表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
203/218

阪神淡路大震災

 そして、次第に私たちの年代でも職場を離れなければならない人員が出始めて、最終的には1/3ほどの人員が離職していった。そして、長期経済停滞時期に入った日本経済にさらに追い打ちをかけたのが、1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災であった。私はポッキーが物凄い驚いたような鳴き声を上げて鳴いているので目が覚めた。山口でも震度3を観測したのである。この前日、私の母は夜行高速バスを使って大阪に用事があって出かけており、地震発生時間帯は、ちょうど阪神高速を通っているころであった。この時はラジオから入ってくる情報を、出勤途中の車の中で聴いていたのであるが、会社に着いて変わり果てた神戸などの街並みをテレビ中継で見て、言葉を失った。そして母は無事なのか連絡しようにも、この当時はまだ携帯電話が普及しておらず、母が乗った夜行バスの運行会社に電話をして、無事に大阪についているのかどうか確認をしてみたのであるが、バスの運転手からはまだ連絡がないという。私はあの倒壊した阪神高速の様子を見て悪い胸騒ぎを覚えた。製品を製造しようにも、関西からの交通網が鉄道も高速道路も一般道もすべて遮断されてしまっている以上、部品が入ってこないため、軒並み稼働がストップして、その日は仕事場周辺や職場の3Sをするようにという指示が出された。正直私は

「俺は今、こんなことをしている場合じゃない」

 そう思い、上司に

「私の母が大阪に向かう高速バスに乗っていて、まだバス会社に大阪に無事に着いたという連絡がない。地震に巻き込まれた可能性があるため、家に帰らせてほしい」

 と相談して、昼で帰った。情報をなるべく集めるため、カーラジオで情報を収集しつつ帰って、家に着いたらテレビをつけて何か新しい情報がないか見ていた。時間の経過とともに次第に明らかになる被害の状況。死傷者の数も次第に膨れ上がり、電気・ガス・水道などの公共インフラは壊滅的な被害を受けて、神戸市長田区などでは大規模な火災が発生しているにもかかわらず、倒壊した建物が消火活動を妨げて、どんどん火の手が広がっていく様子や、駅舎が倒壊した阪急西宮駅など、これまで経験したことのないような事態が映し出されていた。そして、交通に関する情報も次第に報道され始めて、新幹線は新大阪と岡山の間で運転取りやめ、関西圏のJRも私鉄も全線で運転見合わせなどの情報が入ってきていた。そして私が情報収集していると、一本の電話が鳴った。母からであった。どうやら夜行バスはいつもより早い時間に阪神高速を降りて、梅田に向かう途中で激しい揺れに見舞われたという。ものすごい揺れに襲われて、バスは道路左端に停まったそうで、まだ朝早い時間帯であったために定刻よりも遅れたものの、無事にバスターミナルに着いたという。とりあえずその日泊まるホテルを手配して、夜になると、比較的揺れが少なかった大阪から南に向かう鉄道が運転を再開したということで、母がチェックインしたホテルに電話をして母を呼び出してもらい、山口に帰ってくるルートを伝えた。それは、地下鉄御堂筋線に乗って難波まで出た後、難波から南海電車に乗って和歌山港に出て、和歌山港からフェリーに乗って徳島港へ。徳島港からバスか何かでJR徳島駅に向かい、徳島から岡山直通の特急うずしおに乗って、岡山から新幹線に乗り継いで帰ってくるというものであった。

   そして私が母に切符の手配の仕方や、乗車券の買い方などを指示していると、清田がやってきた。清田も私が真剣なまなざしで電話の応対をしているのを見て何かを感じ取ったみたいである。

「何かあったんか?」

「あぁ、俺のおふくろが大阪に仕事で行っちょってな、あの地震に巻き込まれて、帰りのルートをどう確保しようか話をしちょったところなんじゃ」

「そうなんじゃ。で、帰ってこれそうなんか?」

「大阪から南に向かう鉄道が動き出したという情報が入ったから、和歌山まで南下させて、和歌山からフェリーで徳島まで出て、徳島らか特急と新幹線を乗り継いで帰るように指示を出したところなんじゃ」

 その間にも刻々と入ってくる被害の情報。死傷者の数は時間の経過とともにどんどん増えていく。この中には大阪に住んでいる親戚や友人も含まれているかもしれない。私は必死になって情報収集にあたっていた。そんな時清田が

「ところでさぁ、俺、鈴鹿の8耐のレースのビデオ買ったんじゃけど、ちょっと一緒に見るか?」

 というので、私は今俺たち家族が置かれている状況がわかってんのか?そういう思いを抱いた。そしてチャンネルを変える真似をしたので私は

「あのなぁ。今俺たちがどういう状況に置かれているのかわかって言ってんの?俺たちはあの地震の被災地のすぐ近くに親戚や友人がたくさんおるんじゃ。こんな時にそんなもんなんかどうでもええわ」

 そういうと、

「悪かったいや。どうせ俺が持ってきたもんはそんなもんじゃけぇな」

 そう言ってふてくされて帰っていった。もし清田が私の立場だったらどうしただろう。ちょっとでも詳しい情報が欲しい。そう思うのが普通じゃないのか?私はそう思って、見送りもせずにそのまま情報収集にあたり、彼はそのまま帰っていった。

 翌日、震災で工場に部品が納入されないため、臨時休業になり、私は朝から再び情報収集をしていた。そして母から

「今大阪梅田を出るところ」

 という連絡が7時前に入った。これから地下鉄御堂筋線に乗って難波まで出た後、南海電車の和歌山港直通の特急サザンの指定券を買うのと、窓口で徳島港行きのフェリーの切符も窓口で同時に買うように指示を出して、再び電話が入った。サザンの指定券が取れたという。そして8時に難波を出発して、1時間ちょっとで和歌山港に到着。ここからすぐの連絡で徳島港行きのフェリーが出るので、それに乗り換えて、徳島港に着いたのが13時ごろ。ここからバスに乗ってJR徳島駅に向かい、徳島からは岡山直通の特急うずしおに乗って岡山を目指す。岡山直通のうずしおが発車するのが14時過ぎ。徳島駅に着いたら必ず指定券をとること、そして、新幹線の特急券と、下車駅までの直通の切符を買うように指示を出して、徳島駅では少し時間があるので、駅の中で食事がとれたらしい。そして、岡山に着いたのが16時30分ごろ。そこからの新幹線のダイヤはわからないため、時間と停車駅を確認して乗るように指示を出して、何とか無事に新幹線にも乗れて、家に帰ってきたのが20時過ぎ。随分と疲れた表情で駅のホームに降り立つのが見えた。とにかく無事に帰ってこられて安心したのを覚えている。なんとか仕事で使う商品の購入はできたそうであるが、果たして送った荷物が無事に届くかどうか、それを心配していた母であった。

 母の話では最初、バスに乗っていたら

「ゴーッ」

 というものすごい地鳴りのような音がして、地震だとは分からなかったそうである。バスが何かに衝突したのかと思ったという事であった。しかしバスには何の異常も見られなかったので、「あの音は何だったんだろう」

 と思いつつも梅田のバスターミナルについて、初めて大きな地震が発生したことを知ったという。その後も大阪滞在中に幾度も余震に見舞われて、ホテルで宿泊しているときも、高層階に宿泊したので、

「かなり怖かった」

 そうである。そしてさらに時間が経過するともに被害が増えて行って、死者が5000人を超えたというニュースがテレビやラジオで報道されていた。そして、この大震災がバブル崩壊後の景気を一層冷え込ませる結果になったのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ