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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第八話 しかして年が明ける

 ナダール王国ウィシュヘンド州にある水伯邸に明良と八千代が来る少し前、水伯邸が八階建てから九階建になっていたが、真っ先に気付いた人物は運動と称して階段を上り下りする颯だった。

 二人が移住してから六日が経ち、今日は元日となると言うのに、八千代はまだ時差呆けが抜けないのか、その部屋から出て来る事はなかった。この時期、水伯邸のある地域では日が短時間しか昇らない事も影響を与えているのかも知れない。ちなみに八千代の部屋は勉強部屋の向かいにある部屋を宛がわれていた。

 明良は颯と共に家庭教師の授業を受けていて共通語の代わりにブーミルケ語を習っている。正月という事で今日は授業がなかった。正月の内二日と三日はウィシュヘンド州に住む有力者が挙って水伯に新年の挨拶をしに来訪する為、一日だけが水伯の休みとなり、その日は使用人も全員が休みだった。ちなみにブーミルケ語はウィシュヘンド州の第二公用語となっている。

 玲太郎と水伯は魔術の練習の為に、この寒い中、敷地内にある北側の畑へと散歩を兼ねて出掛けて行った。留守番をしている明良と颯はまだ十五時になっていなかったが一階にある厨房にいて、明良は八千代の為に粥を作っていた。昼食用の材料を切り終え、焜炉こんろの前が空くのを待っている颯は、退屈していて口を動かしている。

『ハソもニムも相変わらず来よるけんど、玲太郎が暴走してもどうにも出来んのになんでだろな?』

『玲太郎の魔力が相当あるから、どうなるのか興味があるんじゃないの。玲太郎の面倒を見なくて良くなったヌトまでくっ付いて行っている程だものね』

 明良も遣る事が少なく、颯の相手をしている。

『ヌトはオレが玲太郎を守ってくれるように頼んどるんよ。ほんでずっと傍におってくれとる』

『そうだったのか。魔力では負けているからそれも必要なくなりそうだけれどね』

『まあ、まだ魔術が使えんみたいやし、使えるようになる時まではおってもらう。約束やもん』

 明良は火を止めると鍋の中に解いた玉子を回し入れて蓋をした。

『ほれにしてもばあちゃんの時差ぼけ、ようなれへんなあ』

『そろそろ慣れる頃だとは思うのだけれど、体質があるから一概には言えないね。この屋敷の中も気温が高目だから体が慣れないのもあると思うのだけれどね』

『ほれよ。ここ温いけん、外に出たら寒さが応えるよな』

『それは此処ここが寒冷地だから仕方がないね。寒冷地は屋内がとても暖かいから、それが普通と言えば普通なのかもね』

『お父様んちもこんなんだろか?』

『ここより暖かかったと思うよ。ここは水伯が魔術で気温を一定にしてあるから常に二十三度だけれど、お父様の屋敷は魔道具の暖房器で暖めてたからね』

『よう覚えとるな』

『颯は行かなかったけれど、この前お父様に会って来たばかりだから憶えているに決まっている』

 二人はもうイノウエ家の養子になっていて祖父が父になっていた。

『それよりもその方言、本当にそろそろ直さないと駄目なのではないの?』

『ああ……、ほうなんやけんど、つい出てまうんよな』

『ディモーン先生にまた言われるから早く直すようにね』

『うん。ほれよりも、玲太郎はディモーン先生には慣れるんが早かったな』

 明良は露骨に話の内容を変えた事がおかしくて些か頬を緩めた。

『田井先生には中々慣れなかったのにね。年を重ねて人見知りが増しになって来たのかも知れないね』

『ばあちゃんには相変わらず握手だけやけんどな』

『そう、それ。何かが違うのだろうけれど、受け入れられる条件が今一判らないよね。今でこそハソとニムも平気なようだけれど、最初からヌトだけが平気だった理由は本当に判らない』

 明良は鍋の蓋を取るとへらで掻き混ぜ、用意してあった器に粥を流し込んだ。

『お先』

 そのまま盆に載せ、それを持って厨房を出て行った。颯は鍋や箆を流しに持って行き、洗い出した。


 その頃、玲太郎は水伯に言われて一所懸命に魔術で何かを顕現しようとしていた。顔が真っ赤になる程に息んでいたが水伯は唯々見ていた。二人は水伯の魔術で暖かい空気の中でいるお陰で薄着だ。

『で……でないのよ』

 この二ヶ月、延々と遣っているが魔術で何かが顕現される気配が一向になかった。

『玲太郎の体の中には魔力が沢山あるから、必ず出せるよ。何時いつも言っているけれど、力を籠めても駄目だからね。自然体で、体の中から魔力を出すのだよ? こうね』

 そう言って玲太郎の後ろから右手を持って腕を伸ばして掌を上に向けると直径一寸程の光の玉が顕現した。

『体の中を巡っている魔力を掌の上に出すとこうなる。これは玲太郎の魔力で出来た光の玉だよ。この感覚を覚えて、出来るようになろうね』

 水伯が手を放すと光の玉は消えた。

『あー、なくなった』

『なくなったのは仕方がないね。玲太郎が出せるようになれば、また出るからね』

『うん……』

 その様子を正面から見ていた三体は、中々習得出来ない玲太郎を微笑ましく見ていた。

「もしかしたら詰まっておるのやも知れぬな」

「何が?」

「魔力に決まっておろうが」

「詰まっておるのならば灰色の子が遣っても玉は出せぬであろうが」

 ニムがハソの言で気の抜けた口調で言うと、ハソは苦笑いをした。

「灰色の子が暖かい空気を纏わせておろうが。それで詰まるのではないかと思うたのであるがな」

「玲太郎の気が散るから黙っておれよ。また呪文呪文と言われるぞ」

 ヌトが小声で言うと、玲太郎と目が合ったハソが咳払いをした。三体は口を噤む。ちなみにハソ達の発する言語は現地の主要言語に自動的に翻訳されてしまい、今は玲太郎に通じていない。

『頭の中で、光の玉、火の玉、水の玉、土の玉、風の玉、好きな物を思い浮かべて、それが掌の上に出るよう、心の中で思うのだよ』

『ゆきのたまでもええ? ゆきがっせん、たのしかったのよ』

 後ろに振り返って水伯を見ながら言った。

『雪でもよいけれど、私が言った中の物より難しいかも知れないよ?』

『ほなって、ひかりのたまはなくなるもん』

『それならば雪の玉で遣ってみて貰える?』

『うん、やってみる』

 玲太郎は誰もいない方に体を向き直して目を閉じて掌を上に向けた。この周辺は水伯が雪を解かし、乾いた地面が現れていた。直ぐに雪が降り出して視界が白く煙り、五分もすると地面が隠れてしまった。玲太郎は無意識で雪を降らせていた。

「またであるな」

 ヌトが言うと、ニムが頷く。

「玲太郎は雪が好きよな。魔力が詰まっておったらこうはいかぬぞ」

 そう言われてハソが無表情になった。玲太郎は三体を横目で見ると右手を下ろす。するとにわかに雪が止んだ。

『ちちうえ、できんかった……』

 悲しそうな表情をして水伯の方に振り返ると、水伯は苦笑する。

『また玉は出来なかったね。でも根気良く続けて、出来るようになるまで頑張ろうね。それよりも玲太郎は雪が降っている景色が好きなの?』

『うん?』

『雪が降っている所を見るのは好きかしら?』

『すき! ちらちらゆきがおちるの、きれいなのよ』

 水伯は玲太郎を抱き上げると、足もとの雪を解かしながら歩き始めた。

『雪合戦の時に作る雪の玉と、降っている雪と、何方どちらが好き?』

『ふってるゆき!』

 即答だった。水伯は柔和に微笑む。

『そうなのだね。だから雪と言われれば玉よりも、降っている所を想像してしまうのだね』

『ゆきちらちら、きれいなのよ』

『雪が降る様は確かに綺麗だね。…そうだった。浮いている感覚を覚えて貰う為に抱いていてはいけないのだったね』

 そう言うと玲太郎から手を放す。玲太郎は宙に浮き、水伯の隣で飛んで進む。

『ふわふわね。ありがと~』

『どう致しまして』

 玲太郎の手を握ると、水伯も宙に浮いて屋敷の方へ戻る。

『そろそろお昼時だから少し急ごうか』

『はーい』

 水伯は速度を上げた。

(この二ヶ月、ずっと掌の上に……と思って遣っているけれど、掌だから駄目なのだろうか。指先か、若しくは棒を用意するか、何方かにした方がよいのかも知れないね。午後から試してみよう)

 そんな事を思っている内に大きな温室と北棟を結ぶ回廊の戸口の前まで来てしまった。

『此処から入ろう』

『はーい』

 開錠する音が聞こえると開扉し、先に玲太郎を中に入れてから水伯も入って行く。扉が徐に閉まっていき、閉扉すると勝手に施錠されたた。二人は既に南棟を目指して歩いていた。

『お昼を食べたら、また魔術の練習だからね』

『ええ? まだやるの? きょうはもうおわりよ』

『今日はまだ遣るからね。散歩もしていないから、散歩がてらに練習を遣ろうね』

『……わかった』

 気落ちしている玲太郎は小さな声で返事をする。南棟に入る手前に厨房があり、そちらから物音が聞こえて覗き込むと颯がいた。

『何を作っているのかしら?』

 颯は声のする方に向いた。水伯の顔を見ると笑顔になる。

『ちょうどええ時に帰って来たな』

 また手元に視線を戻す。

『昼飯の焼き飯をこっしゃえよるんやけんどな。味噌汁は出来とるじょ』

『そうなのだね。有難う』

 厨房の中に入って、颯の傍へ駆け寄った玲太郎は微笑んだ。

『やきめし?』

『正月早々焼き飯よ。こんなんでごめんじょ』

『はーちゃんのやきめしすき』

『それでは私は野菜の甘酢漬けでも持って来るよ』

 そう言って厨房内にある扉に向かい、扉を開けて貯蔵庫へと入って行った。

『玲太郎、ばあちゃんの部屋に兄ちゃんがおるけん、兄ちゃんを呼んで来てくれる?』

『わかった、いってくる』

 玲太郎は嬉しそうに返事をすると厨房を出て行った。水伯が入れ違いで戻って来る。

『玲太郎は何処どこへ行ったの?』

『兄ちゃんを呼びに行ってもろた。よっしゃ、もうええかいな。ここは火力が強いけんご飯粒がぱらぱらになってええわ』

 並べてあった皿に盛り始めた。水伯は小さ目の深皿を四枚と匙を出して来て、野菜の甘酢漬けを盛る。颯は次に味噌汁を汁椀に注いだ。そして二人は足に車輪の付いた台車に皿を載せる。水伯は箸と匙の入った小箱も四人分を載せた。

『ほな今ある洗いもんしとくわ』

『魔術で片すから遣らなくて構わないよ。台車を押して食堂まで行ってくれる方が嬉しいね』

『ほんま。片付けありがと。ほな行ってくるわ』

 颯が先に厨房を出て行くと、水伯は野菜の甘酢漬けが入っていた玻璃はりの瓶に別の野菜を漬け込んだ。後は魔術で片し、瓶を貯蔵室へ持って行く。


 南棟にある食堂に着いた颯は一旦台車から離れ、開扉してから台車を中に入れると閉扉した。それから食卓に料理を並べて行く。台車が空くと端に寄せ、脇に置かれている玲太郎用の椅子と普通の椅子を入れ替えた。

 四人が揃うと水伯が先に挨拶をして食べ始める。次に三人という順番だった。

『この焼き飯、美味しいね』

 水伯が言うと、玲太郎も嬉しそうに微笑む。

『はーちゃんのやきめし、おいしいのよ』

『ほんま。ほな良かったわ。ありがと』

 颯は隣に座っている玲太郎を見た。玲太郎は笑顔で頬張っている。

『颯、昨夜の角煮を入れたの?』

『うん。角煮がちょっと残っとったんよ。ほれだけでは足りんと思て塩漬け肉も入れた』

 正面にいる明良を見るとそう言った。

『それで少ししかないんだね。成程、有難う。この角煮、美味しかったよね』

『ばあちゃんに聞いてこっしゃえたけんな。ばあちゃんの味よ。何より美味しい肉をうてくれた水伯にもお礼を言わんとな。ありがと』

 玲太郎は食べるのに夢中で話を全く聞いていなかった。それを横目で見ながら颯も頬張る。

『八千代さんの料理は本当に美味しいよね。明良達はあの味で育っているから口が相当贅沢になっていると思うよ』

 水伯が言うと、明良は頷いた。

『確かに美味しい物を食べるのが当然になっていると思う』

 颯は小首を傾げながら匙に山盛り掬って頬張る。玲太郎はそれを見て同じように匙で沢山掬おうと頑張っていたが出来ず、仕方なしに掬えただけを頬張った。

『それで玲太郎はまた玉が出せなかったの?』

『雪は降るのだけれど、玉は出せないのだよね……』

 明良の問いに答えたのは水伯だった。二人は顔を見合わせて苦笑すると、玲太郎に視線を移した。玲太郎はそれに気付かず、一所懸命に咀嚼をしている。

『いつも思うのだけれど、玲太郎は綺麗に食べるよね』

 水伯が感心していると明良が鼻で笑った。

『悪霊が零さないように見張ってくれているからだよ。悪霊なのに気遣いが凄いでしょ』

 玲太郎と颯の間にいるヌトを見ながら言った。水伯はどう反応してよいのか戸惑っている。

「気付いておったのか」

 明良はヌトに反応せず、焼き飯に視線を移して匙で掬った。

『兄ちゃん、知っとったんじゃ。俺だけしか気付いとらんと思とったのに』

『それよりも言葉遣いはどうにかならないの?』

 颯は明良を見て少し固まる。明良は焼き飯を頬張ると颯に視線を遣った。

『んふふ、ほれはまあ、追々っちゅう事で』

 笑って誤魔化すと、味噌汁を啜った。それを見ながら明良は咀嚼をしている。


 明良と颯は山盛りだった焼き飯を平らげた頃に水伯が茶を持って来た。

『玲太郎はこれを飲んで少し休んだらお昼寝ね。起きたらまた魔術の練習だから、良く眠るようにね』

『はい……』

 小さな声で返事をした。颯はそれを見て苦笑している。

『玲太郎は魔術を使いたくないの?』

 玲太郎は明良を見ると小首を傾げた。

『つかいたいけんど、でないのよ。どうすればよいのかしら?』

『どうすればよいのだろうね。私は魔術が使えないから判らないよ』

 些か困ったように言うと、水伯も会話に入ってくる。

『手元に出せないのは何故なのかしらね。玲太郎は何を思いながら魔術を出そうとしているのかしら?』

『んーとね、ゆきがちらちら、あったかいかぜがそよそよ、ごはんのこと、いろいろなのよ』

 水伯は眉をしかめた。

『もしかして玉を思い浮かべた事はないのかしら?』

『ある。でもでないから、ちがうのおもいうかべるのよ』

『どんな玉を思い浮かべたら出ないの?』

『ゆきのたま、おもいうかべたら、ゆきがちらちらするじょ』

『光とか風とか土とか火とか水は思い浮かべないの?』

『あるある。あったかいかぜのたま、あったかいみずのたま、おもいうかべてもでないのよ』

『光や火や土の玉は?』

『ひかりは、ちちうえがやってくれるじょ』

『そう言うという事は、光の玉は思い浮かべた事はないと?』

『ひかりのたまは、ちちうえのん』

 そう言って満面の笑みを浮かべた。水伯と颯は苦笑する。明良は一人だけ茶を飲んでいた。玲太郎は湯呑みを持つと息を吹き掛けて冷まし始めた。それを見ている颯は頬杖を突く。

『これは実際にロウソクの火を見せるとか、土の玉を作ってみるとかやった方がええんかも知れんな。風と光はやり方が分からんのんやけんど……』

『光の玉は、事ある毎に玲太郎の体を通じで出してはいるのだけれどね。如何いかんせん玲太郎の魔力は解け込んでしまうから風の玉となると目に見えないのだよね……。玉を形成している外枠の辺りは背景が歪んで見える事もあるのだけれど、背景次第では確認し難くてね』

『それよりも集中して出来る時だけにした方がよいと思うのだけれどね。ご飯の事とか考えてる時点で集中は出来ていないのだから』

 明良がそう言うと、水伯は首を横に振った。

『私はそれでも遣り続けた方がよいと思う。遣っている内に骨を掴める事もあるだろうからね』

『水伯の時はどんなんだったん? どうやって使えるようになったん?』

『私は上から景色を確認したいと考えたら浮かび上がって、大きな津波が来ているのを確認した時に、それを消したいと強く願ったら津波が消えて…』

『ほれはごっついな! 水伯も最初の頃から大きい魔術を使つことったんやな』

 颯が感心していると、玲太郎が颯を見た。それに気付いて颯も玲太郎を見る。

『どしたん?』

『こえ、おおきいとおもて』

 颯は顔を玲太郎に近付ける。

『大きいてごめんじょ。小さい声で話すわな』

『んも~、こえちいさいのよ』

 眉を顰めて言うと、顔を正面に向けて茶を啜り出した。

『ほういや、明日と明後日は大忙しだろ?』

 颯が水伯を見ると、水伯は頷いた。

『来なくてもよいと言っているのだけれど、行事になってしまっていて止められないのだろうね。本当に心底から辟易しているのだけれど、誰も理解してくれないね』

『その話をデヒムから聞いたのだけれど、年始に行っておかないと取り潰されるという実話が存在するそうだね』

 水伯が明良の方に顔を向けると明良と目が合う。

『イノウエ家の家令も無駄口を叩くのだね。……それは偶々たまたまだと思うのだけれどね。後ろ暗くて来なかっただけでしょうよ。それに横領してたのだから当然許す筈もなく家は潰して奴隷に落とすよね……。それがろく人だったかしら、いただけの話なのだけれどね。横領に限らず定期的に悪巧みが露見するから、それも物凄く楽しい行事になっているよ』

『そうなの。だから身の潔白を証明する為にも来るのだろうか?』

『悪事を働いていても来るから、それはどうかしらね。兎にも角にも、私が来なくてもよいと言っているのだから、普通ならば遠慮すると思わない?』

『そうは言ってもウィシュヘンド州のご領主様には謹んで新年のご挨拶をしないと……』

『それは語弊があるよ。私の領地は三分の二程度ね。残りはイノウエ家の領地だよ。それなのにイノウエ家に行かずに此方こちらに来るのだから数が増えて困り者だよ。後、日を七日や八日にする事も出来るだろうに、必ず二日か三日なのだよね。只の嫌がらせだよね』

『ほなウィシュヘンド中の権力者が集う訳なんじゃ。いっぱい来るな。明日と明後日は一階をうろちょろ出来んなあ……、どうしよ……』

 水伯は困り顔の颯を見る。

『何が困るのかしら?』

『ご飯が困るなと思て』

 それを聞いて気の抜けた感じになっていた水伯は失笑するともう笑いが止まらなかった。一頻ひとしきり笑い、出た涙を手で拭う。

『颯はこれだから……。はー、おかしい。……そもそも客室は正面玄関から東にあるでしょうに。厨房とは反対側だから南棟の西階段を使えば済むでしょうよ』

『ああ、ほうか。正面の階段を使う事しか考えてなかったわ。これは失敬』

 颯が苦笑すると、水伯が真顔になる。

『それにつけても、明日と明後日は使用人が総出で客を迎える事になるだろうから、颯達には子守を任せる事になるのだけれど、その辺は宜しくね』

『颯に任せて、私は玲太郎とばあちゃんの面倒を見ながら読書でもしているよ』

『ほれはあかんわ。ずっこいじょ』

『下は一歳、上は十歳だったかしら。全部で六人、玲太郎を合わせて七人いるから明良も宜しくね』

 柔和な笑顔で明良を見ると、明良は横目でそれを見て項垂れた。颯が水伯を見る。

『ほなけんど、玲太郎の人見知りが出たらどうしよか?』

『そうだね、その事を考えていなかった訳ではないのだけれど、同年代でも駄目だったならば明良に面倒を見て貰うとしようかしら。八千代さんの体調も気になるしね。今日の八千代さんはどうなのかしら?』

 頬が少し緩んだ明良が水伯に顔を向ける。

『ばあちゃんはご飯が食べられているからその辺は心配ないのだけれど、時差ぼけがなくなるまではこのままだろうね』

『初めての長距離移動だと言っていたけれど、此処まで酷くなるとは思ってもいなかったね』

『うん。最初はご飯も喉を通らなかった程だからね。今日は眩暈めまいも大分治まったって言っていたから直に良くなると思うよ。次は普通の食事がよいって言ってた』

 水伯は柔和な微笑みを浮かべて頷いた。

『あー、玲太郎が明日子供らの中に入って馴染めるかどうかが問題やな。あかんかったらオレ一人で見なあかんようになってまう……』

 颯が渋い表情で玲太郎を見ながら言うと、玲太郎は颯を見る。

『うん? ぼくがなに?』

『共通語も大して話せんもんな……』

『きょうつうごね、えほんはすこしよめるじょ』

 そう言って笑顔になると、颯も釣られて笑顔になった。

『ほなけんど、いつものえほんのほうがおもろいのよ』

『ほら意味が分かるけんだろな。ほの内、共通語のんも面白おなるわ』

『ふうん』

 顔を湯呑みに向けると、溜息を吐いた。

『そんなことより、ぼくはまじゅつをつかいたいのよ。ゆきのたまがだせたら、はーちゃんにかてるじょ』

『ほれもほの内に出来るようになるわ。ほれとは別にまた近い内に雪合戦しよな』

 そう言って玲太郎の背中を優しく撫でた。

『わかった。かつよ、ぼく』

 玲太郎は頷いて返事をして茶を飲んだ。

『それでは確認ね。夕食はイノウエ邸で二十一時に頂くから、二十時半に此処を出発するとして、二十時四十五分に玄関集合ね。八千代さんのご飯は誰が作るのかしら?』

『二十時四十五分に玄関集合了解。ばあちゃんの晩ご飯はオレが作るな』

『ばあちゃんの晩ご飯は私が作るから、颯は後片付けを頼むよ』

『分かった。ほな片付けるわ』

『わかったー。ぼくもやる~』

『片付けはオレがやるけん、玲太郎は水伯と一緒に行く準備をしてくれる?』

『わかった。そうする。ちちうえ~、よろしくなのよ』

 水伯を見て笑顔になると、水伯も笑顔になって頷いた。明良と颯は茶を飲み干すと席を立ち、それぞれが片付け出して台車に置くと、颯はそれを押して退室した。

『さあ、玲太郎は少し休んでから眠って、魔術の練習ね』

『はーい』

 水伯が玲太郎の傍に行き、椅子から下ろすと二人は食堂を後にした。


 翌日、十一時前から明良と颯と玲太郎はこの屋敷の使用人の子供達と食堂の隣の部屋にいた。部屋は約二十畳の広さがあり、扉のすぐ横には棚があって子供達の外套と上着、それと毛布も数枚が置いている。隅には絵本や玩具が置いてあり、厚手の絨毯の上に座布団が沢山あって皆が靴を脱いで座っていたり、寝転んでいたりした。

 玲太郎は奥の方にいて、明良にくっ付いて絵本を読んで貰っていた。颯はその近くにいて遠巻きに他の子達の様子を見ていたが、預けられる時に名前と年齢を教えて貰っていたのにも拘らず、全く覚えていなかった。そして蒲公英たんぽぽ色の髪をした女の子が颯の視線に気付いて近寄って来た。

「あなた、どこのお家の人なの? 私はカウトレンド家のルリーアよ」

「カウトレンド? ……ユージュニーさんの子供か」

 颯は気の抜けた表情で女の子の緑色の眼を見ながら言った。颯よりも薄い緑だ。女の子は居丈高になる。

「あなた、しようにんでしょ? 私のおうちははくしゃく家よ。うやまいなさい。ところであなた達はふうふなの?」

 颯と明良を交互に見た。玲太郎は不思議そうに颯とその女の子を見ていると、明良がそんな玲太郎を見てからその女の子を見る。

「カウトレンド嬢、わたくし共は兄と弟という関係で御座います。そして私を女性と見間違えるのは、見る目がないと言わざるを得ません」

 顔も声も中性的でどちらとも区別が付きにくいのは本人が一番知る所ではあったが、そんな事は関係がなかった。颯は明良を見て困惑した表情になる。

『兄ちゃん、子供相手に何言よん……』

 颯は思わず和伍語で話した。ルリーアは顔を歪ませている。

「それに私共はイノウエ家の者に御座います。敬わなければならない方はカウトレンド嬢ではないのでしょうか」

 ルリーアはそれを聞いた途端に笑った。

「イノウエ! 私知ってるわ。あののろわれているというおうちね。そんなおうちの人を、どうして私がうやまわなければならないの」

「イノウエ家は呪われていようが腐っていようが二千年以上続く伝統のある侯爵家。次期当主である私にそのような口を利いた事は生涯憶えておきましょう。私よりも優位に立ちたいのであればお顔をお変えになって王家にお輿入れ下さい。それと此度こたびの件は閣下とユージュニーには伝えますので悪しからず」

「そっ……、それはダメよ! かっかとお父様にはかんけいないわ!」

 侮辱された事よりも、報告される事の方がルリーアにとっては一大事だった。

「閣下とは此処であった事は逐一報告するお約束ですので、下位の者の意見など聞き入れられません。ユージュニーには、今後こういった事が二度と起こらないように躾け直して頂かなければなりません。ああ、ここは本当に空気が悪いですね。耳障りな音も聞こえるので、これにて失礼致します」

 そう言って玲太郎を抱き上げて絵本を持つと、颯に目配せして去って行った。ルリーアは顔面蒼白になって立ち尽くしている。颯は一人残されて戸惑った。すると赤銅しゃくどう色の髪に、藤色の目をした男の子が近寄って来てルリーアの肩に手を置いた。

「お姉さま、じごうじとくというやつです。もう大人しくしていてください」

 男の子の手を振り払うと、顔を怒りに歪ませた。

「うるさいわね! ヴォーレフはだまっていなさいよ!」

 ヴォーレフは颯の方を向く。

「ぼくはヴォーレフ・テマスモ・カウトレンドともうします。ヴォーレフとお呼びください」

 丁寧に辞儀をする。

「姉がもうしわけありません。イノウエ家をけなした事は取り消せませんが、かんだいなお心でおゆるしいただけませんでしょうか」

「オレはいいけど、兄貴がな……。あれでは貶した本人が五体投地で許しを請うた所で一生許してもらえないよ」

「もうしわけありません。ごたいとうちとはなんでしょうか?」

教という宗教の一番丁寧な礼拝の仕方で、両手と膝と額を地面に着けるんだよ。こうだよ」

 そう言って颯が五体投地を遣って見せた。二人は眉を顰めた。

「和伍国では土下座という座った状態での最敬礼がある。それはこう」

 ついでに土下座もして見せた。二人は先程より増しな表情になったが、それでも眉を顰めていた。颯は胡坐あぐらを掻くとヴォーレフに微笑み掛ける。

「ヴォーレフ君、足を崩して座りなよ」

「はい、失礼します」

 颯の前に足を伸ばして座った。

「オレはハヤテ・ボダニム・イノウエ。ハヤテと呼んで貰っても構わないよ。よろしくな。歳は今十一で、今年十二になるんだ」

「え! てっきり大人だと思っていました」

「ユージュニーさんよりでかいから仕方がないね」

「僕は今七歳で、今年八歳になります」

「へえ、四つ違いか。割と年が近いね」

 まだ顔色が戻らないルリーアは仲良く話している二人が気に食わなかった。

「私をほったらかして何を仲良くしてるのよ。ヴォーレフの姉である私が、かっかに失望されるかも知れないというのにのんきね!」

 颯はこれを聞き取れる自分がとても嬉しくて微笑んでいた。ルリーアはそれを見て顔を引きらせる。

「あなた、ハヤテと言ったわね。なぜそうも失礼なたいどが取れるのよ」

 颯は無表情になる。

「オレはお前に名前を呼んでいいとは言っていない。図々しい奴だな」

「イノウエ家程度の人間が何を言ってるのよ」

「お姉さま、もうおよしになってください。イノウエ家はこうしゃくゾーヴィはくしゃくミージュではさかだちしてもかてません。おじいさまがニョニエルこうしゃくルーギィと仲がよいからと言って、それはお姉さまにはかかわりありません。それにはくしゃくはお父さまであって、お姉さまは全くえらくありません」

 ルリーアは歯軋りをするとヴォーレフの頭を叩いた。

「私たちはこの中では一番えらいのよ! あたまでっかちのバカ!」

「一番偉い、か。爵位でしか物が言えない方が馬鹿だと思うけどな。呪われていようがイノウエ家がこの中では一番だから、それも分からない子供は大人しく下の子達の面倒を見てなよ」

 ヴォーレフの頭を撫でながら颯が冷たく言った。ヴォーレフは颯に顔を向ける。

「ハヤテさま、ざんねんながらお姉さまはイトコたちがきらいで近よらないんです……」

 そう言って表情を曇らせた。颯は知らぬ内に眉が寄っていた。ふと気付くと、他の子達が白い目でこちらを見ていた。颯は苦笑する。

「みんな、ごめんよ。す……閣下からは舞踏館で遊んでも構わないと許可はもらってるから、舞踏館で鬼ごっこでもしようか」

「あそびたいけど、この子が小さいから、わたしがせわをしないといけなくて、あそべないの」

 黄唐茶きがらちゃ色の髪に勿忘草わすれなぐさ色の目をしている女の子が言った。傍には金髪碧眼の小さな子供がいた。

「君は?」

「わたし? わたしはミーヌ・ドルキー・ソゾルスって言うの。五才よ。この子はボーダ・ツェミ・ソゾルス、まだ一才なの」

 布で作られた球体の玩具を鷲掴みにしているボーダを指で差した。

「オレはハヤテ・ボダニム・イノウエだよ。十一歳。よろしくね。ソゾルスと言うと、ディモーン先生のお孫さん? その子はオレが見ているから、みんなで鬼ごっこしよう」

「おにごっこってなにー?」

 黄檗きはだ色の髪に白藤しらふじ色の目をした女の子が言う。

「この子はコミッセン・トルドム・ヘンデューニと言って四才よ。わたしのイトコなの」

 ミーヌが颯に向かって言うとコミッセンは笑顔になった。

「ハヤテだよ。よろしくね。鬼ごっこは鬼を決めて、その鬼が他の子を追いかける遊びだよ。掴まった子が鬼に変わってまた追いかけるんだ」

「ぼくはいいけど、小さい子がまけちゃうんじゃないの?」

 菜の花色の髪に、碧眼の男の子が言った。颯は目を丸くした。

「ああ、ぼくはエネンド・カッチス・ヘンデューニ、コミッセンの兄で六才です」

「小さい子が鬼になったら、オレが鬼になってボーダを抱えたまま追いかけ回すよ」

 颯が笑顔で言うと、エネンドも笑顔になった。

「それならだいじょうぶそうだね。ぼくもがんばってにげるよ」

 颯はそれを聞いて頷いた。

「閣下が温度調節魔術をかけてくれてるから舞踏館は暖かいけど、そこに行くまでが寒いから外とうと上着をきちんと着てね」

 そう言って立ち上がると、ボーダの所に行って抱き上げた。

「ボーダちゃんの服はどれだろう?」

 ミーヌも慌てて立ち上がる。

「こっちよ」

 颯の手を引いて靴を履くと棚の方へ向かった。颯は靴が履けずにいたがそんな事はお構いなしで引っ張って行った。颯も気にせず、一先ずボーダを棚に下ろして上着と外套を着せる。

「オレも上着と外とうを着てくるから、少しの間、待っててもらえる?」

 そう言うとボーダをミーヌに預け、慌てて靴を履くと部屋を出て行った。ヴォーレフが服を着終えてミーヌに声を掛ける。

「ぼくがだっこしてるよ」

「ほんと? ありがとう」

 ミーヌがヴォーレフに笑顔を見せた。ヴォーレフはボーダを抱くとルリーアが近付いて来た。それに気付いたヴォーレフが厳しい表情になる。

「お姉さまはそれ以上近よらないでください」

「イトコとは言え下位の子よ」

「だからどうしたと言うのです。ハヤテさまも気にせずだいていらっしゃいました」

 二人は火花を散らすようにしばらく睨み合っていた。ミーヌ以外の子達は興味がなさそうにしていた。

「フン。イノウエなんてしょせん国外から来たいじゅう者よ。やばん人の子孫なんだからしゃくいが上でも、人としては下よ」

「お姉さまは本当にダメなあたまをおもちですね。あの先生がいらしてからひどくなりましたが、どうしてそうなってしまったのですか」

「ルナキッティ先生はニョニエルこうしゃくさまの六ばん目のごしそくよ。そんなかたの言うことがあやまっているとでも言いたいの?」

「お姉さまふうに言うと、ニョニエルこうしゃくなんて、しょせん金でしゃくいをかったなりきん。二千年以上つづくりょう地もちのこうしゃくゾーヴィと、十年そこそこのなり金、りょう地なしのしゃく地こうしゃくルーギィ、どちらが上なんてバカでもわかるのでは」

 俄に開扉し、全員がそちらを注視した。すると、苦笑している颯が立っていた。

「お待たせ~。それでは行こうか。ヴォーレフ君、ありがとう。オレがボーダちゃんを抱くよ」

 そう言って微笑み掛けると、ヴォーレフはボーダを颯に渡した。

「カウなんとかさんはここで留守番だから。よろしく~」

 颯はルリーアの方を見て満面の笑みを浮かべた。

「フン! しゅくじょの名前もおぼえられないバカとなんかあそぶものですか。言われなくてもここにいるわよ」

「覚える気がなくてごめんね。今後も覚えないからよろしく。それじゃあね」

 そう言うとコロッセンの手を取って扉の外へ出て行く。

「それではオレに付いて来てね~」

 最後に部屋の外へ出たヴォーレフが扉を静かに閉める。一人残ったルリーアは顔を紅潮させて歯軋りをして地団太を踏んだ。

 ルリーアが仲間外れになってしまった以外、颯の子守は順調だった。特にボーダの世話は玲太郎が赤ちゃんだった頃の事を思い出して懐かしみながら遣っていたが、如何いかに玲太郎の世話が楽だったかを思い知る事となった。


 水伯への新年の挨拶は二十時を過ぎても続き、二十一時前になるとようやく子守から解放された。

『お疲れ』

 颯が勉強部屋に入った途端、早々に脱出していた明良が涼やかに言った。颯は物凄く不快な気分になり、眉が寄った。

『裏切者』

『あれは私が無理だったよ。ご免ね』

 明良は手を振って些か眉を顰めた。颯は一気に気力が萎えて、明良を見た。

『はーちゃん、ふろはいる』

 玲太郎が駆け寄って来て手を差し出した。

『ほな行こか』

 颯は気力が復活し、微笑んで玲太郎の手を握るとそのまま退室した。明良も直ぐに退室し、水伯と話をする為に水伯の気配がある方へ向かった。

 玲太郎の髪を乾かして歯を磨くのは、明良が来てからは明良の役目になっている。脱衣所には椅子が置いてあり、明良が早目に行って読書をしながら待つようになっていた。それもあって玲太郎の体を拭くのも明良の役目となっている。それ等を遣り終えると浴室の扉の前に立った。

『颯、水伯に今日の出来事を話をしておきなよ』

『なんて? ごめん、もう一遍』

『今日の出来事を水伯に話すのを忘れずに』

『ああ、うん。分かった。この後に行くわ。ありがと』

 明良は本を持つと扉を開けて先に玲太郎を脱衣所から出してから自分も出て、扉を静かに閉めて部屋へと向かった。部屋に戻ると玲太郎を寝台に寝かせ、絵本を読んで寝かし付ける。昼間に散歩代わりで屋敷の上階を歩き回った事もあって割と早く眠りに就いた。集合灯は付与術で光らせている魔石が使われていて、魔力を通すと四段階の明るさに調節出来る魔道具だ。魔力がない明良達には魔力が付与された魔石を使った調節器が渡されている。明良はそれで薄暗くして勉強部屋へ行った。


 その頃、颯は風呂から上がって髪を乾かしている所だった。その後に歯磨きをして脱衣所を後にし、気配を感知しながら水伯のいる所へ向かう。いつもなら二階の執務室にいるのだが、今日は珍しく一階の執務室にいた。扉を軽く二度叩く。

『颯です』

『どうぞ』

 中から声が聞こえ、颯は開扉すると中へ入って行った。やはり二十畳程の広さがあり、右手に脚の長い大き目の机があって椅子が七脚置かれている。残りの一脚が左手にある執務机の前に置かれていた。左右の真っ白な壁には何も飾られておらず、執務机の隣にある小さな机の上に花を生けた花瓶が置かれているだけだった。颯は扉を閉めて水伯のいる左側へ行く。

『この椅子に座って、今日あった事を話して貰えるかしら』

 颯は言われた通り、執務机の前にある椅子に腰を掛ける。正面にいる水伯を見ると子守での出来事をうろ覚えの名前を言いながら話す。水伯は表情を変えずに相槌を打ちながら聴いていた。

『良く解ったよ。今日はご苦労だったね。有難う』

『どういたしまして』

『明日はウェーリー家から子守に来て貰うね。颯は休んでね』

 颯は表情を明るくした。

『ほんま! ありがと。あのユージュニーさんの子供は苦手じゃ。なんや思い上がっとるし、ほんま気いに食わんわ』

『ルリーアね……。以前から苦情が出ているよ。この行事の度に家で預かっているのだけれど、年々酷くなるね。もう少し様子を見ていたかったのだけれど頃合いかしらね』

 それを聞いて颯は険しい表情になった。

『頃合い、とは?』

『一斉処分の中に入れるのだよ』

『一斉? あの子以外にもおるん?』

 水伯は苦笑すると両肘を突いて手を組んだ。

『汚い大人の世界の話だよ。ルリーアはそれに巻き込まれた被害者、とでも言うべきかしら。それに因って何人かの首を文字通り飛ばして、何人かを農奴……は軽いから奴隷に落とす。……ね、汚い大人の世界の話でしょう』

 颯は驚いて顔を顰めた。

『去年に王様が亡くなって第一王子が王位に就いたのだけれど、その影響もあってね……。私を無力化したい連中がまた暗躍しているのだよ』

『ふうん……。オレにはむつかしい話やな』

『だから颯には話したのだけれどね』

 そう言うと「ふふふ」と笑った。

『中央の掃除を少しだけするというお話だよ』

『中央?』

『そう、政治の中枢の事ね。私は煙たがられているのだよ。僻地にいて大人しくしているというのにちょっかいを掛けてくる奇特な人が何時の時代にもいるのだよ』

『ほうなんじゃ。大公っちゅうんも大変なんやな』

『そうなのだよ。……さて、颯には子守をして貰った報酬を渡さなくてはね』

 そう言って執務机の上にあった木箱を開けた。颯はそれに目を遣る。

『うわ、お金じゃ! もしかしてくれるん?』

『そうだよ。報酬は渡さないとね』

『ええ……、世話になっとるけん、ほんなんいらんじょ』

 水伯は颯を一瞥すると苦笑した。

『お小遣いもろくに貰えていなかった人生を送っていたとは言え、貨幣は解るよね?』

『分かるよ。銅貨と銀貨くらいやったら触った事はあるよ。ほれと大金貨』

『世界共通だという事も解っているよね?』

『ほれは分かっとるよ』

 颯が苦笑する。それを見て水伯は微笑んだ。

『それでは大丈夫だね。中金貨を一枚、子守の報酬として渡します』

 木箱から言った分を取り出す。颯は眉を顰める。

『中金貨? ……五万もくれるん!? ほれはくれ過ぎとちゃう?』

 水伯は驚いている颯に視線を遣って、中金貨を差し出した。

『正月手当込みだよ。それに明良にも渡す積りだったのだけれど、子守から早々に離脱したと聞いたからその分は颯にね。それと一人だったから少し色を付けてある』

『正直言うて欲しいもんもないし、服もいっぱいもろとるし、世話になっとるしで金はいらんな……』

『これでも安いくらいだし、持っていても損はないから持っておきなさい』

『ほんなん言うて……。お年玉に大金貨くれたんで十分じょ。じいちゃんからは会うようになって毎年大金貨もろとるし、オレは結構金持ちなんじょ』

『それはそれ、これはこれ、ね。このお金は正当な取り分だから遠慮は無用だよ?』

 差し出したままの手には中金貨が光っていた。颯は腰を上げてそれを受け取る。

『気い遣わしてもてごめんじょ。ありがと』

 また椅子に腰を掛けた。水伯は笑顔で頷く。

『言っておくけれど、明良と颯の生活費はイノウエ家から出ているからね。二人のお小遣いも預かっているのだけれど使う場面がないのだよね』

『ほうなんじゃ。ほれは知らなんだわ。ほなけんど、ほんまに自分で使う事がないんよな。いるもんはばあちゃんがうてくれたし、服や靴はほとんど水伯がくれるし、食べるもんもあるしなあ』

『八千代さんの誕生日に何かを買って贈り物をする、というような事はしなかったのかしら?』

『唐突に何? まあ、ばあちゃんの誕生日はな、教えてくれんのんよ。女に年に関する事を聞くもんでないっちゅうて終わり。ほなけん、なるべく手伝いはしよったつもりなんやけんどな』

『そうだったのだね。その手伝いのお陰で、あんなに美味しい焼き飯が作れるようになったのだから、颯にとっても無駄ではなかったね』

 颯は嬉しそうに微笑む。

『ほれはあるな。ばあちゃんのお陰で、最低限の家事は出来るようになったけんな』

『それにつけても、そろそろ必要な物は自分で買うように習慣付けないと駄目だよ? その為にもお金は持っておかないとね。これからは毎月お小遣いを渡す事にしよう』

 水伯がいつになく厳しい口調で言った。

『えっ、どうしても自分でやらんとあかん?』

『今年で十二になるのだよね? それならば慣れておかないとね。じょう学校に入るのだし、貴族なのだから街にお金を落とす習慣を付けようね。先ず私が出す衣類や靴はもう止めにして、自分の好きな物を買うように。まだ成長期だろうから直ぐに入らなくなる事を踏まえてもよい品を買うようにしてね。……そうだね、正月明けにウィシュヘンドで一番格式が高いと言われているお店へ行こう。そのお店で買い物をしようね。正月明けと言うと、…五日かしら? うん、五日に行こう。予算は五千万こんね』

『ごっ……、ごせん?』

 颯は思わず目を丸くした。水伯は柔和な微笑みを浮かべる。

『そう、大白金貨が五枚か、板白金貨一枚ね』

 颯は呆気に取られていたが、水伯はいつもの表情を崩さなかった。

『イノウエ家ならばどうという事はない額だよ。明良は私から購入すると言っていて話にならなかったのだけれど、颯はお店で買ってくれるよね?』

『オレも水伯から買うわ。やっぱり一番慣れとるんがええんよな』

 透かさず大真面目な表情で答えると、水伯の表情が徐々に崩れて行った。

『水伯は身の回りのもんも出せるし、家具も出せるし、物も出せるのに、どうやってお金を街に落とっしょん?』

『私は人を雇って、その人にお金を払うからね。そうすると、その人が街に落とせば、私が落としたも同然になるのだよね。但し、この場合だと私の領地で落として貰えない事もあるから、人を選ばないといけないのが面倒臭いね。それに人選に失敗すると後始末に時間を割かれて困るのだけれどね』

『成程。オレには使えん手やな』

『使えるよ? 侍従なり護衛なりを雇えばよい話だからね』

『えー、ほんなんいらんと思うんやけんど……』

『月々のお小遣いで護衛の騎士が雇えるけれど?』

『ますますいらんな……』

『侯爵家のお坊ちゃまになったのだから、護衛は必要でしょうよ。私が傍にいたり、此処に滞在している間は必要ないけれど、外出の際には必要になってくると思うから雇うのであれば探すよ?』

『護衛かあ……』

 そう言って水伯から視線を外して、些か厳しい表情で思案した。

『ガンガオネ隊長みたいに強かったら、と思うんやけんど、ほんな人はおらんよな?』

『それは高望みし過ぎだよ。それならばイノウエ家から腕利きの若い騎士を借りた方が賢明かしらね。そうする?』

『うーん、学校に行き出したら、ほうしようかいな』

『探してもよいのだけれど、どうする?』

『やっぱりほれは覚醒式が済んでからでもええかいな? まだ行く学校も決められへんし、どうなるやら分からんっちゅうんもあるんやけんど、なんかこう、すぐには決められへん……』

 曇った表情の颯を見て水伯は小さく二度頷く。

『解った。それでは話が戻るのだけれど、五日に買い物をしに行く、でよいかしら?』

 間抜けな顔をした颯は水伯から一旦視線を外し、少ししてから水伯に戻す。

『えっと? お金を使うんは決定なん?』

『そうだよ。明良も連れて行って自分で決めさせないとね。私の領地ではなく、イノウエ家の領地で買い物をしようね。次期領主が決まったという噂話はもう出ているから、一部には明良を披露しておかなければね』

『一番ええとこって、お父様の領地にあるん?』

『そうなのだよ。私の領地にあるお店はウィシュヘンドで二番目の店になるね』

 楽しそうに話す水伯を見ていると颯も嬉しくなるが、それよりも気掛かりな事があった。

『ほんまにな。ほなけんど水伯から服とか靴とか下着を買うんはほんまにあかんのん?』

 不思議そうに水伯を見る颯に不敵な笑みを見せる。

『明良にも言ったのだけれど、私が魔術で顕現させた衣類や靴は買えない代物なのだよ』

 颯は背もたれに体を預けると腕を組んでとても悔しそうな顔をした。

『ほう来たかー。ほなあかんな』

『長く生きている癖に人を見る目はないのだけれど、物品ならば見る目は多少はあるから任せてね』

 水伯が柔和な笑みを浮かべると、颯は口角を少し上げて頷いた。

『ほな五日、よろしくお願いします』

『八千代さんも調子が戻ったみたいだから一緒に行こうね』

『ばあちゃん、ようなったんじゃ。ほな良かった。五日は楽しみにしとく』

 颯は嬉しそうに笑うと、水伯も柔和な笑みを浮かべる。


 四日の朝になると、ユージュニーが食堂に遣って来た。ユージュニーは蒲公英色の髪に翠眼で、中肉中背に上等な衣服を身に纏い、些か険しい表情をしていた。

「お食事中に申し訳ございません。娘がアキラ様、ハヤテ様に無礼な口を利いたと聞き及びました。処分を以て謝罪とさせて頂けますよう、お願い申し上げます」

 扉の近くで頭を深々と下げたままで言った。

「しっ、…処分って何?」

 振り返ってユージュニーを見ていた颯が焦って言うと、明良は箸を置いてユージュニーを見る。

「ルリーアは除籍とし、閣下が運営をなさっておられる孤児院の職員として働く事が決定しました。明日孤児院へ向かいます」

「謝罪を受け入れます。頭を上げて下さい」

 明良が言うとユージュニーは頭を上げた。ユージュニーの顔色は悪く、疲労の色が濃かった。明良は平然としているが、颯は渋い表情をしてユージュニーを見ている。

「アキラ様、有難う御座います。それではお食事中に失礼致しました」

 軽く頭を下げると直ぐに扉を開けて出て行く。颯はそれを見送ってから体を前に向けた。

『孤児院はちょっと可哀想だと思うわ……』

 颯が呟くように言うと、明良が颯に目を遣る。

『普段の行いが導いた結果だからね。私は孤児院ならまだ増しだと思えるけどね』

 冷然と言い、箸を持って食事を再開した。颯は納得の行かない様子で野菜炒めの人参をつついていた。八千代はユージュニーが何を言っていたのか全く理解出来ていなかったが、様子から察して黙々とご飯を食べていた。玲太郎はそんな事はお構いなしで水伯を見る。

『ちちうえ、きょうからまじゅつのれんしゅう、やるんかしら?』

『そうだね、今日はたっぷり時間が取れるから、休憩とご飯以外は魔術の練習を遣ろうね』

 玲太郎は気になっていた事が訊けて満足したのか、水伯に笑顔を見せると味噌汁を啜って具を口に運ぼうと必死になった。

『八千代さんも共通語を習うとよいと思うのだけれど、どうかしら?』

 俄に話を振られて驚いた八千代は左手で口を覆った。

『ん、んん、やる事っちゅうたら温室で散歩ばっかりやけん、昔取ったなんとかで頑張ってみようかいな。昔はもうちょっと分かったような気がするんやけんど、今はほんまに全く分からんけん、お願いします』

『それでは七日から皆と一緒に勉強を始めましょうね。教材や文具などは用意しますから、明日の買い物では買わないようにして下さいね』

『分かりました』

 水伯を見て笑顔で答えると、颯が斜め横にいる八千代に顔を向けた。

『ばあちゃんもオレとおんなじ生徒やな』

『だいぶ老けた生徒やけんど、颯に負けんように頑張るわ』

『ほなオレも負けんように頑張るわな』

 二人は笑顔で言い合うと、二人はまた手元に視線を戻す。八千代は颯の持つ空気に中てられて少し落ち着けて表情も和らいだ。


 食後は各々で過ごして半時間が経過すると、水伯は玲太郎を連れてまた北にある畑へ向かい、ハソとニムはまだ来ていない事もあってヌトだけが付いて行った。明良は勉強室に籠って勉強を始め、颯は体が鈍らないように屋敷の中を走り始めた。

 外は暗く、水伯は足下を照らす光の玉を浮かべ、雪を解かしながら宙に浮かせている玲太郎の手を引いて歩いていた。

『ちちうえ、ぼくもあるきたい』

『宙に浮く練習もしないといけないから、まずはその感覚を覚えて貰いたいのだけれどね。その為にこうしている方がよいから、我慢して貰えるかしら』

『ふわふわはできるとおもう』

『本当に? それではいつもの場所に着いたら、宙に浮いて貰おうね』

『わかった。ういてみる』

 そう意気込んでいた玲太郎だが、全く浮けなかった。水伯は玲太郎の両手を取って、玲太郎を徐に浮かせたり、着地させたりを繰り返した。

『もしかして玉作りは飽きたのかしら?』

『たまはできんもん……』

 元気がない様子で言うと、水伯が苦笑する。

『光の玉は出来ると思うのだけれどね。何度も作った事があるから、遣ろうと思えば遣れる筈だよ?』

『あれはちちうえのん。ぼくのんとちがう』

『あれは玲太郎の魔力を使って作った物だから、玲太郎の物でもあるのだよ?』

『ほんま』

『本当。今、こうして此処に浮いている光の玉は私の物だけれどね』

 水伯と玲太郎の頭上には光の玉があって周辺を照らしていた。徐々に元気を取り戻しつつあった玲太郎は、浮き上がったり、下りたりを繰り返しながらその光の玉を見詰めた。水伯は光の玉を見詰めている玲太郎に対して不思議に思ったが浮遊の練習は止めなかった。すると俄に小さな光の玉が降り出し、落ちてきた光の玉は地面に吸い込まれるように消えて行った。水伯は驚愕して空を見上げ、辺りを見回し、玲太郎の浮遊の練習を止めていた。それは見える範囲に降っていて暫くは眺めていた。

『玲太郎……、何故光の玉を降らせたのかしら?』

『ゆきみたいに、ちらちらするひかりね、きれいとおもったのよ。ね、きれいなのよ』

 玲太郎も空を見上げていた。水伯もこれには降参するしかなかった。

『小さな玉が沢山あるね。これで玲太郎に光の玉が作れる事が判ったから、次は指先に出来るように練習を遣ろうか?』

 そう訊くと光の玉が一斉に消えた。玲太郎は水伯を見る。

『うくれんしゅうがよいかしら』

 水伯の口調が移った玲太郎が可愛くて笑顔になる。

『解った。それでは浮く練習を続けようね』

 また浮かせては下ろすという動作を繰り返した。


 颯は全速力で勉強部屋に辿り着き、物凄い勢いで開扉した。

『兄ちゃん、今のん見た!?』

 突然の物音に驚いた明良は不快そうに颯に顔を向けた。

『見たって何を?』

『見とれへんのん? 光が雪みたいにちらちら降んりょったんやけんど、ほんまに見とれへんのん?』

 明良は窓の方を見ると、直ぐに颯の方に向き直した。

『降っていないよ?』

『いやいやいやいや、今とちゃうんよ。少しの間だけ降んりょったんよ』

『見てない』

『みたいやな。勉強の邪魔してごめんじょ』

 そう言うと静かに閉扉した。明良はまた窓の方に顔を向け、暗い外を見ると顔を本に向けた。そして颯ははす向かいにある八千代の部屋の扉の前に行くと、扉を二度叩いた。

『颯やけんど、入ってもええかいな?』

『入ってもかんまんじょ』

 今度は静かに開扉する。この部屋も二十畳程あり、一人で使っているからか余計に広々としているように感じる。左手には三人掛けの長椅子、脚の短い机、一人掛けの椅子が二脚あり、右手には寝台と化粧台と大き目の衣装箪笥があった。颯は部屋の中に入ると静かに閉扉し、一人掛けの椅子に座って縫物をしている八千代の向かい側に座った。

『この様子やったらばあちゃんも見とれへんなあ……』

 残念そうに言うと、八千代は老眼鏡をずらして颯を見る。

『何が?』

『さっきな、雪みたいに光がちらちら降んりょったんよ』

『ああ、見たじょ。ちょっと体を動かそうと思て窓際に行ったら降り出して、ほんで暫く見よったじょ。きれかったな』

『ほんま、ばあちゃんも見たんやな』

『あれっちゃ、玲太郎がやんりょん?』

 老眼鏡を外して膝の上に置いた。

『多分な。今魔術の練習しよるけん、ほうと思うんやけんど、どうだろな?』

『玲太郎っちゃ、ごついんやな。結構な範囲を降らっしょったんちゃう?』

『ほうやな。ほなけんど、光を降らすんてごっつい事なん?』

『ばあちゃんの知り合いには、ほんな事をする人やおらんかったじょ』

『雨降らしたり、雪降らしたりする人もおらんかったん?』

『おれへんな。ばあちゃんらの世代でも、十人に一人は魔力がなかったり、ばあちゃんみたいに少なかったりっちゅう話だったけんなあ。ほんな広範囲の魔術を使おうとせんかったんちゃう? 少なくともばあちゃんの周りにはおらんかったわ』

 八千代は振り返って窓の外を見る。暗いのを確認すると颯の方を向いた。

『ばあちゃんが寝込んどったけん颯に話してなかったけんど、颯と玲太郎が家を出て行ってから畑の作物が全滅してな、ヴィストさんが大荒れだったわ。水伯さんがなんかしたっちゅうて、ほらもうごっつかったじょ。山羊は乳が出んようになって、キコ鳥も卵を産まんようになってしもうて、ほんま散々だったわ』

『ほんまにな。ほれはほれは……』

『山羊も鳥もみーんな肉にされて、売られてしもうたわ』

 颯は思わず顔を顰めた。

『ほんま。ほれは最悪やな……』

『あんなん売ったところで微々たる金やのにな』

 そう言って鼻で笑った。颯は頬を少し緩める。

『オレはばあちゃんがここに来てくれて嬉しいわ』

『ばあちゃんは留実の事を自分の子おじゃと思て育てて来たつもりなんやけんど、あの子はほう思てなかったけんな、もうええかなって。あの子から卒業しようと思てな。水伯さんの提案は渡りに船だったわ』

『家屋敷売ってもたん?』

『私のんは売ったよ。ヴィストさんには話してない。あの一帯には大きい宿泊施設を造るんやと。近くには海があるし、少し離れとるけんど空港もあるし、島の反対側にはなるけんど観光地もあるけん、富裕層に向けた宿泊施設を造るっちゅうとったわ』

『ふうん。ヴィストさんはどこに家を建てるんだろか』

『建てんでも、うた土地の中に家付きのんもあったはずやけん、ほこに移るだろ。私が持っとった土地の北西から南東に掛けて土地を買い足したけんな、何軒か家はあったと思うじょ』

『ほういや、空き家はあったなあ』

『ほうだろ。住めるかどうかは知らんけんどな』

 八千代はそう言うと「ふふ」と笑った。颯は本調子になっている八千代を見て微笑んだ。

『水伯さんが迎えに来てくれた日いな、侯爵様も来てくださってな、おっただけだったんやけんど、ヴィストさんはほらもう小さあに萎んどったじょ。颯と明良の養子縁組に必要な書類も、無言で書っきょったわ。玲太郎の時は水伯さんが何語か分からん言葉で話っしょって、ヴィストさんが喧嘩腰になっとったんやけんどなあ』

『ほうなんじゃ。ヴィストさんも実の父親には反抗出来んのんやな』

『ほらもう皆知られてもうとると思たけんだろな。実際ほうなんだろけど……』

『お父様より水伯の方が偉いのに、水伯に反抗する気が知れんわ』

 情けなさそうに言うと、八千代は頷いた。

『水伯は水の神っちゅう意味なんよ。和伍では未だに神様なんじょ。ほれはここでも変わらんはずなんやけんどな。颯もそろそろ言葉遣いを正して、水伯さんには敬意を持って接するようにせんとあかんじょ。水伯さんから敬語はなるべくなくしてって言われとったんやけど、私もこっちにおる限りは水伯さんに対してはちゃんとするわ』

『ほれは分かっとる。ヴィストさんを反面教師にしてそろそろちゃんとするわ』

 心配そうな表情の八千代に笑顔で言うと、八千代も笑顔になった。

『玲太郎も言葉遣いが水伯に寄って行っきょるけんなあ』

『ちょっと会わんかった間に変わって来とるな。……ほれにしても、のよっちゅう語尾は、どこで移って来たん?』

 颯は苦笑しながら頭を掻いた。

『うーん、なんちゅうか、精霊の親玉かいな? ばあちゃんには見えんだろけんど、近くにおるんよ』

『ほうなんやな。……あ! 分かった。前に言よった悪霊っちゅうやつ?』

『ほうじゃ、ほれほれ』

『精霊の親玉が悪霊なん?』

『うん、ほんまに親玉が悪霊なんよ。ええ時もあるけんど、悪い時の方が多いけん悪霊やな』

『ほうなんじゃ。ええもんじゃと思とったけんど、ちゃうんやな』

『なんちゅうんかいな、自己中心的っちゅうか、兄ちゃんが言うには、大いなる存在の前ではオレらは羽虫と一緒、だったかいな』

『ああ、なんとなく分かったわ。水伯さんも私らにとったら大いなる存在になるけん、ほうならざるを得んような感じやけんど、見よったらこっちが辛あなるな』

『ほうやな。玲太郎も水伯みたいにつらい事をいっぱい乗り越えてって、ほうなって行くかも知れんな』

 二人は渋い表情をして俯いた。暫くは沈黙が続いたが、八千代が先に話題を変えて来た。

『所で、朝食の時のユージュニーさん、何を言いに来とったん?』

『ああ、あれか……』

 颯は渋い表情のままだった。掻い摘んで説明すると、八千代は小さく何度か頷いていた。

『ユージュニーさんって、爵位は何?』

『伯爵だったと思う。イノウエ家の方が上やな。弟はええ子やったんやけんどなあ。同じ家に育っとっても、あないにちゃうようになってまうんやなあ』

『ほらほうよ。ばあちゃんも一所懸命育てたけんど、明良と悠次と颯とでは性格がちゃうもんな。貴族やったら乳母が育てるだろけん、別々の人が育てるだろ。余計ちごてくると思うじょ』

『ほうなんじゃ。ほなしゃーないか。ユージュニーさんもええ人っちゅうたらええ人なんやけんどな』

『ユージュニーさんは仕事が忙しいて子供の事にかもうとれんだろ。奥さんもここの女中で働っきょるもんな。ほなけん乳母やら家庭教師やらを雇うんだろけんど、やっぱり思想やら宗教やらで色々考えも変わって来るだろけん、人選がむつかしいんだろなあ。弟がまともでも姉ちゃんがあかんかったら、弟にとって害悪になるし影響があるかも知れんけん、弟のために早めに排除したんやな』

 颯は顔を顰めて腕を組んだ。

『うーん、ほれにしても孤児院の職員に決まったっちゅうとったけんど、なんや可哀想なわ』

『明良も言よったけんど、ほれが一番マシな結果なんかも知れんじょ?』

『ほうかいな……』

『似たような子や、もっと酷い状況の子が周りにおるだろけん、素直になれたら友達もようけ出来るわ。とにかくイノウエ家を貶すっちゅう事がどういう事か、身をもって知った事になるな。ばあちゃんもよう分かったわ。口は禍のかどやけん、十分気い付けなな』

 そう言って苦笑すると、颯は複雑な表情で八千代を見た。八千代は真顔になる。

『颯もほのイノウエ家の一員なんやけん、舐められんようにせなあかんじょ。ヴィストさんはほの重圧に負けて逃げ出して来た結果、あないなっとるんやけん、身いを引き締めていかんとあかんじょ。……ほんで将来なりたいもんとか、希望は出来たん?』

 話題が変わると颯の顔が少し明るくなった。

『ほれなんよな。オレとしては水伯のとこの親衛隊隊長に筋がええって言われたけん、騎士でも目指そうかいなと思て。体を動かすんは好きやし、ほれだったら魔力がのうてもいけると思えへん?』

『颯が合うと思てやるんやったらほんでええんちゃう? 魔力のある騎士さんには敵わなそうやけんどどんなんかいな? ほれとは別に勉強はちゃんとしときよ。侯爵家の人間なんやけんな? 今までの庶民の生活と全くちゃうんはくれぐれも理解しとかんとな。王様が変わるたびに昇爵の打診があるっちゅうイノウエ家やけんな、やれる事は何でもやっておきよ?』

『……しょうしゃくって何?』

『爵位が上がる事やって。私も分からんで明良に聞いたわ』

 二人は笑うと、先に八千代が真面目な顔に戻った。

『和伍では爵位みたいなもんがとうの昔になくなって、身分は一応は平等になっとるけん分からんけんど、ナダールでは身分差っちゃ大切なもんみたいやけん、ほんまに気い付けよ。水伯さんは大公やけん、王族に近い、いや、王族なんかいな……、とにかく偉いっちゅうんは忘れられんじょ』

『えっ、水伯っちゃほんなに偉かったん!? ……知らんかったわ』

『明良に聞いたんやけんど、もう大公っちゅう位は王様の兄弟でも与えられへんのんやって。与えられても公の方の公爵位っちょったわ』

『ほな水伯が最後の大公なん?』

『ほうなるな』

『へえ』

 颯は感心するとふと疑問に思った。

『なんで大公はもうなくなったんだろか』

『明良が言うには、なんでも大公は一代限りだったんやけんど、ほれに不満を感じた子孫が多かって、ほななくそうってなったんやと。子々孫々まで大公でおらせろっちゅう意味で不満を言うとったらしいんやけんど、ほない言よったら大公だらけになってまうわな。……ほうなると、やっぱり水伯さんも王族なんやな。和伍では神様扱いされとったのに、どうやって王族になったんだろか……』

 八千代も不思議そうに首を傾げた。

『ほら世界一の魔力持ちやけん、取り込みたかったんだろな。実際の所、ここに縛り付ける事に成功しとるじょ』

『ほうやな……。ほな私も水伯さんやのうて、水伯様っちゅわなあかんな』

『オレも馴れ馴れしい口調を直さんとあかんな……。気安いんはもう終わりにせなな……』

 二人は渋い顔で見詰め合った。

『ヴィストさんも最後の方は砕け過ぎた……、いや、口汚あに話っしょったけんど、水伯さんは静かに怒っとったような感じだったわ。颯もばあちゃんも方言やけん、言葉遣いが汚い方になるだろ。気い付けんとな』

『後半年弱で十二になるし、ほれにナダールやし、和伍語でもちゃんとせなあかんのんだろなっていうんは分かっとるんやけんどなあ』

 そう言って背もたれにもたれ掛かった。

『私と話す時はほのまんまでええじょ』

 八千代が笑顔で言うと、颯は苦笑した。

『オレに兄ちゃんみたいに方言止めるんや出来るんだろか』

『ほら気持ち次第じゃわ。明良は玲太郎が産まれてから標準語になっとるもんな。やっぱりいっぱい読書をしよるんが良かったんだろな。あの子はちっこい頃から本が好きで、絵本を置いといたら静かあに眺めてくれよったけん、ほんまに手が掛からんで良かったわ』

 昔を懐かしむ八千代は遠くを眺めて穏やか表情になっていた。颯はそれを見て微笑んだ。


 その頃、玲太郎は水伯と両手を繋いで宙に浮く練習をしていたが、水伯が玲太郎を上下に浮かせて遊んでいるだけのようだった。水伯の頭上よりも高く浮かび、それを楽しんでいる玲太郎は燥いでいた。

『ちちうえー、これはたのしいじょ!』

『それはよいのだけれど、この浮いている感覚を覚えて、自分で宙に浮けるようにならないと駄目なのだよ?』

『いひひひひ』

 丸で水伯の言う事を聞いてはおらず、楽しんでいた。ヌトはそれを苦笑しながら見ていた。

『真面目に遣らないのならば、また玉を作る練習に戻る?』

 少し目を丸くして、驚いた様子を見せた。

『えっ、たまはできんのよ』

『小さい玉を沢山作ったのだから、掌の上や指先に一つだけ作るという事は直ぐ出来るようになるよ』

 玲太郎は徐々に上昇しながら少し考えた。

『うくのほうがよいのよ』

『そう。それでは仕方がないね』

 水伯はそう言うと玲太郎を上下に動かし続けていた。そこへニムが遣って来て、暫くするとハソが遣って来た。三体はその退屈な作業を見守った。


 六日、正月休みの最後の日となった。明良は勉強部屋に籠り、颯は八千代と温室で散歩をした後、一緒に厨房で昼食作りをし、玲太郎は水伯と共に北の畑で宙に浮く練習に励んでいた。ヌトは玲太郎の両足首を握って上下運動に参加をしていた。無心で為されるがままになっているヌトをニムは些か不快な思いで眺めている。

「ヌトは何故なにゆえああいう事をするのか」

「正直言うてわしも遣りたい……」

 ニムはハソを睨み付ける。

「そのような事でどうする。止めさせねばなるまい」

「それは別によいのではないのか。玲太郎も何も言うておらぬのであるからな」

「それにしても光を降らす様を見てみたかったわ」

「一度遣った切りで、もう遣っては呉れぬからな。わしも見たかったわ」

「昨日の買い物にも付いて行けば良かったわ」

「昨日は特に何もなかったぞ。明良と颯の買い物であったからな。その後は八千代の買い物に付きうておったくらいよ。レウの所へ行っていたのであれば、ニムの方が実はありそうであるがな」

「実なぞあるものか。ケメの事を訊こうと彼是あれこれ言うてみたのであるが、全く教えて呉れなんだわ」

「レウもケメの事を永い間監視しておったからな。精神的に拒みたくなるのであろうて。わしには十二分に解るぞ」

 玲太郎が二体を睨み付けると、二体は口を噤んだ。

『玲太郎、気が散っているのなら、そろそろお昼の時間だろうから止める?』

『うん……』

 水伯は手を止めると両手を放した。玲太郎は宙に浮いている。ヌトも手を放してハソ達の方へ向かった。

『おうちにかえるときは、あるきたいのよ』

 水伯の方を見て言うと、水伯が頷いた。

『それでは下ろすからね』

 徐に地面へと近付いて行く。着地すると玲太郎は背筋を伸ばして両腕を上げた。そのまま片手は水伯の手を握った。水伯は笑顔で玲太郎を見ると、玲太郎も水伯を笑顔で見上げている。

『それではおうちへ戻ろうか』

『うん』

 二人は雪が解けて出来ている道を歩き始めた。三体は距離を少し離してから付いて行く。

「玲太郎は機嫌が悪いな」

「如何にも。魔術の練習とは言っても、天候を操る程度で玉が作れておらぬからな。それなのに浮遊に移って、やはりそれも上手く行かぬ有様であるものな」

 ハソはニムにそう言うとヌトを見る。

「ヌトは玲太郎に触れておったが、何かを感じる事はなかったか?」

「灰色の子が玲太郎に空気を纏わせておるであろう? その上から握っておって直接は触れてはおらぬぞ」

「え、灰色の子の空気を触れたのか?」

 ニムが驚いて透かさず訊くとヌトは頷く。

「布がはためくが如くであったぞ。あれは中々楽しいわ」

「いや、それはどうでもよいのであるがな。灰色の子が玲太郎に纏わせておる空気に触れたのか?」

 ニムが同じ事を訊く。

「であるから言うたではないか。灰色の子が纏わせておる空気を挟んで玲太郎の足に掴まっておったわ」

「それならば灰色の子の魔術、若しかしたらわし等に当たるやも知れぬな」

「ふむ。そう言われるとそうやも知れぬな」

 ヌトは気の抜けた反応をする。ハソは焦った様子でニムを見る。

「ニムは灰色の子に色々攻撃を仕掛けたが、全て効かなかったと言うておったな? 灰色の子の魔術にわし等が触れられるという事は、わし等が危険ではないのか」

「灰色の子の魔術はわし等の術で防げる事もあろうて。それ以前に気配で居場所を特定されておっても攻撃してくる事もあるまい。そう焦るでないわ」

 ニムは渋い顔をしてヌトの言う事を黙って聞いていた。ハソも渋い顔をしていた。

「そのような事より、玲太郎に触れると感じる何かがあるのか?」

 ヌトはそちらの方が気になったようで、ニムを見て行った。

「奇妙な感覚が体を駆け抜けるのよ」

 答えたのはハソだった。

「颯が怒った時より凄いのか?」

「あれはどうであろうな。……颯の場合は気持ち悪さが勝つのであるが、玲太郎の場合は気持ち良さが勝つのよ。ああいうのを快感と言うのであろうな」

「ふむ。それがどのような物か一度体感してみたい物よな」

 ヌトはそう言ったが、実際の所は大して興味がなかった。その様子を見ていたハソは苦笑した。

「それにつけても、わし等より魔力量が少ないとは言え灰色の子も未知数よな」

 ニムが呟くとハソは頷く。

「玲太郎はわし等を軽く凌いでおるから、何が起こっても逆に驚きはしないのであるがな」

「灰色の子は灰色の子で新しい物を見せて呉れるな。それが脅威であっても受け入れるしかなかろうな……」

 落胆したニムが言った。ハソは大きく頷いたが、ヌトは無反応だった。

「それにつけても、玲太郎は何故なにゆえ近い所に顕現出来ぬのであろうな? いとも簡単に天候を操るというのに不思議な事よな」

「あれは天候を操ってはおらぬのよ。雲は関係なく、雪を降らせ、雨を降らせておるだけであるからな」

 ヌトは前を行く二人を見ながら言った。ハソは目を剥いた。

「わしは雲を呼んで遣っておるとばかり思うておったわ。違ったのであるか」

「雲があったのは元々の天候ぞ」

「そうであったのであるな。わしは見ておるようで、見ておらなんだのか……」

 今度はハソが落胆した。ニムは苦笑した直後に真顔になった。

「しかし灰色の子の魔術がわし等に干渉出来るという事は、玲太郎の付近を魔術が出せぬように、塞いでおるという事に繋がるのではなかろうか」

 ハソが俄に気力を取り戻してニムを見る。

「そうならば灰色の子に言うて、玲太郎の温度調節魔術を解いて貰おうではないか」

「玲太郎はわし等を軽く超えておるのであるぞ? 灰色の子の魔術如きに左右される訳がなかろうて。玉が作れぬのは玲太郎が本気ではないという証拠よ。宙に浮きたいと思うておっても心底望んではおらぬから浮けぬのよ」

 二体はそう言ったヌトを見ると、暫く皆は無言でいた。

「わしはそういう練習よりも、どうすれば暴発するかを探った方が、有意義のような気がするのであるがな」

 大真面目にニムが言うと、ハソは苦笑し、ヌトは無表情になった。

「暴発なぞせぬ方がよいに決まっておろうが。恐ろしい事になるだけであると思うぞ」

「如何にも。万が一にも暴発する事があれば、その時にその場におる皆で鎮めようではないか」

 ヌトはそう言ったハソを見た。

「果たして鎮める事が出来ようか。ま、わしとしては、それを試してみたくもあるがな」

 ハソは些か眉を寄せてヌトを見ると、ヌトは前方に顔を向けた。

「それにつけても、お主等は何時まで玲太郎を監視する積りよ?」

「わしはどうしようかと思案しておるのであるが、答えが出ぬのよな。…と言う訳で当分であるな」

「わしは魔術が使えるようになるまで、と思うておるのであるが……」

 ヌトはそう言ったハソに顔を向ける。

「魔術ならば既に使つこうておろうが」

「そう言われてしまうとな……。それならば…自由自在に使えるようになるまで、という事にするわ。そういうヌトは何時までおる積りよ?」

「玲太郎が誰にも敵わぬ程の攻撃魔術を使えるようになる、若しくは玲太郎が誰にも害されないと証明されるまでな。誰にも、とはわし等は含まれぬぞ。九分九厘、わし等同様に打ち消すであろうから子の中の話な」

「待て、わし等兄弟同士に術が効かぬと同様であると言い切れるのか?」

 ハソは驚いてそう言うとヌトの前に回り込んだ。ヌトは動きを止めた。

「玲太郎がわし等より力が上であっても子に変わりあるまい」

「何、根拠はないのかよ」

 自信満々で言ったヌトを横目で見ながらニムが言うと、ハソが鼻で笑った。

「こればかりは試さぬと判らぬ事よな」

「わしは玲太郎に嫌われとうないので遣らぬぞ」

 ニムが言うとヌトは黙っていた。ハソがそんなヌトを見て口を開く。

「ヌトが黙っているという事は、遣ってもよいと考えておるのか?」

「遣ってもよいが、それには明良と颯、灰色の子の許可が必要であるな。颯も共通語ならば大分話せるようになっておるから、ニムかハソが許可を取って呉れるか?」

「解った。なしの方向で良かろう。明良が嫌であろうから、この話はなかった事にしよう」

 ハソが言うと二体は頷いた。そしてハソはニムの隣に戻って三体は進み出した。

「それにつけても、ニムは明良に話し掛けたのか?」

「何を話すと言うのよ? 話す事なぞないのであるが……。それに話し掛けたとて反応して呉れるとは思えぬがな」

「それもそうであるな。相変わらずわしも悪霊扱いされておるものな」

 ヌトが何を言いたかったのかは解らなかったが、ニムの機嫌が悪くなった事は明らかだった。ハソは何かを思い出し、必死で笑いを堪えた。


 昼食が済んだ後、玲太郎は明良に連れられて勉強部屋へ行き、半時間程時間を潰すと部屋を移って昼寝を始めた。三体は玲太郎の傍にいようとしたが、明良に悪霊退散と言われ続け、渋々出て行く事となった。ヌトだけは残っていて、明良はそれを何故か許していた。二体はその扱いの差に不満を抱いていたが、不平を言いながらも隣の図書室で読書をして時間を潰す事にした。図書室は殆どが明良の本で颯と玲太郎の分は少ないにも拘らず、何故か玲太郎用の絵本を読み始めて直ぐに時間を持て余し始めた。

「玲太郎の絵本はやはり間が持たぬな」

 飽きたハソが横たわった状態で浮いている。

「そろそろ玲太郎が起きるであろうから、外に出られようて」

 ニムは飽きもせずに絵本に目を向けていた。そして二体が何かに気付く。

「颯が来たから隣の部屋へ行けるな」

 ハソはそう言うと本棚や西側の壁をとおり抜けて行った。ニムは急いで本を戻して跡を追った。二体が壁から頭を出した所、丁度颯が入室した。

『兄ちゃん、水伯が呼んびょるよ。一階の執務室におるけん』

『解った。有難う』

 明良は二体を見る事なく退室した。颯は二体を見ている。二体は部屋の中へ入り、寝ている玲太郎の寝台の脇へ行った。ヌトは颯の寝台で寝転んで二体を見ている。その光景を眺めていた颯は苦笑して一人掛けの椅子に腰掛けた。明良が置いて行った本の表紙を眉を寄せて見ると、玲太郎の方に顔を向けて椅子に深く居直った。

 十分程経った頃、俄に玲太郎が宙に浮いた。

「颯、玲太郎が浮いているぞ」

 ヌトが颯の傍に来てそう言うと、ブーミルケ語の本を眺めていた颯が玲太郎に目を遣った。寝台から四尺は浮いているだろうか。颯は本を机に置き、徐に立ち上がった。

『これは……、どないしたらええん?』

 颯が顔を顰めて戸惑っていると、ハソとニムは玲太郎と同じ高さの位置にいて寝ている玲太郎を見ている。

「眠っておるがどうした事ぞ?」

 ハソが不思議そうに言うと、ニムは唸った。ハソはそんなニムに顔を向ける。

「宙に浮いておる夢でも見ておるのであろうか」

「有り得なくはないが、どうであろうな」

「颯、試しに玲太郎を起こしてみぬか」

 ヌトが言うと、颯はヌトを見た。

『ほうやな。ほなほの前に玲太郎の下に行くわ』

 そう言うと寝台に行って靴を脱いで寝台に上がり、玲太郎が落ちても大丈夫なように真下に両腕を広げた。

『玲太郎、玲太郎。起きて』

 玲太郎は目を閉じたままだった。

「玲太郎、起きぬか。おーい、玲太郎」

 ハソも声を掛けるが目を閉じたままだった。微動だにしない。

『れーいーたーろーうーくーん、あーそびーましょー』

 大き目の声で言うと、更に浮き上がって玲太郎の位置が高くなった。

「颯、何を遣っておるのよ。上げてどうする。下げるのであるぞ」

 ニムが焦れったくなって言った。

「玲太郎、上じゃなくて下ぞ。天井の方ではなく、寝台の方に行くのであるぞ」

 何故かハソが必死に声を掛ける。颯は苦笑した。

『悪いんやけんど、玲太郎には呪文にしか聞こえてないだろけん、黙っとってくれる?』

 二体は無表情になった。ヌトはそれがおかしかったが無表情で耐えている。

『玲太郎、ほっちとちゃうじょ。こっち。兄ちゃんの方に来てくれる?』

 そう声を掛けると徐に下降し始めた。颯は笑顔になる。

『ほうじゃ、ほのまんまな。ほのまんま下りて来てな』

 玲太郎は言われるがままに下降して颯の腕に触れると、それに体を預けるようにして力が抜ける。安堵した颯は掛け布団をめくり、玲太郎を寝台へ寝かせた。

『あー、驚いたわ……。なんであんな事になるん……』

 寝台の脇で靴を履きながら颯が言うと、ヌトが頷いた。

「わしも何事かと思うたわ。しかしこうなると夜も宙に浮く事もあろうな……」

『ほれは困るな……』

 颯は玲太郎に掛け布団を掛けて遣ると、そのまま寝台に座って玲太郎の方に顔を向ける。

「これから毎日わしが監視してもよいぞ。浮いたら起こそう」

「わしがおるから、お主がおらぬでも平気ぞ」

 ハソとヌトが睨み合った。

「浮く練習をずっと遣っておったからその影響もあるのであろうが、夢を見ながら浮くとなると、浮いた後に天井まで上昇するとして、その後どうなるか見てみたくもあるが……」

 ニムが玲太郎を見下ろしながら言うと、二体がニムを見た。

「先ず天井まで上昇するかどうかではないのか」

 ハソが言うと、ヌトがハソを睨んだ。

「それ以前にこの状況にならぬようにせねばなるまいに。夢を見ながら浮いた今、眠りながら何を遣るか判らないという事になるのであるぞ」

『…まさか、寝ながら玉作ってしまう事もあるっちゅう事?』

 颯はヌトを見た。ヌトは颯と視線を合わせて頷く。

「可能性はあろうな。そうならぬようにせねばなるまいが、どうすればよいのか……」

「玉作りは手元に出来ぬと思い込んでおる今ならば、大丈夫であるとは思うが、天候が荒れる事はあるやも知れぬな」

 ニムがそう言うと、皆がニムを見た。

「然もあらん」

 ハソは何度も頷いた。ヌトがハソに目を遣る。

「それならば光が降るであろうて。あれを気に入っておる様子であったからな」

『……ほれはほれで困るな。ほなけんど、さっきのんはほんまに焦ったわ。すぐ下りてくれて良かった。これがまたあるんかもと思たらおとろしいな……』

「ま、颯が声を掛ければどうにかなったのであるから大丈夫であろう。此度の事で眠っておっても声が届いておるのが判明したし、何より無事であったしな。今後も注意深く監視するしかあるまい」

 そう言ったヌトは颯の肩を軽く叩いた。颯はヌトを見ながら頷いた。

『とりあえず、兄ちゃんと水伯に知らせておかんとな。玲太郎が起きてからにするわ』

 颯はそのまま玲太郎が起きるまで傍にいた。三体も玲太郎を囲むように浮いていた。玲太郎はそうとは知らず、眠り込んでいた。


 玲太郎は目を覚ますと傍に勢揃いしていて目を丸くしていた。

『おはよう』

 颯が笑顔で言うと、玲太郎は颯を見る。

『うん、おはよ~』

『玲太郎、なんか夢見た? 覚えとる?』

『ゆめ? みてない』

 そう言って上体を起こし、颯を見上げる。寝惚けている様子はない。

『ほんま、ほなええわ。ありがと。起きたけん、歯あ磨きに行こか』

『うん』

 微笑んでいる颯に頷くと、寝台から下りようと縁に寄る。颯は玲太郎の靴を取り、片方ずつ履かせて寝台から下ろした。

『ありがと~』

 玲太郎は礼を言って扉の方へ一直線に行った。颯が後ろから開扉すると、玲太郎が先に出て行く。颯は閉扉して玲太郎に付いて行き、三体も扉や壁を透り抜けて来てそれに付いて行く。

 歯を磨いたついでに顔も洗った玲太郎は上機嫌で水伯の下へ向かう。颯がどこにいるか教えなくても玲太郎は真っ直ぐに向かった。一階の執務室の扉を玲太郎が叩くと、颯が開扉した。入室して右側の方に水伯と明良が向かい合って座っていて、玲太郎は水伯の方へ駆けて行った。

『ちちうえー、おはよ~。まじゅつのれんしゅう、やろ!』

『お早う。その前にお茶でも飲んで、それからにしない?』

『おちゃー? わかった』

 水伯は隣の椅子を引くと、そこに玲太郎を座らせる。そして椅子の足を伸ばして机の高さに合わせた。

『ほなオレがお茶を持って来るわ』

 颯が笑顔で言うと、水伯が即座に顔を向けた。

『私が遣るよ?』

『いやいや、やりたいけん、オレにやらせてくれるかいな?』

『そう? それではお願いするね』

『任せとって』

 颯はそう言って出て行き、三体はその場に残った。水伯は玲太郎の髪が少し濡れているのを見付けると即座に乾かした。

『よく眠られたかしら?』

『うん、ようねたよ。これでげんきげんきやけん、まじゅつのれんしゅう、いっぱいやるんじょ』

 水伯に笑顔で答えると、水伯も笑顔になる。明良はいつもの事ながら苛立ちを覚えた。誰も口を開かずに静かな時間が流れ、暫くすると颯が台車に急須や湯呑みを載せて遣って来た。

『給仕をさせてしまって済まないね』

『かんまんよ。こういうん割と好きやけん』

 水伯の方を見ないで言うと、湯呑みに茶を注いだ。そして皆の前に置いて行く。

『玲太郎、熱いけん、ふーふーしいよ』

『わかった』

 颯は明良の隣で玲太郎の正面に座った。

『唐突でごめんなんやけんど、さっき玲太郎が寝とる間に宙に浮いたんよ。先に言うとくわな』

 玲太郎は颯を見ると首を横に振る。

『ぼく、ねてたのよ。ういてないじょ』

『うん、玲太郎は寝とったな。ほなけんど、寝とる間に浮いたんは兄ちゃんがしっかりと見たけんほんまの事じょ』

 水伯は無表情だったが、明良が目を些か丸くして玲太郎を見ていた。

『それで? 浮いてどうなったの?』

 水伯も颯を見る。

『声かけたらちょっと上に行ってもたんやけんど、ほの後すぐに下りてきた。浮いとったんもちょっとの間やけんどな、さすがに寝ながらだったけんなあ』

『本当に眠りながらだったのかしら?』

『確認してもろたしオレも見た。下りてきた時も寝とったんは見たし、ほの後寝とった玲太郎を寝台に寝かせたけん絶対じゃ』

 水伯は小さく何度か頷いて玲太郎を見た。玲太郎は颯の方を見ている。

『ぼく、ういたの?』

『浮いた』

『ほれはない。ぼくはうけないのよ』

 俯いて悲しそうに言うと、颯は苦笑した。水伯は玲太郎の肩に手を置く。

『眠っている間に浮けたのならば、その内に浮けるね』

 玲太郎はその表情のままで水伯を見る。水伯は柔和な笑顔をしていた。

『ほんま?』

『……絶対とは言えないけれど、多分ね。玲太郎次第だから頑張ろうね』

 そう言われて視線を下に向けると頷いた。水伯は玲太郎の肩から手を離し、湯呑みを持った。

『これで宙に浮ける事が判ったから、自分の意思で浮けるようになれればよいのだけれどね。玉を作るより早く達成出来そうな気がするよ』

 柔和な表情で言った水伯は抵抗なく受け入れたようだったが、明良は無言で玲太郎を見詰めているだけだった。颯はそんな明良を一瞥してから湯呑みを持って息を吹き掛けた。

 玲太郎は殆ど水伯と一緒に行動するようになっていて、それが当たり前になりつつあった。いや、もう当たり前になっているのかも知れない。以前程、明良や颯と一緒にいようとしなくなっていた。明良はそれがとても残念でならなかった。しかし、近い将来の事を思うとこれでよいとも思えていても、未練が多分に残っていた。水伯は視線を下げて微笑みながら茶を啜っている。

 颯が食器類を洗いに厨房へ向かうと、水伯は玲太郎を連れて北の畑へ向かい、明良はそれを玄関で見送ってから本を取りに一旦部屋へ戻った。

 玲太郎は水伯に手を引いて貰いながら雪が解けている道を歩いていた。外では相変わらず暖かい空気を纏わせて貰っているお陰で薄着でも全く寒くなかった。

『玲太郎、このまま少し散歩でもする?』

 玲太郎は少し驚いた感じで水伯を見上げた。

『えっ、ええんかしら? さんぽ!』

 そう言うと笑顔になった。

『解った。それでは何時も練習を遣っている場所を過ぎて、行き止まりになるまで北を向いて歩こうね。行き止まりには壁があるから、その壁を触ったら何時もの場所まで戻って来よう』

『はーい』

 空いている手を挙げて元気良く返事をする。水伯は玲太郎に釣られて笑顔になった。歩きながら雪を解かし、いつしか屋敷が見えなくなっていた。玲太郎は振り返る事もなく前を向いていて、それに気付いていなかった。

『ちちうえ、このへん、なんもないん?』

『夏の間は作物が生えているけれど、今の時期は見ての通り雪だけだね』

『ふうん』

 殺風景な景色に飽きてきたのか、玲太郎の足取りが重くなって来た。

『疲れたかしら?』

『ううん、つかれてないけんど、ゆきばっかりでさみしいな』

『そうだね。私達が歩いて来た道は雪が解けて地面が見えているけれど、それ以外は真っ白だからね。緑が恋しいかしら?』

 水伯は玲太郎を自分の目線にまで浮かせた。玲太郎は真横を向いて水伯を見る。

『こいしい?』

『緑色の草とか、木々とか、作物とか、そういうのを見たいのかしら?』

『ほなけんど、いまふゆやけん、みどりはほんなにないのよ。おんしつだけって、はーちゃんがゆーとった』

『見たいのなら緑が沢山ある所へ連れて行くよ? 行ってみたい?』

『みどりのとこ、あるん?』

『あるよ。此処からは遠いけれどね。行きたいのならば連れて行くけれど、どうする?』

『いきたい! みどりみたい!』

『それでは今から行こうね』

 水伯は玲太郎を抱き上げると、俄に上空へ舞い上がった。少し離れていた三体は慌てて飛び上がる。南下する水伯の速度に三体は難なく付いて行く。

 五分も経たずに赤道上にある水伯の領地の内の一つに到着し、玲太郎は緑を堪能したり、街に行って食べ物を買って貰ったりして小一時間滞在した。

 玲太郎は久し振りにはしゃいでいた。ここの所、空元気に見えて気になっていた水伯は、玲太郎の様子を見て一安心した。

(これで心機一転、また魔術の練習に身を入れてくれれば御の字なのだけれど、どうなる事やら……)

 一抹の不安もあったが、晴れやかな表情をした玲太郎を連れて北の本邸へ戻って行った。それからまた北の畑へ向かい、そこで玲太郎を浮かせて玲太郎が飽きるまで上下に動かした。またヌトが玲太郎の足首を持ち、はためく布の如くに身を任せている。玲太郎はヌトが足に取り付いている事で安心感があって文句は言わなかったが、ハソとニムの小声での遣り取りには睨んでいた。

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