第3話 伊吹とノジャ
立ち上がった俺は、少し付いてしまった草を払って、スラックスを絞った。うん、すごく濡れてる。滴る水を手で払い、俺はノジャを見る。
「一人で歩けるか?」
草履らしいものを履いているノジャに向かって言ったが、それはいらぬ心配だったとすぐにわかった。
こいつ、浮いていたんだ。
「子ども扱いするな! わしはおぬしより年上だと思うぞ!」
「そんなわけあるか」
さて、方向もわからないし、どうしたものか。
俺は空を見てみた。快晴なのか太陽がよく見える。
「今の時間は……午後三時か」
左手首に付いている父さんに買ってもらった皮の腕時計を見た。
とりあえず、太陽の方向に歩いていこう。そして、来た道がわからなくならないように何か目印を置いていくか。
持っていた鞄から、ノートを出して、それをリボン状に手で切り取る。それを近くの木の枝に巻き付ける。
「何をしとるのじゃ?」
「来た道がわからなくならないように、目印を付けている」
「ほー! かしこいのう、おぬし」
「さっきから、おぬし、おぬしって、俺には田仲伊吹っていう立派な名前があるんだけど」
「おー! 伊吹というのか! よろしくのう」
ノジャは嬉しそうに目を細めて笑った。
呑気な奴だ。
「それで、君の名前は?」
「わしか? まあ、わしの名前は何でも良い。好きに呼ぶがよい。さすがに、蔑称で呼ばれたら返事せんがのう」
名乗る気なしか。じゃあ、やっぱりノジャと呼んでおこう。
「少しの間よろしくな。ノジャ」
「ノジャ、か。いい呼び名じゃのう!」
俺はノートの切れ端を何個か作り、スラックスのポケットに入れた。ノートは鞄に戻して進むことにした。
ノジャもそれに着いてくるみたいだ。
後ろをふわふわと浮かびながら歩くノジャと違って、多少ぬかるんでいる地面を歩くのは苦労が必要だった。今日に限って、スニーカーではなく、ローファーで来てしまったのが不幸かもしれない。しかも、新品だ。
歩いてから三十分くらい経った頃、陽が少し傾き、夜になったらどうするのかが心配になってきた。明かりをつけるものもないし、ノジャにはそれを期待もできない。
「伊吹ー。疲れたのじゃ」
「浮いてて、なんで疲れるんだよ」
「浮くのにも力を使うのじゃ」
そうなのか。納得はできないが、納得するしかないんだろうなと考える。
ノジャは、近くの木にもたれかかった。
「今日は時止めも異界渡りもしたから疲れたのじゃー!」
「時止めってなんだよ」
「時を止めるのじゃ」
「そんな魔法みたいな……」
魔法……今日は非現実的なことがよく起こる気がした。トラックはぶつかる寸前で止まっていたし、いつの間にか知らない土地にいるし。
「異世界転生でもあるまいし」
「ここは異世界じゃよ。伊吹の世界から考えるとな」
ノジャはそうあっさりと言いのけた。
俺はその言葉に、疑問しか浮かばなかった。
「それはフィクションの世界だろ?」
「ふぃく?」
「フィクション! 非現実的なことだろ!」
「現実じゃよ。伊吹の世界ではあまりないのか?」
「ない……というか、どこでも有り得ないだろ」
ノジャはうーんと唸った。目を瞑り、何かを考えているようだった。
「わしは伊吹の世界には先程降り立ったばかりだから、どういう世界かわからんからのう。しかし、これは現実だし、伊吹から見ても、わしから見ても、ここは異世界じゃ」
「異世界ってなんだよ」
俺はこれ以上考えるのが嫌になって、濡れるのも構いなく、地面に体育座りして、ひざに顔を埋めた。
「伊吹……」
その時、ズシンと地響きが聞こえた。
「地震か!」
俺は顔を上げて、周りを見渡した。木々は揺れ、葉が落ちる。地面が震えている。
ズシンズシンと、地震とは違うような揺れがずっと起きている。その音はこちらに近づいてきてる。
「嫌な予感がするのう」
ノジャはもたれていたのをやめて、俺の近くに来た。俺に立つようにうながしたので、立ち上がり、音のする方角をじっと見た。
もうすぐ側にまで大きな音がする。揺れも大きくなり、ガサガサと音が鳴る。
「伊吹!」
ノジャが叫ぶと、木々をかき分けて、巨体の男が現れた。