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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第三十九話 しかして玲太郎は夢を見る

ここは もりの なか

でも もりの なかは きが ありません

そのかわり ちいさな いえが あります


いえは ちいさいけれど

ひろい ひろい はたけがあり

たくさんの やくそうが そだっています


そのいえに まじゅつしが すんでいて

げんきに そだった やくそうで

たくさんの くすりを つくっています


その くすりは よく きき

なかには なににでも きく くすりが あります


しかし おそろしい びょうきの

こうかしょうには きかないので

ちゅういが ひつようです


まじゅつしは たのまれれば

どんな くすりでも つくります


しかし そのかわりに

あなたの たからものを

わたさないと いけません


なににでも きく くすりを

てに いれる ときが くれば

たからものを かならず もって

ちかくの もりへ いこう


もりの みちを いけば

まじゅつしの いえに

かならず かならず いけます


なににでも きく くすりが

ほんとうに ひつようなら

かならず かならず たどりつきます


さあ あなたが ほしい くすりを

てに いれる ために

たからものを もって

もりへ でかけましょう


もりの なかの ちいさな いえで

まじゅつしが まっています


あなたが くる ひを

くびを ながくして まっています


 少年は半信半疑で絵本を読んだ。少し難しかったが、意味はなんとなくでも理解が出来た。

(なににでもきくくすりって、ほんとうに? ぼくにはひつようがないけど……。でも、たからものがなくなるのは、いやだなぁ……)

 本を閉じ、棚に戻していると女が遣って来た。

「イタージ、帰るわよ」

「はーい」

 イタージは母親であるミーシェの手を取り、図書館を後にし、買い物をしてから家路に就いた。道中、読んだ絵本の話をミーシェにしたら、声を出して笑われた。

「ああいう物語はお伽噺だからねぇ」

「おとぎばなし?」

「そう、本当ではないお話の事ね」

「おとぎばなしね」

「でも、なんでも治る薬は本当にあるなら凄いわよね。宝物と交換しても安いくらいよ」

 楽しそうにはなすミーシェを見ていると、宝物を渡したくないと思った事が恥ずかしくなった。

「たからものをわたすの、いやじゃないの?」

「一番の宝物はイタージだから、渡せないでしょ? そうなるとその次になるから、それなら、まぁいいわね」

「そうなんだ……」

 自分の宝物は全てが同程度に大切だったイタージは、母の宝物に順位がある事に気落ちした。それでも、自分を宝物だと言って貰えた事は素直に嬉しかった。


 二年が経ち、イタージは六歳になった。あの絵本の事など綺麗に忘れ、毎日を元気に過ごしていた。

 夏の盛りを迎えたある日、ミーシェの体調が優れず、父のチーシュンが困り果てていた。

「今日は仕事を休んで病院へ行かないといけない。病院ではいい子でいてくれるか?」

「うん、ぼくはいい子だからだいじょうぶ。それより、お母さんはそんなに悪いの?」

「ずっと調子が悪いとは言ってたんだけどな……。病院へ行くように言ってたけど、お母さんは仕事やイタージの事を優先して、自分の事を後回しにしていたんだよ。だから悪化したんだと思う」

「そう……」

 イタージは心配な余りに険しい表情になり、それを見ていたチーシュンが苦笑する。

「大丈夫。病院へ行けば薬ももらえるから、体調も戻って元気になるよ」

「うん……」

 チーシュンは必要な物を鞄に詰め、それをイタージに持って貰い、ミーシェを背負って病院へ向かった。箱舟に乗っている時は二人とも無言で、ミーシェの荒い息遣いが聞こえるだけだった。

 病院に着くと待合室には結構な人数がいた。イタージは鞄を抱え、それを見ていた。空いている長椅子はなかったが、力なく背負われているミーシェを見た患者が数人、席を空けてくれた。

「ありがとうございます」

 チーシュンが何度も辞儀をすると、イタージも同様にした。イタージはミーシェの隣に座り、ミーシェが倒れないように支えていた。チーシュンは前に立っている。

 六じっ分を過ぎた所で呼ばれ、チーシュンが背負って診察室へ向かう。

「こちらの診察台へ下ろして下さい」

 壁に沿って置かれている診察台が二台あり、その奥を手で示された。

「はい」

 治癒師に言われた通り、診察台へ下ろす。看護師が二人掛かりで手際良く仰向けに寝かせた。

「ご主人はこちらへ座って下さい。僕はごめんだけど、立っていてね」

「はい」

 チーシュンが返事をして椅子に座って治癒師と対面になる。その傍らにイタージが立ち、チーシュンの腕に手を遣り、服を握った。

「どうしましたか?」

「最近ずっと調子が悪いと言ってたんですけど、今日になって熱が出て、この通りになってしまったんです」

「どう調子が悪いと言っていましたか?」

 チーシュンが首を傾げている間に、イタージが挙手をした。

「僕は言えるの?」

「はい、あたまがいたいと言ってた。それと、いきぐるしいと言ってた。お母さんはなおる?」

 治癒師は笑顔になる。

「頭が痛くて、息苦しいんだね。ありがとう。お母さんは治せるかどうかは分からないけど、治るように頑張ってみるからね。ご主人はなんと言っていたか聞いた事はありませんか?」

「とにかく調子が悪いとだけしか聞いてないです」

「そうですか。それでは診てみますね」

 治癒師が立ち上がって、診察台へ行くと何かを遣っていた。イタージはそれを見ていた。しばらくすると振り返る。

「血液検査をしたいので、採血しますね」

「はい、お願いします」

 治癒師は頷くと二人いる看護師の一人に顔を向ける。

「アタラービさん、採血をお願いします」

「分かりました」

 アタラービが採血をしている間、治癒師は席に戻って診療録を書き出した。

「簡単な方の血液検査の結果が出るまで約二十分掛かります。手間の掛かる方は五日掛かるので、それは後日にして、簡単な方の結果をお知らせする為に後でまた呼びますので、待合室で待っていてもらえますか?」

 そう言ってチーシュンの顔を見る。

「分かりました」

「奥さんはここで寝ていてもらいますから」

「はい、お願いします」

 チーシュンは立ち上がると小さく辞儀をし、イタージの手を取って退室した。待合室の座席に空きが少しあり、イタージを座らせてチーシュンはその前で立った。イタージは眉をしかめて俯いていた。チーシュンはイタージの頭を優しく撫でた。イタージはチーシュンを見上げると、チーシュンが微笑む。

「大丈夫だよ。きっと治るから」

 微笑むチーシュンを見ても、イタージは不安でしかなかった。


 三十分後に呼ばれて診察室へ行くと、ミーシェの姿はなかった。イタージの表情が険しくなる。チーシュンはイタージの手を強く握り、言われる前に椅子に座った。治癒師は難しい表情でチーシュンを見る。

「残念ですが、ノダッゴ病にかかっています」

「ノダッゴびょう?」

 イタージが首を傾げた。治癒師がイタージに顔を向けて微笑む。

「そう、ノダッゴ病と言う病気だね。この病気はね、体内にある魔力を徐々に…、ゆっくりと減らしながら、体の中の色んな所で塊を作って行く病気なんだよ」

「そんなびょうきがあるの?」

「そう、あるんだよ。お母さんはその病気に罹ってしまってね、今日から病院で生活をする事になったんだよ」

「えっ、お母さんはかえれないの?」

 悲しそうな表情になったイタージを見て、治癒師も険しい表情になる。

「ごめんね。帰してあげたいんだけど、そうもいかないんだよ。この病気は普通に生活が出来なくなってしまうからね」

「いつ、いつかえれるの?」

「それはいつとは言い切れないんだよ。ごめんね。お母さんの病気は治らないかも知れないんだよ」

「なおらないの? どうして?」

「この病気を治す方法を、世界中で探している所だからだね」

「そうなの……」

「探している所という事は、治らないまま亡くなるという事ですか?」

 チーシュンがようやく口を開いた。治癒師はそちらへ視線を移す。

「そうなります。今の所、不治の病の一つとなっていますね」

「そう……ですか……」

 落胆して俯いた。イタージはチーシュンを見て泣かないように堪えた。

「それでは今後の治療について、お話ししたいと思います」

「分かりました」

「僕、ごめんね。お父さんと難しい話をするから、そこの寝台に座っていてもらってもいい?」

「うん……」

 治癒師は二人の内の一人に顔を向ける。

「セナコットさん、お願いします」

「はい」

 セナコットはイタージに笑顔を見せる。

「それじゃあ座ろうか」

「うん」

「抱き上げるけど、いい?」

「うん」

「それじゃあ、あっちへ行こうね」

 セナコットが手を差し出す。

「うん」

 イタージはチーシュンの手を離し、その手を取った。治癒師とチーシュンは難しい話を始め、イタージは帰れないミーシェの事を思っていた。


 翌日からチーシュンは忙しくなった。自身の両親もまだ現役で働いていて頼れず、ミーシェの方は母親が既に亡くなっていて、父親のケマシ・オスタスは自由の利く仕事をしていた為、そちらに頼る事となった。家も近く、チーシュンとしてはそちらに頼る方が家が近い事もあって助かった。

 イタージはまだ就学していない事もあって日中の世話を頼み、チーシュンの休日以外はミーシェの見舞いにも行って貰っていた。

「おじいさん、お母さんはいつおきるの?」

 イタージはケマシの自宅兼職場で文字の練習を遣っていたが、一ヶ月が経過しても起きている所を見た事がないイタージの素朴な疑問だった。

「じいちゃんにも答えられないなぁ……。ミーシェはこのまま眠り続けるのかも知れないよ?」

「えっ、おきないの?」

 イタージは激しい衝撃を受けた。手に持っていた鉛筆が机に落ちて転がった。

「なんでも治せる奇跡の薬草があればと思ってしまうよ……」

「あるの!?」

 ケマシは目を丸くしているイタージに顔を向けた。

「ごめん。じいちゃんの希望を言っただけで、そんな物はないんだよ」

「そうなの……」

 娘の面影を持った孫の悲しそうな表情を見ていると、ケマシはなんとも言えない気持ちになる。


 ミーシェが入院してから、イタージはチーシュンと一緒に眠るようになった。

「今日の夕食はどうだった?」

 チーシュンが掛け布団をイタージの顎の下まで来るように整える。

「おいしかった。玉子だいすき」

「お汁はどうだった?」

「うーん、どうだった? おぼえてない」

「あはは。今度は覚えていてもらえるように頑張るよ」

 イタージの横顔を見ていたが、天井に顔を向ける。

「今日はお祖父じいさんと、どういう話をしたんだ?」

 イタージも天井を見ていた。

「きょうはね、んー、……あ、なんでもなおる、きせきのやくそうがあればって言ってた」

「なんでも治せる奇跡の薬草かぁ……。本当にあればいいのになぁ。そうすれば……」

 それ以上は呑み込んだ。またイタージの方に顔を向け、横顔を見る。

「それ以外はどんな話をしたんだ?」

「お母さんが小さいときにつかってたにんぎょうで、二人であそんだんだよ。おじいさんはね、おひるごはんをたべたあと、おさけをすこしのんでた。それでね、かんしょくのときも、おさけをすこしのんでた」

「酒を飲んでたかぁ……。そうなんだな」

「うん」

 チーシュンがまた天井に顔を向ける。

「さて、そろそろ寝ようか。今日はどの話にする? 兎? 狸? 狐? それとも…」

「きょうはうさぎがいい」

 声色が明るくなり、見なくても微笑んでいる事が容易に想像出来る。

「イタージはぎいちの話が好きだなぁ」

「お母さんもぎいちのはなしがすきだからね」

「そうだったな。お母さんが<ぎいち、はしる>を買って来たんだったな」

 そう言ってチーシュンは絵本をそらんじ、イタージはそれを聞きながら眠りに就いた。チーシュンは寝床が狭くなった事は純粋に嬉しく思っていたのだが、その原因を思うと気持ちが沈んだ。


 イタージはミーシェのいる病院へ通う事が日課となっていた頃、祖父の「なんでも治せる奇跡の薬草があれば」という言が引っ掛かっていた。

(なんでもなおせるきせきのやくそうって、どこかできいたことがある? ぼく、しってるようなきがする……。でもわからない。……どうして? お母さんにきけば、きっとわかるはずだけど、お母さんはおきないんだ……)

 来年は学校へ入学する為、文字の練習を開始していたのだが、全く身が入らなかった。

「イタージ、どうした? 勉強する気になれないのか?」

 見兼ねたケマシが声を掛ける。イタージは首を横に振った。

「ううん、べんきょうはする」

「その調子だと、息抜きをした方がいいな。じいちゃんも息抜きをするから、一緒にどこかへ行こうか」

「え! ほんとうに? ひさしぶりに、としょかんへ行きたい」

「ショッリーチ市立図書館か?」

「お母さんと、よく行ってた!」

 表情が明るくなると、ケマシも嬉しそうに頷く。

「よしよし、それじゃあ行こう。ここからだと隣町の奥の方だから歩くと遠いな。箱舟で行くか」

「はーい!」

 元気良く返事をすると椅子から下りた。イタージは何も持たずに家を飛び出て行き、ケマシは焦って財布と身分証明書を手にすると鞄に入れ、家の鍵を手に取る。

「やれやれ、子供は体力があり過ぎるな……」

 小走りで追い掛けた。


 箱舟で隣町まで来ると、町外れにある図書館へ向かう。駐舟場は半分ほど埋まっていて、平日でも大人数が来ている程に人気だった。イタージは箱舟から降りると、一人で先に建物に向かう。

(ここ! ひさしぶり! うれしい!)

 週に二度は来ていた図書館へ久し振りに来られたイタージは嬉しさで胸が一杯になった。振り返ると、一緒に来ていた母はいない。途端に現実に戻り、酷く落胆をした。ケマシは項垂れているイタージの傍に行くと肩に手を置いた。

「さぁ、中に入ろうか」

「うん……」

 却って酷な事を遣ってしまったような気持ちになったケマシはイタージの傍にずっといた。イタージは絵本を置いてある場所にいて、一冊ずつ手に取り、中を少し見ては元の場所へ戻していた。ちなみに絵本のある書架は背の低い物となっていて、イタージでも最上段に手が届いた。

「あ、<ぎいち、はしる>!」

「イタージ、声は小さくな」

「はぁい……」

 申し訳なさそうに小声で返事をする。チーシュンに諳んじて貰っているし、同じ物を持っているが、それでも目を通し始めた。兎のぎいちが熱を出した祖父の為に薬を買いに出掛ける物語で、その絵を見てふと思い出した。

(あっ! えほんでよんだ! くすりがもらえる! あれ!!)

 絵本を閉じて元の場所へ戻し、以前に一度だけ読んだ事のある、表題も思い出せない絵本を探し始めた。片っ端から見て行ったが、見付からなかった。もう一度逆から探したが、やはり見付からなかった。

「何か、読みたい本を探しているのか?」

 振り返って必死の形相で頷く。

「でも、なんていうなまえか、それがわからない……」

「見た限りだとないんだろ?」

「そう、ないの」

「それじゃあ、誰かが借りて持って帰ってるのかも知れないな。本屋に行ってみるか?」

 イタージは暗い表情で頷いた。

「行きたい……」

 イタージの肩を抱くと、優しく叩いた。

「そんな顔をするな。行こう、な?」

「うん……」

 二人は五軒の本屋へ行ったが、目当ての絵本はなかった。絵本の内容も薬が貰えるという程度しか憶えていなくて、どういう内容かもケマシに伝えられなかった。


 仕方なく、落胆しているイタージを連れて病院へ向かう。二ヶ月も眠り続けているミーシェは今日も起きる事はなく、二人は寝顔を見ていた。

「お母さんなら、きっとえほんのはなしをおぼえてる。ぼくがはなしたんだから、おぼえてる」

「それじゃあ目が覚めるように、創造神様へお祈りをしに教会へ行こうか」

「まいにちおいのりしてもおきないから、もう行かない。かみさまなんていないんだよ」

 イタージはそもそも神様の存在を信じていなかった。

「分かった。それじゃあお母さんに、起きてって声を掛けよう。その方がいいな」

「うん!」

 イタージはミーシェの頬を撫でる。

「お母さん、はやくおきてね。まってるからね。おきたら、いっぱい、いっぱい、はなそうね」

 ケマシはミーシェの余命宣告をされていて、こういう場面は見るに堪えなかった。

(お母さん、あのえほんのはなし、かならずおもいだして、かならずくすりを手にいれるからね)

 イタージはこれを口に出すと叶わないような気がして、誰にも言わなかった。それ以前に、話の内容を思い出す事に気が向いていた。

(よくきくおくすりが手にはいる。きっと手にはいる。でも、どうやったら手にはいるってかいてあった? それがわからない……)

 この日から、寝ても覚めてもこの事が頭を支配し、どうしても思い出そうと必死だった。


 更に一ヶ月が経過し、ミーシェが寝込んでから四ヶ月になった。

 イタージは<ぎいち、はしる>を読んでいて思い出した事もあって、毎日それを開くようになっていたが、期待して絵本を開いてみても全く思い出せずにいた。

(お母さんがおきてくれれば、きっと、きっと、わかるのに……)

 そう思うと止まってしまう思考を無理に動かそうと、絵本を必死に眺める事にした。

(ぎいちはもりの中にはいって、くろうくんにこえをかけられるんだよね。……もりのなか?)

 チーシュンは夕食作りをしている間、絵本を読んで大人しくしてくれるお陰で、手が掛からずに済んで非常に助かっていた。それが毎日同じ絵本を読んでいたとしても、気に入っている程度の認識だったし、イタージが難しい顔で読んでいる事にも気付かなかった。

(もりのなかー!! もりのなかをはいるんだった! そうだった! きっとそうだった! もりのなかを行くと、どこへ……、うーん? うーん……、あああ! そうだ!! まじゅつしのいえに行くんだった! たからものとこうかんって、ぼくがたからものだからわたせないって、お母さんが言ってた!)

 全てを思い出すと表情が一変した。しかし、チーシュンが気付く事はない。

(たからもの……。このえほんか、お父さんにかってもらったハリの玉か、お母さんにかってもらったうさぎのぬいぐるみ、どれにすればいいの?)

 漸く思い出せたが、次の難問が待っていた。イタージにとってはどれも同程度に大切で選ぶ事が出来ない。

(あっ、ぜんぶわたしたら、そうしたら、きっともっときくくすりがもらえるの?)

 閃くと決断は早かった。

(ぜんぶわたそう)

 椅子から下り、絵本を忘れずに持って自分の部屋へ行き、鞄に宝物全てを詰め込んだ。

(もりまでのみち、わかる。だいじょうぶ! だいじょうぶ! あそこまで行ける!!)

 玄関扉を開錠すると外へ出た。イタージの頭の中は、森の中へ行く事で一杯だった。


 森までの道のりは解っていても、暗がりで曲がる場所が判らなかった。

(みち……、みちがわからない……)

 泣きそうになっているとにわかに小さな光の玉が目の前に顕現し、それが行き先を示すかのように飛んで行く。それに付いて行き、歩きに歩いて森に到着した。

(きっとこれについて行けばいい! お母さん、まっててね! もうすぐだからね!)

 恐れなど一切感じなかったし、疲れる事を知らないかのように歩を進める。いつしか光の玉は小さくなり、暗かった森も切れ、目の前には月明りで照らされた畑が広がっていた。小さな建物が何軒かあるようで灯りが見えた。

(くさ! くさがいっぱいはえてる!)

 道なりに行くと最初に木造の小さな家に辿り着いた。そこには「まじゅつしのいえ」と書かれた看板があった。

「まじゅつしのいえー!!」

 イタージは辿り着いた喜びの余りに声を張り上げていた。

(あった! ほんとうにあったよ、お母さん!!)

 魔術師の家の扉は空色の枠に玻璃はりが嵌め込まれていて中が丸見えだった。中は草が天井から吊り下げられていたり、壁には抽斗ひきだしが沢山あったり、仕切り台があったり、奥には人もいる。

 扉は観音開きになっていて、イタージは右側の扉を押した。蝶つがいの軋む音が聞こえ、扉に付いた鈴が鳴る。仕切り台の奥にいる人物は、魔術師と思しき人で癖の付いた髪が女郎花おみなえし色の、とても綺麗な人だった。その魔術師が仕切り台へ近付くイタージを見ている。イタージは見詰められて緊張した。震える手で鞄から宝物を取り出す。

「あの、あのっ、これで、よくきくくすりがほしいの!」

 魔術師が仕切り台に来ると、置かれた物を見る。

「宝物はこれだけあるの?」

「う…、はいっ、これぜんぶっ、です」

 魔術師は絵本を見て頬を本の僅かだけ綻ばせたが、イタージには解らない程の差異だった。

「そう、解った。それでは先ず、病人の所へ行かなくてはね」

「え? くすりはないの?」

 目を丸くして、思わず訊いてしまった。

「どういった病気に罹っているかを診なければ、それに合う薬は作れないからね」

「それじゃあ、くすりはあるの?」

「勿論作るからあるね。けれど、先に病人を診てからね」

 それを聞いて胸を撫で下ろしたが、次の瞬間には背筋を伸ばした。

「は、はいっ。おねがいです! お母さんがびょういんにいるから、おねがいです!」

 魔術師が紙と鉛筆を出し、イタージの前に置いた。

「それでは名前と、住んでいる所を書いて貰える?」

 イタージは紙と魔術師を交互に何度も見た。

「すんでいるところはダーモウェルで、キューシちょう、あ、ショッリーチしです」

「そう。ダーモウェル国のショッリーチ市キューシ町だね。名前は書ける?」

「なまえはかける、です」

「それでは書いてね」

「はい」

 鉛筆を手にすると、震える手で字を書いた。

「イタージ・ワカガ君だね。解った」

 汚い字だったが読めなくもなかった。イタージが鉛筆を置くと、紙を上下逆様にして魔術師が何かを書いた。

「病気になっている人のいる病院の名前は解る?」

「えっと、ガ、……ガイン……っていうびょういんです」

「ガイン……、そう。それでは少し待っていて貰える? 病院の名前と場所を調べて来るからね」

「は、はいっ」

 魔術師は紙を手にし、裏口から出て行った。イタージは落ち着かなくなり、室内を見回していた。不思議な臭いがして、心地好くもなく、不快でもなく、本当に不思議な臭いだったが、どちらかと言えば好ましくはなかった。

(このにおい、なに? へんなにおい……)

 眉を顰めていると魔術師が戻って来た。

「お待たせしたね。それでは外に箱舟を用意したから今から行こうか。病院へ一緒に行こうね」

「はい」

 小さく頷いた。

「それでは外へ出て、箱舟に乗ろう」

「はい」

 表にあった箱舟の後部座席に乗り込み、魔術師が操縦席に乗り込むと徐に上昇し出した。

「ダーモウェルに向かうからね」

「はい」

 爽やかでいて仄かに甘い香りがして首を傾げた。

(さっきのところは、いいにおいがしなかったけど、いまはいいにおいがする)

 その匂いを嗅いでいると気持ちが落ち着いてきた。


 箱舟はイタージがいつも乗っている高さではなく、雲の上を飛んでいて、手近な窓から外を見ていたが下には雲が見えたが、暗闇で良く解らなかった。下降し始めると左右に顔を向けて両方の窓からどうなっているのかを確認したが、視界に建物が入り、それがガインサマナ病院であると気付くと唖然とした。

(あれ、もうびょういんだね……。……え?)

 魔術師がイタージに近い扉を開けて腰を屈めた。

「それでは降りて貰える? 病院の中へ入ろう」

「うん、あ、はい」

 頷くと魔術師が姿勢を戻してから降り、先に歩いて行く。

其方そちらではないよ。此方こちらから行くよ」

 いつも通りに正面から入ろうとした所、声を掛けられて振り返った。どうやら裏口の方から行くようだ。イタージは慌てて付いて行く。裏口には受付があり、そこには人がいた。魔術師はズボンの衣嚢から何かを取り出してそれを見せると、その人は「許可」と書かれた紐付きの名札を渡し、魔術師はそれを首に掛けた。それから暫く二人が話している間、イタージは大人しく待っていた。

「お待たせ。それではお母さんの所へ行こうか」

「はいっ。お母さんはさんがいのへやにいるよ」

 いつもと違う階段から上がって行く。魔術師より先に三階に到着したが、いつもと違う場所に辿り着いた為、どこにいるのかが理解出来ずに左右を見ていた。

「此方だね」

 魔術師が先に行く。イタージは大人しく付いて行き、途中からどこにいるのかが解ると、走って先にミーシェのいる個室へ向かった。食事時のようで看護師達が忙しなく、食事を終えた患者の盆を下げていた。

 ミーシェの個室に到着したイタージは扉を徐に開けると、小さな棚に置かれている照明が付けられているだけの光景を見た。イタージは部屋が薄暗い事に悲しみを覚えた。中に入って寝台脇に来ると、ミーシェの顔を見る。

「お母さん、まじゅつしをつれてきたよ。もうだいじょうぶだからね」

 魔術師は静かに扉を閉め、イタージの隣へ遣って来た。イタージは魔術師を見上げると、魔術師は目を閉じていた。そして目を開けると頷いた。

「成程、ノダッゴ病だね」

「くすりでなおる?」

「治せるね。それでは薬を持って来るから、此処ここで大人しく待っていて貰える?」

「はいっ、まつ!」

「それでは目を閉じて貰える?」

「はい」

 頷いて両手で顔を覆った。

「十数えたら目を開けてよいからね」

「はい。いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、くー、じゅう」

 両手を下ろすと、魔術師の姿が消えていた。

「いっ、いない? ……いない!」

 部屋中を見回したがいなかった。鞄をミーシェの脇に置き、寝台脇に置かれている椅子に座った。段々と不安になって来て涙が零れると、止めなく流れ始めた。

「うぅっ……、うー……」

「何を泣いているの?」

 魔術師の声がして顔を上げて振り返った。

「あっ……」

「私が今飲ませるけれど、明日からはイタージ君が飲ませるのだよ?」

「はっ、はいっ」

 止まり掛けた涙がまた流れる。前腕で涙を拭っている隣で、魔術師が魔術を使ってミーシェの口を開け、薬包が開いて行き、包み紙が傾いて細かく砕かれた薬草がその中に落ちて行く。そして口が閉じられた。

「イタージ君がお母さんに飲ませる時は、茶器にこの薬を包んだ紙一つ分を入れて、熱湯を注いで五分以上待って、それを冷ましてから飲ませてね。難しいだろうから、紙に書いてあるこれを渡すね。薬を一日に三度、必ず飲ませてね? この紙袋に薬を包んだ物が入っているからね」

 差し出された紙袋と畳まれた紙を受け取る。

「はい」

「それからとても大切な事を言うから、良く聴いてね」

「はい」

 差し出された魔術師の手に、乳白色の鳥を模した置物があった。イタージはとても不思議になり、魔術師を見上げる。イタージと目が合った魔術師は小さく頷く。

「これはね、お母さんが目を覚ましたら、お母さんに魔力を注いで貰いたいのだよ。そうする事で、病気の進行を抑える事が出来るからね。毎日、全ての魔力をこれに注ぎ込む。言ってみて貰える? 毎日、全ての魔力をこれに注ぎ込む」

「まいにち、すべてのまりょくをこれにそそぎこむ……?」

「そう。忘れないでね。魔力を体内に少しでも残せば、またノダッゴ病になるからね」

「えっ、またびょうきになるの?」

「そうだよ。この病気はまたなるかも知れないからね。また病気にならない為に、遣れる事を遣って貰おうね」

「はい。……まいにち、すべてのまりょくを……」

「これに注ぎ込む」

「これにそそぎこむ」

「はい、どうぞ」

 目の前に差し出された鳥の置物を手にすると魔術師を見上げる。

「ありがとう」

「どう致しまして。それでは私は帰るからね。さようなら」

 魔術師は後ろを向いて扉の方へ歩いて行く。

「あ、ありがとう! さようなら」

 魔術師は振り返らず、扉を閉めてしまった。


 イタージの手には貰った紙袋と、折り畳まれた紙と、そして乳白色の鳥の置物があった。

 必死の思いで森へ行き、光の玉を頼りに森を抜けるまでの時間を考えると、魔術師と出会ってから今までの時間がとても短く、なんだか信じられない気持ちになったが、手の中にある物を見ると現実である事を実感出来た。それ等を寝台に置き、手を突いてミーシェの顔を見る。

「お母さん、おきてくれるよね? きっとおきるよね?」

 すると俄に扉が物凄い勢いで開き、荒く呼吸をする音が聞こえた。

「イタージ! ここにいたのか!」

 振り返るとチーシュンだった。

「お父さん」

「心配したんだぞ! 今までどこに行ってたんだ! ここにも来たのにいなかったから、色々と探したんだからな」

 傍へ駆け寄り、イタージを抱き締めた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 イタージはチーシュンに抱き着いた。チーシュンは寝台に置かれてものを見て眉を顰めた。

「これはなんだ?」

「ぼくのたからもの」

「兎のぬいぐるみと、<ぎいち、はしる>と玻璃の玉じゃなかったのか?」

 イタージから手を離し、鳥の置物を手に取った。

「こうかんしたの」

 怪訝そうにイタージを見る。

「交換?」

「あのね……」

 一所懸命に説明をすると、チーシュンは魔術師が置いて行った紙に書かれてある事を読みながら何度か頷いた。

「分かった。これを毎日ミーシェに飲ませればいいんだな?」

「そう」

 信ずるに足る物がここにあり、チーシュンはイタージの言う事を全て信じた。

「でも一人で勝手に出掛けたらいけないだろう? お祖父さんにもお願いして捜してもらっているから、連絡を取らないと……」

「おじいさんも? ここにくる?」

「それはどうだろう? ここにはいなかったと言ったからなぁ……」

 噂をすればなんとやら、足音が近付いて来て、扉が開放された室内に入ったケマシが二人を見て、勢い良く息を吐いた。

「はぁっ、良かった……」

「おじいさん!」

「やっぱりここにいたのか。来ればいるような気がしたんだよ」

 安堵したように笑顔を見せ、後ろ手に扉を閉めながら言った。チーシュンは苦笑する。

「私と一緒ですね。私もそんな気がして、ついさっき来た所なんです」

「そうだったのか。はぁー、本当に一安心だな……」

 二人の傍に来たケマシはチーシュンが手にしている紙を見たが、それについて何も聞かなかった。それでもチーシュンはイタージが何を体験したのかを話した。そして、その紙も見せて貰う。

「へぇ、それじゃあミーシェが目覚めたら、この鳥に魔力を注げばノダッゴ病の予防になるんだな?」

「そのようですね。体内に魔力がほとんどなければ、魔力を結晶化する確率も減るでしょうね」

「そうだな」

 二人で納得していると、イタージのお腹が鳴った。

「あ……、おなかすいた」

「あははは、お父さんも空いたから帰ろう。ご飯は出来てるから、温め直して食べようか。お義父とうさんもご一緒にどうですか?」

「ありがたいけど、俺はもう少しここにいるよ」

「そうですか。イタージ、持って帰る物をカバンに入れて」

「うん」

 イタージは

「それじゃあお義父さん、お先に失礼します」

「おじいさん、またね」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 二人はケマシを残して先に帰った。ケマシはミーシェの手を出して強く握った。

「創造神様、このような奇跡を私達にお与え下さり、感謝いたします……」

 イタージの前で同じような事を言うと、「そうぞうしんじゃなくて、まじゅつしだよ!」と強く否定されてしまうが、それは三日後の話。


 ミーシェが目覚めたのは三日後だった。

「お母さん! お母さん! おきたの?」

 目が覚めても、まだ頭が寝惚けているミーシェは覗き込むイタージを見ていた。

「おはよう。天井が家と違うけど、ここはどこ?」

「病院だよ」

 答えたのはケマシだった。

「お母さん、ずっとねてたんだよ? おきてよかった! ほんとうによかった!」

 イタージが嬉しそうにしていて、ミーシェも微笑んだ。

「先生を呼んで来るよ」

 ケマシはそう言って直ぐに退室した。連れて来た治癒師も目覚めているミーシェを見て驚愕し、「あれは本当だったんだ……」と一人呟いていた。治癒師の言うあれとは、魔術師が治癒師に宛てて置いて行った手紙の事だった。「此度こたびは特別に私が治療しました。さん日中には目覚めると思います。ご家族には病に効くと無害の薬草を渡してありますがご内密にお願いします」という内容が書かれていた。

「セスマイン先生、薬を飲ませる許可を下さって、ありがとうございました」

 ケマシが深々とお辞儀をした。

「いいえ、これは大精霊様が遣わして下さった精霊様の業ですから、私に拒否権はないんですよ」

 二人が話している間、イタージはミーシェの右手に顔を乗せて甘えていた。窓から赤い日差しが入り込み、部屋が夕焼け色になっていた。


 明良はイノウエ邸から毎日水伯邸に通っているのだが、イノウエ邸は建物ごと移動し、現在は水伯邸の敷地内にあった。その水伯邸は必要な畑や薬草園、玲太郎が魔術の練習場にしていた北の畑以外は森に囲まれている。明良の職場は薬草園の傍にある作業小屋で、毎日薬草を調合していた。

 颯は時折黒淡こくたん石を売り、魔術に頼らない旅をしていて、ヌトはそれに付いて行った。そういう訳で、颯は水伯邸に毎日通っていないし、夕食作りからも解放されていた。施薬院の経営は相変わらず遣っているのだが、製薬は明良任せだった。

 水伯は幾つかの会社を継続して経営していた。持っていた領地はなくなったが土地家屋や農園、施設等は残っていて、それ等を活用していた。金には困らないが、いつまで生きるかも判らない為、暇を持て余すよりは仕事で時間を潰す事を選んでいた。

 ルニリナは孤児院から魔力の多い子供を引き取って育てていたが、その子が天寿を全うすると子育ては止めてしまった。そしてまた水伯邸に拠点にし、占術をしに出掛けて行く日々を送っている。

 朝、三人は食堂で顔を合わせる。食堂は今では小ぢんまりとしていて、食卓も六人掛けの物となっていた。

「昨夜もノダッゴ病を治しに行っていたのかい?」

「うん、二度目でどうにかなったよ。結晶は全て消失させたし、後は目覚めるだけだね。それもそろそろだ思うよ」

「それでは玲太郎もそろそろ目覚める頃だね」

「そうなるね。患者が元気になってから一週間前後だからね」

 明良は相変わらず無表情で、水伯はいつもの柔和な微笑みを浮かべている。

「ニーティは今日、仕事が入っているのだよね?」

「そうです。今日はトイガへ行きます。要人の予約が纏めて二十件入っていますので、三日に分けて占う予定です。そういう訳で、今日から二泊三日で行って来ますね。二十時前後には戻るつもりです」

「解った。頑張ってね」

「はい」

 幾とし月が流れただろう。明良と颯が成長をする事もなければ、水伯やルニリナが老いる事もなかった。

「颯には何時いつ連絡を入れる積り?」

「そうだね、玲太郎が起きてからでよいと思っているのだけれど、水伯が連絡を入れてもよいのだからね?」

 水伯は給仕を終えて着席する。

「それでは明良が連絡をしなければね。どうせ今度も玲太郎が起きる頃、丁度良い具合に帰って来るのだろうけれどね。では、頂きます」

 合掌していた手を離し、箸を持った。

「頂きます」

「いただきます」

 二人も挨拶をして箸を持つ。静かに時間が流れた。


 食後、明良は水伯と居室で寛いでから玲太郎のいる寝室へ向かう。依然として明良と颯の寝台が置かれていて三台あり、玲太郎はその真ん中の寝台を使っていた。

 扉を軽く二度叩き、開扉すると中へ入る。玲太郎はまだ本来の姿に戻っていなかった。直径約五尺ある黒い玉が寝台の上にあり、それは霧のような物で構成されていて、中に入って行く事が出来る。明良は毎日寝台に上り、その中へ入って行く。

(うん、今日も玲太郎の気配はあるね)

 これを一日にろく度は遣る。

「玲太郎の望み通り、きちんと治療したからね。そろそろ戻ってくる頃だろう? 早く戻って来てね。待っているよ」

 それと重なったままで言うと、暫くは動かずにいる。

「そうだった。今度の子はね、宝物の中に<ぎいち、はしる>があったよ。玲太郎が戻って来たら、その子の所へ一緒に宝物を返しに行こうね」

 寝台から下りると靴を履いて退室した。


 颯はハソとヌトに張り付かれていて旅をしていたが、傍にはいつも玲太郎の気配もがあった。

「うん? 玲太郎の気配が薄くなっているな」

 ハソもヌトも約三じゃくの大きさで宙に浮いている。

「む、それでは近い内にまた目覚めるのであろうな」

「颯は良くそのような気配が読めるな。わしには判らぬわ」

 ヌトに続きハソが言うと、颯は鍋に入っている昼食の粥を玉杓子で掻き混ぜて掬った。

「まあ、いつも傍にある気配だからなあ……」

 ハソが颯の左隣へ行く。颯は掬った米粒の状態を見て戻した。

「わしにはそれが判らぬわ。気配感知ならわしも得意なのであるが……」

「わしとて判らぬわ。それにつけても、水伯邸へ帰る時は飛んで行くのか? 瞬間移動か?」

 ハソを押し退け、颯の傍へ行ったヌトが顔を覗き込んだ。

「そうだなあ、どうしようか。……此処からだと七日では帰れないから久し振りに魔術を使うとするか」

 颯は今、ごうのあったテルザイ大陸の山に登っていた。下山する為に要する時間は四日。空港まで移動するとなると更に三日を要する。

「少し早いけど、此処で切り上げて帰るわ。まあ、食べてからだけどな」

「そうであるか。それにしても、玲太郎が目覚めるとまた三歳の頃に逆戻りをしておるのであろうか」

「ヌトはよいよな。わしなぞ近寄ろう物なら、絶叫されるのであるからな」

「ふむ。日頃の行いの差、であろうな」

「何っ、大差ないではないか」

 颯は無言で粥を椀に装った。それから枝で燃えている枝を動かして火を小さくした。二体が仕様もない言い合いを遣っている間、熱い粥に息を吹き掛けながら頬張った。


 十時の間食になる前、颯が水伯邸に到着した。明良は厨房にいたのだが、颯の気配を感知して居室へ瞬間移動で遣って来ていた。

「お帰り。今度は早かったね」

 いつもの事ながら、衣服に無頓着な颯は穴が空いていたり、破けていたりしていて、余りにも小汚い格好だった為、明良の無表情が崩れていた。

「またそのような格好をして……。魔力でどうとでも出来るだろうに、どうしてそのように放置しているの?」

「只今。服は別に不都合はないからなあ。町中ではそれなりの格好をしているから平気だよ」

「常にきちんとした格好をしていなさいという事なのだけれど?」

「誰かに迷惑を掛けている訳じゃないんだから、別にいいじゃないか」

「荷物とか着ている衣服とか諸々に、しっかりと洗浄魔術を掛けてくれたのだろうね?」

「それはきちんと遣った」

「それならばよいのだけれど……」

 不快そうに眉を顰めて颯を凝視してた。

「それで、十時の間食は食べるの?」

「うん、食べる。その前に玲太郎の様子を少し見て来るよ」

「解った」

 明良は頷くと厨房へ戻って行き、颯は荷物を置いたままで寝室へ、ハソとヌトも付いて行った。寝室に入ると黒い玉が浮いている。玲太郎の寝台脇へ行くと腰を掛けた。

「玲太郎、只今。早く起きろよ?」

 そう声を掛けて微笑んで黒い玉を見詰めた。

「どうであるか? 玲太郎の気配は濃くなっておるのか?」

 ハソが颯の隣に来る。

「うん。兄貴の傍にいた気配も薄くなって来ていたから、当然と言えば当然なんだけどな」

「そうであるか」

 ハソが頷いていると、ヌトは黒い玉の中に突っ込んで行った。

「こうなって十年、くらいであるか?」

 首を傾げた颯が唸る。

「うーん、それくらいか? もっと長いような気もするんだけどなあ……、どうだったか……、うーん、細かい数字は憶えていないな」

「やはりわしには何も感じぬな……」

 ヌトが呟きながら黒い玉の中から出て来た。

「それはもう散々遣っただろうが」

 飽き飽きとしている颯が言うと、ハソが笑いを堪えていた。

「遣ったか? はて……」

「荷物は此処に置いて行くわ。お前等はどうする? 此処にいるのか?」

「わしは此処におるぞ」

「うむ、わしも」

 ハソに続いてヌトも頷いた。

「それじゃあ俺は食堂へ行くわ」

「水伯に宜しくな」

 ハソはそう言って颯を見送ったが、ヌトはまた黒い玉の中に突っ込んで行った。


 食堂には外から戻って来ていた水伯がいた。

「お帰り。今度は早いね。どうかしたのかい?」

「只今。もう少し山にいてもいいかと思ったんだけどな」

 颯は下座の椅子を引いて腰を掛けた。

「ふふ、ゆっくりしてくれば良かったのに」

 水伯の柔和な微笑みを見ているととても懐かしい気持ちになった。

「うん、まあ、なんだか玲太郎に呼ばれているような気がしたからな」

「そうなのだね。それでは今度は早く目覚めるのかも知れないね」

「それはどうだろう? ……そうだと嬉しいんだけどなあ」

 そう言って腕を組んで背もたれにもたれた。

「水伯は会社の方はどうなんだ? 相変わらず忙しいのか?」

「そうだね。玲太郎がいてくれるから作物も順調に実ってくれるし、味もよいからね」

 暫く雑談をしていると、明良が台車を押して入室した。

「お待たせ」

「一日二食だったから嬉しいわ。それも兄貴の手料理、有難う」

 嬉しそうにしている颯を見て、水伯も柔和な微笑みを浮かべていた。

「今日から颯も作らなければならないね。夜は頼むよ」

 給仕をしながら言うと、水伯が明良に顔を向ける。

「明良、それはずるいのではないのかい? 私が一日二食作る事になるのだけれど?」

「ルニリナ先生が帰って来れば一食になるからよいのではないの」

 それを聞いた颯が身を乗り出す。

「あれ? ニーティは帰って来ないのか?」

 水伯が颯に顔を向けると頷いた。

「そうなのだよ。今日から留守でね、明後日には帰って来るよ」

「ふうん、そうなのか」

「それはさて置き、どうして悪霊が二体も颯に付いているの?」

「さあ? どうしてだろうな?」

 大皿には豚肉の生姜焼きが山盛りになっていて、颯が笑顔になる。

「生姜焼きで良かったよ。颯が連絡もなく、突然帰って来ても対応出来たからね」

 それ程度の皮肉は気にもならない颯はその笑顔を明良に向ける。

「兄貴、有難う」

「どう致しまして」

 颯を一瞥して自分の席に大皿を置くと着席した。

「頂きます」

 水伯が一番に挨拶すると、二人も挨拶をして食べ始めた。颯は一口飲み込む度に「美味しい」と言っていた。


 久し振りに水伯邸の居室で寛いでいる颯は嬉しそうだった。

「此処に来るのも数十年振りくらいだなあ……」

「何を言っているの? そろそろ百年だよ?」

 隣に座っている明良に言われ、颯は目を丸くした。

「えっ、え? ……本当に?」

「玲太郎がああなって九十六年目だからね。ほぼ百年だよ」

 答えたのは水伯だった。颯は視線を下げて左手で口を覆った。

「嘘だろ……。ええ? おかしいな? まだ数十年程度だと思ってたのに……」

 相当の衝撃を受けているようだった。明良は颯を横目で見ていた。

「悪霊と行動を共にするから時間の感覚が狂うのだよ」

 颯は横目で明良を見るも頷いた。

「確かに、それはあるかもな……」

「玲太郎がああいう状態になるようになってこれで六度目だけれど、段々とあの状態でいる時間が長くなりつつあるね」

 水伯は些か暗い表情で言い、茶器を口元へ運んだ。

「やはり戻る切っ掛けは<まじゅつしのくすり>を読んで此処へ来て、その子が治したい患者がある程度治る事だね」

「俺は玲太郎が遊びで作った絵本だと思っていたんだけどなあ……」

「それも魔術師役は明良でなければならないのだから、本当に不思議だよね」

 そう言った水伯に顔を向けた颯は目を丸くしていた。

「それ! それだよ。俺も遣ったけど、何故か駄目だったからな。あれは一体なんなんだろうな?」

「伝聞で来た子も、宝物を置いて行かなかった子も駄目だったから、条件が意外と厳しいのかも知れないよ?」

「そうなんだな。でも伝聞で来たとか、宝物を置いて行かなかったとか、どうやって兄貴が判ったんだ?」

「患者を治療しても治らなかったからだよ。私で治せる筈の病でも治せないとなると、おかしいと思うよね。それで色々訊いたら判明したのだよ」

「成程」

 明良を見ながら茶を飲み、受け皿に茶器を置いた。

「そういう事は早く教えて欲しかったなあ……。俺はあの絵本通りに薬を渡して終わっていたから、きちんと完治したのかどうかさえ確認していなかったな」

「颯は何も考えないで受け身になるから、そういう所を直さなくてはならないね」

 思わず鼻で笑った颯は横目で明良を見る。

「これはもう直らないと思うぞ。兄貴が嫉妬深い事と同じだからな」

「私は嫉妬深いのではなく、独占欲が強いだけなのだよ」

「そう思っているのは本人だけだぞ」

 颯が明良に顔を向けて透かさず言い、莞爾として明良を見詰めた。水伯は二人の会話を柔和な表情で眺めていたが、俄に颯が水伯に顔を向けた。

「なあ? 水伯だってそう思うよな?」

「うん? うん、……そうだね、明良は嫉妬深いし、独占欲が強いけれど今は眠っているよね。玲太郎が直に目覚めるから、それ等もまた目覚めるのだろうね」

 明良は水伯を暫く見詰めていたが、何も言わずに視線を切った。そして、湯呑みを手にする。

「目覚めたとして、次は何年起きているんだろうなあ……」

 静かに言った颯は茶から立つ湯気を見詰めた。


 ハソから玲太郎が目覚める時が近付いたと聞いた兄弟が集結していた。当然ながらケメはいない。誰かがいつか言ったように、家の木から出られる時は未だに来ていない。集結した中にはニムもいたが、それはもう態度も体も小さくなっている。水伯と明良はその存在を認めず、口も利かないが、それでもニムはこういう時に必ず来ていた。

「やはりレウも来たか。この時ばかりは必ず来るな」

「毎度こうならぬように魔道具を渡しておるのであるが、全く効果がないようであるからな。わしは意地で来ておるのよ。戻る様を観察し、分析し、またこのようにならぬよう、魔導具を拵えるのよ」

「そうであるか」

 ハソが苦笑していた。

「ハソの所為でまた賑々しくなったな」

「済まぬ……」

 颯は溜息を吐いた。

「そう言うではないわ。皆一様に玲太郎の事を心配しておるのであるからな」

「心配よりも好奇心の方が強いんだろうが」

 ヌトを睨みながら颯が言うと、それを見ていたノユとズヤが苦笑していた。耳が痛いニムは部屋の隅へ行った。

「此処へ戻って四日目であるから、そろそろ目覚めるな?」

「兄貴が此処にいないという事が答えだと思うけどな」

 やはりヌトを睨みながら颯が言うと、ヌトが颯を横目で見る。

何故なにゆえわしを睨むのよ?」

「睨んではいない。横目で見ているだけだからな」

「ふむ……」

「颯、わし等には玲太郎の気配は付いておらぬのか?」

 ノユとズヤが颯の傍に来ても、視線はヌトのままだった。

「付いてないな。ノユやズヤに興味がないんだろう」

「そうであるか……。わしは玲太郎が産まれた時におったのであるがな……」

「それを言うならばわしとて同じよ。一番乗りはわしであったのであるからな。しかしながら、そのわしにも玲太郎の気配は付いておらぬのであるから、ノユとズヤに付いておるわけがなかろうて」

 ハソが何故かしたり顔で言った。ノユが眉を顰めたが、ズヤは平然としていた。

「ま、わし等に付く訳がないわ。興味のある対象なぞ、玲太郎にしてみれば家族だけであろうからな」

「そうであろうとも、やはりわしの傍にも玲太郎の気配があって欲しいぞ」

 ヌトがそう言ったノユに視線を移す。

「わしにないのであるから、ノユに付く筈もなかろうて」

「そうだよな。ヌトに付いていないんだもんな」

 ヌトが苛立って眉を寄せ、颯に視線を戻す。

「そう意地の悪い事を言うのであれば、畑へ出て、明良の手伝いでもして来れば良かろうて」

「そうしよう」

「わしも行く」

 立ち上がった颯に付いて行くハソは直前で扉を閉められ、とおり抜けて出て行った。

「颯の機嫌が悪いな」

「然り」

 ズヤの言に頷いたノユはヌトを見る。

「何かあったのであるか?」

「知らぬ。若しやしたら、玲太郎の気配が黒い玉の方に移っておる事が寂しいのやも知れぬな」

「成程」

 ズヤが頷いた。ニムは颯がいなくなり、体を少し大きくした。

「はー、此処は窮屈で堪らぬわ」

 困り顔で零すと、ヌトが眉を顰める。

「お主は帰ってもよいぞ。玲太郎はニムが近くにおる事を望んではおらぬからな」

「それは言えておるな。そういう事を言うのであれば、帰ればよいのよ」

「ヌトもズヤも厳しい事を言うなよ」

 ノユが制止しようとしていると、黒い玉の中からレウが出て来た。

「何かを遣った方は忘れても、遣られた方が何時までも憶えておる物よ。のう、ニム」

 ニムは「はて……」と呟いて腕を組むと険しい表情になった。シピは窓の外を見ていて、輪の中に入らずに会話を何気なく聞いていた。


 三日後、明良が畑で薬草の様子を見ていた所、黒い玉が空をよぎったように思えた。血相を変えて瞬間移動で寝室に来ると、寝台の上にはまだ黒い玉が浮いていて安堵した。

「どうかしたのか?」

 寝台脇に椅子を置き、そこに座っていた颯が声を掛けた。

「気にし過ぎて幻覚を見たようだね」

「ふうん?」

 颯の隣にはルニリナがいた。

「明良先生がお出でになったのでしたら、目覚める時が来たのかも知れませんね」

「そうだな。水伯を呼んで来るわ」

 立ち上がって瞬間移動で消えると、その椅子に明良が腰を掛けた。明良が来るまで賑やかだった部屋も静まり返った。ルニリナも無言で黒い玉を見詰めている。

 暫くして水伯が颯と扉から入室した。明良とルニリナが振り返ってそれを見る。

「まだ始まっていないからね」

「そう、有難う。間に合ったようで良かったよ」

 明良の言に安堵した水伯は二人の反対側へ行き、椅子を二脚顕現すると手前の椅子に腰を掛けた。

「有難う」

 その隣に颯が腰を掛ける。

「どう致しまして」

 二人が笑顔で見合っていると、ルニリナが口を開く。

「始まりましたよ」

 颯は黒い玉に顔を向けた。すると、黒い玉が徐々に下り、寝台に埋まって行く。丸で四人が揃う事を待っていたかのようだった。黒い玉はもやのように薄くなって行き、外側から少しずつ薄れて全てが晴れると眠っている玲太郎の姿がそこにあった。明良はそれを見て口元を綻ばせる。皆が無言で見守っていた。


 玲太郎が起き上がる時は中々来ず、全員が食事も摂らずに夜を迎えた。

「夕食はどうする? 何か買って来ようか?」

 そう言った颯に全員が顔を向けた。

「このような時も食べようとするの? 玲太郎はまだ起きていないのだよ?」

 些か眉を顰めた明良に睨まれ、苦笑した。

「うーん、だからと言って、ずっとはいられないなあ。何か作って来るよ」

「有難う。出来たら此処へ運んで貰えるかい?」

「解った。そうするよ」

 水伯に頷いてから立ち上がると、ルニリナも立ち上がる。

「手伝います」

「有難う」

 二人は連れ立って一階の厨房へ向かったが、戻って来ても玲太郎は起きていなかった。四人で食事をし、颯一人で後片付けに行き、それから戻って来てもやはり起きていなかった。

「起きないな? これは朝にならないと起きないんじゃないのか?」

 颯が思わず言ってしまうと、明良に睨み付けられる。

「それはあるかも知れないね」

 水伯が同調すると、水伯も明良に睨み付けられる。水伯は颯と顔を見合わせて苦笑した。

「また私の事を忘れているでしょうか?」

 ルニリナがふと呟いた。颯はルニリナに視線を向ける。

「うーん、今まで覚醒した前後の年齢に戻っているようだから、今度もそうだと残念ながら忘れているだろうなあ……」

「それはそれで仕方のない事だよね。私も玲太郎が産まれた時から世話をしていたとは言えども、その頃に戻られると父親になる前で、またいちから遣り直しなのだからね」

 寂しそうに水伯が言うと、颯が頷く。

「悲しいけど、それはそれで仕方のない事だよなあ、本当に……」

「そうだね。けれど、私はあの頃から何一つ変わっていないから、私と言う存在は受け入れて貰えるのだけれどね」

 明良が水伯を一瞥する。

「そのように派手な服は着ていなかっただろうに……」

 そう言われて自分の着ている服を見る。

「ああ、そうだったね。このような服を着ている時の方が長くなってしまって、黒ばかり着ていた事を綺麗に忘れていたよ」

 いつもの柔和な微笑みを浮かべ、玲太郎を見詰めている明良に視線を移した。

「そう言えば、そういう事もあったよな。懐かしいなあ……」

 颯も見え難い位置から玲太郎の顔に視線を向けて、感じ入っていた。


 結局、玲太郎の目が覚めた時間は朝になってからだった。見た事もない天井を見て目を擦っていると、明良が顔を覗き込む。

「お早う。起きた?」

 嬉しそうでありながらも泣きそうな表情をしていた。

「おはよう。ここどこ?」

「此処はね、水伯のお家だよ」

「すいはくの? すいはくどこ?」

 今度は水伯が顔を覗かせる。

「お早う。玲太郎が起きたから、朝食を作ろうね。何が食べたい?」

「うのだちゃんのおかしがたべたい」

 それを聞いて颯が哄笑した。玲太郎は上体を起こして、笑っている颯を見て目を丸くする。

「はーちゃん、わらうはめっよ?」

 笑い終えた颯が大きく息を吸った。

「あー、悪い悪い。宇野田ちゃんのお菓子が食べたいって言うもんだから、おかしくて笑ってしまったよ」

「ふうん? うのだちゃんのおかし、あるの?」

「それはないけどな」

「ふうん、ないの……。かわや?」

「厠へ行きたいのか?」

「うん、いく」

 四つん這いになって颯の方へ行くと、明良が恨めしそうに見ていた。

「それじゃあ厠へ行って来るわ。その後は着替えて居室に連れて行くからな」

 玲太郎を抱き上げながら言うと歩き始めた。その後ろにハソが飛んで行く。

「玲太郎、わしよ、わし。ハソであるが憶えておるか?」

 ハソを見た途端、颯の肩に回していた手で服を強く握り締める。

「ぎゃぁぁぁあああぁ!!」

 耳元で絶叫された颯が固く目を閉じた。ヌトが声を上げて笑うと、他の兄弟も笑い出した。

「共通語を話すようですから、和伍語は忘れているようですね」

「そうだね」

 水伯が頷く。

「また家庭教師をお願いするよ」

「解りました。頑張ります」

 微笑むルニリナを横目で見ていた明良は小さく溜息を吐いた。玲太郎に拒絶されてしまったハソは仏頂面になりつつもそれを見ていた。


 一番にニムが、シピは水伯と一頻ひとしきり話した後に帰り、他は残った。しかし、玲太郎はヌトだけを受け入れただけで、レウですら絶叫された。

「わしが最初に印を入れておったのであるが、今度もまた拒まれたわ……」

「産まれた時から傍におったわしですら拒まれるのであるから、印を入れておる程度で受け入れられる筈もなかろうて」

 落胆するレウに向かって、ハソが何故かしたり顔で言った。

「ま、あれが玲太郎であるからな」

「ヌトは受け入れられておるからそのように構えておるのであろうが、わし等は視界に入ると泣き喚かれるのよな」

 ノユが腕を組んで渋い表情で行った。

「それよ。毎度の事ながら慣れぬよな」

「然り」

 ノユはズヤと頷き合っている。ハソはそれを見て苦笑する。

「少し経てば、また以前のように話してくれるであろうよ」

「レウはそれまで此処におるのか?」

 そう訊いて来たヌトに顔を向けたレウは眉を顰めて「うーむ」と唸った。

「明良に汚物を見るような目で見られるのでな……、どうするか……」

「わしはおるがな」

 ノユが言うと、ズヤも笑顔で頷く。

「わしも」

「ハソはどうするのよ?」

 ヌトに顔を向けると真顔になった。

「ヌトはおるのであろうが。それならばわしもおるぞ」

 レウは四体の顔をゆっくりと見て行った。

「明良にあのような目で見られて、どうとも思わぬのか?」

「何時もの事ではないか」

 ヌトが平然と言うと、ハソが「如何にも」と頷く。

「わしも慣れた。ああなってしもうた原因はニムであるから、受け入れるしかあるまいて」

「明良に近寄らねばよいだけの話よ。そうすれば見られる事もあるまいて」

 ズヤに続いてノユが言い、レウは眉を益々顰めた。思案に暮れたが結局帰って行った。


 玲太郎が戻り、以前のような生活が始まった。明良と診療所へ通っていた記憶がある為、朝食後に乳母車に乗せて近くにある薬草を調合する小屋へ連れて行くが、玲太郎の散歩も兼ねている為、遠回りをしてついでに畑を見て回ってから到着した。当然ながらヌトも一緒だ。

「今日から此処へ毎日通うからね」

「ふうん。まえよりちいさい」

 裏口から入り、室内には薬草が所狭しと置かれている上に吊るされている物もあった。玲太郎は「わぁー」と声を上げて見ている。仕切り台の奥には玻璃の扉があるが、玲太郎の位置からは見えなかった。

「あーちゃん、うのだちゃんがいないのよ。おかしはない?」

「宇野田ちゃんのお菓子は残念だけれどないのだよ。けれど、あーちゃんの作ったお菓子があるからね」

「ほんとう?」

「本当。それでは今日から此処で午前中は過ごそうね」

「うん。ヌトがえほんをよんでくれるのよ」

「それは良かったね。私はその間に仕事をしているからね」

 話している間に小さな寝台が顕現し、明良は玲太郎を乳母車からその上へ移動させた。乳母車には玲太郎が選んだ絵本があり、それも寝台へ置いた。

「十五時になったら颯がお弁当を持って来るからね」

「はーちゃんもくる?」

「来るよ」

「じゅうごじ?」

「そう、お昼ね」

「わかった」

 絵本を手に取り、ヌトに顔を向けると微笑んだ。

「ヌトー、これよんで」

「解った。<あらたなるかみさま>であるか?」

「あらたなるかみさま」

「これは和伍語ぞ。玲太郎は読めるのであるか?」

 玲太郎はヌトを見ると笑顔で頷いた。

「よめるのよ。これがあ!」

 そう言って人差し指を差した先には別の文字があった。

「それは、ま、であるぞ。ま!」

「ま?」

「ま」

「ま」

 相手がヌトという事だけが気に食わない明良は複雑な心境で見ていたが、暫くして仕事に取り掛かった。


 颯が弁当を食べながら色々と訊いて判った事だが、玲太郎は三歳は三歳でも、覚醒するより以前の頃に戻っているようだった。それにも拘らず、玲太郎の首にはルセナの土が入った小瓶を小物入れに入れて提げている。しかし、ルセナの記憶はなかった。そして八千代にも慣れる以前である事から、今の所は八千代の話題が出る事もなかった。

 昼食が済み、茶を飲んで寛いだ後は、いつものように颯と一緒に家へ帰るのだが、いつもと違う道には草が生えておらず、虫を探そうにも虫の隠れ家になりそうな場所がなかった。

「はーちゃん、むしいない!」

「虫はもういないなあ……。あ、土を掘れば蚯蚓みみずが出て来るかも知れないぞ?」

「みみず?」

「そう、蚯蚓。細長い環形動物だから、虫ではないけどな」

「はん? はんけいどうぶつ?」

「か・ん・け・い・動物」

「かんけいどうぶつ」

「そう、環形動物」

「ふうん……。ぼくはむしがよいのよ。わかる?」

「解るよ。でも虫が隠れるような草がないからなあ……」

 足を止めた玲太郎の前で屈み、玲太郎の手を握る。

「いないから諦めろよ? 帰ろう」

「やっ、むしさがすの!」

 颯は無言で玲太郎を抱き上げ、片手で乳母車を突いた。

「はーちゃん、めっ! むしさがすの!」

「家へ帰ってから探そう。あの辺りならいるぞ」

「……ほんとう?」

「花壇もあるし、薬草とは違う草も生えているからな。薬草畑は臭いの所為で虫が少ないんだよ」

「ふうん? かだんはおおい?」

「うーん、この畑の辺りよりはいると思うけど、探してみないといるかどうかは判らないな?」

「えー……、わからない?」

 玲太郎は辺りを見回していたが、思うような草が生えていなくて颯に甘えた。


 水伯邸の居室で颯と一緒にいる玲太郎は、机を挟んだ対面に置かれた一人掛けの椅子に、浅く腰を掛けているルニリナを見ていた。ルニリナは穏やかな笑顔で玲太郎を見詰めている。颯はそんな玲太郎を見て微笑んでいた。

「はーちゃん」

 颯に顔を向ける。颯がその顔を見ると眉を顰めて、紅潮させていた。

「何?」

「あのひと、だれ?」

「この人はニーティ・ルニリナって言う人で、玲太郎に色々と教えてくれる先生だな」

「せんせい?」

「玲太郎は言葉を覚えたり、文字を覚えたり、勉強を遣るんだけど、それを教えてくれる人の事だよ。ルニリナ先生、宜しくお願いします」

「ふうん……? よろしくおねがいます」

 ルニリナに辞儀をしている颯を見て少し首を傾げた。

「玲太郎君」

 不意に呼ばれてルニリナを見た。

「私はニーティ・ルニリナと言います。ニーティが名前で、ルニリナが苗字になります」

「れいたろうです。よろしくおねがいます」

 辞儀をすると颯を見上げて笑顔になる。

「上手だぞ。でも、おねがい・し・ます、だからな?」

「おねがい、し、ます」

「そう」

 肩に手を回し、優しく二度叩いた。玲太郎は照れ笑いをして颯に抱き着いた。人見知りが少しあるようだ。


 玲太郎の勉強部屋兼図書室の本が入れ替えられていた。本棚が減り、一角には絨毯が敷かれていて、その上に玩具箱が置かれていた。玲太郎は早速靴を脱いで上がり、颯と一緒に積み木を始めた。積み木以外にも玩具はあるのだが、積み木が好きな事は変わっていないようだった。

「はーちゃん、やる?」

「遣るぞ。一緒に遊ぼう」

 笑顔で言うと、玲太郎も笑顔になる。

「うん!」

 嬉しそうにしている玲太郎の頭の中には、もう虫の事はないようだった。厳選した積み木を颯に渡し、颯が積む。それを繰り返すのだが、玲太郎が満足するまでか、積めなくなるまで続く。

「はい、終わり。もう積めないわ」

「つめない? おわりなの?」

 悲しそうにすると颯を見上げる。

「次は玲太郎が積む番な?」

「やるー! やるやる!」

 悲しい表情も一変して嬉しそうにしている。

「それじゃあ場所を代わろう。玲太郎はこっち、俺がそっちな」

「うん?」

 颯が玲太郎を持ち上げ、自分が座っていた場所に下ろした。そして積み上がっていた積み木を崩して、自分の前へ持って来る。

「あっ、ダメよ」

「いいんだよ。一個ずつ玲太郎に渡すから、玲太郎が積むんだぞ? 解る?」

「わかる」

 頷いて左手を出した。颯は「はい」と積み木をその手に置いた。玲太郎は悩みながら積んで行く。


 玲太郎はいつもと違う光景を目にしていても、それについて何も言う事はなかった。明良がいて、颯がいて、水伯がいて、宇野田の菓子がない事に関しては大いに不満を抱いていたが、概ね満足しているようだった。

 積み木で遊んだ後は颯と一緒に昼寝をして、起きたら明良お手製の焼き菓子を食べ、颯と矢投げをして遊び、ヌトに絵本を音読して貰い、と時間が過ぎて行った。

 明良が仕事を終えて帰って来ると、夕食がまだだった事に気付いた。

「ごはん、まだなの?」

 明良は玲太郎に微笑み掛ける。

「颯が直ぐに作ってくれるからね」

「うん? はーちゃんがつくるの?」

「そうだよ。今日から毎日ね」

「あーちゃんは? あーちゃんはつくる?」

「あーちゃんは、お休みの日に作るからね」

「ふうん」

 明良からヌトに視線を移した。

「ヌトは?」

「わしは作らぬ」

「ふうん?」

 直ぐに明良へ視線を戻し微笑む。

「あのね、ねむってるとき、ごはんつくるの。たのしかったのよ」

「眠っている時に、そういう夢を見ていたの?」

「ゆめ?」

「眠っている時に見る物の事だね。ご飯を作る以外に何を見たの?」

「なにを? ……ごはんつくった!」

 笑顔で言うと、明良が顔を近付ける。

「それから? ご飯を作って、何かを遣ったり、見たりしなかった?」

 玲太郎は明良を真っ直ぐ見たままで首を傾げた。

「うーん、あーちゃんとはっぱそだてた?」

「そう、葉っぱを育てたの。それから?」

 姿勢を戻してヌトを見る。

「はーちゃんとヌトと、やまいった」

「山へ行ったの。凄いね。山の何処どこまで行ったの?」

「やまはやまよ。あのね、ヌトがふたつなのよ」

「ヌトは一つなのだけれど、玲太郎にしてみれば二つなのだね」

「ううん、ひとつだけどふたつなのよ」

「一つだけど二つなの? ……そう、あーちゃんには少し難しいね。水伯は出て来なかったの?」

「すいはくは、うーん……、へやでいた?」

「部屋で何を遣っていたの?」

「わからない」

「そう。夢を見ていたのだね。楽しかった?」

「ううん、たのしくない」

 即答した玲太郎を見て、ずっと笑顔で話を聞いていた明良が目を丸くした。

「楽しくなかったの? どうして?」

 玲太郎は少し俯いて険しい表情になる。

「あのね、ぼくがはなしても、はなしてくれないの……」

「話し掛けていたの? 誰に?」

「あーちゃんとはーちゃんとヌト。すいはくもはなしたけど、はなさなかった。すいはくはずっとかみみてた」

 明良は眉を顰めた。

「私が玲太郎の相手をしないなど、何があっても有り得ない話だよね。きっと夢の中だったから、夢の中の私が玲太郎と話さなかったのだと思うよ」

「はーちゃんが、れいたろうとはなしたいっていうの。ぼく、きちんとはなしたよ? でもはーちゃん、はなさいの。ぼくのめもみてないのよ。ぼくかわいそう」

「颯がそのような事を言っていたの? 私も玲太郎と話したいと言っていなかった?」

「わからない」

「そのように夢を見る事があれば、私の傍にずっといてね?」

 満面の笑みを湛えた明良を見て、玲太郎も釣られて笑顔になる。

「あのね、あーちゃんはね、ぼくじゃないぼくをみるの。だからはーちゃんがよいのよ」

「うん?」

 思わず首を傾げ、玲太郎ではない玲太郎が何を指しているのかを思案した。玲太郎は明良の膝に腕を伸ばして伏せると仰向けになるように転がった。

「靴を脱がなければね」

 長椅子の座面に上げられた足から勝手に靴が脱げ、靴が下に置かれる。玲太郎は魔術に気付いて両足を見た。

「あーちゃん、くつ、ない」

「脱がしたから、下にあるよ?」

「どうやったの?」

「靴よ、玲太郎の足から脱げろ、と念じたら脱げたのだよ」

「くつぬげろ、くつぬげろ」

「靴はもう脱いでいるから、念じても無理だよ?」

「はく」

 起き上がって座ると下にある靴を見る。すると、靴が浮き上がって玲太郎の足に嵌った。

「あっ、あっ、くつ、あーちゃん、くつ!」

 靴を指で差し、明良と靴を交互に何度も見る。明良は何度も頷いていた。

「そうだね。靴が浮いて、勝手に履けたね。靴脱げろと言うのではなかったの?」

「あっ、くつぬげろ」

 玲太郎は脱げるまで唱え続けたが、脱げる事がなかった為、事ある毎に玲太郎が呪文を唱えていた。


 颯が作った料理を美味しそうに食べながら、見慣れないルニリナに視線を遣り、視線が合うと慌てて逸らして隣にいる明良を見る。明良は視線が合うと煮付けにされた南瓜を玲太郎の口へ運ぶ。

「はい、あーん」

 それを頬張り、咀嚼をしながらまたルニリナを見る。穏やかな微笑みを向けられると、顔を紅潮させて明良に視線を戻す。

「まだ口の中に入っているから、飲み込んでからね」

「ううん、よいのよ。ぼくでたべる」

「あーちゃんに、あーんをさせてくれないの?」

「うん」

 露骨に悲愴な表情をした明良を見た玲太郎は、颯に視線を向けて助けを求める。颯はそれに気付くと苦笑する。

「兄貴、そこまでだからな」

「はいはい、解っていますとも」

 玲太郎の箸を取ると、それを渡す。

「それではこれね」

「ありがとう」

 安心したように微笑んだ。そしてまたルニリナに視線を送るが、今度は直ぐに水伯に視線を移す。

「すいはくとごはん、ひさしぶりね」

「父上だよ?」

 水伯が言うと、玲太郎は手で口を覆った。

「あっ、ちちうえ」

 上目遣いで言われると、水伯は柔和に微笑んで頷いた。

「きょうからちちうえ、すいはくはちちうえね」

 上手に箸を使って白飯を口に運ぶ。

「そうだよ。玲太郎は今日からレイタロウ・ウィシュヘンドと言う名前だからね。憶えるのだよ?」

「うん」

 咀嚼をしながら頷いた。口の中にある物を飲み込んで明良を見た。

「あーちゃんは、あきら、う……うい…なの?」

「あーちゃんは、アキラ・イノウエだよ?」

 明良が笑顔で言った途端、颯に顔を向けた。

「はーちゃんは?」

 颯が微笑んで手で口を覆った。

「俺はハヤテ・イノウエだよ。玲太郎だけウィシュヘンドになるな」

「えっ、ぼくだけうい…うい…なるの?」

「ウィシュヘンドな」

「ういしゅ…」

「ヘンド」

「へんど」

「そう、ウィシュヘンド。レイタロウ・ウィシュヘンド」

 玲太郎は笑顔で言っている颯を見た後、思わずルニリナにも視線を遣った。視線が合ったルニリナは即座に微笑む。

「私はルニリナですよ。ニーティ・ルニリナ」

 顔を紅潮させると水伯に視線を遣る。ルニリナは颯に顔を向けると、颯がルニリナに微笑んでいた。

「ちちうえとぼく、おなじ?」

「そう、同じでウィシュヘンドが二人。明良と颯が同じでイノウエが二人。ニーティだけルニリナで一人なのだよ。一人だけで寂しいだろうから、玲太郎もニーティに優しくしようね?」

「そう、ひとりなの……。わかった。さみしいはないのよ」

「ありがとうございます。それでは宜しくお願いしますね」

 笑顔のルニリナに視線を遣ると、玲太郎も顔を紅潮させたが微笑んで頷いた。二人は温かい眼差しで見ていたが、一人は自分を見て貰えないからか、些か眉を顰めていた。


 玲太郎は明良がいつも以上に笑顔でいる事が不思議だった。笑顔の明良は大好きだから、それについて言う事はなかったし、寧ろもっと笑顔でいて欲しかった。

 そうは思っても、明良の表情が曇る事をしてしまう。入浴は颯と一緒が良かったからだ。

「はーちゃん、やまはよいね」

 湯船に浸かり、颯の膝に座っている玲太郎が俄に言った。

「急にどうしたんだ? それよりも、何時の間に山へ行ったんだよ?」

「ゆめのなかって、あーちゃんがいってた。でも、はーちゃんといっしょだったのよ。あとね、ヌトもいたのよ」

「ずっと一緒か。ああ、そうだな。山はいいな。でも魔術で空を飛んで見下ろす景色もいいぞ?」

「ふうん?」

「明日にでもお空へ行こうか」

「ええっ、おそら? おそらはあと。むしなのよ、むし。どこなの?」

 もう虫の事は忘れたと思っていた颯は苦笑した。

「虫はきっと、別の土地に引っ越したんだよ」

「べつのとち?」

「此処ではない、別の場所へ行ってしまったんだろうな。まあ、虫はいないけど、此処には小魚がいるぞ。名前はルーとツーだ」

「るーとつー?」

 ルツが玲太郎と颯の周りを泳ぎ回っていたが、玲太郎の傍で止まって跳ね始めた。

「茶碗を持つ方にいるのがツーで、箸を持つ方にいるのがルーな」

「こっちがるー?」

 右手で指を差すと颯を見る。

「そう」

「じゃあ、こっちがつー」

 今度は左手で指を差して颯を見る。

「そうだ。ルツと言う魚で、見える人は限られているんだぞ」

「ふうん? ……わからない」

 颯は玲太郎の右前腕を持ち、湯船に浸けてルツの方に掌を持って行くと、ルツが玲太郎の手に口ふんを付けた。

「あっ、あっ、さわってる?」

「玲太郎に挨拶をしているんだよ。宜しくってな」

「きゃー!!」

「毎日挨拶をしような。宜しくって」

「よろしくー!」

 玲太郎が燥いでいる様子を見て、颯も笑顔になった。ルツも久し振りに玲太郎の魔力を吸えてご満悦のようで、ずっと跳ねていた。


 明良が玲太郎を寝かし付けている間、居室で他の三人が話し合っていた。

「今度は八千代さんの記憶が凄く薄いですね」

 ルニリナが真剣な表情で言った。

「その割には首からルセナ君の瓶を小物入れに入れて提げているんだよな……」

「ルセナ? 聞き覚えのある名であるな? はて、誰であったか?」

 当然のようにヌトもいる。それも宙に浮いた状態で当然のように颯の隣にいた。颯がヌトを横目で見る。

「玲太郎の親友だよ。ヌトが最後の変則的な睡眠周期に入っている頃くらいに一緒にいたんだよ。その後も玲太郎に付き合ってルセナ君と会っていただろう」

「成程、玲太郎の親友な」

 思い出す事を諦めたのか、最初からその気がないのか、話を流した。いつもの事で颯も慣れていて、それ以上の相手はしなかった。

「まあ、いつものように育てていくだけなんだけど」

 そう言うと水伯に視線を遣った。

「外で暮らす機会は設けるし、学校へ行きたくなるように仕向けても、毎度の事ながら頷かないと思うよ?」

「それなんだよなあ……。不思議と学校へ行きたがらないし、友達を作ろうともしないんだよなあ……」

 頭を豪快に掻く颯を、いつもの柔和な微笑みを浮かべて見る。

「今からそう苛立っても体が持たないよ?」

「黒い玉になって長い眠りに就いた後に、幼児退行をする事もこれで六度目ですが、やはりその時々で違って来るものなのですね」

 ルニリナが珍しく険しい表情をしている。

「誰だったか、ヌトじゃない奴が、その体の大きさの精神年齢になるとかどうとか言っていたような気がするな」

「ノユ達を見ていると、子供のまま体が大きくなったような部分が沢山ありますけどね」

 穏やかな微笑みを浮かべた。颯がルニリナを見て頷く。

「それは言えているなあ」

「わし等の事は関係なかろうが」

「そこに暗示めいた物が隠されているかも知れないだろう? 寧ろ明示されているかも知れないな?」

「玲太郎はわし等の子であるから、わし等から何かしら見出そうとしても無駄であると思うぞ」

 お互い横目で見合っていたが、水伯が小さく溜息を吐いた。

「起きてくれる事は素直に嬉しいのだけれど、こうして忘れられている現実を突き付けられると、毎度の事ながら辛いね」

「そうだなあ。思い出があるけど、玲太郎は憶えていないもんなあ……」

 そう言いながら腕を組み、水伯を見詰めた。

「ふむ、そう言う颯とて、全てを憶えておる訳ではあるまい? ならば同じではないか」

「それで自分も同じだって言いたいんだろうけど、ヌトは昨日の事も憶えていない事が多いからな?」

「長生きであるから致し方のない事よ」

 自分の言った事に何度も頷いた。それを見た水伯が苦笑した。

「兎にも角にも、子育てがまた出来ると思うと楽しみではあるのだけれど、次がない事を祈ってしまうよ」

「そうだな」

 沈んだ声で同調する颯を見たルニリナが表情を明るくさせる。

「早く私に慣れてもらえるように頑張りますね!」

 ルニリナに顔を向けた水伯が柔和に微笑む。

「ニーティを見て顔を赤くしていたものね。人見知りに戻ってしまったから、それが落ち着くまでは外に連れて行かないようにしなければね」

「外は、そうだな、人がいない場所ならいいんじゃないかと思うよ」

 三人はこれからの大まかな方針を決めつつ、雑談に興じた。ヌトは白けて見ていた。


 過去の記憶に囚われた四人と正反対の玲太郎は新たな人生の続きを歩み始めたが、長い眠りに就いていた間に見た記憶が断片的に残っていた。退行して戻ってしまった時点までの記憶と、夢の中で見たと言われる記憶と、目の当たりにする現在進行形で残されて行く記憶が入り混じり、起きていても夢の中で過ごしているような気分だった。

 眠っている間に明良と颯が成長していたが、夢の中で見た明良と颯ではある為、直ぐに受け入れる事は出来た。家の周りの環境が眠る前と違っているが、夢の中で見ていた明良の背景がそれで、違和感を覚えつつも受け入れる事は出来た。しかし、何かを忘れている、それも大切な何かを忘れているという気持ちが違和感となって玲太郎の中に表れていた。

 暗闇の中でそれを探そうと足掻いていると、暗闇の中から穏やかで、心地の好い声色が聞こえて来た。

「お休み。大切な物は全てある。だから安心してお休み。お休み……」

 玲太郎はこの声に聞き覚えがあるような気がした。いつ、どこで聞いたのか、全く思い出せないが、確かに聞いた事のある声だった。水伯でもない、颯でもない、当然ながら明良でもなく、ルニリナでもない声だったが、それを辿ろうとしても気が遠退いて行ってしまい、出来なかった。


 目が覚めるとまだ部屋は暗かったが、下半身が冷たく、嫌な感触がして身動きが取れなかった。

「はーちゃん! はーちゃん! はーちゃーん!」

 暗い中、颯を呼んだ。颯は隣の寝台で眠っていて、玲太郎の声で目が覚める。

「……なんだ?」

 徐に上体を起こし、集合灯を点けると眩しくて片目を閉じ、もう片方は薄目になった。

「ん……、おしっこ、でちゃった……」

「ふうん、おしっこ……。え? あっ、悪い、寝てたわ。そうだった、夜中に厠だったんだよな。ご免」

 寝惚け眼も完全に開き、飛び起きて隣の寝台へ行く。魔術で洗浄して寝具も寝間着も綺麗にした。小さな光を顕現すると、室内が明るくなった。

「どうだ? 気持ち悪いか?」

 玲太郎は上体を起こし、首を横に振りながら目を擦った。

「おふろはいりたい……」

 泣きそうな表情をしていたが、颯からは俯かれていて頭しか見えなかった。

「うん、解った。風呂へ行くか」

 玲太郎を抱き上げると、首に抱き着いて来た。颯は猛省して、起きなかった事を玲太郎に謝り続けた。玲太郎はそう何度も謝られても、颯が謝る意味が解らなかった。

 入浴すると心地好くなって来て、直ぐに舟を漕ぎ出した。颯は玲太郎を抱き上げ、自身諸共乾かして玲太郎に寝間着を着せた。そのまま宙に浮かせておいて、寝間着を着ると玲太郎を抱いて寝室へ戻る。

 寝台脇に来ると湯呑みを顕現させ、その中には既に水が入っていた。

「玲太郎、これを飲んで」

「……」

 返事をしようとしたが声は出ず、薄く目を開けて傍に持って来られていた湯呑みが見えると、颯の手に小さな手を添えてそれに口を付けた。半分飲んだ所で湯呑みを押し退け、颯の肩に頭を預けた。湯呑みを水ごと消すと、玲太郎が寝入るまでそのままでいた。


 翌朝、玲太郎が目を開けると明良が覗き込んでいた。

「お早う」

「……おはよう」

「意外と遅かったね。服を着替えようか」

「うん」

 朝からこの美貌を見る事に慣れているとは言え、今日は顔がとても近く感じた。明良に促されて立ち上がり、寝台の上で着替える。寝台脇に置かれた靴を履き、明良と手を繋いで一階へ向かう。

「はーちゃんは?」

「もう食堂にいると思うよ」

「ふうん……。おこすはないの、どうして?」

「玲太郎が気持ち良く眠っているようだったから、寝顔を見ていたかったのだよね。ご免ね」

「あーちゃん、めっ。あしたはおこす?」

「起こします」

「うん」

 二人が食堂に到着すると既に食事は始まっていた。

「お早う、玲太郎」

「ちちうえ、おはよう」

「おはようございます」

「お早う、遅かったな?」

 次々に挨拶をされる間、玲太郎は明良に椅子に座らせて貰った。右斜め前にいる颯に視線を遣る。

「そうなのよ。あーちゃん、おこすはないのよ」

「気持ち良く眠っているようで、起こすに忍びなくてね」

 玲太郎の隣に着席した明良が颯を見ながら淡々と言った。

「うん、まあ気持ちは解らなくもないけど、時間は守らないとな」

「はーちゃんとよこがよい」

 俄に玲太郎が言うと全員が玲太郎を見た。明良のその悲痛な表情と言ったら哀れでしかなかったが、誰も見ていなかった。

「玲太郎は颯がよいの? どうして? 明良は嫌なのかい?」

「うーん、あーちゃんよこは、かおがないのよ」

 水伯を見ながら首を傾げて答えた。

「そう。それでは明良の顔が見えるように、次から颯と明良の場所を変えようね」

「うん!」

「えっ、こうして時折見ればよい話ではないの?」

 明良は玲太郎の顔を覗き込む。玲太郎は頭を引いて明良を見た。

「あーちゃんよこはいや」

 右手を明良の頬に当て、遠ざけようと押した。明良は激しい衝撃を受けた。

「玲太郎の希望だから、兄貴は顔を常に見えるような位置にいないとな」

 そう言った颯は微笑んでいた。二人は同時に颯を見ると、玲太郎は微笑み、明良は涙目で、些か眉を顰めていた。


 今日は畑に出て薬草を収穫していた。明良は全てを手作業で行っていて、玲太郎も見様見真似で手伝った。薬草が沢山入った箱を運んでも、不思議と重く感じず、明良と一緒に荷車と畑を何往復もした。それが終わると、明良が後ろ手に荷車をいて、空いている左手で玲太郎の手と繋いで歩いていた。

「これ、どうするの?」

「これはね、人に売るのだよ」

「ふうん……」

 玲太郎は暫く無言だったが、明良に顔を向けた。

「うるってなに?」

「お金と交換するのだよ。玲太郎の靴を私に渡して、私の手袋を玲太郎に渡して交換するような物だね」

「ふうん? あーちゃんのてぶくろ、おかねなの?」

「お金ではないね。手袋は手袋だよ。交換の遣り方を玲太郎に言っただけだからね。靴や手袋みたいに、お金という物があって、そのお金とこの薬草を交換するという話ね」

「ふうん、おかねね……」

 玲太郎なりに解釈をしているのだろう。明良はまたこうして物事を教える事になるが、それになんら抵抗はなかった。

(玲太郎は何故か毎度毎度食卓の席次を颯の隣になりたがっていたけれど、その理由が漸く判ったのは収穫だったと言えるね。素直に喜べはしないのだけれど……)

 朝食時の事を思い出し、明良は玲太郎の手を強く握った。玲太郎はそれに気付いて明良を見上げたが、直ぐに左側にいるヌトを一瞥してから正面に向き直した。

 そんな二人と一体を五体が上空から見下ろしている。

「今度は何時になったら絶叫されなくなるのであろうな」

「ハソは何時もそれであるな。何時でも構わぬではないか」

「そうなればなったで、ニムは通えなくなるものな」

「あれから結構経っておる筈なのであるが、明良も水伯も、わしを見る目が何故か冷たいからな」

「明良がそうなる事は仕方あるまいて。水伯もそうなってしまう事は当然と言えようて」

 ニムは目を剥いてハソを見た。

「わしの味方ではないのか」

「わしはわしの味方であって、誰の味方でもないのである」

 何故かしたり顔で言うと、二体の会話を聞いていたレウが横目で見ていた。

「ま、玲太郎は今の所、どうという事はなさそうであるな」

「然り。しかしながら、今までそうであったとは言えども、今度もそうとは限らぬから注視が必要ではあるがな」

「うむ。それにしても、近寄ると絶叫される事に慣れぬわ」

「それよ。今までも直ぐにせぬようになっておったから、直にせぬようになろうて」

「何故ヌトならば平気なのであろうか?」

「解せぬ。全く以て解せぬな」

 ズヤとノユが話していると、ハソが笑いを堪えていた。

「何か面白い事でも言うておったか? わしには笑える所ではないような気がするのであるが……」

 ハソはそう言ったレウを見て微笑んだ。

「考えても仕方のない事を話しうとると思うたら、笑いが込み上げて来ただけの事よ」

「わし等も最初はヌトと混同されているにも拘らず、絶叫されておったよな?」

 何故か嬉しそうに訊くニムを見たハソは無表情になった。

「如何にも。お陰でニムと離れて眺めるしかなくなった事は、今でも鮮明に憶えておるわ……」

「そうであったな……」

 二体は腕を組んで目を閉じ、古い記憶を思い起こしていた。

「わしはそのような事より、何故玲太郎が黒い玉になるのか、その理由が知りたいわ。それに、黒い玉になっておる間の玲太郎の気配を、颯が感知出来る理由もな」

「それを知ろうと毎度頑張っておるようであるが、知る事は不可能であると思うがな」

 ニムはレウの横顔を見ながら言った。ハソもレウを見る。

「颯に関しては、わしも思う所はあるのよ。何せ、透虫等と深く繋がっておるのでな。あれはわし以上であるぞ」

「それでは透虫が玲太郎の気配を感知させておると?」

「如何にも。レウは術に長けておるからそれに頼り、透虫等との会話は難しいようであるがな」

「むう……」

「レウだけではないぞ。わしも苦手よ」

「わしも苦手であるな」

 ノユとズヤも会話に入って来た。

「皆で颯に弟子入りするか」

 断られる事が目に見えている為、ハソの提案は皆に却下された。レウの持つもう一つの疑問は皆も持っていたが、思案した所で容易に答えは出ない事を理解していて、言っても詮なき事と口に出さないだけだった。

「はぁー……、何故ヌトだけ許されておるのか、まっこと不思議でならぬわ」

 ノユが大きな独り言を言い、五体は歩く二人とその傍にいるヌトを見ていた。


 以前のように、朝食後は水伯と魔術の練習を遣り、ルニリナの授業を受け、明良や颯からも色々と学び、精神的に成長して行った。しかし、やはり学校の話になると何故か拒絶する。

「あのね、僕はまだ八歳で、学校に行く必要がないと思うのよ」

 水伯が苦笑する。

「学校へは八歳になる年に入学しなければならなくてね、そういう義務があるのだよ」

「えっ! 入学しないといけないの?」

「そうだよ。学校は十年生でね、十年間通うのだけれど…」

「そんな事をしてたら十八歳になっちゃう!」

 水伯の話を遮って叫んだ。柔和に微笑んだ水伯は頷く。

「そうだね、十八歳になるね。必要なら更にその上の学校へ行け…」

「えっ! そんな事をしてたら二十歳はたちを過ぎちゃう!?」

「うん、過ぎるね」

「だったら行かない。僕、ここでルニリナ先生から習って、あーちゃんやはーちゃんからも習えばよいのよ。父上だって今まで通りに魔術を教えてくれるでしょ?」

 そう意気込んでいる玲太郎を見て、水伯は苦笑した。

「教えられる事は教えるのだけれど、話を聞いていたのかい? 義務なのだよ。行かなければならなくてね、これはどうにも出来ない、既に決まっている事なのだよ?」

「そうそう、決定事項って奴だよ」

 颯が頷くと、玲太郎が顔を顰めた。

「行かないっ! 行かないって言ったら行かないからね!」

 立ち上がると走って居室を出て行った。颯と水伯が顔を見合わせている間に明良が追い掛ける。玲太郎は寝室へ駆け込むと、折り戸を開けて鞄を出し、服を詰め始めた。後ろにいる明良がそれを見て、苦笑している。

「玲太郎、家出をして何処へ行く積りなの? 行く所がないだろう?」

「貯めたお小づかいがあるから、それで部屋を借りて一人で住むの!」

「それではイノウエ邸に住む?」

 玲太郎は手を止めて振り返った。

「あーちゃんは学校に行けって言わないの?」

 明良は微笑んでいる。

「私は言わないよ。水伯や颯は、玲太郎に同年代の子供達と触れ合って欲しいと思っているからね。私は別に思わないし、寧ろ私が玲太郎の傍にいたいからね」

「ふうん……」

 正面に向くと、手元の鞄を見た。乱雑に服が入っている。

「僕ね、学校へ行く夢を見るのよ。そこは僕達が学校の中で生活をしていてね、はーちゃんと同じ部屋で寝起きするのよ。学校では金髪の男の子と一緒にいてね、ヌトがいつも傍にいてね、あーちゃんも学校にいるのよ。でも、その夢を見た後、とってもとっても悲しくなるんだけど、どうしてだと思う? 僕は学校に行かない方がよいよっていう事を知らせてくれてると思ってるんだけど」

 明良は屈んで玲太郎を抱き締めた。

「そこまで学校に行きたくないのならば、行かなくてよいからね。あーちゃんが水伯と颯を説得してみるよ」

「本当? 良かったぁ……」

 表情は見えなくても玲太郎の声色が嬉しそうで明良は安心した。しかし、少しばかり気になった。

「その金髪の男の子の名前を憶えているの?」

「うん、ルセナ君って言うの。あのね、学校の近くに動物がいっぱいいるところがあって、そこへ遊びに行ったり、海で泳ぐ練習をやったり、後ね、うちに泊まりに来る事もあるのよ」

「そう。それは楽しそうだね。それではその子に負けない友達を作ろうと思わない?」

「それは思わない。僕は夢の中だけど、その子だけでよいと思ってるのよ」

「そうなのだね」

 明良は玲太郎を抱き上げた。すると、服や鞄が棚に戻って行き、折り戸が閉まった。

「あ……」

「あーちゃんが水伯と颯を説得するから、何処にも行く必要はなくなるから、もう片付けておこうね」

 困った顔をしていた玲太郎は表情を和らげて頷いた。付いて来ていたヌトは眉を顰めて見ていた。


 その日の夜は、玲太郎が眠っている寝室に四人が集まっていた。一人掛けの椅子に水伯とルニリナが、長椅子に明良と颯が座っている。明良から話を聞いた後、三人は一様に渋い表情をしていた。

「今まで夢は見ないと言っていたのに、今度はそうではないのだね……」

 水伯はそう言うと小さく溜息を吐き、ルニリナが水伯に顔を向ける。

「そうですね。それにしても、ルセナ君の名前を出した事に驚きですね」

 言い終えると颯を見た。

「大昔の記憶を見ているんだなあ。これは困ったぞ。外に家を用意しても、日が経つに連れて暗くなって来て直ぐに戻って来たし、学校にはやはり行く気はないし、外との交流が丸でないもんな」

「そうですね……。買い物に行く事があっても、後ろにいて店員さんとも挨拶すらしようともしませんものね」

「夢を見ると言っていたけれど、八千代さんやガーナス、それにあの子……、名前は失念したけれど、あの幼馴染だった子の夢も見るのだろうか?」

 水伯を見ていた明良は小さく首を傾げた。

「そのような事は言っていなかったね。けれど、これで完全に記憶を失っている訳ではない事が判明したから、何時か過去の事を思い出す可能性が出て来たね」

「そうだな。ばあちゃんとお父様の事を思い出す日が来るかも知れないなあ……」

「そうなると、玲太郎君が教えられている年齢ではない事を知ってしまいますね」

「そうだな。実年齢を知ったらどうなるんだろうか。それはそれで衝撃を受けそうだけど、まあ、なるようにしかならないよな」

 ルニリナと颯が目を合わせて苦笑していた。

「八万歳を超えているよ、と言った所で、本人が納得するのだろうか?」

 水伯がそう言って頬に手を当てた。

「私の日記を見せれば納得すると思うのだけれど……」

 三人が明良に顔を向けた。

「いやあ、どうせ玲太郎の事しか書いていないんだろう? そんな物を見せてどうするんだよ? 四万年分も見せるのか?」

「私が如何に玲太郎を愛しているのか、よい機会だから知って貰おうと思って」

「知りたくないと思うぞ。もう十分重いと思っている筈だからな」

 ルニリナは二人の会話を楽しそうに聞いている。

「過去を思い出すとしても、どの部分を思い出すのかが問題なのだよね。約四万年分の全ては無理だろうし、断片的になるだろうからね」

 水伯は二人の会話を気にせずに言う。明良が水伯に顔を向けた。

「それはその時にならないと判らないものね」

「まあ、四万年以上生きていますって、無理に納得させる必要もないような気がするけどな」

「突然思い出したとしても、信じられないでしょうしね」

「そうだよなあ……。夢を見たと思うだけかも知れないもんな」

 颯の言に頷いたルニリナは上体を倒して玲太郎の方に顔を向けた。

「思い出す事があったとして何が契機となって思い出すのか、それとも夢の中だけに留まるのか、その時が来るまで見守るしかありませんね」

「そうだね。夢で見て、それが鮮明に残っている時もあれば、目覚めた瞬間に忘れ去る時もあるからね。きっと今も、何か夢を見ているのだろうけれど、明朝になれば、憶えているのか、忘れているのか、訊いてみなくてはね」

 水伯が手を組んで膝に置いた。

「きっと私と楽しく過ごしている夢を見ているよ」

 三人は明良を見ると苦笑した。

「時間だけは沢山あるようだから、のんびりと気長に、……ああ、そうだ、よい言葉があった。悠長に構えて焦らずに遣って行こう」

「ふ、そうだなあ……」

 そう言った水伯を見て、颯が頷いた。ルニリナは穏やかに微笑んで颯の向こうで眠っている玲太郎を見ていた。


 四人の話し声が聞こえる中、玲太郎は夢を見ていた。

 食卓には沢山の料理が並び、正面には水伯がいて柔和に微笑んでいる。その隣にはガーナスが、更に隣には明良がいて二人は黙々と食べている。その斜め横に八千代、玲太郎の隣には颯がいて、その隣は見えないがルニリナがいる。いつぞやの光景だが、それがいつだったかは思い出せない。

(これ、いつだった? あーちゃんに聞けば分かるだろうか?)

 そう思うと明良に顔を向けた。しかし、そこには八千代が座っていた。その隣を見ると明良になっていて、正面を見るとやはり水伯だった。

(あれ?)

 自分の隣を見るとルセナがいて、ルセナが玲太郎の方に顔を向けると笑顔になる。その隣がルニリナで八千代と会話をしている。

(お祖父じい様とはーちゃんがいない? どうしてルセナ君?)

 ルセナを見て首を傾げた。

「ウィシュヘンド、ぼんやりしてないで食べろよ? このバラ寿司、本当にうまいわ」

「あ、うん」

 玲太郎はバラ寿司を箸で摘んで頬張る。爽やかな酸味と、噛む程に甘みを感じる白飯と、甘い薄焼き玉子、そして甘目に煮られた椎茸が相俟って、食べ慣れた味だがやはりとても美味しい。

「うん、おいひい」

「うまいよな」

「本当においしいね」

 頷いてルセナを見ると、ルセナの顔が光り輝いて、太陽のように眩しくなった。そうすると直視出来なくなって固く目を閉じた。

「起きた?」

 明良の声がして目を開くと、明良が覗き込んでいて目が合った。

「お早う」

「……おはよう」

「もう直ぐ六時だからね。着替えようか」

「うん」

 明良が掛け布団を捲り、玲太郎は上体を起こした。

「水伯も颯も、学校に行かなくてよいと言ってくれたからね」

「えっ! 本当? やったー!!」

 寝台の上で跳ねた。一頻り喜んだ後は用意されていた服に着替え、明良に洗浄魔術を掛けて貰い、颯の寝台で眠っているヌトに一瞥をくれ、明良の手を引いて一階の食堂へ向かう。

 そこには颯と水伯とルニリナがいて、いつものように玲太郎の一日が始まる。

2025年11月29日に書き終える

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