沖縄修学旅行後半
話が少し前後するが、沖縄修学旅行の後半を書いていこうと思う。
海に入って、皆でキャーキャー言いながら遊んで、浜辺に打ち上げられたサンゴを拾い、ホテルに持ち帰り、カバンの中に大切にしまったりして、海と戯れていたら夕食の時間。日暮れの遅い沖縄でも、さすがに19時を過ぎると黄昏てくる。暗くならないうちにホテルに戻って、ホテルのレストランの指定された席に座って夕食を食べる。琉球料理がたくさん出されて、ラフテーやゴーヤチャンプルーなど、本場の琉球料理楽しんで、トロピカルフルーツもたくさん食べて、とてもおいしかった。
そして各自の部屋に戻ってくつろいでいたら、松山と奥田たちがやってきて、一緒にトランプ。散々船の中でも遊んだが、やはり皆考えることは一緒で、セブンブリッジや大富豪・51などをして遊んで、その後は沖縄のお土産を買いにホテルの免税店へ。沖縄銘菓と言うとやはりチンスコウ。揚げ菓子で、沖縄では最も名の知られたお土産である。チンスコウを家族と、母の実家用に買って、姉と妹にはキーホルダーを買った。そして、夜遅くに私は部屋を出て、ホテルの前に出てみた。私たちが泊まったホテルは南側の視界が開けていて、普段私たちあまり見ることの少ない、南の地平線低くにしか上ってこない星座を見るためであったが、私たちが訪れたころは南の空が晴れていれば、一度自分の目で見てみたかった南十字星が見られる。ちょうど私たちが泊ったときは天気も良くて、星がきれいに見えていて、念願だった南十字星が水平線上に見えていた。南十字星が見られただけでも、沖縄に来たかいがあった。南十字星との対面を終えて部屋に戻ると、みんなは気持ちよさそうに寝息を立てていた。私もベッドに入ってそのまま就寝。
翌日は朝食を終えた後、糸満市の摩文仁の丘にある平和の礎と、ひめゆり記念館に行く予定になっていた。ここでは太平洋戦争で唯一地上戦が行われた沖縄戦について、日本軍と行動を共にしていた、ひめゆり学徒隊の方々の戦争体験のお話を聞くことになっていた。
私たちが泊った那覇市内のホテルをバスで出発して、国道58号線を南へと走り、摩文仁の丘に到着。ここでは各地から召集されて、亡くなっ山口県出身者や、大阪府出身者の方々の名前も刻まれていた。ここ沖縄では、県民の4人に1人が沖縄戦で命を落としたという。アメリカ軍は、沖縄を本土上陸の足掛かりとするため、日本軍は、本土防衛の最前線とするために、お互い譲れない戦いが繰り広げられ、結果、多くの一般市民が砲弾に倒れ、命を落とす結果となったのである。美しい沖縄の風景と真反対にある戦争と言う負の歴史。そして私たちが訪れた時から今に至るまで、一向に解決しない沖縄の基地負担の問題。この修学旅行が、ただ単に楽しいだけで終わってはいけない理由がそこにはあったような気がした。
英霊の碑に手を合わせた後、ひめゆり記念館へと入っていった。記念館の中は。沖縄戦が行われていたころの壕の中の様子や、数多くの犠牲になられた方々の写真が展示されていた。一人一人がどこの部隊に所属し、どこでどのようにして亡くなっていったのかが克明に記されており、体中になん十発もの銃弾を受けて亡くなった方や、顔面を撃ち抜かれて亡くなった方、極度に不足する物資の中、仲間を助けようとして砲弾が跳ね返る中飛び出して息絶えた方…。犠牲になった人たちの多くが、自分たちと同じ年代の人だったっていうことを考えると、平和に暮らしていける私たちは、それだけで幸せなんだと思った。そして、展示されているいろいろなものを見て回った後は、ひめゆり学徒隊の中で、命からがら助かった方のお話を聞く時間。医薬品や食料が圧倒的に不足する中、どのように負傷した兵士の看護にあたっていたのか、砲弾が飛び交う中、どのように生き延びたのかが、生々しく語られていた。話を聞きながら、もし自分が戦争体験を話されている女性のような立場だったらどうしただろう…。そして、広島の原爆資料館を訪れた時に感じた
「あの戦争はいったい誰のための、何のための戦争だったんだろう」
ということを考えていた。ひめゆり学徒隊の方の話を聞いていると、今自分たちの周りの環境が、いかに恵まれているのか、あらためて実感した私である。そして、ひめゆり記念館の見学とお話を聞いた帰り、米軍基地から飛び立つ戦闘機がバスの窓から見えた。清田は慌ててカメラを取り出して、夢中になってシャッターを切っていたが、私は正直心の中で
「不謹慎だ」
と思った。あの戦闘機のまき散らす爆音に苦しんでいる人がたくさんいる。そして何より悲惨な沖縄戦の話を聞いた後だったので、戦闘機が飛び立ったからと言ってカメラを向けるのはちょっと違うんじゃないかと思ったのである。確かに私たちは、戦闘機がまき散らす爆音に悩まされることも、米軍があるがために引き起こされる、事件や事故に巻き込まれることもなく、戦闘機と言うものは普段見にする機会のないものであるが、珍しいからと言って、過重な負担を強いられている沖縄の人のことを思うと、戦闘機が見えたからと言ってミーハーに騒ぐのは違和感を覚えた。
そして今度は、沖縄本島最北端の辺戸岬に向かった。ここから見える海も、昨日見た万座毛に負けないくらい美しかった。ここで昼食を済ませた後、自由に散策する時間があったので、周りの景色を楽しみながら過ごした。そして、辺戸岬から再び那覇市内に戻って、ホテルにチェックイン。夕食は昨夜同様、琉球料理をメインにしたメニューであった。夕食後は部屋に戻って横になっていたら、いつの間にか眠ってしまったようである。私が眠っている間に皆は風呂に入ったというので、私も入浴を済ませて、沖縄最後の夜を過ごした。
翌朝、朝食を済ませた後は国際通りに行った。ここは沖縄県内で一番の繁華街で、多くの土産物店が軒を連ねる。
「そう言えばまだパイナップルを買ってなかったな」
と思い、家族用にパイナップルを購入。手に取ってみると、パイナップルの甘酸っぱい香りがする。ここで那覇空港に行く時間になるまで過ごした。
やがて那覇空港にチェックインする時間となり、空港に着くと搭乗手続きや手荷物検査などを済ませて、福岡空港行の全日空機に搭乗。それぞれが指定された席に着席して、離陸の時間を待つ。運悪く私は窓側の席ではなく、真ん中の通路の席だったため、外の景色が見られなかったのが残念ではあるが。やはり途中で梅雨前線を横切る形となるため、かなり揺れるときもあったが、順調に飛行して、福岡空港に着陸。預けていた手荷物を受け取って、福岡空港のバスターミナルへ。高速道路を通って学校には夕方に帰り着いた。私たちが住んでいるところとはおよそ1000キロほど離れているが、たったの数時間で学校に帰り着くとは、3日もかかった船旅とは隔世の感があった。ここで最終点呼を取って、解散となった。これから出発の時に持っていった着替えなどが入ったカバンに、更にお土産がプラスされて、帰りの自転車をこぐのはかなりの重労働であった。5日ぶりに帰った家。家に帰ると、沖縄に行っていたのが夢だったような、そんな気がする。家に帰ってまずはお土産を家族に渡した後、お世話になっている近所の家にも持っていって、沖縄の土産話などをして、夕食後のデザートに早速パイナップルを食べてみた。完熟していて甘酸っぱくておいしかった。姉と妹にはキーホルダーを渡して、沖縄で見た南十字星の話や、ものすごく長く感じられた沖縄までの船旅の話など、いろいろと話をしていたらあっという間に夜遅い時間になったため、入浴を済ませて、寝た私である。翌日は学校が休みだったため、近所のカメラ屋さんに、撮影した写真のフィルムを預けて、それから数日して、写した写真の中からよく映っているものを選び出して、2年の担任だった矢田先生に渡した。船上での音楽部のロックのライブや、万座毛や万座ビーチ、ひめゆり記念館国際通りの写真などがのちに卒業文集に採用されていた。




