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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第三十八話 しかして時は無為に流れる

 玲太郎が百歳になった頃、友達はルセナだけとなっていた。百歳を迎えても、肉体的には覚醒時と変わらず、身長は三じゃく七寸のままだった。それでも水伯や明良、颯にルニリナもあの頃のままで、その中にいるとそれは特別な事ではなかったのだが、年に三度、ルセナと会うと自分が如何いかに特異な存在であるかを思い知らされる。それでもルセナは学生時代と変わらない態度で接してくれ、それがとても嬉しかった。

 ルセナはサドラミュオ親衛隊を退職してからロメロニク州にあるミミン地区に住んでいるが、生家ではなく、小さな古民家を買って住んでいた。そこには毎年一ヶ月も滞在をする玲太郎の部屋も用意されている。

 十四月一日になり、今年もその日が遣って来た。

(そろそろ着く頃だな。掃除は済ませたし、買い出しも済ませたし、後はウィシュヘンドが来るだけだ)

 あの小さな親友が来訪する時を心待ちにしていた。

 ルセナは今、父親と同職の漁師になっている。玲太郎から貰った身体強化が付与された首飾りを常時着けるようになり、老いてしまった体でも肉体労働は苦にならなかった。漁師仲間からは余りの剛腕振りに兄さんと呼ばれている。

(それにしてもこの首飾りの付与、いつまで持つんだろう? 彼是かれこれ八十年以上は持ってるよな……。効果が切れたら漁師を引退するつもりでいるのに、まだ出来ないんだよな。もしかして、生涯現役でいろという事なのか?)

 悩んでいると呼び鈴が鳴った。慌てて玄関扉を開け、笑顔の玲太郎が荷物を持っていた。

「こんにちは。今日からお世話になるね」

「いらっしゃい。待ってたぞ」

 学生時代の面影を残したままで初老の風貌になったルセナが玲太郎を見下ろして微笑んだ。扉をそのままにして居間へ向かう。玲太郎は中へ入って閉扉した。

 この頃になると、護衛は不要となっていてもヌトが傍にいた。ヌトは最近起きるようになり、一日の半分を睡眠に充てていたが、護衛の役目を買っている時に限ってはきちんと起きていた。相変わらず約一尺の大きさで玲太郎の後頭部の髪をひと房掴んでいる。

「今日はまだ船を出していないよね?」

「当然。ウィシュヘンドが来るから待ってたんだよ」

「ありがとう。それじゃあ行こうよ!」

「荷物を置いて来いよ」

「うん、行って来るね」

 玲太郎は一ヶ月世話になる部屋へ向かい、綺麗になっている様子を見て微笑んだ。机に荷物を置いて必要な物を取り出し、直ぐに居間へ向かった。玲太郎の宿泊する部屋はこじんまりとしていて、調度品は寝台と枕元の小さな棚と机と椅子、小振りの照明器具、本棚が一台という少さだったが、この家にいる時は殆どの時間をルセナと居間で過ごす為、それで事足りる。

 二人は船着き場へ向かい、真新しい船に乗り込む。

「また魔術の腕を上げたの? 去年より凄く綺麗になってるのよ」

「目立つか? 仲間からも掃除をしてくれって言われるよ」

「うーん、目立つねぇ。僕が判るくらいだもん」

「それは相当目立つって事だな」

 玲太郎は即答されて目を丸くした。

「ええっ、そこは、そんな事ないぞ、ウィシュヘンドは違いが判る男だからなって言う所じゃないの?」

「言わないな」

「ルセナ君ってば、本当に連れなくなったのよ」

 眉をしかめた玲太郎を見て、ルセナは微笑んだ。

「さあ、クミシリガ湖の沖へ出るぞ」

「いつでもどうぞ!」

 ルセナの船は回転式推進器が付いていて帆がない。これの動力源はルセナの魔力になっている。ルセナは毎日これで人がいない場所へ行き、一人で投網漁を遣っていた。しかし、玲太郎がいる一ヶ月はもっと沖へ出てタンモティッテのみを狙う事にしている。そして、船を動かすのは玲太郎だ。一日中船を走らせるだけで終わる日が殆どだが、運良くタンモティッテが釣れると水伯邸へ行き、皆で一緒に食べる事が慣例化していた。

「今年は釣れるとよいねぇ」

「毎年そう言ってるけど、ろく年に一匹釣れるかどうかだからなあ……」

 椅子に座って操舵装置を握っているルセナの横で、玲太郎は正面を向いて立っている。

「こういう時、はーちゃんがいるとよいのだけどねぇ」

「気配感知はまだ習得出来ないのか?」

「僕には無理みたい」

「それはそれは……。ウィシュヘンドにも出来ない事があるんだな」

「僕に出来ない事なんて沢山あるのよ」

「でも特級の免許は取れたよな?」

「取れたけど、そこまでの道のりが長かったからね」

「それでも俺には出来ない術を沢山習得してるだろ?」

「それはね、うん、出来た。ルセナ君が脚を切られたから習得出来たのよ」

 そう言うと首を傾げて横目でルセナを見た。ルセナはその視線で苦笑する。

「そうなのか、あれで出来るようになったのか。あの時は本当にありがとう。今も痛みは全然ないよ」

「そう? それなら良かったのよ」

 玲太郎は笑顔で頷いた。

「硬化症になる可能性があるから気を付けなさいって治癒師に言われてたけど、未だになってないんだよな」

 眉を顰めてルセナの横顔を見た。

「え、それは初耳。そんな事を言われてたの?」

「まあ、なってないから言われただけなんだけどな。骨に近い部分の肉を空気に曝すとなり易いという事は周知の事実だから、俺は運が良かったんだろうなと思う」

 玲太郎を見ながら笑顔で言った。

「本当に運が良かったんだね。このままならずにいようね」

「それは分からないけどな」

「そこは、そうだなって頷く所でしょ」

 また眉を顰めてルセナを見た。玲太郎を見ているルセナが笑いを堪えて震えている。

「ウィシュヘンドは年を取って怒りっぽくなったか? 昔はもっと穏やかだったような気がするんだけどな?」

「そう? 自分では良く解らないのよ。……僕、怒りっぽくなったのだろうか?」

 ルセナは横目で険しい表情をしている玲太郎を見て鼻で笑った。


 初日は別の魚を釣っての帰宅となった。二人はそれで夕食を作り、反省会を行う。食卓にある簡易焜炉こんろで、土鍋を使って材料を煮ていた。

「今日は釣果があって良かったわ」

「もう少し西へ行けば良かったかも知れないね?」

「俺は南へ行った方が良かったような気がする。気温がいつもより低かったからな」

「そうなの? それなら早く言ってよぉ」

「普通の魚ならそうする所だけど、大丈夫だろうと思ったんだよ。タンモティッテは水温は関係なく、あちこちを泳ぎ回っているからなあ……」

「だから中々会えないのよ。本当に難しいね」

 二人が険しい表情で見詰め合っていると、にわかに土鍋の蓋が浮き上がって湯気が立った。

「煮えてる?」

「湯気で良く見えないけど、まあこんなもんだよな。よし、食おう」

 蓋が食卓に置かれ、ルセナが焜炉の火を小さくする。それから取り皿を手にして、箸を器用に使って装い始めた。

「はい」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 笑顔で受け取り、自分の前に置いた。ルセナが装い終わると、二人で合掌して挨拶をすると食べ始める。土鍋の具が殆どなくなる頃、うどんを投入して締めにそれを食べた。それから二人で片付けをした後、茶を飲んで寛いでいた。

「明日の朝食もうどんだから、うどんが続くね」

「俺は平気だし、毎日でもいいわ。かがわはウィシュヘンドがいないと行けないからなあ」

「泊まればよいじゃないの」

「うーん、クミシリガ湖に出てる方がいいな」

「久し振りに旅行しない?」

「ウィシュヘンドはどこかへ行きたいのか?」

「そう言われると、かがわくらいしか直ぐに思い浮かばないのよ。多々羅も店を閉めちゃってるからねぇ……」

「ああ、遂に閉めたのか。後継者がいないって言ってたもんな」

「そうなのよ。兎に角、ルセナ君とまた旅行はしたいと思ってるんだけどね、行き先は決まってないのよ」

「旅行するなら漁へ行こうぜ? タンモティッテを探してる方が楽しいわ」

 笑顔で言うルセナを見て、玲太郎は残念に思った。

「そう? まぁ、タンモティッテじゃない魚群と出合うのも楽しいけどね」

 ルセナはロメロニク州に居を構えてから根を張ってしまい、遠出はもっぱら日帰りになっている。

「昔は良く旅行をしたでしょ。懐かしくなってまた行きたいと思わない?」

「うーん、懐かしくは思うけど、行きたいとは思わないんだよな。今はウィシュヘンドがかがわへ連れて行ってくれるから、それで大満足なんだよ。帰りに多々羅に寄れなくなったのは残念だけどな」

「そうなの」

「残念そうな顔をするなよ。悪いんだけど、今はタンモティッテをあわよくば釣り上げたい気持ちが強いんだよな。この約二十年毎日漁に出て、たったの五度。それも一匹ずつ。こんな事ってあるか? でもこれでも釣れてる方だって言うんだから恐ろしいよな」

「二十年? 三十年近いと思うんだけど!」

「あれ? そうだったか?」

「確か、若いのに譲るって言い出して七十六で退職したでしょ。その時、僕は七十三だよね? その僕が今百なんだから、二十七年前だよ? ほらぁ、三十年に近いじゃない」

 ルセナは目を丸くした。

「えっ、そんなになるのか……。約三十年毎日漁に出てたったの五匹しか釣ってないのか……」

「そっちに衝撃を受けるの? 二十年だと思い込んでた事に衝撃を受けてよ」

 そう言って苦笑すると、ルセナが声を上げて笑った。玲太郎も遅れて笑い出し、二人はしばらく笑っていた。玲太郎はまだ熱い茶を啜り、一息吐いた。

「でもそれを思うと、もう三十年もルセナ君と旅行をしてないのよ。これは近々行かないとね」

「この三十年でも日帰りで色々と行ってるぞ? それで十分だと思うんだけどなあ」

「え、そんなに行った?」

「和伍とか和伍とか和伍とか……」

「かがわと多々羅しか行ってないのよ。もっとこう、風景とか、歴史的な建造物とかそういうのを見たいのよ」

「ウィシュヘンドは言い出したら聞かないからなあ……」

「え、それじゃあ行く気になってくれた?」

 玲太郎が笑顔になると、ルセナも笑顔になる。

「条件を出すわ」

「無条件に受け入れようよ」

 ルセナは笑顔のままで首を横に振った。

「それは駄目だ。まず日帰りである事、次にその日も必ず漁に出る為に十時間は確保する事。この二つは必須だな」

「ええっ、日帰りなの? 日帰りは旅行じゃないのよ」

「日帰りも立派な旅行だからな。これは譲らないぞ?」

「むう……」

 玲太郎はまた茶を啜ると、湯呑みを食卓に置いた。

「十時間も漁に出るとなると、七時間くらい、睡眠時間を削ればもう少し滞在出来るね。でも時差を考慮すると、そんなにも時間は掛からないかぁ……。あ、でもでもナダール王国内なら十時間たっぷり使えるね」

 湯呑みを見詰めて呟いた。ルセナは苦笑する。

「睡眠時間を削ると翌日に響くんだから止めておけよ?」

「大丈夫なのよ」

 視線だけを動かしてルセナを見た。

「前もそんな事を言って夜更かしして、朝起きられなかったんじゃなかったか?」

「そんな事、あった?」

 首を傾げていると、ルセナが何度も小さく頷いた。

「あった、あったよ。起こしたら、はーちゃん、もう少しって言われたのを未だに覚えてるわ」

 玲太郎は顔を紅潮させた。

「そっ、そんな事は言わないのよ」

「言った言った。だから昼寝がし易いように船に長椅子を用意してあるんだよなあ。ウィシュヘンドは昼寝をしておかないといけないんだよ」

「二十四時から二十五時くらいに眠るといらないんだけどね」

 ルセナはそれを聞いて腕を組むと首を倒した。

「うーん、旅行の時はもっと早くに寝ていた記憶があるんだけどなあ……。とにかく、四歳の体で覚醒して成長が止まってるんだから、きちんと睡眠は取らないとな」

 そう言って玲太郎を見据えた。玲太郎は笑顔になる。

「その辺は解ってるのよ。大丈夫」

 だが、肝心の話を詰めようとすると、ルセナになんだかんだと話を逸らされて、結局は旅行らしい旅行は出来そうになかった。玲太郎よりもルセナの方が頑固で、「青い空に青い湖という風景が一番いいわ」と言って譲らなかった。

「あわよくばタンモティッテな」

 最後に一言を付け足して玲太郎を苦笑させていた。


 一ヶ月は瞬く間に過ぎ、玲太郎が帰る前日になった。最終日となってもやはりクミシリガ湖へ漁に出て、タンモティッテを探しに船を走らせた。

 大分沖に来ると、水面と空しか視界に映らなくなる。今日は雲がそこそこ出ているが、冬の日差しで二人は目を細めていた。

「もう二十五日かあ。ウィシュヘンドも明日には帰るんだな。今年も残り一ヶ月だぞ。一年があっと言う間に過ぎるなあ。本当に早いなあ……」

「うん、そうだね。次はルセナ君の誕生日に来るからね」

「おう、待ってるぞ」

「来年は何を作るか、もう考え始めてるのよ」

「それはさすがに早いだろ……」

「気付けばもう目前になってるもんだよ?」

「……確かにな」

 二人は笑顔で見合っていた。

 この日も釣果はあったが、その中にタンモティッテはいなかった。玲太郎は持ち手の付いた桶と自分の荷物を持ち、竿や他の荷物はルセナが持っていた。

「今年も空振りだったのよ」

「毎日漁をしてる俺ですら五六年に一度なんだぞ? そう簡単に釣られてたまるかよ……」

「釣ってルセナ君に自慢をしたいのよ」

「ウィシュヘンドの得意顔は見たくないなあ……」

「えっ、それは酷い。僕は見せたいのに」

 ルセナが鼻で笑うと、玲太郎が悪戯っぽく笑った。

「でも今日の夕食のおかずが釣れて良かったわ。途中までからっきしだったもんな」

「そうだね。でも坊主だった日は一日しかなかったもんね。ほぼ毎日釣れてたのよ。これって凄いよね?」

「うん、凄い。釣れない時は本当に釣れないからな。お陰で干物も沢山出来たな。それは持って帰るよな?」

「それじゃあ有難く貰うのよ。……あーあ、僕はタンモティッテとは無縁なのだろうか? 釣れた事なんて一度もないのよ……」

 船着場から小さな家までの道程は割と短く、たわいない話をしている内に到着した。

「あー、今月は沢山うどんを食べたから本当に満足したなあ。後はタンモティッテが釣れてたら言う事なしなんだけどな……」

「来年もまた行こうね。かがわは後継者がきちんといて多々羅みたいにならないだろうから、当分は安心なのよ」

「それじゃあ今日の鍋の締めは、うどんじゃなく、白飯にするか!」

「僕はうどんでもよいよ?」

「久し振りに白飯を食べよう。俺が炊くわ」

 二人は荷物の片付けをしながら夕食の献立を決め、片付けが終わるとその準備を始めた。

「和伍で買った土鍋は本当に大活躍だわ。買って大正解だった」

「ふふ、僕が荷物になるから買わない方がよいと思うって止めたのに、荷物になっても買うって言って買っちゃったんだよね。あれは旅行の初日だったのよ。憶えてる?」

「うーん……、そうだったか? でも五六十年前に買った事は覚えてるぞ」

「え!? もうそんなになるの? もっと最近じゃなかった?」

 白菜を切る手を止めてルセナを見た。ルセナは目を丸くしている玲太郎を見てから手を止めた。

「そうだぞ、もうそれくらい経つぞ? 俺が隊長をやっていた頃だからな。あの頃は旅先が和伍一辺倒だったんだよ」

「和伍へ行き続けてた事は憶えてるのよ。あれが五六十年前っていうのが信じられない……」

 そう言うと白菜をまた切り始める。玲太郎は当然ながら踏み台に乗っていた。

「寿命は一年ですって言われて、ウィシュヘンドが保護魔術を掛けてくれたんだよ。お陰で五六十年持ってるわ。ありがとうな」

 いつもより目線が高い玲太郎と目が合うと微笑んだ。

「あれ? そんな事をやったの? 憶えてないのよ」

 首を傾げていたが玲太郎も微笑む。

「でも役に立てたなら何よりなのよ」

 また手を動かし始めた二人は材料を切り終えると、天火で焼いたあらで出汁を取り、野菜と魚の切り身を入れた。それを食卓へ運び、簡易焜炉に載せた。


 翌朝、朝食が済んで茶を飲みながら寛いでいると、いつになくルセナが真剣な表情になっていた。

「どうかしたの? 干物が美味しくなかったの? 僕にはよい塩梅だったけど、しょっぱいのが当たっちゃった?」

「俺が作った溶液なんだから、いい塩梅に決まってる。……そうじゃないんだよ。ウィシュヘンドは聞きたくないと思うんだけどな、俺は言っておかないといけないと思うから言うぞ」

 そう改まれると、玲太郎も居直った。

「な、何?」

 下げていた視線を玲太郎に向ける。

「ウィシュヘンドが百になったから、俺も死期が近付いて来ていると思うんだよ」

 玲太郎はもう顔を顰めていた。

「まあ、そういう顔をするなよ。俺の遺産はイノウエ先生の施薬院に全額寄付してくれ」

「あれ? キリュキちゃんの孫達に残さないの?」

「うん。血の繋がりがあっても交流がないんじゃただの他人だ。それで言えばウィシュヘンドの方が余程家族だぞ。それに寄付するなら文句も言われないだろ。寄付先は閣下の孤児院と迷ったんだけど、やっぱりイノウエ先生の施薬院の方がいいかと思うんだよな。まあ、生きてる内に孤児院にと思うかも知れないから、毎年言う事にするわ」

 玲太郎がまた顔を顰めた。

「俺の身内はウィシュヘンドだけなんだよ。念の為、毎年遺書は更新しておくけど、ウィシュヘンドにもきちんと言っておくぞ」

 玲太郎は少し俯いて茶器を見詰めていた。

「土に還ったら、ウィシュヘンドの花壇に混ぜてくれよ。そしたらずっと近くでいられるからな。それに八千代さんと一緒だから寂しくないわ。後、ウィシュヘンドから貰った土産や写真も、出来たら全部燃やして、陶器とか石とかは細かく砕いて混ぜてくれよな。一緒に持って行きたい」

 俯いたままで無言の玲太郎に微笑み掛ける。

「気持ちの整理が出来ないかも知れないけど、これからも毎年十四月は楽しく過ごそうな」

 上目遣いでルセナを見た玲太郎は、暫くしてから小さく頷いた。

「人より少し長く生きるって言われてる程度だからなあ……。そろそろだとは思うんだよ。先に逝ってしまうけど、それは許してくれよ?」

「うん、それは仕方のない事だからね……」

 そう言って困ったように微笑んだ。ルセナは満面の笑みを湛えて頷く。玲太郎の微笑みは無理に作っていて、そういう表情をされるであろう事は予想したが、的中してしまうと申し訳なくも思った。

(きっと俺の前だから、泣かないように我慢をしてるんだろうな……)

 玲太郎は茶を飲み、伏し目になってルセナを見ようとはしなかった。

 一緒に十一時に間食を取り、それから玲太郎は帰路に就いたが、真っ直ぐ帰る気になれずに道草を食った。


 玲太郎の日常は、水伯と共にサドラミュオミュードがどういう条件下で枯野かれの色になるのかを検証していた。それも種から育てる為に年月は掛かるが、長寿の玲太郎には関係のない話だった。温室を広げ、その広げた場所で遣っていた。

 メニミュード改良種図鑑において、サドラミュオミュードの項目に「作り手の心が清らかでなければ薄紅に咲かない。清らかでなければ花弁の色が枯野かれの色になるとされている」と書かれていた事を検証しているのだが、土を変えても、堆肥を変えても、肥料を変えても、水を変えても、温度を変える以外にも色々試したが枯野色にはならなかった。

 帰宅後、任せ切りだった為に心配で、一目散に様子を見に行った。

「一ヶ月も留守にした程度で変わる事はないよ。それに今は花期ではないのだからね」

 水伯がいつもの柔和な微笑みを浮かべて言うと、玲太郎は苦笑した。

「そうだね。でも八十年余りやってるけど、ちーっとも枯野色にならないのよ。やっぱり心の在り方の問題なの?」

「突然変異という現象があるのだけれど、それでなければそうなってしまうね。玲太郎はよいとしても、私までもが清らかという事になってしまうのだけれどね……」

 それを聞いて鼻で笑ったヌトが口を開く。

「わしが育てた物も枯野色ではないから、心の在り方ではなかろうて」

「えっ、ヌトって心がけがれてるの?」

 玲太郎が目を丸くしていると、ヌトはそれを一瞥して目を閉じた。

「ふむ、それならばケメに育てさせてみるか? そうすれば一発で解明が出来るぞ」

「ケメ! ケメって確か、家の木に入れないから会えないんじゃなかったの?」

 目を丸くしたままの玲太郎はヌトに顔を近付けた。ヌトが目を開けて玲太郎の方を見ると意外と近くに顔があり、思わず頭を引いた。

「そうであったか? それならば無理であるな」

「ハソがこの前来て、皆が家の木に入れぬとわしに文句を言うて来るって愚痴を零してたからね」

「良く憶えておるな」

「それくらいはまだ憶えてるのよ。ヌトは生返事をしてたけどね。そうであるかとか、成程とか、聞き流してるなぁって思って見てたのよ」

「良く見ておるな」

 感心して言うと、玲太郎は眉を顰めた。

「そもそもヌトに話してた事だから、当然ヌトも見るのよ」

「そうであったか」

 水伯は会話を聞きながら微笑んでいた。

「ヌトが起きておるか確認に来たって言ってたでしょ。もしかして、来た事も憶えてないの?」

「わしはもう夢と現実の区別が付かぬからな。……若しや若しや! 今も夢の中ではなかろうか!?」

 両手で頭を抱え、周りを見回した。

「また取り乱してるのよ……。これは現実。最近は毎日きちんと起きてるんだからね?」

 玲太郎が苦笑していると、ヌトは直ぐに元に戻り、冷静になった。

「そうであるか。夢でないのならばよいのよ」

 安心したのか、表情が和らいだ。

「学校卒業してからずっと眠ってたもんねぇ……。もっと眠ってるのかと思ったのに、早く起きて来ちゃって驚いたのよ」

「夢の中で颯に怒られたのよ。お前の視線が鬱陶しい、とな。酷いであろう? その直後に視界が真っ暗になって、それで頭に来て目を開け、颯の所へ文句を言いに行ったのであるが、もう起きたのかと言われたのよ。それも笑顔で言われたのであるぞ。わしは思わず釣られて笑顔になってしもうたわ」

「その話は数え切れないくらい聞いたのよ。それでその後、俺より玲太郎の傍にいてやってくれよなって言われたんでしょ?」

「そうなのである! わしは先を越されて頭に来たのであるが、瞬間移動で逃げられてしもうて、それはもう心底から悔しゅうて悔しゅうて……」

 本当に悔しそうなヌトを見て微笑む。

「僕の傍にいてくれてありがとうね」

 満面の笑みを湛えた玲太郎に言われ、ヌトも笑顔で「うむ」と頷いた。

「夢を見始めた頃を思い出せるし、玲太郎と一緒におると心が穏やかになるからな」

 一人と一体は笑顔で見詰め合っていた。蚊帳の外にされている水伯は無言だが笑顔でそれを眺めていた。

「兎に角、突然変異が見られるまでやり続けるしかないの? 父上でもそんな物はなかったから、見られるまでまでやり続ける?」

「わしはそれでよいと思う」

「それでは突然変異が現れるまで、頑張るとしますか」

「はーい」

 元気良く返事をした。二人と一体は温室を後にするが、水伯は玲太郎の空元気に苦笑していた。


 八千代が亡くなってから、夕食は玲太郎が颯と一緒に作っていた。颯がいない時は明良が代行する。玲太郎は寮生活を思い出せ、とても嬉しい時間となっている。しかし、今日はそうではなかった。

「ルセナ君と喧嘩でもしたのか?」

「父上はそっとしておいてくれるけど、はーちゃんは訊いて来るよねぇ……」

 そう言うと口を尖らせ、人参を切る。

「気が利かずに申し訳も御座いません。……それで?」

 玲太郎は手を止め、人参を見詰めながら言われた事を話す。それが終わって颯を見ると、颯は優しく微笑んで手を広げた。玲太郎は踏み台から下りて抱き着いて行った。

「辛いな」

 優しく叩かれる背中が心地好くて落ち着ける筈なのだが、逆に我慢していた物が溢れて来た。颯は玲太郎を抱き上げて背中をさすった。

「前以て言われて理解していても、それで覚悟が出来ていても、その時が来たらそんな物は吹っ飛ぶんだよなあ……」

 玲太郎が泣き止んだ頃、そう呟いた。玲太郎はその言を聞いて八千代が亡くなった時の事を思い出した。八千代が土に還った途端、一番泣いた人物は颯だった。それも号泣する程で、我慢していた明良も嗚咽を漏らして涙し、皆一様に我慢出来ずに涙した。

 颯の腕に力が少し籠もると、玲太郎もそうした。暫くそのままでいたが、玲太郎が完全に泣き止んでいて、颯は踏み台の傍へ行き、その上へ玲太郎を下ろす。

「兄貴に泣いた事を気付かれないように、目の周りは冷やしておこう」

 俄に目の辺りが冷たくなった。

「ありがとう」

「どう致しまして」

 玲太郎の頭を乱雑に撫でると、まな板の前に戻って白菜を切り始めた。玲太郎は颯の横顔を見ていると、先程思い出した事で複雑な心境になった。

(今日は眠れるだろうか……)

 不安に思いながら切り掛けの人参に視線を遣り、また切り始めた。随分と手際が良くなっていて、小さな手から繰り広げられる音とは思えないような小気味良い音が響いている。


 玲太郎は変わらず颯と入浴を共にしている。そして入浴後から明良が玲太郎に密着する事も変わっていなかった。変わった事と言えば、「僕はもう何歳なのよ」という一言をいつの間にか言わなくなっていた事くらいだろうか。

 ヌトの生活習慣が一般的になってからも颯が使っていた寝台で眠り続けている。玲太郎はその隣の寝台で眠り、明良は玲太郎が眠るまで傍にいて、水伯が夜中に玲太郎を起こして厠へ行き、その後は水伯の寝台で一緒に眠る。夏の間は颯が泊まり込んで交代していた。そして、朝は水伯と共に朝食を作る。

 玲太郎の日中は勉強をしたり、読書をして過ごしたり、植物の世話をしたり、ヌトとウィシュヘンド州のどこかを巡回をしたりと長閑に過ごしていた。

 十五月に入り、水伯邸は雪に閉ざされる事もなく、玲太郎が融雪隊を一人でこなしていた。

「玲太郎も宙に浮く事が板に付いて来たようであるな」

 厳密にはヌトも一緒だった。

「そう? でもやっぱり足が地に着いてる方がよいのよ。踏み台最高ね」

「解かす場所は屋敷の周りと北の畑だけであるな」

「うん、他は自分達でやるでしょ。仕事を奪ったらいけないのよ」

「成程」

 玲太郎は上空に浮かんだままで曇天を眺めていた。

「昔はどうしてあんなにも高い所が怖かったんだろうね?」

「そうであったか? 玲太郎は甘えん坊であるからな、誰かに甘える為に遣っておった可能性も少なからずあるのであろうて」

「違うのよ。本当になんだかとても怖かったのよ。今ではなんとも思わないんだけどね。不思議だよね」

「ふむ、そうなのであるか。些か時は掛かったようであるが、今ではこうして飛べておるのであるから、誇るが良かろうて」

 自分の言に何度も頷いたヌトは動きを止めた。

「それにつけても、わしはあの頃、きちんと起きておったか? どうしても夢のような気がしてならぬのよ」

 玲太郎に顔を向けると、玲太郎は笑いを堪えている表情でヌトを見ていた。

「あの頃はね、僕が起こすと、これは夢であるとか、起きねばならぬとか、夢の中なのに思い通りにならぬとか言ってたのよ。僕は時々、夢だよって言うの。そうしたらもうね、やはりそうであったか! って言ってじょう舌に語り出すのよ。おかしいよね」

 笑いを堪えて震えながら言った。ヌトは不機嫌そうに眉を顰めた。

「何もおかしくはないのであるが」

「もう百年単位で寝起きするのは止めようね。そうじゃないと、また夢の中を彷徨さまよう事になるのよ。ヌトの兄弟は起きてても一ヶ月くらいって言ってたのよ」

「む、そのような話を何時いつ、誰としたのよ?」

「いつって、ノユとかズヤとかハソとかとしたのよ。レウはいつ以来会ってないのだろうか?」

「成程? ニムが仲間外れかよ」

「後、シピとケメね」

「ああ、おったな」

「兄弟でしょ? 忘れたら駄目じゃない」

「ケメは死んだも同然よ。もう会えぬと思うておる。実際は会いとうないのであるがな。ケメが反省をして出て来る事はなかろう、とわしは思うておるのよ」

「シピは?」

「シピはな、わし等が邪魔なのよ。わし等の父はチムカと言うのであるが、シピはチムカを独占したいのよ。それは幼少の頃から変わっておらぬな。……そうであるな、明良が玲太郎を独占するのと同様であるな」

「ああ……、理解出来ちゃった……」

 思わず苦笑する。

「立派な病よ。治らぬわ」

 シピの事を言っている事は理解出来たが、あたかも明良の事を言っているようで笑った。一頻ひとしきり笑って落ち着くとヌトを見る。

「久し振りにレウの所へ行こうよ」

何故なにゆえよ? ……ま、わしは別に何方どちらでもよいが」

「今の僕なら結界を壊さずに済みそうだからね。それに万が一失敗しても、雪が沢山積もってて、近くに人がいない筈だから平気なのよ」

「その前に魔術の練習を遣らぬか」

 玲太郎は不敵に微笑んでヌトを見詰めた。そして、そのままレウの家の木を目指す。

「おい、待たぬか!」

 慌てて追い掛ける。玲太郎の速度はヌトが本気を出せば追い付ける程度だが、それをせずに玲太郎の後ろ姿を見ていた。玲太郎は追い付かないヌトを焦れったく思い、途中で止まって待った。ヌトは玲太郎の後頭部に髪を一房掴む。

「行ってよいぞ」

「ヌトはそうやって直ぐ怠けるよね」

「こう遣ればわしの事なぞ気にせず、玲太郎の好きな所へ行けるぞ?」

 玲太郎は苦笑するとレウの家の木に向かわず、方向を転換した。行き先はツェーニブゼル領のヤニルゴル地区だった。村の外で着地して歩いて中心地へ向かう。雪が解けている場所と残っている場所があり、寒い中、外に出ている動物もいた。

 中心地にある小屋へ入り、暫くしてから出て来ると村を見て回った。外に出ている動物は少なくても、玲太郎はそれを見てはいなかった。


 水伯邸では玲太郎が昼食前にまだ戻って来ずに明良が心配そうに居室内を徘徊していた。

「直に戻って来るから、落ち着いてくれないかい?」

「また音石を持って出て行かなかったのだよ? 心配ではないの?」

 明良は苦笑している水伯に食って掛かる。

「体は小さいけれど、もう百歳だからね」

「百歳でも精神的にも成長しないではないの」

 玲太郎は百歳という大台に乗っても子供らしい所が多分に残っているのだが、それは時折幼児退行を起こした後、精神年齢が肉体年齢に近付いてしまう為だった。それが起こる間隔はその時々で変わり、最短で約三年、最長で約十年となっている。そして、その間の記憶が残る事はなかった。

 喜んではいけない事だったが、これを大歓迎していたのは明良だった。幼児退行の直後から、年齢的には抱き上げる事を拒否しても、いざされてしまうと溜息を吐きながらでも許容してくれるようになるからだった。その代わり、水伯や颯に甘える所を見せ付けられる事もあり、不愉快極まりない気持ちにされる明良だった。

「厳密に言えばそうではないだろう? 成長はしているだろうに」

「成長しても戻ってしまうのだよ? 成長していないも同然だよ」

「戻ると言っても精神年齢が幼くなる程度で、勉強した事の中には身に付いている事もあるのだけれどね。そうは言いつつも、その事を一番歓迎している明良が、玲太郎の精神的な幼さを言う事はどうかと思うよ」

 明良は些か眉を顰めた。

「……そういう事は今は関係がないのだよね。玲太郎が帰っていない事が問題なのだよ? 連絡手段もないし、このまま何かがあって帰って来なければどうする積りなの?」

「私は印が入っているから、ヌトとならば連絡は取ろうと思えば取れるからね」

「それならば連絡を取って直ぐ帰るように言って貰えない?」

 水伯は苦笑するばかりだった。しかし、それも直ぐに変わる。その表情の変化に、明良は些か眉を寄せた。

「何?」

「帰って来たよ。叱らないようにね」

 明良は無言で退室した。玲太郎は瞬間移動が出来ない為、大抵は玄関から入って来る。明良が待ち受けている頃、玲太郎は西棟の温室前にある出入り口から入って来ていた。そして昼食後、拗ねた明良の機嫌を取らざるを得なくなってしまい、明良は機嫌が直るまで玲太郎を抱き締めていたが、玲太郎は文句も言わずに堪えた。


 二階の執務室の扉を二度叩こうとする。

「どうぞ」

 先に言われて開扉すると顔だけを出した。

「今日、魔術の練習を遣ってないのよ」

「そう。それで?」

「それでね、付き合って欲しいのよ。よい?」

「うん、よいよ。それでは行こうか」

 二人は北の畑へ、飛ばずに向かう。曇天で薄暗い中、二人は無言で歩いた。ヌトは玲太郎の髪を一房掴んで引っ張られていた。

 いつもの場所へ到着すると、玲太郎は笑顔で水伯を見上げた。

「練習は何を遣ればよいの?」

「決めていないのかい? ……それではメニミュードの改良を遣ってみようか」

「改良! メニミュードは難しいのよ……」

 水伯は柔和な微笑みを浮かべ、玲太郎の傍で屈んで目線を近付けた。

「何か話があるのだろう?」

「うん? ……うーん。そうなんだけど、父上は仲の良かった友達が亡くなった時、どうやって乗り越えたの?」

「そう来るのだね、成程」

 真顔で頷くと、視線を遠くへ投げた。

「正直に話すのだけれど、親しい人の事はもう殆ど記憶にないのだよね。亡くなった時、悲しかったのかとか、泣いたのかとか、そういった事は憶えていなくてね、イノウエ家の初代とは仲が良くてずっと一緒にいたのだけれど、その中でも楽しかった思い出や、何気ない日常が残っているだけなのだよね。一番印象深かったのは、一朗太は目族の人と結婚したのだけれど、求婚する際に目族の習わしでメニミュードを贈るという物があってね、それを採りに付き合わされた事だね。ね、どうでもよい事だろう?」

 苦笑しながら玲太郎に顔を向けた。玲太郎は眉を顰めている。

「その頃はもう、親しかった人が何人も亡くなってたでしょ?」

「うん、そうなるね」

「最初に親しくなった人の事は憶えてるの?」

 柔和に微笑むと首を横に振った。

其方そちらはもっと憶えていないね。最初の頃にしろ、一朗太にしろ、親しくても友達だと思った事は一度もないのだけれど、それでも参考になるかい?」

「えっ、友達じゃなかったの?」

「私が幼かった頃に親しくなった人はね、私を神と崇め始めた家の子なのだけれど、命の恩人でもあってね、私はその子の恩に報いる為、その家に残っていたのだよ」

「うんうん、それで?」

 急かす玲太郎に、思わず微笑んだ。

「それで、よいように扱き使われた挙句にその家を出奔したのだよ。綺麗な思い出を黒く塗り潰されてしまったような物だから、大した思い出もないね」

 玲太郎は落胆して俯いた。

「そうなの……。それは悪い事を訊いてしまってごめんなさい」

「それは構わないよ。そういう事があったからこそ、一朗太と出会ったのだからね」

 顔を上げて水伯を見た玲太郎は不思議そうにしている。

「イノウエ家の初代ね。その人は友達じゃないなら、なんだったの? どういう立ち位置の人なの?」

「一朗太は家族だよ。それこそ玲太郎のようにね」

「そうなの。それじゃああーちゃんとかはーちゃんも?」

「颯は友達だね。小さい頃にね、友達になろうと言ってくれてね、それでなったのだよ。……けれど、明良は違うね。あの子が線を引いているから、其処へ入り込まないようにはしているね。明良からすると、私の事は、小さい頃から知っている気の置けないお兄さんなのだろうね」

 玲太郎は顔を顰めて首を傾げた。

「そう? あーちゃんははーちゃんよりも父上との方が親しく見えるけどね……」

「明良と颯は兄弟だし、通じ合っている物があるからね。私との間にはない物だよ」

「ふうん……。僕はあーちゃんと通じ合ってないような気がするんだけどなぁ……」

「あはは、確かに。明良の一方通行だよね」

 楽しそうに言うと、玲太郎は苦い表情になった。

「ルセナ君に何か言われたのかい? そろそろ死ぬだろうというような、八千代さんが良く言っていたような発言をしたのかい?」

 玲太郎は目を丸くして水伯を見た。

「どっ、どうして解ったの?」

「解った訳ではないのだよね。当て推量という物だよ」

「やはり年の功……」

「ふふ、誉め言葉を有難う。そうなのだね、ルセナ君もそういう年齢に達したのだね」

 柔和な笑みを浮かべて玲太郎を見た。玲太郎は水伯の珍しい表情を見て、思わず見入ってしまったが、直ぐに我に戻った。

「ルセナ君は百三歳なんだけどね、ルセナ君の魔力量なら百三十歳前後は生きるって、ルニリナ先生が言ってたのよ」

「そう。ニーティが言うのであれば、そうなのだろうね」

 思わず伏し目になり、俯いた玲太郎は溜息を吐いた。

「でも三十年なんて、あっと言う間なのよ。学生だった頃なんて八十五年以上前なんだからね。いつの間に経っちゃったの? っていう感じで、もう三十年しかないのよ。でもルセナ君にはその話をしてなかったんだけど、そしたら昨日、死期が近付いて来てると思う、死後の事を頼めるのは僕しかいないって、そういう事を言われちゃったのよ……」

「八千代さんもそういう感じだったよね?」

 険しい表情を少し和らげた玲太郎は首を傾げた。

「うん? そうだった? 僕は良く憶えてないのよ……。お祖父じい様に何年以内に死ぬみたいな事を言われたのは憶えてるんだけどね」

「八千代さんは、そろそろ死ぬだろうから、土に還ったら玲太郎の花壇へ撒いて欲しいと言っていたね。八千代さんが持っていた悠次の遺影を明良と颯が取り合っていたような記憶もあるのだけれど、あれは亡くなった後だったのだろうか? 前だったのだろうか?」

「そんな事あった?」

「あれは玲太郎が眠った後でいなかったのだろうか? 確か、そのような事があったのだよね。同じ物を念写すればよいではないの? と言ったら、あの時に作った物はこれだけだからと言って二人共が譲らなかったのだよね」

 玲太郎は興味津々な様子で表情が明るくなっていた。

「へぇ、そんな事があったなんて知らなかったのよ。それでどっちが持って行ったの?」

「明良だね。颯は悠次の遺品を色々と持っているだろうと言われて、言葉に詰まっている所を矢継ぎ早に攻撃されて終了だったよ。颯のあの悔しそうな顔は初めて見たね」

 楽しそうに話すと、ふと真顔に戻った。

「いけない、話が逸脱してしまったよ。ご免ね」

「うん、よいのよ。初耳の話だったからね」

「それで、ルセナ君にそういう事を言われて、玲太郎としてはどうしたいの?」

「どうしたいって言うか、まだそこまで気持ちが向いてないのよ。それで、父上はどうだったのかと思って、親友が亡くなった時の事を訊こうと思っただけなのよ」

「親友はいるのだけれど、颯だからね。颯が亡くなる頃、私が生きているのかどうかが問題だよね」

 この言に玲太郎は驚き、また目を丸くした。

「えっ、はーちゃんが親友なの? はーちゃんはルニリナ先生じゃないの?」

「親友が一人とは限らないよ?」

「えっ、そうなの? 僕は一人だけなのよ」

「では颯に訊かなければならないね? 私は親友ではないと判ったら、私はどうしたらよいのだろうか?」

 玲太郎は顔を顰めた。

「父上は今日、話が良く逸れるよね」

 水伯は楽しそうに「ふふふ」と笑うと立ち上がった。

「そうだね。今日は良く逸脱するね。ルセナ君の事は、玲太郎が能々よくよく考えて答えを出せばよいのではないのかい? 誰かの話を聞いて参考にする事はせずにね」

「えー、どうしてそういう意地悪を言うの?」

「玲太郎の性格では何をどうしていても大抵は悔いが残るからだよ。ガーナスの時も、八千代さんの時もそうだったよね」

 そう言われて口を噤んだ。少し間を置いて水伯を見る。

「……だからルセナ君の時は後悔しないようにと思ってるのよ」

「それでは一ヶ月の滞在を延ばすか、会う機会を増やすか、そういう風に一緒にいる時間を増やすしかないね?」

「でもそうしたらルセナ君が嫌がりそう……」

「それは一人で考えなさい。私では手に負えないからね」

「えー、一緒に考えてよぉ」

「玲太郎、悔いが残る時は何を遣っていても残るのだよ。悔いを残さない為には、自分の中でこれでよいと折り合いを付けて行くしかないのだからね。納得する事が大切なのだよ」

 水伯は玲太郎を見ず、真っ直ぐ正面を見ていた。玲太郎はそれを見上げていて、これ以上何を言っても無理だと悟り、何も言わなかった。


 玲太郎は明良の授業を受けていて、復習帳を手元に置いていたが呆けていた。明良はそれを見ても注意しなかった。

(物憂いそうにしている玲太郎も可愛いね)

 暢気に見詰めていた。暫くその状態が続いたが、俄に玲太郎が明良に顔を向けた。

「あーちゃん」

「何?」

「あーちゃんはばあちゃんが亡くなった時とか、お祖父様が亡くなった時とか、悔いは残らなかったの?」

「ばあちゃんは黄昏れ時に自分の時間を沢山取れて、満足だったと思うから悔いはないね。お父様は、思いの外長生きしたし、満足そうだったから同様だね」

 淡々と言われてしまい、眉を顰めた。

「玲太郎はばあちゃんの時も、お父様の時も、ああしていれば、こうしていれば良かったと良く言っていたけれど、そういう事を言い出したら切りがないからね」

「あーちゃんも父上と同じような事を言うんだね」

「水伯はどう言っていたの?」

「何をやっても後悔する時はするから、これでよいと折り合いを付けて行くしかないって。納得する事が大切だって言ってた」

「それはそうだよね。一切していないのなら後悔して当然だと思うけれど、玲太郎はしているのだからね。それもその時に出来る事をね。だからそれでよいと思うのだけれど、玲太郎はそうではないのだろう? ばあちゃんに刺繍を習って一緒に過ごしたし、お父様とは週に一度でも一緒に食事をしていたのだから、私は後悔する事などないと思うね」

「それはもうよいのよ。何年も後悔したからね。でもね、問題はルセナ君なのよ。死期が近付いて来てるって言い出して、僕に後の事を頼むって託して来たのよ。それでルセナ君と一緒にいる時間をもう少し取ろうかどうしようかと…」

「え! 一ヶ月も一緒に暮らしているのだから、それで十分だよね? 十四月は二十五日あるのだよ? 月に一度以上会っている事になるのだから、それで十分だよね?」

 明良が驚愕して目を丸くしている。玲太郎はそれを見て笑いたくなったが堪えた。

「あーちゃんははーちゃんと一緒に暮らしてるでしょ。それに父上と毎日会ってるじゃない」

「家族と友達を同列に語るのは違うのではないの?」

「そう?」

 明良はふと何かを思い出すと、玲太郎はそれを表情で読み取った。

「どうかしたの?」

「ほら、玲太郎には友達がもう一人いたよね。あの子の時は、ばあちゃん達みたいに後悔していなかった記憶があるのだけれど、それは何故なの?」

「エネンドね」

 険しい表情で言うと、直ぐに悩む。

「そう言われると、エネンドの時はそんなに思わなかったような気がするね。どうしてだろう?」

 視線を窓の外に遣り、漫然と眺めながら思い出そうとした。明良は玲太郎と勉強机を挟んで対面していたが、それが邪魔で仕方がなかった。暫く沈黙が流れ、玲太郎の横顔を大人しく見詰めていた明良は同様に窓の外へ視線を遣った。

「玲太郎の中で、ルセナ君はもう家族になっているのかも知れないね。だから悩むのだろう」

「ルセナ君も、身内は僕だけだって言ってた。それじゃあもう少し顔を出すようにする。その方が僕も安心だからね」

「若しかして、私と一緒にいる時間を削る積りなの?」

「それじゃあはーちゃんと交代して、僕と毎日夕食作る?」

 明良は無表情で一呼吸置いてから微笑んだ。

「それは颯に任せておくよ」

「ふうん……。料理も楽しいのに」

 明良が満面の笑みを浮かべる。

「やはり料理するより、食べる方がよいよね」

「両方遣ればよいじゃない」

「玲太郎と一緒に作る事は魅力的なのだけれど、出された物の中で、玲太郎が料理した物はどれだろうかと探す事が楽しみの一つなのだよね」

 玲太郎は不快そうに顔を顰め、頬杖を突いて溜息を吐いた。

「そういう事を言って、結局料理したくないだけなんだよねぇ……。あーちゃんの料理も美味しいのに、勿体ないのよ」

「ふふふ」

 そう笑うだけで、何も言わなかった。

 決心した玲太郎はルセナとはたまに音石で連絡を取ったり、月一の文通も欠かさず遣っていたのだが、その上、最低でも月に三度は顔を出すようになった。最初こそ困惑していたルセナだったが、それが続くと楽しみにしてくれるようになったがそれは少し先の話。


 一ヶ月も留守にしていた玲太郎と接する事が途絶えていた明良は、玲太郎が帰ってから一緒にいられる時は常に傍にいた。

「あーちゃん、そろそろ午後の仕事の時間じゃないの?」

 明良は仕事の殆どを人に任せていたが、水伯同様に報告書には必ず目を通していた。

「もう少し一緒にいるね」

 勉強部屋兼図書室の長椅子に並んで座っていたのだが、いつものように密着していて、玲太郎としては明良が些か邪魔だった。

「あーちゃんは何年経っても僕が好きなんだねぇ……」

「嫌いになる時など来る訳がないだろう」

「だからこんなにくっ付いてるの? もう少し離れてくれない? 僕としてはもう少し離れて欲しいのよ」

「嫌です」

 即答されると苦笑した。

「僕が縮こまっちゃうじゃない。読書し辛いのよ」

「それでは私の膝に乗る?」

「乗らない」

 今度は玲太郎が即答した。明良は悲愴な表情になった。

「昨日沢山抱っこしたでしょ。あれで当分は我慢してよね」

「あれだけでは全く足りていないに決まっているではないの」

 何故か得意満面に言った。玲太郎はいつもの事ながら脱力した。それ以上は何も言わず、読書を再開した。明良は抱き締めたい気持ちを必死で堪え、その姿を唯々見ていた。

 ヌトは机に横たわって腕枕をし、そんな二人を見ていた。

(明良も飽きずに良う遣りおるな。全く……、心底感心するわ)

 メニミュード改良種図鑑を見ている玲太郎に視線を遣り、暫くして仰向けに寝転がると天井を眺めた。


 風は凍て付く程に冷たく、雪が深くなった頃に新年を迎えた。水伯や明良は休日なのに颯は仕事をしていて、夜にしか顔を出さずにいつも通りだった。

「もう直ぐ百一歳になるんだけど、そんな気が全然しないのよ」

 焼き菓子を頬張った水伯がそう言った玲太郎に視線を移した。明良は茶器を受け皿に置いてから玲太郎を見る。

「唐突にどうしたの?」

「僕が百歳っていうのが信じられないなと思って」

「私は百十二歳、直に百十三歳になるよ?」

「二十三日が誕生日だよね。きちんと憶えてるからね」

「有難う。楽しみにしておくね」

 満面の笑みを湛えた。玲太郎も笑顔で頷く。

「あーちゃんも百十三歳だけど、それだけ年を取ったっていう実感はあるの?」

「ないね」

 即答すると、水伯が「ふふ」と笑った。二人は水伯を見る。

「それも直ぐにどうでも良くなるよ。気付けば五百を過ぎていて、たちまち千という大台に到達してしまう物なのだよね」

「ふうん。それじゃあ百一歳で疑問を持ってたら駄目だね」

「それは構わないのではないの? 納得出来る出来ないにも拘わらず年を重ねているというだけの事だからね。体感速度が違うのだから、時の流れに頭が付いて行けなくても仕方がないね」

 玲太郎は上目遣いで明良を見ていて、首を傾げた。

「でも僕、精神的に成長していないような気がするのよ。百歳なら父上みないになっててもよいよね?」

「玲太郎はゆっくりと成長すればよいのだよ。そう思わず、悠長に構えていようね」

 そう言った水伯に顔を向けると頷いただけだった。玲太郎の表情をつぶさに見ていた水伯は、自分が通って来た道を歩んでいる玲太郎と、その頃の自分を重ねていた。

(どうやって折り合いを付けて行くのだろうね。……私の場合はどうだっただろうか。つい昨日の事のようで、遠い昔の事だから憶えているようでいて、憶えていないのだよね)

 柔和に微笑んで玲太郎を見詰めていた。明良はそんな水伯を見てから、茶器を手にして少し湯気の立っている茶を口に含んだ。

 焼き菓子を一口程の大きさに切り分け、頬張った玲太郎は焼き菓子を見詰めていた。

「今日のは、なんだか歯応えがあるね。もう少し軟らかい方がよい気がするのよ。泡立て方が悪かったのだろうか?」

「粉が多かったのだろうね。だから目分量は駄目だと言っただろう?」

 明良が苦笑する。

「だって、慣れたから大丈夫だと思ったのよ。でもこれで駄目って事が解ったから次からは必ず量るね」

 微笑んで言っていたが、明良には頭頂部しか見えなかった。表情が見えない事が多くても隣にいる事を選んでいる為、時折それを残念に思っていた。


 夕食後に颯が焼き菓子を食べていると、玲太郎が直ぐ傍にいて頬を緩ませていた。

「そんな所にいないで座れよ」

「うん」

 返事だけで動かなかった。玲太郎の右腕が颯の左腕に当たっているが、全く気にしていないようで、寧ろ意図的にそうしているように見える。

「この焼き菓子に何かあるのか?」

 玲太郎に顔を向けた。玲太郎も颯に顔を向ける。

「なんで?」

「玲太郎が作ったんだろう?」

「うん、そうなのよ」

「何時もと違って、なんだか食感が違うな? それでそう遣って見ているのか?」

「そういう訳じゃないんだけど、ね。でも今日は確かに硬目なのよ」

「失敗したのか?」

「うん」

「へえ、珍しいな。兄貴が傍にいたんだろう? それなのに失敗したのか」

「あーちゃんの言う事を聞かなかったのよ」

「今頃反抗期が来たのか?」

 そう言うと、恨めしそうに見ていた明良に視線を遣った。明良は颯の正面に座っている。

「そうじゃないのよ」

 玲太郎は苦笑していたが、颯は見ずに焼き菓子を頬張って咀嚼していた。

「料理は目分量で行けるから、お菓子もそうなのかと思ってやってみたのよ。あーちゃんには止められたんだけどね」

「ふうん」

「硬いけど、味は美味しいでしょ?」

「味は確かに美味しい」

 横を向くと玲太郎が笑顔で見ていたようで目が合った。颯も微笑むと、明良の恨めしそうな表情が険しくなった。

「玲太郎、其処にいないで此処に座ったら?」

 明良が自分の隣の椅子の笠木に手を置いたが、玲太郎は微笑んで首を横に振る。

「座らない。ここにいるのよ。今日はもうあーちゃんとずっといたからね」

「ずっとではないよね?」

「ずっとだよぉ……。まさか厠でいなかった時間があるからずっとじゃないって言ってるの? それはなしだからね」

 そう言いながら、颯の左腕を持ち上げて自分の肩に掛けた。

「食べ辛いぞ」

「いひひひひ」

 悪戯っぽく笑い、明良を一瞥する。

「あーちゃんがそれを遣るから此方こちらに来ない?」

 透かさず笑顔で言うと、玲太郎は首を横に振った。

「はーちゃんがよいのよ」

 一瞬で明良の表情がなくなったが、そんな事に見向きもしない颯は食べ進めていた。玲太郎は明良の表情を見て満足そうに笑みを浮かべていた。


 玲太郎は入浴するまで明良の機嫌を取っていた。正確には明良の機嫌が直るまで抱き締められているだけなのだが、颯は水伯の執務室へ行っていて二人切りで窮屈な思いをしていた。

「あーちゃん、そろそろ」

「まだ駄目」

「……」

 玲太郎は脱力して、明良に抱き締められていた所へ颯が入室して来ても、明良は玲太郎を解放しなかった。

 颯はこうなる事を見越して先に本を手にしていた。対面の長椅子に座って読書をする。図書室兼勉強部屋は、今や玲太郎のお気に入りの本ばかりが並んでいた。

「はーちゃーん……」

「うん、もう少し待つよ」

 素っ気なく返事をすると、助けを求めた玲太郎は不満そうな表情になった。

 五十分後、颯が音を立てて本を閉じると立ち上がり、本を戻しに行った。直ぐに傍へ来ると玲太郎は気怠そうに颯を見た。

「それじゃあ風呂に入るか」

「解った。あーちゃん」

 明良は無言で解放した。玲太郎は力なく颯の傍へ行くと抱き上げられた。玲太郎は颯の首に抱き着いた。

「さて、行くか」

「うん……」

 こういう時はいつもこうだった。颯は優しく玲太郎の背中を擦りながら退室した。静かな廊下を歩き、階段を下り、一階にある浴室へ向かう。脱衣所に到着すると下ろされた玲太郎は無言で立っていた。颯は玲太郎の服を脱がす。

「ありがとう」

 一人で先に浴室へ向かった。

 二人で湯船に浸かり、たわいない話をしていると玲太郎が湯面ゆおもてを叩いた。飛沫が顔に掛かったが、颯は拭う事もしなかった。

「聞いてないのよ!」

「今言ったからなあ」

「どうして父上だけなの? 僕も連れてって欲しいのよ!」

「兄貴がいるだろう?」

「い・や!」

「兄貴と留守番をしていてくれよ」

「や・だ!」

「玲太郎が来ると兄貴も来るだろう?」

「それでいいじゃない」

「水伯と俺にも偶には休養が必要だと思わないか?」

「だからぁ、一緒に連れて行ってくれてもよいと思うのよ」

 颯は苦笑すると首を横に振った。玲太郎はそれを見て悲しそうな表情になる。

「はい、泣き真似禁止」

「真似じゃないもん。本当に悲しいんだもん……」

「ふうん……」

 ルツが玲太郎の周りを跳ねながら泳いでいる。

「ツーとルーが餌をくれって言っているぞ?」

「僕、今泣きそうだから無理……」

「そんな顔をしても連れては行かないからな」

「……どうしても? 泣いちゃうよ? 涙を流しちゃうよ? ううっ……」

 小さく溜息を吐き、玲太郎を見据えた。

「玲太郎はルセナ君と一ヶ月も過ごしたのに、俺にはそうするなと?」

「……はーちゃんは父上と毎日会ってるじゃない。ルセナ君と僕は違うんだから、一緒にしたら駄目なのよ」

「親友との旅行を止められるとは思わなかったよ」

「親友! はーちゃんって父上と親友なの? はーちゃんの親友はルニリナ先生でしょ?」

 悲しい気持ちが綺麗に消え去ってしまい、素になって話していた。颯はおかしくなって来たが、笑いは堪えた。

「いやいや、玲太郎が決めるなよ。水伯と俺は親友なんだぞ?」

「年齢差が二千歳もあるのに?」

「それで友達になれないなんて、偏見だからな?」

「でもはーちゃんの親友はルニリナ先生でしょ? 違うの?」

「合っているよ。ニーティも親友だけど、水伯も親友だよ」

「ええ? 父上と親友はないでしょ?」

「ないでしょと来たか」

 笑いを堪えながら言うと、玲太郎は眉を吊り上げた。

「うん? ないない。父上と親友はないね」

「水伯と俺の事なのに、どうして玲太郎が断言が出来るんだよ?」

「だってこの百年、そんな話を聞いた事が一度もないからね。はーちゃんが父上と親友だったなら、僕が知ってないとおかしいのよ」

 大真面目に言い切った。颯は腕を組んで首を傾げた。

「今まで言った事がなかったか? おかしいなあ……」

 今度は眉を顰めた玲太郎が颯に近付き、目の前に行く。

「本当は親友じゃないでしょ?」

「それじゃあ訊くけど、玲太郎は水伯と俺はどういう関係だと思っているんだ?」

「うん?」

 首を傾げて「うーん」と唸り出した。

「あーちゃんに取っての父上って、どういう存在なの?」

「話はそっちへ行くのか。そうだなあ……、兄貴に取っての水伯は家族だろうな。まあ、俺もそれに近いと言うか、正にそれだよな。でも親友なんだよ」

「家族?」

 眉を顰めたままで不思議そうに呟いた。

「最初の頃はヶ月に一度は家に来るお兄さんっていう感じだったんだけどなあ。来る度に服とか下着とか靴とかを、必要以上の物を置いて行ってくれるんだよ。ばあちゃんが亡くなる少し前に教えてくれたんだけど、小遣いもくれていたみたい。玲太郎に取ってのお祖父様の立ち位置だな」

「僕はお祖父様とはもっと会ってたのよ」

「それは近かった事と、玲太郎が会う気になったからだな。当時は和伍とナダールだぞ? 水伯がそんなに頻繁には来ないだろう? 俺達からは当然行かなかったんだけど、玲太郎が産まれてから状況が一変して、玲太郎の世話を三日前後に一日はしてくれるようになって、会う頻度が上がったからなあ。そうなった頃は兄貴が十二で、俺が八歳か。……懐かしいな。玲太郎が四歳になる前に両親が死んで、覚醒して、ナダールへ移住して、最初の頃は水伯邸に住んでいたんだよな。じょう学校へ行き出してイノウエ邸へ移ったけど、その後もほぼ毎日顔を合わせているから、やはりもう家族だなあ……。でも俺に取っては親友でもあるんだよ」

「解らない……」

「まあ、俺に取ってはニーティももう家族だからなあ」

「え、そうなの? ルニリナ先生とは一緒に暮らさなくなってからの方が長いのに」

「玲太郎はルセナ君と毎日過ごしていなくても、家族みたいに感じているんじゃないのか? 二年に一度は旅行をしていたし、ルセナ君が退職をしてからは毎年長期滞在するようになっただろう? それと同じだよ」

 玲太郎はルセナの事を思うと理解は出来るのだが、颯が水伯やルニリナとそういう関係である事は認めたくなかった。

「それなら僕も親友だよね?」

 突拍子もない事を言われて颯も面食らったが、直ぐに笑いが込み上げて来た。

「ふっ、玲太郎は弟だけど、まあ親友でもあるな」

 玲太郎の表情が俄に明るくなった。

「本当?」

「親友だから、これからは対等だぞ? もう甘えられないな?」

「えっ、でも弟なら甘えてもよいよね?」

「駄目だなあ。親友ならあれ程に甘える事はなしだな」

「え……、そうなの?」

 今度は萎れて、横目になると沈思した。暫く沈黙が流れたが、颯は笑いを堪えながら玲太郎を見ていた。

「俺は兄貴の弟だけど、玲太郎みたいに甘えた事はないんだよなあ。でも兄貴は玲太郎には甘えるだろう? 不思議だよなあ……」

 眉を顰めて颯を見る。

「いきなりなんの話?」

「兄弟でもこれだけ差があるって事だよ。だから親友でも色々な形がある、……だろうけど俺は対等でなければならないと思っているから、弟という理由で甘えるなら親友はなしだぞ?」

「ケチ」

 口を尖らし、眉を顰めて顔を背けた。

「俺の弟は唯一無二の存在なんだぞ? 嫌なのか?」

 思わず顔が綻び、颯に顔を向けた。

「たったの一人なの?」

「親友は二人いるけど、弟は一人だな」

「そっちの方がよいの?」

「それは玲太郎が決める事だな。……でも親友より弟という立場の方が希少なんだぞ? 弟だと甘えられるけど、親友だと今までみたいに甘えられないからなあ……」

「ふうん……」

 玲太郎が真剣な表情で悩み始めると、颯はそれを微笑んで見ていた。

「でもそれだと、あーちゃんもはーちゃんに取って唯一の兄なんじゃないの?」

「うん? 悠ちゃんがいるから、兄貴は二人いるんだぞ。玲太郎の兄貴は俺を入れると三人だな」

「あ、そうだった。悠ちゃんがいたんだった」

「まあ、玲太郎の記憶にはないだろうけどな」

「それじゃあ唯一じゃないね。そう考えると、僕に三人のお兄さんがいるんだねぇ……」

 感じ入りながら何度か小さく頷いた。

「それよりも、あーちゃんの事をお兄さんと呼んだ事がないから、後で呼んでみよう」

 どうなるかを想像して楽しんでいるようで、悪戯っぽく笑っていた。颯は苦笑するが何も言わなかった。


 寝台で読書をしている最中、颯の話を途中で切り上げていた事に気付いた。

「あっ!」

 その声に明良が体を引きらせた。玲太郎は本を腹の上に遣って天井を見ている。

「どうかしたの?」

 慌てて玲太郎の顔を覗き見ると、玲太郎が視線を明良に移した。

「ごめんね、なんでもないのよ。忘れていた事に気付いただけなんだけどね」

「そうなのだね。何を忘れていたの?」

「はーちゃんと話してた途中で違う話をしちゃって、前の話が終わってなかった事に気付いたのよ」

「そう。どのような話をしていたの?」

「はーちゃんの弟は僕だけだから、弟という存在が唯一だっていう話」

「成程。それならば私の弟は三人いるから、玲太郎は唯一ではない事になってしまうね」

「そうなるね。僕もお兄さんが三人いる事になるから、あーちゃんとは三人っていう所がお揃いだね」

「そうだけれど、私に取って、玲太郎は唯一無二の存在だからね?」

「ありがとう。僕もあーちゃんはあーちゃんだけだからね」

 微笑むと直ぐに本を顔の前に持って来た。

(だから先程、お兄さんなどと妙な呼び方をしたのだろうか? ……何時か、あーちゃんという呼び方から卒業する時が来るのだろうか?)

 明良が些か眉を顰めていると、それに気付かない玲太郎は本を持ったままで横向きになり、明良に背を向けた。


 翌日、玲太郎は朝から物思いにふける事が増えた。颯に何を言うかを思案していたのだが、言いたい事が上手く纏まらなかった。

(絶対、絶対、ぜーったいに旅行に付いて行くのよ。どこへ行くのか知らないけど……)

 それだけは決心していた。

 昼を過ぎると明良が遣って来た。玲太郎が居室で水伯と寛いでいた時だった。

「いらっしゃい」

 水伯がいつもの柔和な微笑みで挨拶をする。

「今日は」

「いらっしゃい」

 玲太郎が遅れて挨拶をした。明良は玲太郎の座っている長椅子に座った。

「玲太郎、颯と水伯が旅行をしている間、私が朝夕のご飯を作るからね」

「えっ!?」

「二人がいない間はうちで過ごして貰うのだけれど、出発日に迎えに来るからね」

「それはとても羨ましいね。私が颯と旅行をしている間はよい子で留守番をしていてね」

 玲太郎は愕然として言葉が出なかった。

「それにつけても、颯はまだ決まっていないと言っていたのだけれど、何処へ行く積りなの?」

「颯と二人だから、気ままに行くよ。玲太郎、突然決まってしまった事で驚いただろうけれど、お土産を楽しみにしていてね」

 柔和に微笑み掛けられた玲太郎は険しい表情になった。

「僕も行く」

「玲太郎は私と留守番だからね。お土産を楽しみに待とうね」

 明良が笑顔で言うと、玲太郎は益々顔を険しくさせた。

「僕も行く……」

「玲太郎が行くなら、私も行くからね」

 そう言った明良を見た玲太郎は少し俯いた。

「父上は、僕が一緒に行ったら嫌なの?」

 上目遣いで水伯を見ると、水伯は柔和に微笑んだ。

「嫌ではないのだけれど、今度は颯と二人切りだから連れて行けないね。また機会を作って、その時に行くとしようか」

「えっ、一緒に行く」

 そう言って満面の笑みを湛えた。しかし、水伯も柔和な微笑みを絶やさない。

「うん、それは次にね。今度は諦めてね」

 明良が玲太郎の肩を抱いた。

「玲太郎、ご免ね。今度は水伯を颯と二人で行かせようね。寂しいけれど、一緒に見送りをしようね」

「はーちゃんが行ってもよいって言えば、付いて行ってもよい?」

「言わないと思うのだけれど」

 水伯にそう言われて玲太郎は衝撃を受けた。

「そもそも颯が二人で行こうと言い出したのだから、玲太郎を連れて行く気は更々ないと思うよ? だからご免ね」

 申し訳なさそうな水伯を見て、玲太郎は泣かないように我慢をして無言で退室した。明良は当然ながらそれを追って行った。


 玲太郎は一人になりたいのになれず、仏頂面だった。

「僕、一人になりたいのよ」

「ご免ね。心配だからね」

 申し訳なさそうに言うが、玲太郎の仏頂面は直らない。

「一人でも平気なのよ」

「うん、それでもね」

「玲太郎は一人と言っても悪霊がいるから、結局一人にはなれないのだよ?」

「ヌトは黙っていてくれるもん」

 そう言うとヌトを見た。ヌトは机に寝転がって天井を眺めていて、玲太郎の方を見ようともしなかった。

「颯とは毎年二度も旅行をしているのだから、どうしても水伯と旅行をしたいのならば、また機会を作って貰えばよいのではないの? 今度は颯に譲ってもよいと思うのだけれどね」

「んーもう、あーちゃんはあっちへ行ってて」

 明良に背を見せて長椅子に俯せると、明良は小さく溜息を吐いた。

「それでは一時間程ね。その後は勉強をするからね?」

「……解った」

 小さな声で返事をした。明良は玲太郎の左ももを優しく二度叩くと静かに立ち上がって退室する。明良の気配が遠退き、暫くするとヌトが上体を起こした。

「玲太郎が駄々を捏ねるなぞ珍しい事よな。何があったのよ? 水伯と旅行をしたいのか? 何故なにゆえ颯に譲るのよ?」

「はーちゃんが父上と二人で旅行をするって言うのよ。僕も行きたい」

 伏せたままで言うと、ヌトは腕を組んで大きく頷いた。

「成程、そうであったか。それならば留守番をするが良かろう」

 玲太郎は顔をヌトに向けた。

「えっ! 人の話を聞いてなかったの? 眠ってたの?」

「失敬な、しかと聞いておったわ。颯が水伯と二人切りとは珍しい事よな」

「珍しいって言うか、初めてだと思うよ? あーちゃんを置いて行くのはよいけど、僕を置いて行くのは駄目なのよ」

「颯は大人気よな。皆が追い掛けたくなる何かを醸し出しておるのであろうか?」

「うん? 僕は追い掛けようとしてる訳じゃないのよ?」

 居直してヌトの正面になると膝に肘を置いて前屈みになった。

「追い掛けておるではないか。一緒に旅行をしたいのであろう? 毎年留守をする時期がある玲太郎は偶には留守番をしておれよ」

「やだっ!!」

 今度は膝に俯せた。

「聞き分けのない事よな。何故そうも駄々を捏ねるのよ?」

「行きたいからに決まってるでしょ!」

「それでは二人に対抗して、明良とわしの三人で何処かへ行こうではないか」

 それを聞いて、徐に顔を上げた。その表情は満面の笑みを湛えていて、ヌトは言った事を後悔した。

「たまたま、本当にたまたま会う事だってあるよね? ね!」

「いや、待て、何処へ行くかは知らぬのであるぞ?」

「そんなの、訊けば良いのよ。きっと教えてくれるからね」

「そうなると偶々ではなく、意図的な物になってしまうのであるが、それはよいのか?」

「よいのよ! そうしよう! あーちゃんに言わなきゃ!」

 俄に立ち上がると部屋を飛び出した。扉を開放したままだった。


 颯が夕食作りに十九時前に遣って来た。玲太郎は居室で待ち構えていたが、颯は厨房へ直接行っていて、十九時半になってようやく玲太郎が厨房へ向かった。

「あー! やっぱりいたのよ。もう来てたの?」

「いつも通りに来ていたぞ?」

「居室に寄ってくれないと困るのよぉ……」

 そう言いながら調理台で材料を切っている颯の傍へ行く。

「何か用があるのか?」

「あのね、父上と二人で旅行をするんだよね?」

「そうだな」

「行き先はどこなの?」

「行き先かあ……、まだ決めていないんだよな。水伯と風の向くまま、気の向くままで行こうって話しているから判らないとしか言いようがないな」

 玲太郎は衝撃を受けた。

「なんて顔をしているんだよ。そんなに驚く事か? いつも通り、土産は食べ物にするから楽しみにしていてくれよな」

 笑顔で楽しそうに話している颯を見て、玲太郎は涙が出そうになった。颯は包丁を置いて、玲太郎の前に屈んだ。

「きちんと帰って来るんだから、そういう顔をするなよ。玲太郎とはまた別で行こう、な?」

「一緒に行ぐ……」

「兄貴と一緒に留守番を頼むな? ヌトの面倒を見て遣ってくれよ?」

「……お風呂は別々なの?」

「水伯と一緒にいるから、うん、まあ別々になるな。偶には兄貴と入って遣ってくれよ」

「はーちゃんがよいのよ……」

 遂に涙を流し始め、颯は苦笑した。玲太郎を抱き上げると、玲太郎は颯の首に抱き着いた。

「泣く程の事か?」

「うん……」

「ご免な。今度は諦めてくれよな?」

「ううっ、やだ……、いっじょに行ぐ……」

 颯は苦笑しながら玲太郎の背中を擦った。その後、玲太郎は号泣して眠ってしまった。

 駄々を捏ねた所で、結局は連れて行って貰えずに留守番をした。後日、颯が埋め合わせとして玲太郎を遠出に連れ出した。早朝から二人だけで和伍へ行き、五時間だけだったがとても楽しい一時ひとときが過ごせた。だからと言って、置いて行かれた事が許せた訳ではなかった為、最低でも二度は何処かへ連れて行って貰う約束をした。


 玲太郎はその事が切っ掛けで、学生時代の事を良く思い出すようになっていた。意図してそうなった訳ではないのだが颯と同室となり、放課後や深夜に寮から抜け出して買い物や海水浴に出掛けた事を懐かしく思っていた。

(もうあんな事なないだろうなぁ……)

 あの頃は颯と二人切りになる事が容易だったのに、学校を卒業してからは必ず明良が一緒にいた。明良とは二人切りになる事が日頃からあり、出来れば颯と、夕食の準備中と入浴時以外にも二人切りで過ごしたかった。

 二人切りに全くなれないという訳ではなく、颯は夏の間は水伯邸に宿泊して玲太郎と同室で眠るが、学生時代の頃のように出掛ける事はなかったし、買い出しに行く時は水伯も一緒にいるし、その場合は玲太郎は大抵水伯と手を繋いでいた。

(買い物に行く時も父上と手を繋いでるか、抱っこされてるのよ。そう言えば、はーちゃんと手を繋ぐ事があっても瞬間移動すればすぐに離されるよね。和伍の近くの海へ行く時も父上が一緒にいるし、時々あーちゃんもいて、やっぱりはーちゃんと一緒に遊べなくなってる)

 今頃になってそれに気付いた。

(旅行だって必ずあーちゃんがいて、あーちゃんがくっ付いて来るから、はーちゃんの傍にいる時間が少ししかなくて、僕は知らず知らずの内にそれが当たり前になっちゃってたんだ……。またカンタロッダ学院へ入学する? そうすれば、はーちゃんと同じ部屋で眠って、今みたいに一緒に夕食作って、時々買い物に出掛けて、和伍の海へも二人で行けちゃう?)

 現実的ではない方向へ思考が向かったが、それも直ぐに終わる。

(出来ない事を想像しても駄目だなぁ……。それよりも、はーちゃんと二人切りになれる時間を増やす方法を考えよう。あーちゃんに言うと、あーちゃんが必ずくっ付いて来るから、やっぱりあーちゃんには秘密にするようにしないといけないんだよね。また後で泣かれて、窮屈な思いをするんだろうけど、それでもはーちゃんと二人でどこかへ行きたいのよ。……うーん)

 就寝前に、本を読む振りをして思案を巡らせていた。明良は紙をめくらない玲太郎を不思議に感じて凝視している。

「玲太郎、眠っているの?」

 本を退かして明良に顔を見せる。

「うん? 起きてるけど、どうかした?」

「意味の解らない単語でもあった?」

「そうじゃないのよ。考え事をしてただけ」

「そう。私が音読しようか?」

「しなくてよいのよ。ありがとう」

 明良はそう言って微笑む玲太郎を見て頷いた。

「解った。それでは読書は終わりにして、灯りを消そうね。目を閉じていれば眠れるからね」

「もうそんな時間なの?」

「二十五時を過ぎたからね」

「それじゃあそうする」

 本を閉じて明良に差し出す。それを受け取った明良は枕元の棚へ置いた。玲太郎が掛け布団の中に腕を入れると、明良が掛け布団を掛け直す。

「おやすみ」

「お休み」

 目を閉じた玲太郎の顔を見ている内に集合灯の灯りが薄暗くなり、小さな光の玉が扉の付近に顕現した。


 朝食後、玲太郎はヌトを連れて北の畑へ向かった。首に音石入れの入った小物入れを提げている。

「水伯と一緒でなくともよいのか?」

 玲太郎の一歩後ろを浮いて付いて行くヌトが訊くと、玲太郎は頷いた。

「はーちゃんと話がしたいのよ。秘密の話ね」

 前を向いたままで言った。

「そうであるか。わしが聞いておってもよいのか?」

 ヌトの方へ振り返ると足を止める。

「誰にも言わないでしょ?」

「それはそうであるが、……玲太郎は一体何を考えておるのよ?」

 徐々に笑顔になって行く玲太郎を見て、ヌトは眉を顰めて首を傾げた。

「あのね、僕ね、はーちゃんと一緒にいる時間が殆どなくなってる事に気付いたのよ」

「それで?」

「それで二人でいられる時間を作ろうと思ってるんだけど、一人ではその方法を思い付かないから、はーちゃんに相談をしようと思ってるのよ」

「成程」

 玲太郎はヌトに微笑み掛けると歩き出した。ヌトは玲太郎の後頭部を見て苦笑した。

 北の畑の定位置に到着すると小物入れから容器を取り出し、蓋を開けて一つの石に触れて操作をする。

「はーちゃん? 玲太郎だけど少し話があるのよ。出てもらえない? 出来たら一人になって欲しいんだけど、大丈夫?」

「お早う。どうした? 悪巧みか?」

「あっ、はーちゃん! おはよう。あのね、僕ね、はーちゃんと二人切りになる時間がない事に気付いたのよ! だからはーちゃんと二人で出掛けられる時間を作りたいんだけど、どうしたらよいと思う? きっとあーちゃんが邪魔しに来るのよ」

「一緒に夕食作りをしているのに、あれでは足りないと?」

「えっ、はーちゃんは足りてるの? カンタロッダ下学院にいた時は夜に遊びに行ったり、食べに行ったりしてたでしょ? ああいう時間が欲しいのよ。解る?」

「成程。それじゃあ、うーん、夏の間、水伯邸に滞在している時に行こうか。水伯には話すぞ?」

「ええ? 僕は五十歳から自由なのよ?」

「自由! だったら、兄貴に話してもいいよな? 自由なんだから、兄貴かにもきちんと話せよ?」

「えっ、自由なんだから話さなくてもよいと思うよ?」

「あの兄貴にそれが通用すると思っているのか?」

「思えないから相談してるんじゃない。ルセナ君の所に一ヶ月滞在する為に僕の時間をどれだけ犠牲にしているか知ってるよね?」

 颯の笑う声が微かに聞こえる。玲太郎は思わず眉を寄せた。

「笑う所じゃないのよ」

「悪い、つい笑ってしまった」

「僕は気付いたらはーちゃんと二人で遊んでなかったのよ。寂しいと思わないの?」

「ほぼ毎日夕食作りと風呂で顔を合わせるからなあ……。それと夏の間の三ヶ月は一緒に寝ているだろう?」

「僕は学校にいた時くらいはーちゃんといたいのよ。解る?」

「解ったよ。でも毎日は無理だぞ? 兄貴がいるんだからな」

「それは解ってるのよ。もう少し僕に時間を割いてって言ってるだけなのよ。毎日でもよいけど」

「そうだなあ。頑張って時間を取れるようにするよ。毎日は無理だけどな」

「それじゃあ、一緒にあーちゃんに言ってくれる? 僕は毎日でもよいのよ」

「解った。一緒に言うよ。毎日は無理だからな」

「うん、お願いね。僕は毎日でもよいのよ。遠慮しなくてよいのよ」

「それじゃあ十九時くらいにな。もう切るからな。じゃあな。後、毎日は無理だからな」

 玲太郎は最後の一言で眉を顰めた。ヌトが後ろで含み笑いをしている。

「毎日ではないようであるが、それで我慢が出来るのか?」

 ヌトに顔を向けると、何故か得意満面だった。

「はーちゃんは優しいから、毎日いられるように頑張ってくれるのよ」

「毎日は無理であると何度も言うておったように聞こえ、最後にも念を押すように言うておったように聞こえたのであるが、わしの耳がおかしくなったのであろうか?」

「あーちゃんが独占欲が強いでしょ? だから無理だった時の事を考えて言ったのよ。はーちゃんは優しいからね」

「拡大解釈はせよ。しかしながら颯がああ言うておったから、日に一度は一緒に遊べようて」

「だから、毎日だって言ってるでしょ」

「そうであるな。それでは魔術の練習を遣らぬか?」

 ヌトは早々と切り替えた。

「ねぇ、聞いてた? 毎日なのよ?」

「解ったから、早く致さぬか」

 また顰めっ面になった玲太郎は口をすぼめた。

「むぅ……」

「今日はどの魔術を遣るのであるか? わしは久し振りに光を降らせて欲しいのであるが!」

「光を降らせるのは駄目って父上に言われてるでしょ」

「そうであったか?」

「そうなのよ。何かを降らせるなら海でやりなさいって言われてるのよ。だから花弁は勿論の事、雨も駄目なのよ」

「そうであったか……」

 ヌトが残念そうにしていると、玲太郎は笑顔を見せた。

「今日はね、メニミュードの改良種を育ててみようと思ってるのよ。空から降る物は無理だけど、地面から生える物は大丈夫だからね。沢山花を咲かせるから見ててね」

「解った」

 持って来ていた種を上着とズボンの衣嚢から半分ずつ取り出し、放り投げるように蒔いた。暫くすると芽吹き、成長を始める。見る見るうちに草丈が伸びると早くも蕾を付け、大きく膨らんで行き、それが開いて見事な花が咲いた。

「これが改良種かどうか、わしには判らぬのであるが」

「二種類の種を蒔いたんだけどね、それが合体して花が咲いたのよ。上手く出来た物と、そうじゃない物があるから、全部が改良種じゃないのよ」

「そうであったか。大変申し訳ないのであるが、無粋なわしには花の違いなぞ判らぬわ」

「ほらー、良く見て? この花弁のふちがギザギザなの、これが成功ね。この丸味を帯びてる方は失敗なのよ」

 玲太郎が指で差し示したが、ヌトの表情は気が抜け切っていた。この後、実はどちらも成功していたと気付くまで、ヌトに延々と講釈を垂れ続けた。


 いざ話すと明良は当然ながら激しく抵抗する。

「颯が珍しくいると思えば、そのような事だったのだね。私も玲太郎と一緒にいたいし、これ以上時間を削るのはお断りだよ?」

「はーちゃんと一緒にいる時間が物凄く減ってる事を知ってたし、わざとそうしたんでしょ? あーちゃんとはもう十分一緒に過ごしたんだから、僕に自由時間をくれてもよいと思うのよ」

「午前中は殆ど自由時間なのに?」

「午前中の殆どって言っても、あーちゃんだって午前中に一緒にいる事があるし、週末は朝からずっと一緒にいるでしょ」

「まあまあ、そう興奮するなよ、な? 兄貴も自分が一緒にいたいからと言って、玲太郎もそうだとは限らないんだから、もう少し自由にして遣ってもいいと思うぞ」

「颯は黙っていてよ。私は玲太郎の知識が失われ過ぎないように努力をしているのだけれど、颯はそうではないよね?」

「あーちゃんはどうしてそんな事を言うの? はーちゃんは毎日毎日夕食を作ってくれてるんだよ? そんな事を言うんだったら、あーちゃんは僕に色々と押し付けて来るよね? そういうのが嫌なのよ。それに僕が眠る時だって、一緒にいるのは別にあーちゃんじゃなくてもよいのよ?」

 明良は衝撃を受け、涙目になった。

「玲太郎、言い過ぎるなよ?」

 冷静な颯の声が、玲太郎を更に興奮させた。

「だって、あーちゃんが当然のように僕の時間を沢山奪って行くんだよ? 本当に沢山なんだよ? それって理不尽でしょ?」

 言葉を選ぶ事もしなければ、相手を気遣う事すらしていなかった。

「玲太郎はそれだけ私と一緒にいたくないと言うの?」

「ずっとだと息が詰まるって言ってるだけなのよ」

「今までそのような事、一度も言った事はなかったのに……」

 明良の頬を涙が伝った。

「それは僕がずっと我慢をしてたからでしょ。僕だって泣きたいのよ!」

 そう喚いた玲太郎が颯に抱き着いた。颯は玲太郎を離して屈むと抱き上げた。玲太郎は首に抱き着く。

「あーちゃんなんか大っ嫌い!!」

 颯の耳元で言い放って号泣をした。颯は苦笑しながら玲太郎の背中を擦った。

「これじゃあ話にならないから終わりにしようか」

 颯が言った直後、明良は無言で瞬間移動をして去った。困り果てた颯は号泣をする玲太郎を宥めた。


 玲太郎は明良の機嫌を取る事をせず、結局は明良が折れる事となり、玲太郎の思い通りとなったがそれも約一ヶ月後の事だった。

 こうして週四日の自由時間を得られる事となり、玲太郎は晴れて颯と一緒に過ごす時間を勝ち取った。玲太郎としては毎日一緒にいたかったが、颯が「これで兄貴と半分ずつになるから丁度いいな」と笑顔で言っわれてしまい、それで納得せざるを得なかった。

 思い通りに行かなかった明良が颯に八つ当たりを始め、最初こそ颯も聞き流していたが、それは余りにも執拗だった。ほとほと嫌気が差した颯は家出をして水伯邸へ居を移し、結果的に玲太郎の大勝利となってしまった。

 明良はそこで漸く、常に家族の誰かと一緒に住んでいた事に気付き、颯に知らず知らずの内に甘えていた事にも気付くと、謝罪をして仲直りをした。そして、颯はイノウエ邸へ戻った。

 玲太郎はそれこそ寮生活が戻って来たようで喜んでいたのだが、それも呆気なく終わってしまってとても残念に思った。

「はーちゃん、いつでも戻って来てよね。待ってるから」

 満面の笑みを浮かべて言うと、颯も釣られて笑顔になる。

「知っての通り、兄貴は寂しがり屋だからな。玲太郎が俺の代わりに兄貴の傍にいてくれれば俺も楽になるんだけど、どう思う?」

「僕は目一杯一緒にいるのよ……」

 思わぬ反撃をされてしまい、困惑した。それでも週に四日は颯と一緒にいられる上、明良に強いられる窮屈な生活から半分だけ抜け出せる事が出来て満足だった。

 玲太郎にとっての事件らしい事件はこういった兄弟喧嘩だけで、他に変わった事があるとすれば、偶にルニリナが手土産を持って来たり、稀にルセナがタンモティッテを釣り上げて宴会をしたり、ヌトの兄弟が遊びに来たり、と、それ程度だった。

 玲太郎は世俗の事件と掛け離れた所にいて、時間は穏やかに流れた。


 それから時が流れに流れ、玲太郎は三百歳になっていた。三百歳になっても姿形は約二百九十六年前と変わりなく、水伯と一緒に暮らし、明良に束縛されて溜まった鬱憤を、颯に甘えて晴らしていた。以前と違う事があるとすれば、それはきっと友達がいなくなった事だろう。

「いない! どこに行ったの? いつもはここにいてもらってるのにいないのよ!」

 勉強部屋兼図書室の勉強机の抽斗ひきだしを上から開けて、中を漁っていた。

「わしが予言してやるぞ。きっと、あっ! と驚くような場所に置いてあるのではなかろうか。そういう場所を探せばよいわ」

 脚の短い方の机に寝転んでいるヌトが気怠そうに言うと、玲太郎は手を止めてヌトの方に顔を向けた。

「そういう舌先三ずんは困っちゃうなぁ……。それより、ルセナ君がいないのよ。どこに行ったか知らない?」

 顔の向きを戻し、また抽斗を漁る。

「わしが知る訳もなかろう。こういう時は水伯に訊いて来れば良かろうて。一人で行けぬのであれば、わしが付いて行こう」

 そう言うと浮き上がり、直立すると玲太郎の方に体を向けた。

「一人で行けるけど、この前も探してもらったのよ……」

「何っ、また同じ事を遣っておるのか。懲りぬ子よな」

「ヌトに言われたくないのよ。人に同じ事を何度言わせる気なの? っていうくらい同じ事を訊いて来るよね?」

「そうであったか? はて……、丸で記憶にないのであるが……」

「それよりもどうしていないの? 大切な物だから、必ず目に付く所にいてもらってた筈なのにぃ……」

「玲太郎が物凄く話し掛けて来て煩いから逃げたのではなかろうか。有り得るぞ」

「また馬鹿な事を言って……。もう直ぐはーちゃんが来ちゃう」

「それならば颯に探して貰えばよいではないか」

「またかよって言われちゃうじゃない」

「それならば、早い所、気配感知を会得せぬか。そうすれば探せるぞ」

「簡単に言わないでよ。難しいから今苦労してるのよ」

 また手を止めてヌトを睨み付けながら早口で言った。

「あーもう、はーちゃんが来ちゃう。音石入れを持っておかないと……」

 ヌトが玲太郎の傍へ来ると、今度は音石入れを探し始めた。

「あれ? 音石入れがないのよ。持っておかないと、あーちゃんから連絡が来た時に困るんだけど! あれ? どこへ行ったの?」

「玲太郎、こういう場合は少し離れて視野を広く持つのである」

 そう言われて二歩後退し、つぶさに見て行く。

「そもそも箱とか抽斗の中とかは、近くから見ないと見えないよね……」

「成程。そうなるか」

「もう! 時間がないのに、また惑わされちゃったのよ!」

「わしは惑わしておらぬのであるが!?」

 一人と一体が賑やかになっている所へ颯が瞬間移動で遣って来た。

「今日は」

 玲太郎は声のする方に顔を向ける。颯は窓際にいた。

「はーちゃん!」

 抽斗を漁っていた手を止めて颯を見た。ヌトも颯に顔を向ける。

「颯が来てしもうたではないか」

「あのね、ルセナ君がいなくなっちゃったのよ」

 颯は窓際から勉強机の横を通って玲太郎の傍へ行く。

「その首から提げている小物入れの中に入っているんじゃないのか?」

「え?」

 玲太郎は咄嗟に下を見た。八千代に作って貰った袋の中を見ると、ルセナの土が入った小瓶が確かに入っていた。

「あ! いた! いたのよ! ありがとう!!」

 顔を上げると直ぐに笑顔が真顔に戻った。

「そうだった。それと音石入れも消えたのよ……」

「ズボンの右側の衣嚢だな。前の方な」

 そう言われて衣嚢に手を突っ込んで悪戯っぽく笑った。

「いひひひひ、あったのよ。ありがとう」

「いつもの場所から別の場所へ移動するなら、きちんと憶えておかないとな?」

「ごめんなさい。もう準備をしてたのを忘れちゃってたのよ。焦ると飛んじゃって駄目だね」

「ルセナ君は置いて行けよ。失くしたら困るだろう?」

「大丈夫。失くさないから。その為にここへ入れてるのよ」

 何故か得意満面になる。

「其処へ入れていた事を忘れていたのに?」

「それは言ったら駄目なのよ」

 今度は顔を顰めた。颯は玲太郎の表情が次々と変わる事を楽しんでいた。

「出掛ける支度をしているという事は、何処かへ行きたいのか?」

「え? 今日はばあちゃんの命日でしょ。だから和伍へ行くのよ」

 当然のように言うと、颯は鼻で笑った。

「命日は命日でも、月命日だな。来月の二十一日が命日だぞ?」

「あれ? そうだった? 十月だと思ってたのよ……。それじゃあ和伍へは行かないの?」

「行っても店はもう閉まっているんだぞ?」

「それくらいは解ってるのよ。でも夜空を見に行くのも良いよね。月見よ、月見」

「月見かあ。それじゃあ菓子を買っていくか。後のみ物が欲しいな。水筒に紅茶を入れて行こう」

「きゃー! お菓子!! 僕、和菓子の方がよいのよ」

 両手を上げて喜んだ。颯は苦笑する。

「だから店は閉まっていると言ったぞ?」

「父上が今朝作ってたのよ」

「それを先に言えよ。それだと紅茶じゃなくて緑茶にしよう」

「それじゃあ父上にもらって行ってよいか訊きに行こうよ」

 颯の手を握ると引っ張った。

「はいはい」

「ヌト、行って来るからね」

「うむ。二人で仲良くするのであるぞ。喧嘩は良くないからな」

「はーい!」

「じゃあな」

 嬉しそうに手を繋いでいる玲太郎は開扉した。ヌトは閉扉されるまでそちらを見ていたが、また足の短い方の机へ行き、そこに寝転んだ。


 和伍国は若世わかせ島の南にある若世岬に到着した。ここは颯が幼い頃に釣りをしていた岬だ。しかし、雨が降っていて到着した途端に濡れた。

「わっ、雨なのよ」

 颯が直ぐに障壁を張る。

「天気が悪かったんだな。これだと月見なんて出来ないなあ……」

「残念なのよ……」

 玲太郎は気を落とした。

「雲上へ行って月見をするか?」

「このまま岬で海を眺めて……」

 玲太郎は見えもしない水平線を見てから颯を見上げた。

「真っ暗だったのよ……」

「雨が当分続くという事なんだろうなあ。水平線付近の上空にある雲を吹き飛ばすか?」

「それは止めておこうよ。うーん、……あ! 折角だからばあちゃんの出身地へ行こうよ」

 閃いた玲太郎が笑顔で言うと、今度は颯が眉を顰める。

高南田たかなだ島へ? それじゃあ玲太郎に連れて行って貰おうか」

 玲太郎は目を丸くした。

「え! 飛んで行くの?」

「直ぐ其処だからいいだろう? 頼むよ」

「解った。それじゃあ手を離さないでね」

「玲太郎が離さない限りは握っているよ」

 玲太郎は何故か照れ笑いをすると、二人は浮き上がって東へ飛んで行った。上空は雲が切れ夜空が広がった。少し欠けた月が二つ、お互いを牽制しているかのように距離を取って出ていた。

「天気がよいよ?」

「そうだな。良かったな」

「うん!」

 満天の星のもと、二人は隣島りんとうへ到着すると崖の近くに下り立った。眼下に広がる民家の灯りよりも空の方が明るかった。

「ばあちゃんの生家はどの辺りだろう?」

「俺も詳しくは知らないんだよなあ。そもそも昔話も余りして貰わなかったから、ばあちゃんの幼い頃の話も殆ど知らないんだよ」

「そうなの。ばあちゃんは過去を振り返る人じゃなかったんだね」

 颯は持っていた手提げ袋の中から敷布を取り出し、魔術で広げて敷いた。

「それはどうだろう? 俺達兄弟の幼い頃の話なんかは良くしていたけどな」

「ふうん……」

「さあ、座ろうか」

「うん!」

 玲太郎は靴を脱いで敷布の上に行く。

「それにしても、二つの月が満月になる日と、ばあちゃんの命日が重なる時ってあるの?」

 敷布に座ると隣に来た颯を見上げた。颯も腰を下ろし、手提げ袋の中からお萩の入った箱を取り出す。

「二年足らずに一度だからなあ……。まあ、長く生きていたらあるだろうな」

 先に取り出した水筒を玲太郎に渡すと、更に水筒を取り出して胡坐あぐらを掻いた。玲太郎は水筒を掲げる。

「ばあちゃん、いただきます」

 そう言ってからまだ熱い茶を啜った。颯は少しばかりそそっかしくなってしまった玲太郎を見て微笑んでいた。


 玲太郎は風呂から上ると湯冷めをしない内に寝台へ行き、明良が掛け布団を掛けている。玲太郎はその間に、枕元に置いてあった本を手にした。

「今日は何処へ行って来たの?」

 寝台脇に腰を掛けて玲太郎を見る。

「うんとね、高南田へ行ったのよ。今日はばあちゃんの命日だと思ってたからね」

「そうなのだね。颯は何か言っていたの?」

「来月だって言ってた。後は別に……、何も言ってなかったね。はーちゃんが幼い頃のばあちゃんの話をしてくれたくらいだね」

「そう。楽しかった?」

「今日は父上がお萩を作ってくれてたから、それを持って月見をしたのよ。満月じゃなかったけどね、でも楽しかった」

「それは良かったね。今度はあーちゃんと一緒に行こうね」

「よいよ。どこへ行く?」

「そうだね、私は久し振りにのソッカ公国の辺りに行きたいね」

「ソッカ公国! あっちの方はそろそろ春なのよ」

「春なら花が見られるね」

 花と聞いて、玲太郎の顔が綻ぶ。

「それじゃあソッカ公国に花見をしに行く?」

「でも南端の方へは行けないから、内陸の方にしようね」

「えっ、どうして?」

「ウィシュヘンドみたいに冬が長いからだよ。春の来訪が遅いという事だね」

「あ、そうだった。最南端にある国だもんね。こっちは夏が終わった頃だけど、向こうは冬が終わった頃だね。それじゃあ違う所にしようよ」

 今日の玲太郎は上機嫌のようで、明良も嬉しく思った。でもそれが颯のお陰かと思うと甚だ複雑な心境に陥るが、これもいつもの事だった。それでも慣れる事はない。

「そう? それでは玲太郎は何処へ行きたいの?」

「そうだねぇ……」

 悩みながら視線を天井に向けた。暫くして明良に視線を戻す。

「それじゃあね、ロメロニクのミミン地区に行きたいのよ」

「ロメロニクのミミン地区でよいのだね?」

「うん」

 笑顔で小さく頷いた。明良も微笑んでいた。

「解った。それではロメロニクへ行こう。それから久し振りに遊覧船にでも乗ろうね」

「うん! 船に乗るのはこの前以来だからね。楽しみ」

「ふふ、この前って、いつだったか言えるの?」

「この前はこの前なのよ。今年の夏の旅行で和伍へ行った時に乗ったよね」

「確かに和伍へ行ったのだけれど、船には乗っていないよ?」

「えっ、本当? それじゃあいつ船に乗ったの?」

「昨年の冬だよ。鳴座久めいざく島や沼尾嘉ぬまおか島へ行っていたよね? どう? 憶えている?」

 首を傾げて眉を顰めた。

「十四月に行った時? そうだった? ……乗ったの? 憶えてないのよ」

 明良が微笑む。

「そうなのだね、解った。その時に鳴座久から沼尾嘉へ船で渡ったのだよ。玲太郎が言い出したのだけれどね」

「そうなの。ふうん……。シピに会った事は憶えてるのよ」

「それは憶えているのだね。悪霊の事など、憶えていなくてもよいのだよ?」

 玲太郎は声を出して笑った。

「あーちゃんは一貫してるね」

「嫌いな物は嫌いなのだから、仕方がないよね」

 暫くは苦笑している明良を見詰めていた。

「それじゃあロメロニクね。忘れないでね?」

「うん、忘れないよ。玲太郎と一緒に出掛けられるのだからね」

 小さく頷いた玲太郎は本に視線を移し、栞の挟んである箇所を開いた。

 ルセナの住んでいた家は死後に売るように言われていて、玲太郎が買い取って改修をしていた。休憩が出来るように調度品は揃えてあるが、改修をし終えてから一度も足を運んでいなかった。ルセナの船も玲太郎の所有物となっている。箱舟の特級免許があれば船舶の操縦も出来る為、船舶免許は取る必要がなかった。しかし、それにも当然ながら乗っていなかった。

 百五十有余年の時を経て、漸く行く気になれた玲太郎は、明良とだから行く気になれたのかも知れない。

(私と一緒にルセナ君を迎えに行った事を憶えているのだろうか? 話さないから憶えているのかどうかが判らないのだよね。けれど、小瓶に話し掛けているから、ルセナ君の事は確実に憶えている。それに、思い出したくないという訳でもないのだろうけれど……。仮令たとえそうだとしても、今までミミン地区へ行く気にならなかったのに、突然その気になったという事は心境の変化があったのだろうか?)

 読書をして明良に見向きもしない玲太郎が持っている本を眺めていた。


 玲太郎は明良と一緒にミミン地区の船着き場にいた。玲太郎の記憶の中では、ルセナが魔術を使わずに整備をして綺麗にしていたが、最初の記憶と同様に寂れていた。

「ルセナ君を此処へ迎えに来た時のように古いね」

 明良が思わず零すと、玲太郎は苦笑する。

「維持しようとする人がいないんだろうね。前はね、ルセナ君が綺麗にしてたのよ。人を雇ってたんだけど、きっとそう同じ事をする人がいないし、地域もしないんだろうね。定期船がここに停泊しないからだよねぇ……。なんだか寂しいね」

「そうだね。玲太郎は此処に使用料金を毎月支払っているのだよね?」

「うん、払ってる」

「その使用料金は一体何に使っているのだろうね?」

「あ、そうだね。それを積み立てて行けば、修理が出来るよね」

 明良を見上げると日差しで髪が輝いて見え、玲太郎は目を細めた。

「まだ大丈夫だと思っているのかも知れないね。玲太郎が此処を買い取って、人を雇って管理させればよいのではないの?」

「そうしようか。その方がよいような気がする」

 自分で言った事ではあるが、玲太郎の返事に愕然とする。

「ええっ!? 本気で言っているの?」

 目を丸くしている明良を見て、玲太郎は声を出して笑った。

「あーちゃん、自分で言ったんじゃない」

「それはそうなのだけれど、只のたわ言の積りだったのだよ?」

「うん、でもそれが手っ取り早いなって思ったのよ。金銭的な事を考えると、綺麗に維持する事って難しいんだろうねぇ。僕にはそれが出来る財力があるからね!」

「そうだね」

 優しく微笑むと正面に顔を向けた。玲太郎も同様にした。太陽が眩しく、自然と目を細めていた。ここはウィシュヘンド州とは違い、少し熱気を帯びた風が吹いている。

「あーちゃん、そろそろルセナ君の家の方へ行こうよ」

 そう言って繋いでいる手を引っ張った。明良はそれに付いて行く。

「うん、行こうね」

 明良は水伯と颯から、行くなよと何度も釘を刺されていて、様子を見に来る事がなかった為に今度が初訪問となる。百五十年以上来ていなくても家までの道程が記憶にある玲太郎は、道を間違えているような錯覚に陥る程に建っている家が変わっていた。

「あれ? こんな家、なかったのに……」

「そう思う程に長く来ていなかったという事だね」

「うーん、でも僕の家の周りやイノウエ邸の周りは全く変わってないのよ……」

「それは水伯や私が維持をしているのだから当然だね。だから一緒にしてはいけないよ? 建国祭で露店や屋台が入れ替わってしまう事と同様なのだからね」

「そう言われると、なんだか寂しいねぇ……」

 明良からは玲太郎の表情が見えず、声色から推察するしかなかったが、足取りは歩き始めた頃と変わらず軽い。

「新しい家があるという事は、寂れ切ってはいないのだね」

「それは喜ばしい事だね」

 二人は約二十分歩き、木製の柵に囲まれている小ぢんまりとした赤い屋根に黄色の煉瓦れんが造りの家の前で足を止めた。その家の約二倍の面積を有する庭があり、草木が鬱蒼と茂っていた。柵にも蔦が這っている。

「あらぁ……。放置してたから、庭が凄い事になってるのよ……」

 困惑しながら見ていた。

「木はせん定して、雑草は花が可愛くても抜いてしまおうね」

「うん」

「それにつけても、家は煉瓦造りなのだね。木造だと思っていたよ」

 庭から家へと視線を移した明良が言った。

「あ、木造だったのよ。ルセナ君が亡くなって元の古い家になってたから、僕が板の外側に煉瓦を積んだの。サドラミュオ市の煉瓦造りの家が好きだったからね、黄色い煉瓦と赤い瓦を父上に頼んで買ってもらったのよ」

「そうだったのだね」

 小さく何度も頷いていると、玲太郎が明良の手を引っ張った。

「中へ行こうよ」

「そうだね」

 玲太郎が先を歩き、明良は行く先に視線を遣る。玲太郎は扉の取っ手に手を掛けた。すると、解錠する音が聞こえ、開扉する。

「どうぞ」

 振り返って笑顔で明良を見上げると、明良は玲太郎に釣られて笑顔になる。

「お邪魔します」

 外観通りの小ぢんまりとした室内で、入って右手前が居間、その奥に台所、左側に二部屋並んでいて、真っ直ぐ伸びた廊下の突き当りの扉は厠と浴室に繋がる脱衣所兼洗面所となっている。内装は玲太郎が携わったとは思えない程に簡素だった。壁紙も一色、居間の窓掛けも一色、煉瓦と同色で纏められている。

「ルセナ君、帰って来たのよ。懐かしいでしょ?」

 玲太郎は首から提げている小物入れを握って話し掛けていた。

「僕もとっても懐かしいのよ」

 笑顔で居間から台所へ向かっていて、明良はそれを目で追った。玲太郎がルセナの土に話し掛けるのは日常茶飯事で見慣れているとは言え、今は見るに忍びなかった。

「父上に習ってた魔術が役に立ってるね。埃がないのよ。父上は凄いよねぇ」

 玲太郎は色々な場所を見て回って、感心していた。

「そう言えばそうだね。埃が溜まっているであろう事を忘れていたよ」

「ふふふ。溜まった埃を通気口から外へ出すのよ。凄いでしょ。空気も循環させるんだけど、湿気が足りなくなるから雨の日に長目にやるのが骨なのよ」

「それでは水伯も此処へ来た事はあるの?」

 我慢をしていたが、し切れずに訊いた明良は笑顔でも些か眉を顰めていた。

「父上? うーん、ルセナ君が倒れたその日に一緒に来たけど、その日だけだった筈、と思う」

 明良の表情が明るくなった。

「それでは改修してから初めて来たのは私になるの?」

「うん? はーちゃんにお願いして改修の遣り方を教わって、ずっと見てもらってたのよ。だから改修直後にはーちゃんもいたから、……あ、でも初めて来たのはそうだね、あーちゃんになるね」

「そう、それは嬉しいよ」

 そう言ってはみたものの、心中は穏やかではなかった。

「改修したらなんだか満足しちゃったのと、一人になっちゃったから、寂しくて来辛かったんだけどね。今日は付き合ってくれてありがとう」

 玲太郎が満面の笑みを浮かべた。

「どう致しまして」

 明良が豪華な花が綻んだような笑顔を見せると、玲太郎は暫く見入っていた。そして、ふと思い至る。

「あ! 外の掃除をしないとね。悪いんだけど、手伝ってね?」

「手伝いますとも」

「ありがとう」

「お礼は終わった後でね」

「うん!」

 玲太郎が先に外へ出て行くと、明良は静かに閉扉した。

 この年から玲太郎はこの家へ、それも誰かと必ず一緒だったが、月に一度の頻度で訪問した。時には船でクミシリガ湖沖へ行く事もあった。しかし、タンモティッテは釣れなかった。


 切り良く五百歳になった玲太郎は、悲しい事に、周りの人間がほぼ寿命通りで入れ替わって行くという事に慣れつつあった。

 ナダール王国は約三百年前に滅亡した。それに伴い、ウィシュヘンド州はウィシュヘンド国となっていた。元首となった水伯は身分制度を改め、貴族を廃止しても以前と同様に大きな屋敷に住み続けていたが、身の回りの世話をしている者はもういない事もあって、玲太郎が他人と口を利く機会は激減していた。それでも、水伯、明良、颯、ルニリナ、ヌト達兄弟は変わらずいてくれ、玲太郎はそれだけで良かった。

 検証を続けているサドラミュオミュードが枯野色になった事は一度もないまま、四百八十有余年が過ぎた。

「本当に枯野色になる事があるの? あの図鑑がおかしいの? 僕が五百歳になっても変色自体もないのよね……。あの図鑑がおかしいって事だよね?」

 玲太郎が首を傾げると、水伯も同様にした。

「うーん……、これだけ枯野色が咲かないとなると、突然変異でそうなる可能性は確実に潰えたね。あの図鑑の著者がいない今、確認が出来ないよね」

「形状がおかしくなる事は稀にあるが、それが突然変異であろうな。変色する事なぞないという結論に至る事が出来て、有意義であったわ」

 相変わらず玲太郎の傍にいるヌトが自分の言った事に頷いた。

「答えを出すのはまだ早いかも知れないのよ」

「玲太郎は何を言うておるのよ? まだ続けると言うのか?」

 ヌトが大袈裟に顔を歪めて玲太郎を見た。

「え? だって、時間はたーっくさんあるのよ?」

 水伯が声を上げて笑った。

「あははは。確かにそうなのだけれど、四百年以上遣り続けているのだから、そろそろ止め時だよ?」

「えっ、そうなの? 魔術でやれば簡単だけど、どうせ咲かせるんだから、こうやって手間を掛けてもよいと思うのよ」

「そうだね。それでは続けるとしようか」

 いつもの柔和な微笑みを浮かべると、玲太郎は笑顔で頷いた。それからヌトに顔を向ける。

「ヌトも頑張って育てようね」

「う、うむ。……それでは今暫く付き合うとしよう」

 そう言うと玲太郎の後頭部の方へ行き、髪を一房掴んだ。


 昼食後に居室で寛いでいると颯が遣って来た。

「今日は」

 後ろから声がして、玲太郎は笑顔で振り返った。

「いらっしゃい!」

「水伯は?」

「もう執務室へ行っちゃった」

「来る時間が遅かったか。先に玲太郎と遊んでからでいいか」

 そう言いながら長椅子に座った。

「先に行ってもよいよ?」

「後でいいよ。大したことじゃないからな」

「また黙って二人で旅行する気?」

 眉を顰めると、颯が微笑んだ。

「そうじゃないよ。ニーティが近々寄ってくれるそうだから、それを報せるだけだよ」

「そうなの。ルニリナ先生のお土産が楽しみだね!」

「玲太郎は食べ物が本当に好きだよな。水伯が俺と旅行している間は、兄貴の料理が食べられるからいいだろう?」

「ばあちゃんを思い出して少し寂しくなるけど、あの味は大好きだからね。……うん? 違うっ、そういう問題じゃないのよ! 僕に黙って行くのは良くないのよ!」

 怒りが再燃して喚いた。

「何度もそう言ってるのに、どうして黙って行くの?」

「またその話か?」

「僕だって、はーちゃんと二人で旅行したいのよ」

 泣きそうな表情になると颯の膝に突っ伏した。

「泣くなよ。玲太郎と二人で旅行したら、兄貴の束縛が酷くなる事は身を以て知っているだろう?」

 玲太郎の背中を優しく擦りながら言った。

「三人で旅行出来るんだから、それで我慢しような?」

「……」

 仏頂面で姿勢を戻して颯を見上げた。

「そこは、また二人で行こうかって言う所でしょ」

「兄貴のあの束縛に耐えられるのなら、俺はいいぞ」

 苦笑しながら颯が言うと、首を傾げた。

「うーん、……まあ、確かにあれは嫌かも知れない……」

「だろう?」

「年々酷くなるのよ。どうしてなの?」

「それは玲太郎が許すから増長するんだろうな」

 玲太郎は溜息を吐いた。颯は微笑んでまた爆発する時が近付いているであろう玲太郎の肩を抱く。

「さあ、出掛けようか。今日はヤニルゴルで遊んで、食堂にも行くんだろう?」

「うん」

「操縦を頼むよ」

「解った」

 頷いた玲太郎が笑顔になる。二人は立ち上がって手を繋ぐと屋敷の外へ出た。

 ヤニルゴル地区で乗馬をして、小腹が空いて来た頃に食堂へ行って、軽食を注文した。食後は肉等を買って屋敷へ戻る。

 颯が玲太郎と過ごす時はヤニルゴル地区で乗馬か、和伍の南東で海水浴か、水伯の南の領地だった国を散歩か、玲太郎の操縦でウィシュヘンド国のどこかを回るか、季節の狩りに出掛けるかに限られていた。しかし、玲太郎は不思議と文句を言う事はなく、颯に甘えて同じ事を繰り返していた。


 夕食後、居室で四人が寛いでいる。明良は二人切りになろうとするが、玲太郎が嫌がってそうなっていた。そして、必ず水伯の膝に座っている。明良はそれが心底面白くなかった。毎度懲りずに自分の膝に座らせようとするが、その都度断られている。

「あ、そうだったわ。ニーティが近々来るって言ってたから、水伯に言おうと思っていたんだった」

「そうなのだね。近々って何時頃なの?」

「六月に入って直ぐって言っていたから、一日か二日だろうな」

「私に直接連絡をくれればよいのに……」

「久し振りに話したくなって、俺から連絡を取ったんだよ。そうしたらその頃にこっちの方へ来る機会があるから寄ろうと思っていたんだってさ。先方が日日ひにちを明確にしないから詳細は言えないとも言っていたよ」

「そう。それでは日日が判ったら、その時にまた報せて貰える? ご馳走を作らなくてはね」

 それを聞いた玲太郎が笑顔になる。

「ご馳走? 何? 何を作ってくれるの?」

 その表情を見ていた明良が釣られて笑顔になる。水伯は玲太郎の頭頂部を見た。

「そうだね、何を作ろうか?」

「僕、お萩がよいのよ」

「お萩ね。それから?」

「それから? ……うーん、バラ寿司を久し振りに食べたいのよ。僕がはーちゃんと一緒に作るよ?」

「私が一緒に作ろうか?」

 明良が笑顔で玲太郎に言うと、玲太郎は真顔になる。

「えっ、それは本気で言ってるの? 僕の誕生日にしか作ってくれないのに……」

「本気も本気。ルニリナ先生が久し振りにお出でになるのだからね」

「ふうん……」

 玲太郎が横目で明良を見ていると、颯が身を乗り出した。

明々後日しあさってか、その次の日だからな?」

「解っているよ」

「それじゃあ頼んだからな?」

「うん、きちんと遣るよ」

「忘れるなよ?」

「忘れない」

 颯に言われ、明良は頷きながら応えていた。

「それだったらバラ寿司じゃなくて、焼き飯を作ってくれよ」

 また頷こうとして動きを止めた。

「……どうして颯が品目を決めるの?」

「物凄い昔の話になるけど、俺のいない時に作って以来作っていないだろう?」

「そうだった? 颯のいない時とは何時だろう? ……そう言われてみると、確かに焼き飯を長い間作っていないね」

「あ! あーちゃんの焼き飯、食べた事があるのよ。あれは確かに美味しかったから憶えてる! でもあれからねだっても作ってくれなかったのよ」

 玲太郎が両手を振りながら言うと、水伯が眉を顰めた後、元に戻すと柔和な表情になった。

「ああ、そう言えば、そういう事があったような気がするね。……割と前の話だよね? 颯はそれを根に持っていたのかい?」

「そうなんだよ。兄貴の焼き飯が大好物だから、待てど暮らせど食べる機会が全くなくて…」

「それならそうと早く言えば良かったのではないの?」

 明良にそう言われて、颯が険しい表情に変わる。

「言ったら作ってくれたのかよ?」

「うん、作ったよ」

「嘘だな」

 平然と言った明良に、即座に返した。明良は颯の表情を見て、小さく溜息を吐いた。

「解ったよ。定期的に作るようにすればよいのだろう?」

「え、それは本気か? 言ったからには取り消せないからな?」

 颯が目を丸くした次の瞬間にはまた険しい表情に戻っていた。

「ほぼ毎日夕食を作ってくれたからね。よいよ、作るよ。毎月十八日ね」

「有難う! 嬉しいわ、本当に!」

 周りが驚く程に颯がはしゃいだ。こんな颯を見る機会がほぼない玲太郎は面白くなかった。

「毎月十八日だとはーちゃんの誕生日も焼き飯なの? それって寂しくない?」

「まーったく! 逆に嬉しいわ。あー、こんな事なら、もっと早く言えば良かったなあ」

 朗らかな笑顔を見せて心底から嬉しそうにしている颯を見ている玲太郎は苛立ちを覚えた。


 颯と入浴中、玲太郎はずっと仏頂面だった。

「何をそんなに機嫌を損ねているんだ?」

「別に」

「ふうん? 言わないなら、俺はもう知らないぞ?」

 そう言われてしまうと不安になってしまった玲太郎は、それを顔に出して颯を見た。

「後で、ああだこうだと言わないようにしろよ?」

「あ……、ん……、あーちゃんの焼き飯ではーちゃんが喜ぶから、僕が喜ばせたかったと思って……」

 落ち込んだ玲太郎を見て、颯は微笑んだ。

「そうだったのか、有難う。でも常日頃から玲太郎には喜ばせて貰っているから、気にする必要はないんだぞ?」

「そうなの?」

「兄貴は俺に対してそういう事を一切しないからな。自分でもその事が解っているから、言ったんだろうなと思うよ。明日は槍が降るぞ」

 そう言うと声を出して笑った。

「でも、僕もあーちゃんに焼き飯作ってって言ってたんだけど、どうしてだか頷いてくれた事が一度もないのよ」

「ふうん、珍しいな。どうしてなんだろうな?」

「お菓子は一緒に作ってくれるのよ。はーちゃんがいない時の夕食も作ってくれるけど、焼き飯は作ってくれた事がないのよ。本当に不思議だよね? 僕も理由が知りたいんだけど、訊いたら教えてくれると思う?」

「作る気になれなかっただけだと思うけどなあ……。ばあちゃんがいない時、悠ちゃんと一緒に兄貴に催促していたんだよなあ……。悠ちゃんも兄貴の焼き飯が大好きだったから、勉強している兄貴に、良く二人で懇願していたんだよなあ、懐かしいわ……」

 懐かしそうに語る颯の表情を見ている玲太郎は、少しばかり悠次が憎らしく思えた。

(はぁ……、やっぱり嫉妬しちゃうのよ。僕もあーちゃんの事は言えないねぇ……)

 目を閉じて自分の嫉妬心と向き合っていると、颯の手が伸びて玲太郎の頭を乱雑に撫でた。

「何? どうかしたの?」

「何だか小難しい顔をしていると思ってな」

「そう? そういう積りはなかったのよ」

 颯の笑顔を見ていると、釣られて笑顔になった。

「はーちゃん!」

 俄に立ち上がって颯に抱き着いて行った。飛沫が飛び散る。

「わっ、どうした?」

「いひひひひ」

 玲太郎の背中を優しく叩いた。浴室では明良の目がない事もあり、玲太郎が颯に甘える事はよくあった。颯は微笑みながら受け入れていた。


 ほぼ毎日瞑想を出来る時は遣って来た玲太郎だが、見たいと強く願っている透虫と遭遇した事は一度たりともなかった。

「あーちゃんは透虫を見た事はあるの?」

「私もないね。けれど、存在は感じるよ。有難い事に千里眼が使用出来るし、気配感知も颯に比べ物にならないけれど、一応は出来るからね」

 落胆した玲太郎は俯いた。

「ふうん……。千里眼ってあれでしょ? 遠くが見えるんだよね?」

 顔を上げて明良を見た。明良は微笑む。

「体内も見えるよ。私は遠くよりも、近くを見る方が得意だね」

「近く? 近くを見て何をするの?」

「例えば、脳味噌の中を見るのだよ。細胞が見えるのだけれど、傷んでいればそれに気付けるのだよね」

 玲太郎は目を丸くする。

「へぇ! そんな事が出来るなんて、凄いねぇ! どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」

「聞かれた事がなかったからだね」

 思わず苦笑すると、立ち上がって寝台へ向った。明良も付いて行く。掛け布団を捲り、寝台に上がる。明良が掛け布団を持ち上げると、玲太郎が寝転んだ。

「ありがとう」

「どう致しまして」

 優しく掛け布団を掛けた明良は寝台脇に座る。

「はぁ……。あーちゃんの焼き飯がやっと食べられるね」

「玲太郎も食べたいと言っていたものね」

「そうなのよ。でも、作ってもらえなかったのよ。どうしてなの?」

ひとえに気が乗らなかっただけだね」

 それを聞いて眉を顰めた。

「僕が言っても作ってくれなかったのは、焼き飯だけなのよ。何か理由があるんじやないの?」

 明良が珍しく「ふっ」と笑い、掛け布団から出ている玲太郎の手を握った。

「塩しか入っていない焼き飯をあれだけ絶賛されると、丁寧に味付けをする事が馬鹿馬鹿しく思えるから封印していただけだね」

「そうなの? ……うん、確かに塩だけで絶賛したかも。ごめんなさい。でも本当に美味しかったのよ。あーちゃんの作る料理はなんでも美味しいからね」

 笑顔で言うと、明良も笑顔になる。

「有難う」

「どういたしまして」

 玲太郎の微笑みを見て、明良は言い訳が通用したようでとても安心した。玲太郎が繋いでいた手を離し、枕元の本を手にして栞を挟んである箇所を開く。明良はそれを漫然と見ながら悠次と颯が初めて焼き飯を食べた時の事を思い出していた。そして、些か目を細め、瞬きを一度すると玲太郎の小さな手に視線を遣った。


 ルニリナが来た日は六月一日で、玲太郎に誕生日の贈り物を持って来ていた。玲太郎の好きなソキノ入りの焼き菓子だった。

「わぁー! ありがとうございます! 嬉しいです!」

 玲太郎は、誕生日とソキノが好きという事を憶えていてくれた事がとても嬉しかった。ルニリナの穏やかな微笑みもとても懐かしい。

「それは良かったです」

「ニーティは当分、うちで泊まるから」

 当然のように颯もいた。

「はーちゃん、月の曜日なのに仕事はよいの?」

「俺の仕事に曜日は関係がないからな」

 玲太郎は少しばかり不機嫌になった。ルニリナは玲太郎が相変わらずのようで嬉しかった。

「玲太郎君がお元気のようで何よりです」

「元気は元気です。ルニリナ先生もお元気そうで良かったです。今日はルニリナ先生と久し振りの再開なので、ご馳走を作りますから、楽しみにして置いて下さい!」

 莞爾として言うと、ルニリナは笑顔で頷く。

「解りました。今日は明良先生がお料理されると伺っています。玲太郎君もお手伝いをするのですか?」

「当然です! 僕には無理ですけど、あーちゃんがルニリナ先生をあっと言わせますから!」

 玲太郎は張り切っていた。颯はそれを苦笑して見ていた。ルニリナはそんな颯に一瞥をくれると、颯がそれに気付き、目が合っている瞬間を玲太郎が目聡く見ていた。颯は直ぐに玲太郎へ目を向けたが、玲太郎はそれに気付かず、ルニリナを見続けている。

「玲太郎」

 不意に呼ばれて颯を見上げる。

「うん?」

「ニーティと俺は水伯の所へ行くけど、一緒に行くか?」

「勿論!」

 力んで返事をすると、ルニリナが笑いを堪えて口元に手を持って行く。

「兄貴の手伝いは?」

「あーちゃんの? まだ時間があるでしょ? 時間が来たら呼びに来てくれるか、音石で報せてくれると思うよ?」

「解った。それじゃあ行こうか」

 三人は居室を後にし、二階にある執務室へ向かった。玲太郎はルニリナの隣を当然のように歩く颯の手を取り、強く握っていた。

 ルニリナが水伯邸へ立ち寄る事は割と珍しく、今となっては十年前後に一度となっているが、颯とは機会があれば会っているようだった。こちらに一度来ると約半年は滞在する。それも水伯邸ではなく、イノウエ邸に、だ。玲太郎はルニリナの事は好きだが、その間は颯がそちらに掛かり切りになる為、遣り場のない嫉妬心を持て余す事になる。


 明良の手料理に舌鼓を打った後、全員が居室にいると何故かヌトとズヤもいて話をしていた。嫉妬する事に疲れた玲太郎はそれを何度も見ていた。

「玲太郎が何やら気になる事があるようであるぞ」

 ヌトがそう言うと、ズヤが振り返って玲太郎に顔を向けた。

「わしか? 何よ?」

「ノユはどうしたのだろうと思って」

「ノユとは別行動を取っておるのよ。常に一緒におる訳ではないのでな」

「ふうん、そうなの。でもヌトはあれ以来、ずっと一緒にいるのよ」

「わしもあれ以来、ニーティと共におるぞ」

「それじゃあ長いね」

「短いぞ……」

 玲太郎はズヤとの話が終わってしまい、無表情になった。ルニリナが声を出して笑っていた。

「玲太郎、ズヤは長生きなんだから、五百年くらいは短いに決まっているだろう?」

 些か苛立ちを覚えて、そう言った颯に顔を向けた。颯はルニリナと脚の長い方の椅子に座っている。

「僕にしてみたら長いのよ」

「それは解っているけど、ズヤはそうじゃないだろう?」

「それはそうだけど、でも僕にしてみたら長いのよ」

「そうだな。玲太郎にしてみたら長いな」

 玲太郎が不機嫌のようで、颯もそれ以上は言わなかった。玲太郎は納得したのか、徐に一度頷いて立ち上がった。

「僕は図書室へ行くね。またね」

「それでは私も行くよ」

 明良も立ち上がり、玲太郎の手を取って退室した。ルニリナはそれを見届けてから颯に顔を向ける。

「玲太郎君は相変わらずのようですね」

「そうみたいだなあ……。ニーティが来ると機嫌が悪くなるんだよなあ……。もう少し取りつくろえるようにならないと駄目だな」

 そして苦笑する。

「私は相変わらずのようで安心しますけどね」

 微笑んでいるルニリナを見て鼻で笑うと、一人で茶を飲んでいる水伯に目を遣った。水伯は定位置にいる。

「水伯もこっちに来ないか?」

「そうだね、そうしようか」

 水伯は茶器を持ち、颯の隣に移った。三人はそれから会話が弾み、茶を三杯ずつ飲んだ。

 一方、玲太郎は明良と勉強部屋兼図書室で読書をしようと本を選んでいた。

(あーあ、半年はこれが続くのよ。ルニリナ先生は嫌いじゃないけど、夕食は来ないで欲しいなぁ。でもそうすると、はーちゃんも来なくなっちゃう……。これは非常に辛い所なのよ……)

 いつもの事ながら、悩ましい玲太郎だった。明良はと言うと、この期間は玲太郎を独占出来る時間が増える為、とても嬉しかった。

(ルニリナ先生が何時までもいてくれれば、玲太郎が我儘を言って颯と一緒にいようとしなくなるから、私としてはとても有難いのだよね)

 玲太郎は背表紙を眺めているだけだったが、明良は笑顔で玲太郎を見ていた。


 毎度の事だが、ルニリナが滞在中の旅行はルニリナも同行する。今年はルニリナの希望で行き先はネリ国となっていた。目的はアンドビチュ博物館だ。玲太郎はこれで三度の訪問となる。

「恥ずかしながら、七百年以上生きているのに一度も訪れた事がないのですよ」

 気恥ずかしそうに言う。玲太郎は何故か無しょうに嬉しくなった。

「俺だって行っていない場所は沢山あるし、ニーティの方が色々と行っている分、上だと思うぞ」

「颯も色々と行っているではありませんか」

「うーん、ニーティに比べたら少ないけどな」

 玲太郎は嬉しくなった自分を恥ずかしく思った。自己嫌悪に陥っていると、明良が肩を抱いて優しく叩いた。顔を上げて明良を見ると、明良が微笑んでいた。玲太郎も微笑み返す。

 館内は警備員が多く、それも獣人でもはな族が殆どを閉めていた。

「ルニリナ先生は目族だから、親戚みたいなものだよね」

 小声で玲太郎が言うと、ルニリナが穏やかに微笑んだ。

「そうですね。同じ獣人ですからね」

「玲太郎、それを言ったら俺達も親戚になるぞ? なんと言っても目族の血が流れているからなあ」

「あ、そうだった。それじゃあみんな親戚だね……」

 場都合が悪そうに言うと明良を見る。明良はずっと玲太郎しか見ていなかった。

「あーちゃんは芸術品とか遺物とか観ないの?」

「兄貴は玲太郎を記録しているから話し掛けない方がいいぞ。三十時間記録出来る物を作れと注文されて作ったからな」

「え、黒淡こくたん石?」

「そうだよ」

「丸一日もどうする積りなの?」

 困惑した表情で明良を見ると、明良が微笑んだ。

「玲太郎を記録し続けるに決まっている」

「ええっ、止めてよぉ……」

 更に顔を顰め、横目で明良を見る。

「止めない。きちんと残しておかなければならないのだよ。私の記憶が薄れて、いずれは消えてしまうのだからね」

「それならまた新しい思い出を作ればよいのよ」

「新しい思い出は何れ古い思い出になるだろう? だから思い出は全て大切にしたいのだよね」

 そう言って満面の笑みを湛えられてしまうと、玲太郎も仕方がないと許す気になってしまった。ルニリナはその二人の様子を見て、穏やかに微笑んでいた。

「相変わらず仲が良くて羨ましいですね。私の兄弟は皆亡くなったので寂しい限りです」

「俺が兄弟みたいな物だろ?」

 颯が透かさず言うと、ルニリナが頷いた。

「そうですね。颯がいてくれて助かります」

 笑顔で見合っている二人を玲太郎が恨めしそうに見ていると、一緒に来ていたヌトが失笑した。その視線はヌトに移り、不快そうに見詰めた。ヌトは笑いを堪え、咳払いを一つして取り繕う。

「済まぬ。つい……な」

「わしは失笑するような事は言うておらぬが」

 的外れな事を言うズヤを見たヌトは苦笑する。

「いや、何、ズヤではないのよ」

「そうであるか。ならばよいのであるが」

 視線を移して人だかりの上を飛んで行った。ヌトもそれを追う。

「何度来ても天使の羽根は大人気なのよ」

 二体を視線で追った玲太郎が言うと、全員がそちらを見る。

「あれを見に態々わざわざ来ている人が多いからなあ……」

 人の多さに眉を顰めた颯は小さく溜息を吐いた。ルニリナが申し訳なさそうにする。

「私もその一人なのですが……。行ってみたいとは思っていても、一人だとどうしても行く気になれなくて今度の行き先の希望にしたのですよ」

「まあ、解るよ。一度は見ておきたいよな」

「それなのですよ。やはり見てみたくて」

 玲太郎は繋いでいた明良の手を引っ張り、人集りの中へ向かって行った。颯はルニリナと顔を見合わせる。

「どうする? 付いて行くか?」

「人がもう少しいなくなるまで待ちます」

「そんな事を言っていたら、何時まで経っても観られないぞ?」

「そうなのですか? ……それでは行きます」

 意を決したルニリナが頷いた。

「そうしよう」

 二人は人集りの中へ突っ込んで行った。しかし、中々前が移動してくれず、颯が魔術で少しずつ隙間を広げて行き、そこから陳列棚の前へ辿り着いた。低い台の上に白い羽根が載っていて、玻璃はりで五面を囲っている。近付けないように境界線が張られ、その中に警備員が一人いて台の周りを徐に回っていた。

「鶏のそれと大差ないですね。……少し大きいでしょうか?」

 小声でルニリナが言うと、颯が微笑んだ。

「見比べてみたいよな」

 台の真上にヌトとズヤがいて何やら話している様子で、颯はそちらを見ていた。

「それにしても、ここでは照明が反射して見難いですね……」

「右へ移動しようか」

 右側にいた颯が言うと、ルニリナが笑顔を向けて頷く。

「お願いします」

「少しずつだからな」

「はい」

 また魔術で徐々に押して行き、右側へ移動する。

「ここで大丈夫です」

「解った」

 二人は暫く鑑賞していると、ヌトとズヤが遣って来て「玲太郎が仏頂面であるぞ」と言い、二人は仕方なく人集りの中から脱出した。


 ネリ国には五日滞在し、歴史的な建造物を見て回ったり、南国特有の植物を集めた植物園にも赴いたり、ネリ国一の繁華街へ赴いたりして過ごした。玲太郎は同伴していない水伯の為に土産を選んでいた。

「前に買った物と同じ物ではないの?」

「え? そう? 何を買ったか、もう忘れたのよ……」

 明良に言われて、手にしていた物をあった場所へ戻した。

「天使の羽根を模した物が多いんだよな」

「私も以前、颯からお土産としてもらいましたよ」

「そうだったか? 食べ物だったような気がするんだけどなあ……」

「食べ物ももらいました」

 颯が目を丸くした。

「え? そうだったか? 良く憶えているな。感心するわ」

「ネリ国へは来たかったので、とても羨ましくて憶えていたのですよ」

「成程」

「それにもらったお土産は専用の帳面に記入していますのでね」

「そういう所は几帳面だよなあ」

「そうですね。長く生きると物忘れが酷くなりますからねぇ」

「うん、言えているなあ。俺も本当に物忘れが酷くなっているんだよな」

 二人は顔を見合わせて笑っていた。玲太郎は無心で土産を選んだ。

「水伯も一緒に旅行で来たし、お土産は食べ物がよいのではないの?」

 明良が微笑んで言うと、玲太郎はその顔を見上げて手を止めた。

「うーん、それなのよ。僕もそう思い始めた所なんだけどね……」

「それでは彼方あちらへ行こうか?」

 明良が指を差した方向を見ると食べ物が置かれていた。

「うん、そうする」

 手を繋いでそちらへ向かった。ルニリナはその後姿を見ていた。

「颯はここで選びますか?」

「うーん、土産は水伯に買うだけだからなあ……」

 その言を聞き、ルニリナは微笑んだ。

「うん? どうかしたか?」

「玲太郎君と兄弟だなと改めて思いましてね」

「ふ、そうなんだな」

「私も閣下にお土産を買いたいのですが、皆さんが買われた物と被らないようにしなければなりませんね」

「一度は水伯も一緒に来ていたんだけどな」

「そうですか」

「土産なぞよいではないか。水伯は望んでおらぬと思うがな」

 二人はそういったヌトに顔を向けた。

「何を言うておる。欲しいに決まっておろうが」

「何故ズヤが水伯の気持ちが解るのよ?」

「それはヌトにも言えようて」

「む……」

 颯は思わず鼻で笑った。

「水伯は何を貰っても、あの笑顔で有難うと言うだけだな。見ている限りだと、食べ物の方が嬉しそうではある」

「それでは食べ物にしましょうか。何か、日持ちのする物を……」

「それなら乾燥果物があるぞ。あれ美味しいんだよな」

 ルニリナの表情が明るくなる。

「私もあれは大好きです。ここ特有の果物があればそれにしましょう」

「それじゃあ俺は焼き菓子にしよう」

 二人も食べ物が置かれている場所へ移動した。ヌトとズヤもそれに付いて行く。先にいた二人と合流して、被らないように相談をしながら土産を決めた。


 玲太郎はこの約半年の間にルニリナと仲良くしている颯を見て、ルセナを思い出していた。消える事の多い記憶の中でも、ルセナの笑顔は鮮明に、それも昨日の事のように蘇る。ちなみに本当はそれも徐々に薄れていて、生前から念写をしていて沢山の写真があり、それを見て焼き付けていた。

 ルニリナが帰った後は玲太郎が感傷的になる。明良は必要以上に接触はせず、見守っていた。玲太郎はこれ幸いとばかりに、颯に溜まった鬱憤と寂しさをぶつけるように甘え、颯は玲太郎の遣りたいように遣らせていた。

 ある日の夕食後に居室で寛いでいる時、玲太郎の甘え振りに明良が恨めしそうに颯を見ている様子を見て、水伯が一人いつもの微笑みを浮かべていた。それに気付いた明良は横目で水伯を見ると、水伯が顔を向けて来た。

「明良達がこうしていてくれるようになって、もう五百年近くになるのだね。月日の流れという物は本当に早いね」

「そうだね、玲太郎がもう五百歳だものね」

「明良達との付き合いはそれを超えるのだよね」

 颯の背に負われている玲太郎が水伯に視線を遣った。

「父上はそうやって百年後も同じ事を言ってそうだよねぇ」

「そうだな。百年前も言っていたからなあ」

 二人が笑顔で言うと、苦笑した水伯は在りし日の三人を思い返す。

「明良が誕生したと報せを受け、和伍へ行った事が昨日の事のようだよ。イノウエ家を見守る事が私の使命となっていたから、あれが除籍となっても見守らなければならなかったからね。イノウエ家には長子がいたからその一家だけを見れば良くなり、あれとも縁が切れそうになっていたのだけれど、子供が誕生したら暫くは関係が続く事になったのだよね。悠次と颯が誕生して、玲太郎が誕生して……、本当に愛くるしい子供達だったね」

 直ぐ近くを見ているようで、物凄く遠い場所を眺めているようだった。

「玲太郎が愛くるしかった事は憶えているぞ」

「いひひひひ」

 玲太郎は悪戯っぽく笑って、首に抱き着いている腕に力が籠った。

「颯の愛くるしかった頃の事を憶えているけれど、やはり玲太郎には敵わないよね」

「そう? 私は明良も含めた皆が一様に愛くるしく感じたのだけれどね」

「僕もあーちゃんやはーちゃんの愛くるしかった頃を実際に見てみたかったのよ」

「残念だなあ、何があっても見えないな。でも俺は玲太郎の愛くるしかった頃の事は憶えているぞ」

「ふうん……。もう愛くるしくないって事?」

「今はそうだなあ…」

「愛くるしいよ、今でもね」

 透かさず明良が言うと、颯は苦笑した。水伯は「ふふふ」と笑っている。

「ありがとう」

 明良に笑顔を見せると、明良も笑顔で頷いた。颯は微笑みながら嬉しそうな明良の顔を横目で見ている。


 久し振りにハソが水伯邸を訪れたが、歓迎する者はいなかった。特に明良は一瞥をくれただけだった。

「あれ、来てたの?」

 相変わらず成長していない玲太郎が約二百年振りに会うハソを見て驚いていた。

「うむ。忘れられぬように、偶には来ておかねばなるまいて」

「ふうん……」

 玲太郎は繋いでいた明良の手を離し、長椅子に腰を掛けた。

「明良は相変わらず素気すげないな。久しいが元気にしておったか?」

「元気だよ。ヌトはノユの所へ行ってていないのよ」

「そうであるか。颯は何をしておるのよ?」

「夕食の後片付け」

「それでは其方へ行くとするか」

 そう言って飛んで行き、壁をとおり抜けて消えた。

「悪霊を久し振りに見たね。何年振りだろうか」

 消えてから明良が言うと、玲太郎が笑った。

「ハソとは久し振りだよね。まあ、それを言ったらヌト以外は基本的にここへ来てくれないと、会う機会がないからねぇ」

「お茶を飲むかい?」

 水伯が訊くと、二人は水伯に顔を向けた。

「うん。僕は緑茶をお願い」

「それでは私は紅茶にしよう」

「解った」

 二人の前に各々の飲み物が出現する。

「ありがとう!」

「有難う」

「どう致しまして」

 水伯は手にしている茶器に口を付けた。

「父上はハソと何を話してたの?」

「元気か? 元気だよ。何をしておったのだ? 変わりなく植物の世話をしていたよ、というような事を話していただけだよ」

「ふうん……」

 玲太郎は湯呑みから湯気が立っている様を見詰めた。

「僕達も全く変わりないけど、ヌト達も変わらないんだね」

「そうだね。彼方が先だけれどね」

 茶器に口を付けた明良が些か眉を上げた。

「水伯、茶葉を変えたの? 香りがとても豊かになっているよ」

「ニーティが送ってくれてね、それにしてみたのだけれど、美味しいよね」

「ルニリナ先生はお元気なの?」

「子育てをしているようだよ」

「そうなの、それは驚きだね」

「えっ、それは本当? それじゃあここには来ないの?」

 玲太郎は嬉しさと寂しさが入り混じった複雑な気持ちになった。

「来ても以前のように長期滞在はしないのではないだろうか。……とは言えども、来てみないと判らない事なのだけれどね」

「ふうん。それは寂しいね。ずっと同じように過ごすんだって思ってたけど、ルニリナ先生は違ったんだね……」

 玲太郎は誰もと目を合わせずに伏せていた。湯呑みから立ち上る湯気が消える様子を見詰めている。

「玲太郎も変わった事を始めてみる? 例えば、そうだね、刺繍とか編み物とか」

「刺繍でもしようか。ばあちゃんに教えて貰ったのに手ではまーったく遣ってないのよ」

 明良を見ると苦笑した。そこへ颯がハソと入室する。全員がそちらへ顔を向けた。

「玲太郎、ハソが青星を見に上空へ連れて行って欲しいって言っているぞ」

「えっ、もしかして、それが目的で来たの?」

 不快そうにハソを見ると、ハソは首を横に振った。

「そうではないのよ。颯を見たらふと思い出してな」

「よいよ。お茶を飲んでからね」

「解った。楽しみに待つわ」

 ハソはそう言うと嬉しそうに天井付近を飛び回った。三尺に縮んでいるハソを見ていると、颯の傍にいた遠い昔を思い起こさせる。玲太郎は懐かしく思いながら湯呑みを手にした。手に茶の熱さが伝わって来て、息を吹き掛けると湯気が姿を消したが、直ぐにまた立ち上った。

 久し振りに青星を眼下に望むと、この星が永久にあるように思えた玲太郎は、本当にそんな事が有り得るのかと疑問も抱いた。

 玲太郎を抱き上げている明良は微笑み、水伯は颯と並んで歩いている。その直ぐ後ろをハソが飛んでいる。それ等を見ていると、自然と笑みが零れた。

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