打ち勝てず、いじめを見てみぬふりをしていた奴は
「いじめをやめるように言うと、今度は自分がいじめのターゲットにされる」
という自己保身のためにいじめをやめさせる具体的行動を一切起こさなかったのである。私は嗚咽を交えながらではあるが
「先生が何で謝らなあかんのですか?謝らなあかんのはこいつらじゃないんですか?お前らはええよな。仕事とか進学、結婚とかで生まれ故郷を離れるとしても、帰るべき家があるんやから。俺は3月の終わりに大阪を離れたら、もう二度と今住んでいるところに住むことはできひんのや。それもこれも全部お前らの責任や」
その告白に一番ショックを受けていたのが今までずっと仲良くしてもらっていた星田・永井・柳井・今田・福田であった。まさか私が大阪からいなくなると思ってもみなかったのだろうと思う。こうして私が卒業式が済んで、3月末になると大阪から引っ越すということはクラス中に知れ渡った。流石にこうなったらもう今まで自分たちがしてきた事の重大さに気が付いて、いじめ加害行為はやめるだろうと思っていたが、その見込みは甘かった。相変わらず暴言を吐き捨て、何か気に食わないことがあればすぐに暴力をふるう。私が大阪からいなくなるということをカミングアウトしたところで、何も変わらず、私が引っ越しをするということを告げたその日の終わりの会が終わって、私が帰り支度をしていると、渡部たちが私の前にやってきた。私はもう渡部たちとは話すこともなかったので無視して帰ろうとした。そしたら、増井が私の腕を掴んで教室に引きずり戻した。増井の腕力は体格が一番でかくて怪力の持ち主であったため、私が腕を抜こうとしても抜けなかった。そして渡部や中井・浜山たちがこう言い放った。
「お前、大阪から引っ越すのをうちらのせいにしたよな?お前がそんな汚い顔してんのが悪いんちゃうか?自分が悪い癖に人のせいにして、ようそんなことが言えるな」
そう言って、再び殴る蹴るの暴行を加え始めた。増井につかまれた腕が締め付けられて、私が無理に振りほどこうとするたびに腕に激痛が走る。そして、奴らが次に発した言葉は
「うちらはな、あんたが山口に引っ越ししていじめられても耐えられるように鍛えてやってんねん。有難いやろ?うちらはあんたのためを思ってやったってんねん。優しいやろう?」
ようはいろんな理由をつけてはいじめという狂気に満ちた遊びを楽しんでいるだけであった。こいつらにいじめについて罪悪感など期待する方が無駄であった。一通り暴行を加え終わると奴らは
「ギャハハハ」
という下品な笑い声をあげながら教室を出て行った。この時点で卒業式まであと2か月であった。卒業式まで自分の精神状態がまともでいられるのか、卒業式を控えてさらに激しくなる暴行に耐えて行けるのか、正直自信がなかった。あと2か月…。短いようにも思えるが、途方もなく遠い先のことのようにも思えた。あちこち蹴られて体中が痛む体を引きずりながら家に帰った。自分は暴力に怯えながら残りの小学校生活を過ごさなければならないのか…。




