表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/218

~生まれてから幼稚園まで~

皆さんはもし自分がある日突然、理不尽なイジメという、犯罪行為に巻き込まれた時どうするだろうか?自分の大切な友達、兄弟姉妹、子供が暴力と侮辱と暴言を毎日雨霰のように浴びせかけられているとしたら、どうするであろうか。これは私がいじめという犯罪行為に巻き込まれ、地獄のような苦しみを味わった後、その傷もようやく癒えてきた頃に、元嫁がが韓国にある国際的な巨大詐欺宗教団体に深く関わったがために、家庭が崩壊し、大切なものをたくさん失って、生きる希望が見出せずに、死ぬことを毎日考えながら生き抜いた私の物語である。

私の生まれた1972年は、札幌で冬季大会としては初のアジアでのオリンピックが開催され、日の丸飛行隊の活躍などで、日本中が熱狂した年である。私はこの札幌オリンピックが終わってすぐの、2月17日にこの世に生を受けた。母は病院のベットの横に置いてあったテレビでオリンピックの模様を見ていたそうである。

 私は大阪府のT市という街で育ったが、私の記憶の中にある風景というと、駅前の商店街やスーパー、姉と一緒に通った幼稚園や小学校の通学路である。

 幼いころの私はどちらかというと、活発な姉と比べて物静かだったそうである。そんな私の楽しみは、父と一緒に仕事が休みの時に近くを走る電車を見に散歩に行くことであった。父も私も鉄道大好き人間で、電車に乗って京都や奈良、神戸や和歌山に連れて行ってもらったり、京都にある梅小路機関区に保存されているSLを見に行ったりしていた。電車に乗らないときも、父が持っている鉄道図鑑や写真集を眺めては「いつかは自分も乗ってみたい」

と思いをはせていた。

 そんな私が幼稚園に入園したのが1977年(昭和52年)。幼稚園というところがイマイチ理解できてなかった私は、卒園したばかりの姉に、幼稚園とはどういうところなのか、ちょくちょく聞いていた記憶がある。恐らく初めて親と離れての集団生活に不安もあったのかもしれない。

 4月になって幼稚園の制服を着て、姉と一緒に歩いていくのは楽しかった。というのも、姉が入学し、私も翌年に入学することになる市立K小学校は同じ敷地にあり、通学路が一緒だったのである。学校の校門で姉と別れると幼稚園はすぐそば。幼稚園につくと先生に元気よく挨拶をして、教室に入ると友達と前の日に見たアニメの話や、何をして遊ぼうかとか、そういったおしゃべりをしながら先生が教室に入ってくるのを待つ。

 幼稚園ではお絵かきしたり、教室の外に出て遊んだり、毎日何かしら楽しいイベントがあり、私は幼稚園に行くのが楽しみであった。

 その中でも一番の楽しみだったのがお昼。特に母が作ってくれたお弁当はおいしくて、よほど幼稚園で体調を崩さない限りはすべて完食していた。このころの私は健康優良児で発育もよく、クラスの中でも身長は頭一つ高かった。母もすくすくと成長していく姉と私をやさしく見守ってくれていた。


大けが


 やがて6月になり、梅雨の季節を迎え、雨が降るので外で遊べなくて家で過ごす時間が多くなり、よほど体力を持て余していたのであろう、梅雨の晴れ間が広がったある日、私は外に出て、近所のみんなと一緒に遊んである最中、私の乗った自転車が側溝にはまり、横転して右側っ側頭部を強打する事故を起こしてしまう。近所の子が慌てて私の家に駆け込み、

「おばちゃーん。リンダ君が転んでけがした」

と伝えると、家の中で洋裁の内職をしていた母が血相を変えて家を飛び出してくるのが見えた。

 私は母に連れられて病院に行って診察を受け、幸い骨折などの重症ではないものの出血がひどく、止血処置をしてもらった後、頭に包帯をぐるぐる巻きにまいてもらって、家に帰って鏡を見てみると、まるでミイラのようであった。のちには母この事故を

「あの時は心臓が止まるかと思った」

と話している。

 夕方になって父が仕事から帰ってきて、姉も友達のところから帰ってきて、私のけがを見てかなり驚いていた。父は

「大したことがなくて、本当によかった」

と話していたのを、今でもはっきり覚えている。

 このけがのため、傷口がふさがるまでは当然幼稚園には行けなくなった。父も姉もいないうえに、外に出て遊ぶこともできないため、内職の仕事で家にいる母に思いっきり甘えていたような気がする。

 けがが治って久しぶりに幼稚園に登園するとみんなが集まってきて

「リンダ君大丈夫?」

「すごい傷跡やねぇ。痛かったんちゃう?」

などと話しかけてきてくれた。私はただ、皆に久しぶりに会えたことが嬉しかった。ただ、長い間外に出て遊べなかった影響からか、みんなのスピードについていけなくて、少し悔しい気持ちも抱えていた。

 やがて梅雨が終わると、姉の通う小学校も、私の通う幼稚園も夏休み。幼稚園の友達とはしばらくの間会えない日々が続くことになる。


山口への帰省


 その夏休み最大のイベントというと、母の実家のある山口への初めての帰省。この当時私には父方の祖父がいたのであるが、祖父は自分の娘である叔母の家へ行くことになっていて、その祖父と一緒に叔母の家の方に送っていって、私たち家族が住んでいた近くのT駅から電車に乗って、地下鉄に乗り換えて新大阪へ。新大阪からは新幹線に乗って山口へ。この時が私が新幹線に乗った一番最初の出来事である。当然いつも乗っている電車とは違う超特急に乗れるので、私はウキウキワクワク。この当時は新大阪から山口まではひかり号でも3時間かかったらしいが、生まれて初めて見る生の新幹線に興奮していた私にとってはあっという間だったような気がする。やがて下車駅について、叔父が迎えに来ているのを見つけると、

「おっちゃーん。久しぶり~」

と声をかけると

「おぉ。こりゃたまげた。ぶち大きくなったのぅ」

と驚いていた。そして叔父の運転する車で母の実家である祖父母の家へ。これまでは私たちが幼いということで、山口から逢いに来てくれていたのであるが、私たちも少し大きくなったということで、初めて山口に帰省すること人になったのである。祖父母も

「ありゃまぁ~こがいに大きくなって~。たまげたわ~」

と言っていたのを思い出す。

 山口は大阪と違って田舎であり、家の近くを流れる川には魚が群れをなして泳いでいて、魚釣りができたり、川におりて水遊びをしたり、川の砂を掘って、当時はまだ名前を知らないシジミをゲットできたり、大阪では体験できないことがたくさん味わえて、姉と私にとってはアドベンチャーワールド。毎日祖父母の家の周りで遊んで、夜は遊び疲れて日没とともに寝るような生活が続いていた。そして山口に初めて来て一番驚いたのが、夜空を見上げると、大阪で見る夜空とは全く違っていて、星の見える数がものすごく多くてきれいだったことである。このころ私が抱いていた、「この星空の向こうには何があるのだろう?」

という疑問がのちに、私を天文少年へと成長させるきっかけとなったのである。

このように自然と戯れた1週間が過ぎ、大阪に帰る日がやってきた。祖父母に

「じいちゃん、ばあちゃんまた来るね」

そう告げて母の実家を後にした私たち。叔父に駅まで送ってもらって新幹線に乗って大阪へ帰ると、またいつもの生活が戻り、家の近所の年の近い皆と遊んで夏が過ぎていった。そして夏休みが終わり、姉は学校へ・私は幼稚園に通う毎日が戻ってきた。

 

運動会


 夏休みが明けて久しぶりに会う皆は日焼けしていて、口々に何をして過ごしていたのか、先生に話していた。始業式が終わると、10月に行われる運動会の練習が本格的に始まる。運動会ではかけっこや綱引きなどが行われるほか、鼓笛隊パレードがあり、皆慣れない中、一生懸命練習していた。

 やがて迎えた運動会本番。私は体が大きいということで、鼓笛隊では大太鼓を担当。体が大きいといっても幼稚園児。かなり重たくて、必死になって演奏していたのを今でも思い出す。

 午前中のプログラムが終わって昼からはリレーの決勝などがあり、運動会が終わって帰ると疲れてそのまま翌日まで寝ていたと、母は今でも懐かしそうに当時を振り返りながら話すことがある。運動会が終わると今度は、劇遊戯発表会に遠足など、イベントが続く。遠足では電車に乗って芋ほりへ。大きなサツマイモを掘りぬいて大はしゃぎして、家に持って帰ると母がスイートポテトを作ってくれた。


お正月


 寒さが厳しくなる12月迎え、劇遊戯発表会があったのであるが、何を演奏したかは覚えていない。その後クリスマスがやってきて、クリスマスツツリーやリースなどを飾ってケーキを食べた後、両親からちょっとしたプレゼントをもらって喜んでいるのを両親もうれしそうに見ていた。

 私たち家族は当時、私のほかに両親と姉・父型の祖父と、父の弟の留兄ちゃんが一緒に暮らしていて、6人で祝うクリスマスは賑やかであった。

 クリスマスが終わって、お正月を迎えると、父の姉や妹の家族が家に来るので、私は従姉妹に逢えるのが楽しみであった。皆が集まると姉の通う小学校の校庭に行って凧あげ。年上の弘姉ちゃんややよ姉ちゃんが凧をあげるのが上手であった。

 凧あげを終えて、冷え切ったからだを温めるのに、出来立てのお雑煮を食べて、子供にとっては一番の楽しみであるお年玉をもらって大喜びしていた。私は父と一緒にカメラ屋さんに行った時に見た望遠鏡が欲しくて、いつか買いたいという思いもあったので、もらったお年玉はすべて母に預けた。最初、望遠鏡を見たときは、何に使うものなのか知らなくて、父に聞いてみると、

「あれは星を観察するときに使うもの」

ということを教えてもらい、それ以来望遠鏡が欲しくてたまらなかったのである。私は子供向けの科学図鑑を見ながら、はるか遠い星の世界に思いをはせていた。

 そのお年玉をもらった後は、家の近くの神社に初詣。叔母や従姉妹も合わせると16人が一緒に行くので、神社までもまぁにぎやか。神社周辺はいろんな出店があって、たくさん駄菓子を買ってもらった。


祖父の大けが

 

 元旦が過ぎで叔母や従姉妹たちがみんな帰った後翌日。私は祖父と外で遊んでいた。この時祖父は段差に躓いて転んでしまって、私が慌てて家に帰って

「おじいちゃんが転んだ」

と母に知らせて、母が家から出て祖父の様子を見て

「ただ事ではない」

と救急車を呼んで、祖父は正月早々入院することになってしまった。

 私は祖父が入院してからは、母に連れられて何度か見舞いに行ったことがある。この事故で祖父は足が悪くなり、2か月前後であったと思うが、入院とリハビリが続き、家に帰ってきたころにはすっかり瘦せてしまっていた。

祖父が入院している間に私は小学校の入学準備などがあり、K小学校へも母と一緒に行った。真新しいランドセルも届き、小学校入学準備は進んでいった。


卒園

 

 やがて私は小学校を卒園する日を迎えた。両親と一緒に迎えた卒園式はあまり記憶に残っていないのであるが、皆で幼稚園の園庭で園歌を歌ったのは覚えている。最後に卒園証書を受け取って、園長先生の祝辞を聞いて幼稚園を無事に卒園。小学校は同じ学校に通う子もいれば、違う学校に通う子もいて、1年という短い時間ではあったが、せっかく友達になったみんなと別れるのは残念であった。

 そして桜の花が咲くころ、私はT市立K小学校に入学したのである。その時は6年生になったら悪夢のような出来事が自分自身の身に起きることなど、知る由もなかったのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ