地下鉄サリン事件
震災の影響で物流網が寸断されたため、部品の納入ができなくなり、工場の操業停止は1週間にも及んだ。操業が再開された後も、部品の数が圧倒的に足りないため製品の生産速度を限界まで落としても定時間操業の維持が難しくなり、早い時では15時過ぎには生産がストップして、その後は工場内の清掃活動などをして時間を潰していた。やがて山陰側を経由する形で部品の調達ルートは確保されたが、今度は関西から西に向かう物流の流れが山陰側の一般道に集中したため、各地で大渋滞が発生し、再び工場の操業率が大きく低下することとなった。このようにして工場の操業が一向に上向かないまま、3月を迎えた。このころになると復興に向けた動きも活発になり、少しずつではあるが、大きなダメージを受けたライフラインも復旧していった。
そして3月20日、日本中が再び悪夢に襲われる日がやってきた。そう、地下鉄サリン事件が発生した日である。この事件は新興宗教団体が、教団の教祖であるAの指示によって、都内を走る地下鉄に猛毒の神経ガスであるサリンをまいた事件で、日本鉄道路線が狙われた無差別殺傷テロ事件であった。官庁街の近くを走る路線を中心に狙われて、国家転覆を企む新興宗教団体の関連施設が後に大規模な警察の捜索を受けることになる。この宗教団体はこの宗教団体の活動に反対していた坂本弁護士一家殺害や拉致監禁・信者殺害や信者に対する洗脳、都庁爆破事件など、数多くの凶悪な事件に関わったとして、後に宗教法人格を停止され、事件に関わった教団幹部が相次いで逮捕されて、後に死刑判決を受けて、平成29年に死刑が相次いで執行された。
この地下鉄サリン事件で日本の景気はさらに落ち込み、日本経済は暗黒の時代へと突入していく。
地下鉄サリン事件に日本中が震撼しているころ、会社の操業は一向に上向かないままで、更なる減産を余儀なくされた。時間が有り余っているため、工場内の清掃活動だけでは時間を持て余すようになったため、自己啓発の時間が与えられて、私は後輩の指導に関する先輩としての役割や、接し方などを学ぶことになった。私が入社してバブルが崩壊した後、新入社員の採用を控えていたのであるが、この年になって、やはり後の世代に技術を伝えていかなくてはならないということもあって、若干名であるが新入社員の採用が行われたのである。それまで私がずっと職場では最年少者であったのであるが、私が後輩の指導役に抜擢されたのである。それは、私が一番新入社員と年が近いということも関係していたのであろう。新入社員が職場に配属されるGW明けまで、いろんなことを学んで、コーチ役の社内資格も取得して、新入社員の配属を待っていたのである。そして一通りの講義の受講を終えてGWに突入。このころになると地下鉄サリン事件を起こした宗教団体の山梨県や静岡県にある教団の関連施設が連日のように家宅捜索を行われて、サリンを生成した実験棟や、教団の信者らが寝泊まりしていた施設などが次々と報道陣に公開されていた。一緒にテレビを見ていた家族からは
「あれは豚箱みたいな感じじゃな」
といった声が上がっていた。あちこちにネズミがたむろしており、お世辞にも清潔な建物という感じはしなかった。
「こんな薄汚れた建物の中で、この人たちは一体何を信じていたんだろう」
私自身そう思った。このような暗い事件や災害が起こった直後であるが、GWは結構な人出になったようである。私は吹奏楽仲間とどこかに出かけたり、飲み会を開いたりして楽しく過ごしていた。まぁ、これも独身だからできた事であって、所帯を持っていたら、景気後退のこの時代、プライベートで飲み会とかはできなかっただろうなと思う。




