第三十七話 しかして勉学は続く
十月二十三日、ルニリナが水伯邸に居を移して三ヶ月が経過し、玲太郎は明良と共に呪いを学んでいた。軽い悪戯から始まり、その解呪と共に習得して行った。悪戯のような呪いの時は良かったのだが、徐々に程度が増していて、玲太郎としては本当に必要な事かと悩んでいた。
明良は既に習得してしまい、玲太郎が追い付くまで書類仕事を熟す為にイノウエ邸にいて、玲太郎一人で頑張っていたのだが、思い余ってルニリナに相談をした。
「確かに玲太郎君なら、呪いの本質が解らなくても解呪は出来てしまうと思いますね」
穏やかに微笑むルニリナにそう言われてしまうと、玲太郎も困惑した。
「え……、それじゃあ、呪いは習わなくてもよいという事ですか?」
「そうでもありませんよ。解っていれば、幾つも掛け合わせた呪いをいとも簡単に解呪出来ます、と言いたい所ですが、玲太郎君ならば、それもやってのけてしまうでしょうね」
「ええ……」
「颯も学んだ事ですから、玲太郎君も学んでおきましょう。役に立つ時が来るかも知れませんからね」
「はい」
真剣な表情で頷いた。
「それでは、足を挫く呪いの練習を再開しましょう。成功したら、治癒術で治しましょうね」
「はい……」
玲太郎は目の前にいる鶏を見た。
(きちんと治癒術で治すからね。ごめんね)
玲太郎はやはり呪文を唱えると強力になり過ぎてしまう為、呪文なしで遣っていた。
(そう言えば、はーちゃんは実技をやってなかったように思うんだけど……、本当に習得したのだろうか?)
余計な思案を巡らしてしまう事はいつもの事だった。
玲太郎は呪いよりも、以前のように植物を育てる魔術に熱を入れていた。勿論水伯が教授し、入学する以前に戻ったかのようだった。毎朝、朝食後に北の畑へ通って、種を取る練習を遣っている。
そして、エネンドとは顔を合わせる事はないままで、ルセナとは九月に家族で見学に来ていた時に会ってからは会っていなかった。今はもう、サドラミュオ親衛隊の一隊員として勉強や鍛錬に尽力している筈だ。月に一度、手紙の遣り取りをしているが、十月の分はまだ届いていなかった。
学んでいる魔術は呪いと植物以外に、明良から薬草術を引き続き学んでいて、和伍語とブーミルケ語も頑張って学習していた。和伍語は小難しい漢字も書けるようになり、水伯と明良と颯の三人と和伍語で遣り取りをしていた。
水伯の教授する魔術は植物以外にもあり、玲太郎が望んで始めた反転の術の習得を目指していた。付与術に程近い術ではあるが、それとは全くの別物で、反転に至る前段階を遣っていたのだが、成果物は当然ながら明良が持って行った。
「使用者が亡くなったら一緒に消えるっていう条件付けが難しいのよ。出来てるかどうか、分からないんだよ?」
「だからキコ鳥が死んでも消失しないという事は、条件付けが出来ていないという事なのだから、分からないという事ではないよね」
「はぁ……、失敗か……」
落胆して溜息を吐くが、水伯はいつも通りの柔和な表情で玲太郎を見詰める。
「そうだね、認める事が大切だからね。また明良が持って行くだろうから、失敗作は置いておこうね」
「……」
玲太郎は不機嫌そうな表情で頷いた。
「はぁ……、鳥が何羽いても成功しないような気がして来た」
「此処には騎士団や親衛隊の寮住みの子達が沢山いるから食べて貰えるし、多ければ多い程に喜んで貰えるから、気にせずに練習は出来るのだよ?」
「毎日鳥だと飽きてそう……」
「それは仕方がないよね。休日に鳥以外の肉を食べに行けばいい話だからね」
「鳥三昧だね。うちもだけど」
「キコ鳥と鶏は沢山孵化させているから気にせずに遣るのだよ? 条件付けは必ず習得したいのだろう? それと反転も」
「そうなのよ! だから頑張る!」
俄に遣る気を漲らせる。それを見た水伯は柔和に微笑んだ。
「でも週に二日は休もうね。出来ないと気持ちが続かないし、何より遣る気が失せて続く事もなくなるといけないからね」
「その日は寮でも別の肉が出て、よいかも知れないね」
「ふふ、そうだね」
この頃から鳥の、殊更鶏とキコ鳥の価格が高騰して当分続く事になるが、玲太郎がそれを知る事はなかった。
魔術の練習が終わり、夕食前に水伯と二人で居室にて待機をしていると明良が遣って来た。
「玲太郎、呪いは私に追い付いた?」
開口一番がこれだ。玲太郎はここ最近、ずっとこう言われていて好い気がしなかった。
「まだなのよ。そう急かさないでくれる?」
眉を寄せて言っていると、いつもの事ながら明良が隣に座った。
「いらっしゃい。仕事はもう終わったのかい?」
「今日は。沢山はないから、直ぐに終わるのだけれどね。玲太郎に言語を教えているから、その問題帳を作っていたのだよ」
「え! 本当? ありがとう、あーちゃん」
「どう致しまして、と言っても、今は持って来ていないよ? 明日の授業の時にね」
「うん、楽しみにしてるね」
玲太郎が笑顔になると、明良も釣られて笑顔になっていた。
「それにつけても、玲太郎はどの辺まで呪いの授業が進んでいるの?」
「捻挫の所」
「そう、解った。それではまだまだ掛かるね」
「明良は何処まで習っているの?」
「骨折」
「捻挫の次が骨折なのかい?」
「ううん、それがね、捻挫で痛める筋があるでしょ。それを切る呪いがあって、そっちが先なのよ」
明良が答えようとした所を、先に玲太郎が身を乗り出して答えた。
「そうなのだね。筋を切って、骨を切って、その次は血管になるの?」
「そうなのよ。父上、良く分かったね? 僕ははっきり言って怖いのよ……」
明良は微笑ましく玲太郎を見ていたが、水伯に視線を移す。
「呪い方次第では治癒術が効かないのだよね。だから解呪が必要になるのだけれど、こういう呪いを依頼する人がいるのだろうかと、甚だ疑問でしかないね」
「何もない所で転ぶとか、足の小指を角に打ち付けるとか、鳥の糞が頭に落ちるとか、そういう可愛い物ではないのだね」
「うん、違うね」
明良が頷くと、玲太郎がまた身を乗り出す。
「そういうのも習ったんだけど、今は人体にかける呪いを習ってるのよ。練習台は鶏だけど……」
「ああ、それで家でも鶏続きなのだね」
「そうなのよ。あ、そう言えば、あーちゃんはきちんと実技はやったの?」
顔を上げて明良を見ると、目が合った。
「私は一発合格だったよ」
「そうなの? いつの間にやったの? 僕、知らなかったのよ」
「ルニリナ先生に掛けて治癒術で治してしまったからね」
玲太郎は思わず目を丸くした。
「ええ! ルニリナ先生にかけたの? そんな酷い事、良く出来たね? 僕びっくりしちゃった……」
「颯も遣ったと言っていたよ? 先生に掛けて体感して貰う事が一番解り易いからね。それに、それはルニリナ先生だって承知の上での事だからね」
「それじゃあこの先に習う呪いもルニリナ先生が対象になるの?」
「さすがに死ぬ呪いは掛けられないだろう? それは動物で遣るのだけれどね」
「臓器にかける呪いはどうするの?」
「自分に掛ける。その上で解呪をして治癒術で治療すればよいよね」
「ああ、そうなの……」
玲太郎は俯いた。
「玲太郎も治癒術を習って、色々治療出来るようになっておこうよ」
「あーちゃんはまた直ぐ治癒術を習わそうとするんだから……」
「学校で習っていた時は巧く出来ていたよ?」
「うーん……」
嫌そうにしていると、明良が微笑んだ。
「ルセナ君が怪我をした時、玲太郎が治せるようになっておきたいと思わない?」
また顔を上げて明良を見ると微笑んでいる。ふとある思いが過った。
「その時はあーちゃんが治してくれる? それなら僕も安心なんだけど!」
「それは構わないよ。……構わないのだけれど、ルセナ君は玲太郎の友達ではないの?」
「うん? それはそうだけど」
「それでは玲太郎が治すのがよいと思わない?」
暫く沈思していた玲太郎は水伯に顔を向けた。
「父上、その時は僕が治してもよいの? ルセナ君が周りに何か言われない?」
「大きな怪我をする事があれば、最寄りの病院へ担ぎ込まれるだろうからね。隊員の目に付く事も少ないだろうし、いたとしても帰せば済む話だから、ルセナ君が何かを言われる事はないと思うよ?」
「うーん、でもルセナ君には、危なくなったら逃げるように言ってあるんだけどね?」
「別の治癒師が手を尽くした結果、駄目でした……となる場合もあるのだけれど、そうなった場合、自分で遣った方が良かったと後悔はしないね?」
玲太郎は明良に顔を向け、少し間を置いてから頷いた。
「あーちゃんがやってくれたら、それでよいと思う」
「本当に? 後悔はしないね?」
困惑した表情になると水伯を見た。
「父上ぇ、あーちゃんが僕にやらそうとするのよ」
「それは仕方がないよね。玲太郎程の魔力量があれば、明良の出来ない事も出来てしまうのだからね」
「ええ……、そうなの?」
余計に眉を顰めた玲太郎は俯いた。
「それはそうだよ。技術も大切だから練習を遣る事は当然にしても、それだけではどうにもならない物があるからね」
そう言った明良を横目で見た玲太郎は、視線を水伯に戻す。水伯は柔和に微笑んでいるだけだった。玲太郎のその表情を暫く見ていると「ふふ」と笑った。
「最後は玲太郎が決める事なのだから、私に助けを求めても駄目だよ?」
「えー……」
後ろに倒れて背もたれに頭を預け、横目で明良を何度となく見る。横顔だったり、目が合ったり、微笑まれたりしていたが、玲太郎は何も言わなかった。
「それでは下学校で習った事を復習し続ける、というのはどう? それでもっと別の治療を遣りたいと思うようになったら難しい事を遣る、というのはどうだろうか?」
「あーちゃんはどうしてそんなに僕に治癒術を習わそうとしてるの?」
「私が習得した事を伝授しておきたいから」
「……それだけ?」
「それだけ」
玲太郎は物凄く不愉快そうな表情になった。
「でも考えてご覧。ルセナ君が傷付いた時に、そこで玲太郎は漸くルセナ君の担当している任務が危険だと判る事もあるのだよ? そうなった時、ルセナ君はもう怪我を負っている事になるのだからね。私が治せる程度ならよいけれど、そうでなければ玲太郎は本当にずっと悔いる事になるよ? それでもよいの?」
「……それは嫌だけど」
「そうだろう? だからそうならない事を願いながら、そうなった時の為に備えておかない? 万が一、私がそうなった場合も玲太郎に治して貰わないとならないからね」
俄に上体を起こして明良を指で差した。
「あー! 後半が本音なのよ! あーちゃん、そういう事を言ったらダメだって言ってるでしょ!」
明良はその指を手ごと握ると苦笑する。
「私は序なのだけれどね。それから人を指で差してはいけないよ?」
「ごめんなさい」
手を抜こうとしたが抜けなかった。
「玲太郎が治癒術を治癒師になれる程に習得してくれれば、私に万が一があった時に助かる確率が跳ね上がる事は確かなのだよね。それは水伯にも颯にも言える事なのだからね?」
「綺麗事を言っても、結局は玲太郎と過ごす時間が欲しいだけなのではないのかい?」
玲太郎は水伯から明良に視線を移し、目を丸くしてまた指を差した。
「あー!!」
明良は左手も握った。
「そのような事をしなくても玲太郎とは過ごせるのだけれどね?」
「ふうん……、まあ、確かにそうかも」
「そうだろう?」
玲太郎は両手を抜こうとしているが抜けない。
「薬草術と和伍語にブーミルケ語でしょ、その上、治癒術もやるの? 僕はやりたくなかったんだけどなぁ……」
「そう、遣る気になってくれたのだね。有難う」
「ルセナ君の事を言われたらね……。エネンドだって何があるか分からないし、僕が助けられるなら助けたいとは思うんだけどね。でもそんな事を言ってたら、全員を助けないといけないんじゃないかって思っちゃって……」
「全員とは?」
そう訊いた水伯に顔を向ける。
「知ってる人全員。そうじゃないと、なんか狡いでしょ」
「成程。私は別に狡いとは思わないけれどね。治癒師になって、何処かの病院に勤めていても、其処に来る患者を全て助けられる訳がないのだから、其処まで使命感を持つ必要はない思うよ。私も、そろそろ王家に置いてある、私の作った物全てを消去してもよいとさえ思っているもの。特に反転はね。さも当然のように身に着けているけれど、それを着けるに値する人物かと言うと、そうではないのだからね」
明良が無表情で水伯を見る。
「まだあの事を怒っているのだね。それは私も同様なのだけれど……」
「うん? なんの話?」
「玲太郎が毒を盛られた時の話だよ」
玲太郎は眉を顰めて、そう言った水伯を見る。
「え、父上はまだ怒ってるの? 僕は死ななかったんだよ?」
いつになく険しい表情になっていた水伯が苦笑する。
「そういう問題ではないのだよね。その後の王家の行動が最悪だったから許し難くてね。謝罪を受け入れる以前に、全て突き返しているのだよ」
「え、そうだったの?」
「此方には謝罪を求めて来ていたから、無視したのだけれどね」
玲太郎は明良に顔を向け、険しい表情をする。
「何をやったの?」
「その一件での重要人物を攫ったからだね」
思わず目を丸くすると、明良に顔を近付けた。
「さらっ……、さらって来たって、どうやって?」
「颯に頼んで連れて来て貰ったのだよ」
「そんな事をしてたの? 怖いね……」
明良は満面の笑みを湛えた。
「それはそうだよね。王宮騎士団は重要な事を水伯に隠していたのだよ? それも王太后の指示だったのだから驚愕だよね。知ってしまったら、許す訳がないよね」
「えっ、そうなの?」
「手柄を取って、水伯より優位に立ちたかったのか、面目を保ちたかっただけなのかは判らないけれど、只の悪手だよね」
そう言うと漸く玲太郎の手を離した。玲太郎は両手を交互に撫でて手を組み、膝に置いた。
「そういう訳で、私が作った物は全て消去したいのだよ」
柔和に微笑みながら言った水伯を見ていると、これ以上知らない方が賢明と直感的に思った玲太郎は「ふうん」と応えただけだった。
「兎にも角にも、玲太郎が治癒術を習ってくれる気になって、私はとても嬉しいよ」
明良が話題を戻して笑顔で玲太郎を見ると、玲太郎は苦笑した。こうして治癒術も結局習得する事になり、言語の時間を少しずつ割いて治癒術に充てる。
その話を颯にすると、颯は「ふうん」と言っただけだった。
「はーちゃんは怪我をしないよね?」
「うーん、それはどうだろうな? まあ、今は危ない仕事はしていないけど、油断をすると危険もあるという事は良く解っているから、そうなりそうなら事前に逃げたい気持ちはあっても、そう判断する前に遣られたらそこで終わりだからなあ……。逃げたくても逃げられない状況になったらどうしようか?」
「え? そんな事になる事なんてあるの?」
颯は怪訝そうにこちらを見ている玲太郎を見て眉を顰めた。
「ないとは言い切れないだろう?」
「……それは、そうだね」
俯き気味になって湯面に映っている颯の顔を見た。
「魔力を封じられたら、そこで終わりだからなあ……」
「そんな事が出来ちゃうの?」
顔を上げると颯と目が合った。
「うん、出来る。俺は出来ないけどな」
「それじゃあ父上なら出来る?」
「水伯はどうだろう? 遣ろうと思えば出来るんだろうなあ……。水伯はナダールで習った魔術とは別物の術を使っているからなあ、今は出来なくても練習次第では出来そう」
「そもそも呪文がないもんね」
「魔術はそれが本来の物なんだろうなあ……。俺も色々と出来るようにならないといけないな」
「僕も! 反転が出来るようになったら、必ずはーちゃんにも作るからね。首飾りと腕輪とどっちがよいの?」
笑顔で訊くと、颯は浮かない表情になる。
「俺はそういう物は着けたくないんだよな……。でも玲太郎がくれるって言うなら、そうだなあ……。腕だろうな?」
「どうして疑問形なの? そんなに嫌なの?」
「俺がそういう類の物を着けている所を見た事があるか?」
玲太郎は首を傾げて、視線を上に遣った。そして唸る。
「うーん……、確かに見た事がないかも。あーちゃんは耳飾りも首飾りもしてくれるんだけどね」
「玲太郎が煽てるからだろう。兄貴は玲太郎が本当に大好きだからなあ……、綺麗! 似合う! と言われたら、兄貴も悪い気はしないだろう」
「僕ははーちゃんも大好きだよ?」
「それはどうも有難う。俺も玲太郎が大好きだぞ」
顔を紅潮させた玲太郎が気恥ずかしそうに笑顔で頷いた。颯は手を伸ばして額に手を当てる。
「長湯でもないのに湯中りか?」
「ううん、でも少し熱いかも」
頭上に冷たい水の塊が顕現する。
「あ、ひんやりするのよ。ありがとう」
「どう致しまして」
「それにしても、ルツはやはり此処の方がお気に入りだな。跳ねている高さが違うわ。後、気付かなかったけど、掃除苔の花が咲いているもんな」
「そうだね。嬉しそうに跳ねてるのは長期休暇中もそうだったもんね。でも広い所がよいなら、湖に戻した方がよいような気がするね」
「そうだなあ……」
二人はいつものたわいない話を続け、湯船に約三十分浸かった。
玲太郎は夏休みを過ごしているような感覚だった。しかし、もう学校へ戻る事はない。それが不思議な気持ちにさせた。四ヶ月経った今でも、ふと寮へ戻らないといけない思いに駆られる事もあった。
寝台脇に座り、読書をしながら時折玲太郎に目を配る明良の姿は、以前なら休日にしか見ないのだが、これがずっと続くのだ。
(ずっと休みっていう事は、あーちゃんにこうやって監視されながら眠らないといけないんだよね。やっぱりはーちゃんとの旅行は必須なのよ。……あーちゃんは監視してるつもりはないんだろうから、つい監視って思っちゃうのはいけない事だね。気を付けなきゃ。でも週末もぴったりとくっ付いて来るから、あーちゃんとずっといるようなものなのよ。とにかく、はーちゃんは眠るまで監視…、うーん、なんて言うの? ……見て来ないから絶対に行かないと。年に二度って言われたから、今年は半年の間に二度行けるよね? 和伍のどこにしよう? 明日地図を見なきゃ。行く日数は一ヶ月くらいでもよいよね? やっぱり長いって言われるかも? 夜中に多々羅へ行ったり、海へ行ったりして楽しかったけど、今行くのはもう無理だよねぇ……。明日、お風呂の時に言ってみようか? それがよいかも……)
目を閉じて思案に暮れていると、いつの間にか就寝していた。
翌日から治癒術の授業が開始され、今まで習得した術の復習からになったのだが、何故かルニリナも一緒に遣っていて驚いた。
「ルニリナ先生も治癒術を習うんですか?」
「私もこの際に習っておこうかと思いまして」
穏やかな笑顔で言っていた。玲太郎は一人ではなくなる為、大歓迎した。
「宜しくお願いします!」
明良は二人の時間を邪魔されるようで乗り気ではなかったが、水伯に頼まれてしまっては何も言えなかった。そして、ルニリナの為にゆっくり授業を進める予定だったが、思いの外魔力操作に長けていて、非常に優秀な生徒である事を知った。
「ルニリナ先生は何をやってもすぐ出来ちゃうんですね。凄いです」
玲太郎が素直に感服していると、明良も頷いた。
「魔力操作は颯よりも上かも知れませんね。これなら自白薬で異常を来した脳も治療出来ると思います」
照れ笑いをしていたルニリナも、これには困惑した。
「うーん、それは、千里眼が使用出来る事が前提の話ですよね? 私には出来ない芸当ですので、そこまでは無理ですよ」
「瞑想はしていると颯から聞いていますが、行く末は使えるようになるのではないでしょうか」
ルニリナは首を横に振った。
「ノユもズヤも真っ暗だと言っていましたし、瞑想を続けている内に出来るようになるという事も、人によるのではないでしょうか」
「あ! 僕も真っ暗です。なーんにも見えないのよ。はーちゃんは続けてたらいずれ見えるようになるって言ってたのに、本当にまーったく、なーんにも見えないのよ」
「そうなの? 見えない人もいるのだね。でもヌトは見えている筈だよ? 悪霊でも見えないままでいる事もあるのだね。それならば私から言える事は、信じて遣り続けるしかない、になるね」
玲太郎はそう言われて落胆した。
「僕は多分、ずっと見えないままだと思うのよ」
「それは遣ってみなければ判らないよ? これから永い時を生きて行くのだから、毎日続けて行こうね」
明良に微笑まれる。玲太郎は思わず頷いた。
「うん……」
「そうですよね、長く生きるのですから、何か一つをずっと続けるという事はよいかも知れませんね。それならば、希望を持って続ける方が、よりよいでしょうね」
玲太郎は穏やかな表情のルニリナを見て、自分が後ろ向きであった事に気付いた。
「また悪い癖が出てたのよ。僕はどうして後ろ向きになるんだろうね?」
そう言って苦笑すると、明良が微笑んだ。
「自分自身でそれに気付ける事はとてもよい事だね」
玲太郎が頷くと、ルニリナも微笑んで一緒に頷いていた。
今日の夕食時は、玲太郎がやたらと颯に視線を送っていて、それに気付いていた明良が怪訝そうに見ていた。それ等に気付いていた水伯は唯々苦笑し、玲太郎の視線に気付いていた颯は良く目が合う程度にしか思っていなかった。
食後になると颯は食堂に居残り、ルニリナと八千代の三人で談笑をしていた。玲太郎は水伯と明良の三人で居室にいて、茶を飲んで寛いでいた。
「玲太郎は颯に何か言いたい事でもあるの?」
「うん?」
目を丸くして明良を見ると、それを見た水伯が笑いを堪えた。
「あのね、海に行きたいのよ。久し振りに行きたくない? だから夜中に連れて行ってもらおうと思っててね、そのお願いをしたかったのよ」
「そうなのだね」
明良は愛想笑いをしている玲太郎を見詰めた。
「そう言えば、皆で旅行をした事がないよね? 今度行かない?」
玲太郎ではなく、水伯に顔を向けて行った。
「皆……と言うと?」
「ばあちゃんやお父様や、ルニリナ先生も誘って全員で」
「えっ」
思わず声を漏らした玲太郎は明良から水伯に視線を移した。
「行きたい! どこかへ行こうよ、泊まりで!」
「構わないよ。何処へ行こうか?」
玲太郎と視線を合わせると、玲太郎は首を傾げる。
「それじゃあ……和伍?」
「和伍は良く行っているだろう? そういう場所ではなく、もっと別の場所へ行ってみない?」
そう言った明良に視線を移す。
「候補は? どこがあるの?」
「南中央大陸の何処かの国」
「ナダールの南側かぁ……。それならタイニー大陸にある、ネリに行きたい。天使の羽根を見てみたいのよ」
「ああ、アンドビチュ博物館だね?」
「そう! そこなのよ」
玲太郎は表情を明るくさせていると、水伯は逆に曇らせた。
「うーん、私は其処へ行くのならば、ソッカ公国の方がよいね。この大陸の最南端の国へ行きたい」
「何方にしても、季節は冬だね」
「僕は冬でもよいよ。それより、父上はソッカ公国へ行った事はないの?」
「あるけれど、余り記憶に残っていないのだよね。私としては何処へでも行きたい気持ちはあるのだけれど、ソッカ公国がよいなと思ってね」
明良が水伯を見据え、頷いた。
「成程、そうなのだね。行きたい理由は何?」
「私の思い出の中にある風景と一致するか、それが気になっているのだよ。余所と勘違いしているのかも知れないからね」
「成程」
「死の森を見て回った事があって、確か、あの辺りも多く覆われていた筈だからね。ずっと行っていないのだよ」
「死の森ね。此処に住んでいると無縁の代物だけれど、そのような物に興味があるとは意外だね」
「桜輝石の素の石が死の森にあるからね、それでなのだよ」
「ああ、屍岩の。そう、あれね。実物は見ていたのだけれど、死の森と結び付いていなかったよ。それにつけても、桜輝石は懐かしいね」
「しがん? おうきせきって何?」
二人は玲太郎を見ると、水伯が答えると言わんばかりに右手を小さく挙げた。
「和伍で使われている桜色に光る石の事でね、照明として使用しているのだけれど、それは屍岩と言う岩を砕いた物なのだよね」
「私も和伍にいる間はずっと桜輝石を使用していたよ」
「和伍って魔石を使わないの? お店に行っても照明は魔石だと思ってたんだけど……」
二人を交互に見ながら言うと、水伯が柔和に微笑んだ。
「あれが桜輝石だよ。僅かに赤味を帯びた色をしていただろう?」
「赤味? ……どうだっただろう? ……うーん、覚えてないね」
玲太郎は首を傾げていた。
「屍岩の明るさは個体で違っていてね、桜輝石とした物は中でも暗い物になるのだよ。二三十年も経つと輝きを失ってしまうのだけれど、とある溶液に浸けておくと復活するのだよね」
「へぇ! でも和伍ってろうそくの印象の方が強いんだけどね。黄色と言うか、あの、暖かい色の灯り」
「多々羅は棚に蝋燭を使った行燈を置いてあるものね。上部は桜輝石だけれど」
「え! 上なんて意識して見てなかったのよ。あったの?」
「あるね」
水伯はそう頷いた後、「ふふ」と笑っていた。
「それじゃあ覚えておいて、次に行く時に確認しようっと」
大人しく口を閉じていた明良が口を開く。
「それならば近い内に多々羅へ行こうか」
思わず、そう言った明良に顔を向けた玲太郎の表情が明るくなった。
「行く! みんなで行こうよ! はーちゃんにいつが都合がよいかを聞いて来るね」
勢い良く立ち上がって居室を飛び出した。
「言い出したのは私なのに……」
無表情ながら不満を漏らし、水伯は思わず笑った。
「ふふ、仕方がないね。最近は何処にも行っていなかったからね」
「私と一緒にいても、心此処に在らずだからね」
「一緒に居過ぎるからではないの? 毎日長時間一緒にいるよね?」
「平日は私も仕事をしているから、そうでもないのだけれどね」
明良はいつもの無表情で言うと、水伯が柔和に微笑んだ。
「長時間一緒にいるのならば、束縛はしないようにしないといけないね。束縛がきついと玲太郎の鬱憤が溜まってしまうから、それだけは本当に気を付けるようにね」
水伯を睨み付けるように一瞥をした明良は些か不機嫌になった。
早速、この日の夜中に多々羅へ行く事になった。玲太郎、水伯、明良、颯、ルニリナ、それからハソとノユとズヤの三体と大所帯になった。
玲太郎は水伯と手を繋いで入店し、明良が恨めしそうにそれを見ながら後ろを付いて行き、颯とルニリナは何を食べるのかを話し、三体が閉められた戸を透り抜けて入店する。
大きな座卓のある小上がりへ行き、玲太郎は水伯の隣に、その逆隣りに明良が座った。ルニリナと颯はその対面に座る。
『さて、何を頼むか……』
品書きを見ながら颯が呟く。
『僕は回転焼きと芋羊かん』
『回転焼きは買って帰るから別の物を注文すればよいよ』
玲太郎は水伯を見上げる。
『え、本当? それじゃあ何にしよう?』
『先に選べよ』
そう言って品書きを玲太郎に見せた。
『ニーティ、悪い』
『構いませんよ』
『ありがとう。父上はどうする?』
『私は芋大福と緑茶にするね』
『あーちゃんは?』
『私は、そうだね、芋餅と芋大福と緑茶だね。玲太郎は?』
『僕は芋羊かんと、芋大福と緑茶にする。はい、はーちゃん』
品書きを颯に渡すと、颯はルニリナと一緒に見た。
『俺は芋餅と芋大福と最中と緑茶』
『うーん、私は芋餅と緑茶にします』
『決まりだね。それでは店員を呼ぼう』
そう言って水伯が挙手すると、程なく店員が小上がりを上がって来た。
「遅くなってすみません。いらっしゃいませ」
そう言いながら水の入った湯呑みとおしぼりを置いて行く。
「それでは注文をしても大丈夫ですか?」
置き終えた店員を見て、水伯が透かさず言った。
「はい、どうぞ」
「芋餅が三つ、芋大福が四つ、芋羊羹が一つ、最中が一つ」
返事をしながら慌てて伝票に書き、それが終わると水伯に顔を向けた。
「緑茶が五つと、回転焼きを五十個、持ち帰りでお願いします」
「はい、いつもありがとうございます」
そう言いながら伝票に書き込んだ。その手が止まったのを見た颯が口を開く。
「後、別で回転焼きを五十個と、芋羊羹を五本と、小豆の羊羹を三本、持ち帰りでお願いします」
「あ、はい。回転焼きが五十、芋が五、小豆が三……ですね」
「回転焼きは別に後十個、持ち帰りでお願いします」
ルニリナも笑顔で言うと、店員がルニリナを一瞥した。
「こちらも別で十個ですね、かしこまりました」
書き終えると一旦顔を上げる。
「それでは復唱いたします。芋餅が三つ、芋大福が四つ、芋羊羹が一つ、最中が一つ、緑茶が五つ、持ち帰りで回転焼きが五十個、別で回転焼きが五十個、芋羊羹が五本、羊羹が三本、また別で回転焼きが十個、以上でよろしいでしょうか?」
店員はそう言って全員の顔を見ると、それぞれが頷いていた。
「はい、お願いします」
水伯が柔和に微笑んで言った。笑顔の店員は水伯に顔を向ける。
「回転焼きのご用意が出来次第、こちらからお声掛けをさせていただきますので、それまではお待ちくださいませ」
「宜しくお願いします」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
小さく辞儀をした店員は小上がりを下りて行った。
『あー、楽しみ! 本当に久し振りだよね』
玲太郎が一人楽しそうにしている。それを見た明良も嬉しそうにした。
『そうだね、楽しみだね』
『でも、はーちゃんもそんなに一杯買ってどうするの?』
『家の間食で出すんだよ。家人もいるからな』
『ふうん……』
『どれか食べたいのか?』
玲太郎は悪戯っぽく笑う。
『いひひひひ』
『なんだよ?』
颯は笑いを堪えながら訊くと、玲太郎は笑いを止めた。
『あのね、最中を半分分けて欲しいのよ』
『羊羹と大福を食べるんだろう? そんなにも入るのか?』
『父上に羊かんを半分食べてもらうから平気』
全員が水伯を見た。
『よいよね?』
『構わないけれど、このような時間にそれだけ食べてしまうと目が冴えてしまって、また寝付けなくなるよ?』
『大丈夫、眠られるから』
笑顔で言うと、颯を見た。
『ね、頂だいね』
『解ったよ』
そして楽しい一時を過ごして帰ったが、玲太郎は二時を過ぎてもまだ起きていて、「ほらご覧」と水伯に苦笑された。
週末は明良がいつものように離れる事がない為、何かしらを学んでいた。勉強をしていると明良が密着して来ないから、というのが一番の理由だった。
(こうして一緒にいるのだけれど、玲太郎成分が足りない……)
明良は常々そう思っていたが、水伯に言われた事が引っ掛かっていた。薬草図鑑を書き写している玲太郎を見詰めていた。楽しそうに微笑みながら書き写している様子を見ていると、思い切り抱き締めたい衝動に駆られる。玲太郎は集中していて、明良が葛藤している事に気付かなかった。
(それにつけても、小さい頃は私にも駆け寄って来てくれていたのに、何時の頃から来てくれなくなったのか……)
知らず知らずの内に眉を顰めていた。ふと玲太郎が顔を上げて明良を見ると、余りにも険しい表情で驚いた。
「あーちゃん、どうかしたの?」
「何が?」
「なんか、とっても怖い顔をしてるのよ」
「そう? 気付かなかったよ。ご免ね」
明良は苦笑して自分の頬を撫でながら言うと、玲太郎は心配そうに見た。
「休憩する?」
「それではそうしようか」
「うん。それじゃあお茶を淹れるね。回転焼きを天火で温めて食べようよ」
「それでは一階へ行こうか」
「うん!」
元気良く返事をして立ち上がった。明良が手を差し出すと、それを見た玲太郎は手を取った。二人は手を繋いで厨房へ向かった。
居室で休憩を取る事にして、脚の長い方の椅子に座った。天火で温めた回転焼きは、皮が歯切れ良く、少し焼き色が付いていて香ばしかった。
「美味しいね!」
「うん、軟らかい皮も好きだけど、これも美味しいね」
明良にしては珍しく、玲太郎の正面に座っていた。
(あーちゃんがなんだかおかしいのよ。僕、何かしちゃった?)
明良の様子を見ていたが、ずっと見詰め合っているだけで、双方が何も言わなかった。
(うーん、最近あーちゃんと長く一緒にいるから、新作から遠のいているんだよねぇ……。あーちゃんのいない時に描かなきゃね)
回転焼きを咀嚼しながら明良に微笑み掛けると、明良も微笑んだ。
後日、玲太郎は朝から北の畑で水伯と種取りの練習に励んでいた。サドラミュオミュードの芳香が漂っていると、心がとても満たされて行く。この三年、植物を育てる機会が激減してたが、サドラミュオミュードは温室で咲かせ続けていただけあって、咲かせる事はお手の物だった。
「種が生るまで気を抜かないようにね」
「はーい」
返事をすると種を蒔いた。蕾を付け、開花させた後、徐々に花弁を散らせて行く。
(あー、こういう花弁が散って行く様子は好きじゃないのよね。それにしてもあーちゃんにいつ図案を描けばよいのだろうか?)
明良のいない時を狙って耳飾りの図案を描こうとしたが、午前中にあるルニリラの授業の休憩中しかなかった事に驚いた。それも呪いの授業の為、本当なら一緒にいる筈だった。
(あんなにあーちゃんと一緒にいたら描けないよね? 昼食後に来るからその時間も描けないし、どうしようか? これは困ったなぁ。これは時間がかかりそう)
「玲太郎、何か考え事でもしているのかい?」
「あっ」
花弁は散った筈なのに元に戻って咲き誇っていた。
「あらら……」
玲太郎が苦笑すると、水伯が玲太郎の左側で屈んだ。
「どうかしたのかい?」
「うん、あのね……」
水伯に全てを話すと、「そうなのだね、ふふふ」と笑った。
「ニーティの授業中に描いていても、不意に遣って来るかも知れないから、私はお勧め出来ないね」
「ええ? それじゃあ描く時間がないのよ」
「それだよね。凡その図案を頭の中で描いておいて、出来上がりそうになったら教えてくれれば、この時間に描けばよいと思うよ」
「え! よいの?」
「当然だよね。時間が取れないのだから、この時間で遣るしかないよね。……けれど、この時間にも明良が来る可能性は大いにあるから、油断は出来ないよ?」
「大丈夫。父上の執務室で描くからね。あ、二階の方ね。それに、父上ならあーちゃんが来たら気配で分かるでしょ?」
「そうだね。それではそうしようか」
「うん! 父上、ありがとう!」
水伯に抱き着くと、水伯は玲太郎の背を優しく叩いた。
「それでは続きを遣ろうね。今度はきちんと集中するのだよ?」
水伯から離れると、右手を挙手した。
「はーい」
種まで育てる速度を上げる練習も、これで漸く集中出来るようになった玲太郎は上機嫌だった。
玲太郎はそれから三日程、休憩中は上の空になり勝ちだった。そして漸く案が煮詰まった。
「そうだった。父上、朝食の後はあーちゃんに図案を描きたいから、朝の練習は休んでもよい?」
朝食の支度をしている最中だった。水伯は振り返って玲太郎を見る。
「構わないよ。それでは朝食後ね」
「うん! お願いします」
「はい。其方に気を取られて、手を切らないようにしてね」
「はーい!」
笑顔で元気良く返事をすると、人参を切り始めた。
(ゆっくり、ゆっくり……)
包丁に大分慣れて来てはいても、徐に動かしていた。
そして朝食後、居室で寛がずに二階の執務室へ直行した。水伯に紙と鉛筆を用意して貰い、描き始めたが十分も掛からずに描いてしまった。
「出来た!」
「早いね?」
隣で座っていた水伯が覗き込む。
「ふふ、明良に花の耳飾りは、如何にも女性になってしまうのではないのかい?」
「え? ダメ?」
「明良は玲太郎が描いた図案ならば、どれも忠実に再現して着けているから、明良は文句も言わずに嬉しがるとは思うよ。けれど、私としてはそれを使うのであれば、萼の部分に鎖を付けて下げるね。花冠が下に向くけれど、それならば此方側からは一見花に思えないから、明良一人が見て楽しむ事が出来るし、よいのではないだろうか?」
「なるほどぉ……。それじゃあそうする。父上、この辺を消してもらってもよい?」
「お安い御用だよ」
そう言うと、玲太郎が指で示した辺りが消えた。
「ありがとう。そうすると……。ガクをそのまま鎖の形にして留め具と繋げて……」
呟きながら描いて行く。水伯は柔和な微笑みを浮かべて、描き足されて行く図案を見ていた。
描き終えるまでに明良が来る事はなく、図案が出来上がって玲太郎は喜んだ。
「あー、良かったのよ。父上、助言ありがとう」
「どう致しまして。それでは時間があるから、北の畑へ行こうか」
「はーい!」
紙を畳んで上着の衣嚢にしまうと、椅子を机に入れて先に退室した。
午前中は書類仕事をして、昼食後から水伯邸へ遣って来た明良は、いつものように玲太郎に張り付いていた。来た時から玲太郎の顔に締まりがなく、明良を見ては微笑んでいた。
「楽しい事でもあったの?」
「ううん、違うのよ」
玲太郎は機を窺って渡そうとしていた。
「どうしてそのような顔で私を見ているの?」
「うん? 変な顔してた?」
「そうではないのだけれど、私を見て目尻を下げているから、何か楽しい事でもあったのだろうかと…」
「そうなの? 笑顔になってたの? おかしいなぁ……」
態と眉を寄せて首を傾げた。それを見ていた水伯が、余りの態とらしさに失笑した。
「ぶふっ、……あはははは、玲太郎、それはいけないよ。あはははははは」
二人は水伯を見た。そして明良は玲太郎に顔を向ける。
「何? 二人で何か楽しい事でも遣っていたの?」
玲太郎は観念して、上着の衣嚢から畳まれた紙を取り出した。
「はい、これ」
そう言って差し出すと、明良は紙と玲太郎を交互に何度も見た。
「これは?」
「いらないの?」
「いる」
即座に受け取り、紙を広げた。
「ああ、耳飾りの図案なのだね。物凄く久し振りのような気がするよ」
「そこまで間が空いてないと思うんだけどね」
笑顔の玲太郎を見た明良が満面の笑みを湛える。
「早速作るね。有難う。本当に嬉しいよ」
「喜んでもらえたら、僕も嬉しいのよ」
「玲太郎っ」
明良は玲太郎を優しく抱き締めた。
「有難う。有難う。有難う」
「うん。今日じゃなくて、明日作って来てよ。楽しみにしてるからね」
「それではそうするね」
明良は玲太郎から離れ、右手で涙を拭った。
「え? 泣く程の事なの?」
「うん……」
「泣かないでね。僕が酷い事をしたように感じるから、泣かないでね」
「……これは嬉し涙だよ」
明良は涙を拭いながら言うと、玲太郎は水伯を見る。
「そんな事ないよね? 僕が泣かしたように見えるよね?」
「ふふ、実際そうなのだから仕方がないよね。嬉し涙でも、そうでなくてもね」
「あー、そうなっちゃうのかぁ……」
玲太郎が苦笑していると、明良がまた抱き着いた。今度はきつく抱き締める。
「ぐ、ぐるじい……」
「玲太郎、有難う」
「ぐるじいがらやめで……」
「ああ、ご免ね。力を抜くからもう少しこのままでいさせてね」
直ぐに力を抜いたが、玲太郎は苦笑するだけだった。この直後から、明良は以前同様、玲太郎に遠慮なく密着するようになった。
その日の夜、颯と一緒に湯船に浸かって、日程を確かめていた。
「それじゃあ十一月中ね」
「うん、解った。後で水伯とも話しておくよ」
「そうしてくれる? 僕はどこでもよからね」
笑顔でそう言う玲太郎に、颯は首を傾げた。
「うん? 中央大陸の最南端へ行くんじゃなかったのか?」
「それは父上の希望なのよ」
「ふうん、まあ、話すわ。それじゃあ今年はもうこの一度でいいな?」
「えっ、今年は前半に行ってないんだから、もう一度行けるでしょ」
「……成程、そういう事にするのか。まあいいだろう。今年中に後一度な」
微笑みながら言った颯は、笑顔になった玲太郎を見て頷いた。
「やった! その時は二人で旅行だからね?」
「うーん、それは約束出来ないなあ……」
眉を顰めると苦笑した。
「兄貴が許す訳がないし、付いて来ると思うぞ」
「ああ、あーちゃんがね。そうだね、あーちゃんがいるんだよね」
「でもまあ、兄貴がいてもいいじゃないか」
朗らかに言われてしまった玲太郎は衝撃を受けた。
「あっ、えっ、僕ははーちゃんと二人で旅行をしたいのよ。分かる?」
「そうだなあ、二人でいる事なんて、もう殆どなくなったもんな」
「そうでしょ。だから僕としては、たまにははーちゃんと二人がよいのよ」
そう言われても、明良の事を考えると現実的ではない為、颯は苦笑するしかなかった。
「兄貴がいいって言ったらな」
玲太郎は憮然として俯いた。
「おーい、玲太郎? ……玲太郎?」
我に返ったのか、颯に顔を向けると湯を掻き分けて颯の側へ行く。
「あっ、あーちゃんには僕がきちんと言うから、僕から言うからっ、二人で行ぎだい……」
「解った、解ったよ。兄貴を説得出来なくても、露骨に嫌な顔をしたり、今みたいに意気消沈したり、兄貴に八つ当たりをしないようにな?」
「うん!」
(はーちゃんと二人で旅行する為、僕は頑張るのよ!!)
玲太郎は輝かしい未来を勝ち取る為に、俄に元気になった。
玲太郎は入浴後、明良といつも二人切りで、どう明良に伝えるかを思案していた。耳飾りの図案を渡したばかりで、明良が上機嫌な為、今言うのは得策ではないと思い、思案を止めた。
寝台へ上がって読書を始めると、何度となく明良に視線を送った。その度に目が合って微笑まれる。
「あーちゃん」
「何?」
「僕がはーちゃんと二人で旅行をしたいって言ったら、行ってもよい?」
「私も一緒に行く」
「僕ははーちゃんと二人で行きたいって言ったら、どうする?」
「私も一緒に行くよ?」
「それじゃあ、僕ははーちゃんと二人で旅行は出来ないの?」
「そうなるね」
「ふうん……。それじゃあ僕がルセナ君と二人で旅行したいって言ったら、行ってもよい?」
「うーん、それが無理な事は玲太郎も良く解っているよね?」
「ルセナ君だって強いのよ?」
「けれど、護衛は必須だという事は解っているよね?」
「それは分かってるけど……」
「その時は颯を護衛に付けるからね。私に護衛は出来ないと水伯に言われているから、その時は泣く泣く送り出すけれど、颯と二人は駄目だからね。私も一緒に行くから。必ず。何があっても」
満面の笑みを湛えたまま、強く言い切られてしまった。
「それじゃあその時は、僕の言う事を尊重してくれる?」
「その内容にも依るから、構わないよ、とは言い切れないね」
「それなら、僕がはーちゃんに甘えて行っても、文句は言わないでね」
そう言うと、明良が険しい表情になった。
「えっ……、玲太郎が颯に甘えるの?」
「うん」
「……そのような事があるの?」
「あるのよ」
「えっ……、私には甘えようとしないよね?」
改めて言われると、自分自身でも不思議になった。
「うん? そう言われれば、あーちゃんに甘えようと思った事がないね? どうしてだろう?」
明良は得も言われぬ衝撃を受けて固まったが、それを余所に思案した。
「うーん、……あっ、分かった! 僕が甘えるよりも先にあーちゃんが甘えて来るから、そう思えないのかも知れないね? きっとそうなのよ。あーちゃんが甘えん坊なのに、僕が甘える訳がないのよ」
そう楽しそうに言うと明良を見た。明良は玲太郎の言う事を全く聞いていなかった。
「あーちゃん? 聞いてるの? あーちゃん!」
玲太郎は本を閉じて枕元に置き、上体を起こした。明良の肩に手を置いて揺する。
「あーちゃん! 聞いてるの? あーちゃーん?」
漸く我に返った明良が玲太郎を見る。
「ご免ね、何? 何かあったの?」
「だからね、あーちゃんが僕に甘えて来るから、僕から甘えようとは思えないんだと思うのよ、っていう話をしてたのよ」
「成程。そうなのだね。ああ、そう」
そこへ折良く、誰かが扉を叩いた。二人が注視すると颯が入室した。
「どうかしたのか?」
「別に」
即座に無表情に戻った明良が反応すると、颯が近付いて来てヌトが眠っている自分の寝台脇に腰を掛けた。
「玲太郎は起き上がってどうかしたのか?」
「あのね、あーちゃんが甘えて来るから、僕があーちゃんに甘えようとは思えないっていう話をしてたのよ」
「へえ、そうなのか」
「そうなのよ。あーちゃんが僕に甘えて来るからね」
笑顔で話すが、明良は横目で颯を見ていた。
「確かに兄貴は玲太郎に甘えっ放しだもんな」
颯も笑顔で言うと、明良が仏頂面になる。
「ソッカ公国へ旅行する日程の事で来たんだけど、兄貴は行くよな?」
「無論」
「玲太郎も行くんだよな?」
「当然」
「ニーティも行くから、十二月以降にしてくれと言われたんだよ。二人共、それでいいか?」
「玲太郎がよいなら」
そう言って玲太郎を見ると、玲太郎は颯を見ながら頷いた。
「僕はそれでよいのよ」
「解った。それじゃあ水伯と日を決めるけど、予定はないだろうから何時でもいいよな?」
「うん、僕はそれでよいよ」
「私もそれで」
二人は颯を見ていたが、明良が直ぐに玲太郎に視線を戻した。颯は明良を見て苦笑する。
「あ、はーちゃん、あのね、二人で旅行しようと思ったんだけど、あーちゃんがこの調子でしょ。だからもう諦めるのよ。三人で行こうね」
「解った。兄弟三人で何処かへ旅行する事がないから楽しみだな。兄貴と二人で何処へ行くか、話し合えよ?」
「和伍へ行くのよ」
「兄貴はそれでいいのか?」
「私は玲太郎が行きたい場所へ付いて行くだけだからね」
何故か得意満面の玲太郎と、いつも通りの無表情な明良を交互に見た。
「解った。行くのはいいとして、十二月は止めてくれよ?」
「そうだね。今年中だから、十四月か十五月にしようね。あーちゃんもそれくらいにした方がよいよね?」
明良に顔を向けると、明良が微笑んだ。
「私は何時でも構わないよ」
「まあ、良しなに頼むよ」
そう言って立ち上がると、玲太郎の寝台脇へ行って玲太郎の頭を乱雑に撫でた。
「お休み」
「おやすみ」
二人は退室する颯を見届けた。明良は玲太郎を見て、乱れた頭髪を手櫛で整えた。玲太郎も明良を見ると明良に微笑まれて、微笑み返した。
「それじゃあ眠るね」
横になると、明良が掛け布団を掛けた。
「読書の続きはしないの?」
「うん。おやすみ」
「お休み」
玲太郎が目を閉じたのを確認すると、枕元に置かれた本を手にして読み始めた。それは植物を魔術で成長促進をさせる事に関する本だった。
(玲太郎が遣っている事より水準の低い内容の本から、一体何を学ぶのだろうか?)
一度目は熟読、二度目は軽く目を通したが、明良は首を傾げるだけだった。
玲太郎は日々を過ごす中で適当に休憩を取ってはいたが、ふと丸一日の休日が欲しくなった。しかし、そうなると明良が一日中張り付いて来て、休みにならない事が目に見えていて、休みが欲しいとは言えなかったが、水伯に相談する事にした。
「父上、僕ね、一日、丸一日休みたいのよ」
不意に言われ、水伯は少々面食らった。
「……もうすぐ旅行するのに?」
「それはあちこち見て回るし、休みじゃないよね。僕はのんびりすごしたいのよ」
「そうなのだね。休みたいのならば休んでも全く構わないのだけれど、前以てニーティや明良にも言わなければね」
「それなのよ! あーちゃんに言うと、休みじゃなくなるか…、あ、休めなくなるからね」
言い直した玲太郎を見て、水伯は笑いが込み上げて来た。
「あはは、そういう事ね。解ったよ。……うーん、そうなると、明良には秘密にしておいて、当日は来る前に此処からいなくなればよいのだろうね」
「それじゃあ、父上が共犯者になってくれる?」
「共犯者、ねぇ……。それは構わないのだけれど…」
「決まり! 何日にしようか? 十三日から二十日までは旅行でしょ。今日が六日だから、七日から十二日の間になるのよ」
水伯の言を遮って決定させた。水伯は思わず笑いそうになったが、それは堪える。
「そうだね、それでは早い方がよいだろうから明日にしようか」
「明日ね! ルニリナ先生には僕から話しておくからね」
そう言うと正面を向く。水伯はそれを苦笑しながら見ていた。
「俄然やる気になって来たのよ! 今日は種が何度取れるだろうか? 頑張るぞぉ!」
玲太郎は休日らしい休日を得る為に張り切った。ルニリナとの授業ではまだ二人切りという事もあって、休憩中に包み隠さず話した。
「分かりました。それでは明日は、私も休日をいただきますね」
了承して貰え、玲太郎も明日を待つばかりとなった。
(それにしても、こうなるととてもやる気になってくれるのはよいにしても、長続きしないのが困り者ですが、いずれにしても直に旅行もありますし、暫くは身が入らないでしょうね)
ルニリナは張り切っている玲太郎を見て微笑んでいた。
明良は昼過ぎから玲太郎と一緒にいたが、玲太郎がいつもと違って遣る気に溢れていて怪訝そうに見ていた。
「何かよい事でもあったの?」
「もうすぐ旅行だからね。うふふふふ、楽しみ!」
「私も楽しみです。ソッカ公国は近くに島も沢山ありますし、その中にズヤの住む島がありますので、是非そちらへも行こうと思っています」
ルニリナが笑顔で話すと、隣でノユが頷いた。
「そうであるな。あの辺りへ行く事も良かろうな」
「え、ズヤの? ……あー、何かがあったような気がすると思ってたら、ズヤの家だったの」
「何故玲太郎が知っておるのよ? ズヤから聞いたのか?」
「ううん、多分はーちゃんから聞いたんだと思う」
「そうであったか。颯がな。颯もズヤの家の木に興味を持っておろうか?」
「うーん、行ってみたいって言ってたような気はするけど、本人に聞いてくれる?」
「解った。そうしよう」
「ねぇ、家ってみんな持ってるんでしょ?」
「然り」
「それじゃあ、あのー、……ケメ? ケメの家ってどこにあるの?」
「恒の島があるであろう? あの東の方に諸島があって、その中でも一番大きな島にあるのであるが、……若しや、行きたいのか?」
「行きたいって訳じゃないんだけどね。聞いてみたかっただけ」
「そうであるか」
「悪霊の中でも飛び切りの塵に会いたいなどと誰が思うだろう。そう思う塵予備軍は脳が腐っている事だろう。ああ、腐る脳も持ち合わせていないか……」
明良は冷えた目でノユを見ながら言った。玲太郎はそんな明良を見て苦笑した。
(あーちゃんって、本当にノユ達の存在が嫌いなんだねぇ……)
「ま、明良がどう言おうとも、わし等は兄弟であるからな。それにつけても、お主のそのような狭量振りを見ておると、玲太郎に愛想を尽かされぬかと甚だ心配でならぬわ。のう、玲太郎」
ノユに振られると、玲太郎は戸惑った。
「えっ、僕? うーん、僕は別に、愛想を尽かすって事はないと思うんだけどね。あーちゃんは僕の物心が付いた頃からずっとこうだからねぇ……」
明良はそう言われて思わず苦笑した。
「玲太郎も不憫な事よな」
「でもあーちゃんは僕がいないとダメダメなのよ。だから仕方がないね」
ルニリナはそれを聞いて笑いを堪えていた。
「ね、あーちゃん。僕がいないとダメダメなのよね?」
明良は無言で微笑んだ。内心は安心していたが不安は大きく残った。
そして翌日の事。玲太郎は水伯と一緒に休日を満喫する為に朝食後から出掛けた。行き先は和伍国だった。
明良は朝食後にいつも通りに来て、居室に置かれていた手紙を読んで泣いた。
この後、玲太郎が明良の機嫌を取り戻す為に苦心した事は言うまでもない。
旅行後は遣る気も衰える事はなかったが、十三月に入ると植物の成長促進も呪いも思うように進まず、気持ちだけが急いていた。
「玲太郎、今日は花畑の中でお茶にしようか」
「うん?」
振り返ると、小さな円卓と椅子が二脚出現し、周辺がメニミュードとサドラミュオミュードで満開になった。
「わぁ! 綺麗!!」
「さあ、此方へどうぞ」
椅子を引いて微笑んだ。玲太郎はそちらへ行き、腰を掛ける。円卓には茶器が出現し、湯気が立っている。
「ありがとう」
「どう致しまして」
対面に座った水伯は、茶器を手にして一口飲んだ。
「玲太郎が淹れてくれたお茶の方が美味しいね」
「そう?」
玲太郎は茶器を持って温度を確かめてから口に含んだ。
「これも美味しいのよ」
「それは有難う」
二人は笑顔で見合っていたが、水伯が茶器を受け皿に置いた。
「玲太郎は学校で色々と学ぶ方がよいのかい?」
「うん? 急に何?」
「他の生徒と一緒に学ぶ方がよいのだろうかと思ってね。一人だと焦り勝ちのように見えるから、その方がよいのだろうかと思ったのだよ」
「なるほど」
視線を花々に遣り、暫く黙考した。それから水伯に顔を向け、真っ直ぐ見詰める。
「学校にいても周りを見ていないから、……うーん、見る時もあったけど、でも大抵は見てなかったからね、一人でやるのと同じなのよ」
「そうなのだね。それでは焦らず、ゆっくりを心掛けようね。以前は良く言っていたけれど、最近は言っていなかったね」
「焦らず、ゆっくりね。うん、そうだね。最近聞いてなかったのよ。僕、そんなに焦ってた?」
柔和に微笑むと頷いた。
「それはもう、相当焦っていたようだね。旅行で気分転換をした筈なのに、出来ていなかったのだろうか?」
「ううん、それはないのよ」
首を横に振った。
「それならば、焦る必要がない事を思い出して、一日一日を大切にして行こうね」
「はい」
玲太郎が頷くと、水伯も頷いて茶器を手にし、口に付けるとゆっくりとそれを傾けた。玲太郎はその所作を見て、何故だかとても和んだ。
暫く花畑の中で寛ぎ、つい先日の旅行の話を昔の事のように語る水伯を、自分の行く末と重ねて見ていた。
そして、そのまま別の魔術の授業が始まった。これも目に見えて上達していない為、玲太郎は非常に悩ましかった。
治癒術の復習は順調に進み、以前よりも要領を得て来ると楽しくなって来た。少々乾いているが、筋や血管を繋げる事は呪いと正反対で特に楽しかった。
「やっぱり呪いより、こういうのがよいね」
楽しそうにしている玲太郎を見て、明良も釣られて笑顔になっていたが、先日の事を思い出すと直ぐ悲しそうな表情に戻る。
「玲太郎君は呪いが嫌いなようですが、解呪する為にはその大本を知っておいた方がよいですので、嫌でも習っておきましょうね」
穏やかに微笑まれながら言われてしまうと、頷かざるを得ない玲太郎だった。
「はい……」
「閣下に呪いがかかっていた時、それを解呪したのは玲太郎君ですので、習わなくてもよいような気もしますが……」
「でも僕、その時の事は覚えてないんです。だから習っておいた方がよいとは思ってるんですけどね」
「そうですか。あの時は皆一様に衝撃を受けましたからね。玲太郎君はその衝撃と、抑え切れない怒りとで記憶から消えたのかも知れませんね」
「そんなに怒ってましたか?」
「そうですね。颯も驚いていた程でしたね」
「そんなに怒ったんだったら、逆に覚えてそうですけど……」
「きっと精神的によろしくないと脳に判断されて消されたのでしょう」
「そんな事ってあるんですか?」
「ありますよ。ねぇ、アメイルグ先生?」
「そうですね。脳は自我を守る為に色々と遣りますね」
玲太郎は明良を見た。
「そんな事ってあるんだね。知らなかったのよ」
明良は玲太郎を見て微笑み掛けた。玲太郎はその表情を見て苦笑する。
「あーちゃん、まだあの日の事を根に持ってるの?」
「こういう時は、根に持っているではなく、尾を引いていると言うのだよ」
「尾を引いてる」
「それはね、黙っていなくなられたら、それは誰だって傷付くのではないの?」
「ごめんなさい。どうしても休みたくなって、父上にお願いして和伍に連れてってもらったのよ」
「それはもう何度も聞いたのだけれど、私は深く傷付いて、その傷がまだ塞がらないから仕方がないね」
「ごめんなさい……」
俯き気味になって申し訳なさそうに言うが、明良は溜息を吐くだけだった。ルニリナはこうなると無言で切れた筋を繋ぐ事に集中した。
玲太郎は明良の機嫌を戻す時に、こういう事は二度と遣らないと誓ったのだが、早くもそれを破りそうになっていた。
夕食後にもいるようになっていた颯は、ルニリナか八千代と必ず一緒にいた。玲太郎はそれが恨めしかった。明良に仕出かした事で引け目を感じていたが、遂に明良から離れ、颯の下へ向かった。颯は八千代の部屋で刺繍をしている。
「どうした? 玲太郎も刺繍を遣るか?」
「刺しゅう~? 僕は遠慮しておくね」
そう言いながら颯の隣に座り、腕に額を擦り付けた。
「何かあったのか?」
針を布に差して右側に置き、玲太郎を軽々と持ち上げて膝に乗せた。玲太郎は正面に八千代が座っている様子を見て振り返る。
「膝の上に座りに来た訳じゃないのよ」
颯の顔はきちんと見えなかったが、颯が俯くと目が合った。
「偶にはいいんじゃないのか」
「うん、まあ……」
「兄貴に黙って一日いなくなっていたんだから、兄貴の束縛が酷くなっても、それは玲太郎が悪いんだからな? どうして兄貴に言わなかったんだ?」
「またその話?」
「その所為で逃げて来たんだろう?」
玲太郎は無言で俯いた。
「兄貴に心配を掛けるなよ? ずっと一緒が嫌なら、本人にそう言えばいいだろう?」
「言えないからこうなっちゃったんじゃないの」
「黙って何処かへ行かれる方が応えると思うけどな」
「どっちも一緒だと思うのよ」
「まあ、いいじゃないの。玲太郎にも息抜きは必要だろうからね」
八千代が助け船を出すと、玲太郎が笑顔になった。
「そうでしょ。僕にも息抜きがいるのよ」
「明良はね、玲太郎が産まれた頃に丁度医師になる勉強をしてたでしょ。だからあの頃にきちんと玲太郎を見ていなかった事が心残りになって、余計に傍にいたいと思ってるんだと思うのよ」
「そう言われても、僕にとっては窮屈なのよ……」
颯と八千代は苦笑した。
「来たぞ」
そう言った颯は振り返り、扉に顔を向けた。玲太郎は八千代を見ていたが、八千代も扉の方に視線を遣っていた。直ぐに扉を叩く音が聞こえ、八千代は微笑んで立ち上がり、扉の方へ向かって開けた。
「玲太郎、いるよね?」
「どうぞ入って」
「お邪魔します」
「明良も刺繍をやる?」
「玲太郎を連れて行く」
玲太郎は物凄く嫌そうな顔をしたが、誰もそれを見ていなかった。
「兄貴も懲りないなあ。余り縛り付けると次こそ本当に逃げられるぞ」
颯の座っている長椅子まで来て、玲太郎が颯の膝に座っている様子を見ると些か眉を寄せた。
「玲太郎、約束通り、私の傍にいなければならないね?」
玲太郎は上目遣いで明良を一瞥すると体を右に向けた。
「拒否されているじゃないか。兄貴も束縛はそこまでにしておけよ」
八千代は無言で元の場所へ戻り、刺繍を再開した。
「これからはずっとこういう感じになるんだろうなあ……」
そう言って大きく溜息を吐くと、玲太郎を抱いて立ち上がった。玲太郎は颯の肩に左手を置いた。
「何を言っているのか解らないのだけれど、玲太郎を私に渡して」
「兄貴が勝ったらな。昔、兄貴は遣ってくれなかった鬼ごっこでも遣るか。鬼は兄貴だぞ」
「何…」
言い掛けた途端に颯の姿が消えた。
「そう言えば、悠次と颯は良く鬼ごっこをやってたね……。ふふ、懐かしい」
八千代は手を止めずに呟いた。明良はそれを見下ろしていると、顔を上げた八千代と目が合った。
「行かないの?」
明良は長椅子に座った。
「颯はね、気配を感知出来るのだよ。それも結構離れた距離からね。そういう訳で、私が勝てる訳がないのだよね」
「そうなの。それじゃあ刺繍でもやる?」
「そうだね……、遣るよ」
「布を選んでおいで」
「ううん、此処にある物で遣るよ」
そう言って颯が置いて行った物を手にした。
一方、玲太郎は思い掛けずに颯と二人切りになれて、とても嬉しかった。行き先は和伍国の南東にある海で、服を脱いで二人で泳いで楽しんだ。
「あーちゃん、来ないね?」
「そうだなあ。なんでだろう?」
来ると思っていたが、半時間を過ぎても来る事はなかった。
「来ないみたいだね」
「それじゃあ帰って風呂に入るか」
「えー、こんな暗い中で泳ぐ事なんてないのに。海水もあったかいし、もう少し泳いでいたい」
「まあ、魔術で温めているからな。本当はもう少し低いんだぞ」
「あ、そうだったの? ありがとう。それじゃあ余計に泳がないとね」
そう言って浮き輪にしがみ付き、足だけで泳いで颯から遠ざかって行った。
二人が屋敷へ戻ると、玲太郎を見た明良が泣き、また慰めるのに苦心する事になったが、八千代と颯は気にせず刺繍を続けた。颯の刺繍には「阿呆」と刺されていて颯は苦笑したが、それはそのまま置いておく事にした。
玲太郎はルセナと月に一度だけの文通で連絡を取っていたが、ルセナからは返事が来たり、来なかったりだった。それでも玲太郎は月に一度は必ず送っていて、近況を知らせていた。玲太郎は時折ルセナの訓練風景を見に連れて行って貰っていて、近況はある程度は察する事が出来ていた。当然ながら気付かれないように遠くから見ていた。
新たな魔術を習得する為や、基礎体力向上の為の訓練以外にも剣術や徒手の鍛錬もあり、精神的にも肉体的にも疲労が溜まっている事は理解していた。その為、決して「お返事を待っています」という類の文言は書かなかったし、訓練を見に行っている事も秘密にしていた。
和伍語の漢字を覚えてはそれを書き、平仮名で読み方と意味を書く事が習慣になっていた。それに加え、今度は旅行したという自慢話を書ける事もあって、便箋を五枚も使用してしまった。
(書き過ぎちゃった? うーん、疲れてるだろうから、読むのも大変だよね? もう少し短くしてみる? 出来るだろうか……)
校正を始めたが、不要だと判断が出来ずに消せる箇所がなくて困った。
(これは困ったのよ。このまま五枚で出すしかなくなるね……。五枚は多いよね? 僕がもらったら嬉しいけど……)
悩んでいる所へ明良が様子を見に遣って来た。
「書けたの?」
「それがねぇ、便箋の枚数が多いような気がして減らそうとしてるのよ。でも減らなくて困ってて考え中」
「そうなのだね。それではそのまま出せばよいのではないの? 削れないのならば、それが一番短いという事なのだろうからね」
「なるほど、そうなっちゃうのかぁ……」
暫く目を閉じていたが、首を倒して目を開けた。
「これ以上短く出来ない、ねぇ……。長いけどこれで行こう。あーちゃん、ありがとう」
「どう致しまして」
玲太郎は便箋を畳んで封筒へ入れ、封をした。封筒には既に宛先が書かれていた。
「隊舎に持って行くのに、きちんと住所も書いてあるのだね」
「そうなのよ。でも持って行くのは僕じゃないんだけどね」
そう言いながら立ち上がり、明良に顔を向けた。
「父上に持って行ってくるね」
「うん」
玲太郎は小走りで退室し、二階にある水伯の執務室へ向かった。扉を叩いても返事がなく、一旦勉強部屋兼図書室へ戻る。明良は玲太郎を見て微笑んだ。
「水伯がいなかったのだね」
「そうなのよ」
「書き置きをして置いて来れば良かったのに」
「うーん、また後で行くからよいのよ」
「それでは焼き菓子の練習を遣ろうか」
「うん」
机に封筒を置くと、待ち構えている明良の手を取って一階の厨房へ向かった。玲太郎は学校を卒業して以来、明良と一緒に菓子作りをする事があったが、先日に明良を泣かして以来、その度数が増えていた。
明良は一緒に作業をしているととても楽しそうにしているし、美味しい物が食べられて、玲太郎としては一石二鳥だった。
玲太郎は明良とまた一緒に呪いを習えるように頑張っていたが、思うように呪えなかった。ルニリナは全く気にしている様子はなく、至って穏やかに、いつも通りだった。
「ルニリナ先生、ごめんなさい」
落ち込んでいる玲太郎が唐突に謝罪をした。
「何がですか?」
「こんな所でつまずいてしまってごめんなさい……」
未だに捻挫をさせる呪いを達成できないでいた玲太郎は神妙で、それを見たルニリナは穏やかに微笑んだ。
「そのような事ですか。それは構いませんのでお気になさらず。寧ろこちらの方がよいと思えますのでね」
玲太郎は不思議そうにルニリナを見ている。
「アメイルグ先生や颯のように早く習得する事なく、のんびりと進める事は大変良いと思いますよ。ですのでそう難しく考えないで、目の前の事に集中しましょうね」
「はい」
返事をしても、そう簡単に気持ちを切り替える事が出来なかったが、ルニリナは直ぐに察知して今日の授業は止めにした。こういう日は宝物庫へ行き、色々な文様を見て、気になる物があればそれを念写して、その物か、酷似した物を本から突き止めていた。そのお陰で、玲太郎の本棚には文様に関する本が増えていた。
ルニリナは無理に授業を進める事は全くせず、玲太郎はそれがとても有難かった。それに甘えている事を自覚していたが、自分を厳しく律する事はしなかった。
こうして玲太郎の呪いの習得は遅々として進まなかったが、反転の術もまた進まなかった。朝は植物の種取り、その直後に反転の術の練習を遣っていたが、水伯は玲太郎の遣る気が削がれると困る為、何も言わなかった。完全に学校に入学する前の甘えん坊に戻っていて、それを愛おしく思うだけだった。
「父上も僕が出来なくても何も言わないね?」
「そうだね。出来なくても問題のない事だからね」
柔和に微笑むと、玲太郎は眉を顰めた。
「それはそうなんだけど、僕としては出来るようになりたいのよ」
「それでは出来るようになるまで頑張ろうね」
そう言われてしまうと、玲太郎も何も言えなくなって遣らざるを得なくなる。しかし、それも気が乗らずに時間が過ぎて行くだけだった。
「そろそろ息抜きをするかい?」
それを見抜いている水伯は柔和に微笑む。玲太郎は大袈裟に溜息を吐いた。
「この前もそう言って遊んじゃって、僕はダメダメなのよ」
「急ぐ事でもないのだから、それでよいのではないの?」
「僕はね、ルセナ君がああやって訓練してるのを見て、危ない目に遭った時の為に渡しておきたいのよ」
「そうなのだね。……そうだね、確かに危険な目に遭う可能性はあるから、玲太郎がそれで安心出来るようになる為にも、頑張って習得しようね」
「でも目に見えて上達してるかどうかが分からないでしょ。だからどうしてもやる気がなくなっちゃうんだよね」
真剣な表情だったが、そう言うと悪戯っぽい笑顔になった。
「ふふ、それでは間に合わないかも知れないよ?」
「大丈夫。危なくなったら逃げるように手紙に書くからね」
「玲太郎がそれで満足するならそうすればよいし、逃げて済めばよいのだけれど、どうなる事やら……」
水伯は苦笑すると、玲太郎は微笑んでいた。
「死にたくないだろうし、危なくなったらきっと逃げるのよ」
そう言いながら頷き、遣る気が復活しないのか、窓の外へ視線を遣った。
年を越したある日、水伯は玲太郎の遣る気のなさを痛感し、いつもは休みにしている週末に授業を行う事にした。玲太郎はそれが不満でしかなかったが、教師が颯と知ると態度を一変させた。それを見ていた明良は当然面白くなかった。
「玲太郎はもう灰金は作れるようになったか?」
「近い物は作れるのよ。でも灰金じゃないと思う」
「それじゃあ灰金が作れるように、練習を遣るか」
「えー、灰金作りなのぉ?」
締まりのなくなっている玲太郎を見た颯は苦笑した。
「よし、止めよう」
玲太郎が目を丸くした。
「えっ、止めるの?」
「遣る気がなさそうだから、そんな状態で遣ってもなあ……」
そう言って唸りながら顔を上に向けたが、横目で玲太郎を見た。玲太郎は目が合ったと思い、微笑んだ。
「それじゃあ玲太郎が嫌いなあれの練習を遣るか」
怪訝そうな表情になると、視線を地面に落とした。
「うん? 嫌い? …………あっ、分かった! 飛ぶ練習?」
思った事が口に出ると颯を見た。
「ご名答! 最近ずっと遣っていないだろう? どうせ踏み台に乗って、浮く事すらしていないんじゃないのか?」
険しい表情で聞いていた玲太郎は途中から悪戯っぽく笑っていた。
「分かっちゃった? そうなのよ、つい踏み台に乗っちゃうのよ」
「水伯と兄貴にも言っておかないといけないな。な?」
「踏み台はあった方がよいに決まってるじゃない」
颯は莞爾として玲太郎を見詰めた。
「一気に特級免許を取れと言っている訳じゃないんだぞ? 徐々に遣って行こうな?」
「分かった。それじゃあその練習は、はーちゃんが教えてくれるんだよね?」
「それはどうだろう? 兄貴が遣ると思うぞ」
玲太郎は明良を一瞥すると、明良は軽く何度も頷いていた。
「あーちゃんは薬草術と治癒術と和伍語とブーミルケ語を教えてくれてるからね」
「だからどうした?」
「え、はーちゃんが教えてくれるって事になるよね」
颯は思わず渋い表情になる。
「んん、そう来たか……。そうだな、それはまあ構わないけど、毎日とか平日だけとかは無理だぞ? 俺も仕事をしているからな。機会を見て、になるけどそれでいいか?」
玲太郎は満面の笑みを湛えた。
「うん! それでよいのよ!」
両手を上げて、颯に抱き着いて行くと、明良は恨めしそうに颯を見た。
「まあ、兄貴と水伯とニーティとばかりじゃ、飽きて来るよな」
玲太郎は無言で抱き着いている。不機嫌そうに些か眉を寄せた明良が口を開く。
「颯は休日の玲太郎と私との時間の邪魔をすると言うの?」
「兄貴は玲太郎と一緒にずっといても飽きないだろうけど、玲太郎はそうじゃないって事だよ。残念だったな」
苦笑しながら言うと、明良は無表情に戻った。玲太郎といる時間を削られて甚だ心外だったが、その間は気を紛らわす為に八千代と過ごし、刺繍を遣る事にした。集中していると腹立たしさも消え失せ、精神的に非常に楽になれるからだった。しかし、その後は確りと玲太郎に密着する事も忘れないだろう。
玲太郎はそのような事になる前、颯と一緒に箱舟で敷地外へ行き、周辺の町村を見て回った。飛ぶ練習ではなく、それは最早視察と化していた。
(これは先が思い遣られるなあ……)
楽しそうな玲太郎を見ながら、颯は苦笑していた。
玲太郎は勉強以外に遣る事がなかったが、日々を穏やかに過ごしていた。
(学校にいた時は驚くような事件があったけど、ここにいるとそういう事がなくなったから、その点は本当によいね。一番驚いたのは、やっぱり殺人未遂事件だよね……。となると、父上の事件もなのよ。あの頃の記憶で抜け落ちてる部分もあるから、父上の内臓に穴が空いて、それを僕が治したなんて言われても信じられないんだけど、本当に僕がそんな事をやったんだろうか?)
取り留めもなく思案をしていると、明良が頬杖を突いている玲太郎を見て微笑んでいた。我に返り、そんな明良が視界に飛び込んでくると姿勢を正した。
「ごめんなさい。他の事を考えてたのよ」
「構わないよ。休憩にしよう。昨日焼いた菓子を食べようか」
「うん!」
「それでは食堂か居室か、それとも此処か、何処で食べる?」
「それじゃあ居室にする」
「解った」
頷いていると玲太郎が立ち上がり、直ぐに傍へ行って手を取った。そうして二人は一階へ向かった。
一人で先に居室に行くと、八千代とルニリナが脚の長い椅子に腰を掛けて話をしていた。
「お邪魔します」
「あら、休憩?」
「そうなのよ。ばあちゃんはルニリナ先生と何をやってるの?」
二人の傍へ行くと、ルニリナの前には帳面が置かれていた。
「料理の手順や材料、調味料の量を書いてもらってるのよ」
「へぇ、それは僕も興味があるのよ」
「私もいい年だからね、いつお迎えが来るか分からないから、こうしてルニリナ先生に手伝ってもらっていたんだけど、作っていなかった料理なんかは忘れている事に気付かされたよ。年を取ると駄目ね」
玲太郎は眉を顰めて八千代を見ていた。
「そんな顔をして、どうかしたの?」
「ばあちゃんはまだ死なないのよ。そういう事を言っちゃダメ」
「あはは、だって本当の事だからね。人はいつかは必ず死ぬんだよ。あ、そうだ。私が土に還ったら、私が持ってる悠次の土と一緒にしてもらって、玲太郎の花壇の土にしてもらおうか」
思わず目を丸くした玲太郎は顎を引いた。
「ええ? それでよいの? どこかの山とか、海とか、湖とかの方がよいと思うよ?」
「玲太郎の花壇なら、いつでも花が咲いていて華やかだからね、山とか海とかになると、足を運んでもらわないといけなくなると思うと、断然そこの花壇がいいよね。悠次のいる海に、いつかは辿り着けるかも知れないね。長い長い年月をかけて会いに行こう」
そう言った八千代の表情が朗らかで、玲太郎は眉を顰めて見ているだけだった。そこへ扉の開く音がして玲太郎が目を遣ると、明良が両手に盆を持って入室した。
「お待たせ。ばあちゃんとルニリナ先生にも持って来たからね」
「それはありがとうございます」
「ありがとう」
玲太郎はそのまま八千代の隣に、明良は玲太郎の隣に座った。
「いただきます」
焼き菓子を切り分けて頬張ると、一人で「美味しい」と頷いていた。その様子を見た明良がルニリナを見る。
「何かあったのですか?」
ルニリナが明良に顔を向けると穏やかに微笑む。
「八千代さんが、土に還ったら玲太郎君の花壇の土にして欲しいと仰っていましてね」
「ばあちゃんはそれでよいの?」
明良は八千代を見ると、八千代は失笑した。
「あっははは、玲太郎と同じ事を聞くんだね」
そう言って一頻り笑った。
「はー、おかしかった。うん、私はそれでいいよ。その方が何かと楽だよね?」
「楽かどうかは関係なく、ばあちゃんはそれでよいのだよね?」
「うん、それでお願いね。私の持ってる悠次の土と一緒にお願いするね。飾ってある悠次の写真を灰にして、それを混ぜてくれると嬉しいんだけど」
「あれは私が貰おうと思っていたのだけれど、そうしては駄目だろうか?」
「あら、あれが欲しいの?」
「そう」
「勿論構わないけど、颯が欲しいって言ったら、颯に譲ってあげてね」
「それは嫌だね。私が貰う」
「あら、そうなの?」
「颯は色々と持っているけれど、私は何も持っていないからね」
「それは初耳。何を持ってるの?」
「悠次の書いた手紙とか、悠次が落書きをしていた教科書とか、そういった物を貰ったからと颯が言っていたよ」
「そんな物があったんだね」
玲太郎は颯に見せて貰った事があり、それ等を思い浮かべていた。
「だからと言う訳ではないのだけれど、遺影に使っていた写真を貰おうと思っていたのだよね。そうしたら、気付いた時にはばあちゃんの部屋にあって、貰い損ねたのだよ」
「早い者勝ちだから仕方がないね。分かったよ。それじゃあ明良が持っててね」
「うん、有難う」
明良の頬が微かに緩んだ。八千代はそれを見て微笑む。ルニリナは一人静かに焼き菓子を頬張っている玲太郎を見ていた。
玲太郎の心の中に、人はいつかは必ず死ぬと八千代に言われた言葉が纏わり付いていた。
(順番通りではないにしても、一番近い所にいるのはお祖父様だよね。ばあちゃんもだけど、二人がまだ健康で生きていられるようなお守りを作りたい。あーちゃんより、ルニリナ先生に相談した方がよいよね……)
冬になり、雪空の続く日が増えて来たある日、玲太郎は漸くルニリナに相談をした。
「以前、八千代さんに言われた事が引っ掛かっているのですね」
「そうなんです」
「解りました。それでは、生きていられるその日まで元気であるように願いを籠めて作りましょう。お守りは身に着けていて貰い易いように、腕輪にしておきましょうか」
「はい」
笑顔で頷くと、ルニリナも笑顔で頷く。
「素材はどうしましょうか? 水晶の類の物を小さな玉にして糸で繋いでいる物か、何かしらの素材で輪っかになっている物か、それに準じた物か…」
「水晶の玉を糸で繋ぎます」
「そうですか。水晶に通す糸は伸縮性のある物にしましょうね。そうすれば取り外しも簡単ですのでね」
「はい」
「まずは八千代さんから作りましょうか。水晶の色はどうしますか? 透明にしますか?」
「それじゃあ、乳白色で行きます」
「形状はどうしますか? 球体ですか? 楕円体ですか? それとも少し角張っていますか?」
「うーん、……球体にします」
「解りました。それでは、それを顕現させながら、生きていられるまで元気で過ごして欲しいと願いを籠めて下さいね」
「はい」
大きく頷くと両の掌を胸の高さに持って来て上に向けた。それから静かに目を閉じた。掌の少し上に水晶が顕現し始める。完全な形状になると、掌に下りて来た。玲太郎は目を開けてそれを確認する。
「ルニリナ先生、どうでしょうか?」
掌にあるそれを取ると凝視した。
「はい、とてもよい出来です。この上なく、ですね。この調子でガーナス様にも作りましょう。最後はアメイルグ先生に作りましょうね」
最後の一言に、玲太郎は苦笑するしかなかった。
「でもあーちゃんには、不要だと思うんですけど……」
「玲太郎君が作っていれば、どのような物でも大変喜ばれますよ」
そう笑顔で言われ、また苦笑した。結局、明良にも同様に、更には颯や水伯にも作り、色は明良には紫、颯には緑、水伯には赤の水晶にした。
「ありがとうございました」
最後に作った黄水晶の腕輪をルニリナに差し出した。
「どういたしまして。……これはもしかして、私の分でしょうか?」
「そうです」
ルニリナの表情が更に明るくなり、受け取ると早速左手に通した。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「はい」
二人は笑顔で見合っていると、ルニリナが口を開く。
「それでは呪いの続きをする前に、休憩をしましょうか」
「はい!」
「ではお茶を淹れに行きましょう。今日も玲太郎君にお願いしますね」
「はい! 今日も美味しくなるように念じます!」
元気良く返事をし、腕輪を机に置いたままで二階の小さな台所へ二人で向かった。
玲太郎が作った腕輪を持って、明良に連れられてガーナスの下へ向かった。明良が居室の扉の前に瞬間移動して直ぐに開扉すると、三人掛けの長椅子に座ったガーナスが読書をしていた。
「お父様、玲太郎が来たよ」
「お祖父様、こんにちは」
振り返り、眼鏡をずらす。
「おお、いらっしゃい。お茶でも飲むか?」
「それじゃあもらうね」
「何がよい? 紅茶、緑茶、番茶、白湯、梅湯、梅は酸っぱい梅干しだけれど、どれにする?」
透かさず明良が訊くと、玲太郎は明良を見る。
「それじゃあね……、番茶をお願い」
「解った。お父様は?」
「そうだな、それでは梅湯を頼む」
「うん、暫く待っていてね」
「はーい」
玲太郎は迷わずガーナスの隣に座った。
「今日はね、お祖父様に渡したい物があって来たのよ」
「そうなのか。それは有難う。気持ちだけで十分だがな」
「まあそう言わないで。贈り物なんだけど、包装はしてないのよ。ごめんね」
そう言って上着の衣嚢から取り出す。ガーナスが玲太郎の掌に載っている腕輪を見る。
「綺麗な色ではないか」
ガーナスの水晶は水色だった。
「もう少し濃い色にしたかったんだけど、淡くなっちゃった。これをね、腕輪なんだけど、ずっと着けてて欲しいのよ」
「ふむ……、お守りの類か?」
「そう! そうなのよ。良く分かったね? 僕が作ったのよ」
「それは有難う。早速着けよう」
本を膝に置き、腕輪を手にすると左手に通した。
「ああ、玲太郎のお守りを以前買ったのだがな、あれは大変よい物だった。効果が切れてしまって寂しく思っていた所だったから、本当に嬉しいよ。有難う」
「どういたしまして。なるべく着けててね」
笑顔でそう言うと、ガーナスは大きく頷く。
「解った、そうしよう」
気に入ったのか、左手首にあるそれを見ていた。玲太郎は満足そうにガーナスを見詰めた。
「明良には何色にしたのだ?」
「うんとね、紫」
「紫か、よい色だ。颯は何色だ?」
「緑」
「うん? 紫にしなかったのか」
「えっ、紫がよいって言うのはあーちゃんだけだからね。はーちゃんは色にこだわりがないのよ。強いて言うなら黄色とか緑とか藍色とか、その系統だね」
「よく見ておるな」
「はーちゃんが言ってたのよ、小さい頃からその色だったからって。でもこだわりがないから僕が選んだ服も気にせず着てたのよ」
「何色を選んだのだ?」
「橙色」
「紫ではないのだな」
そう言われると首を傾げる。
「紫はあーちゃんだからね。はーちゃんも紫にしたらお揃いになっちゃうでしょ」
「ああ、成程。そういう事なのだな」
「うん?」
ガーナスは腕輪から玲太郎に視線を移すと微笑んだ。
「いや、深い意味はない。これを今日からずっと着けるとしよう。本当に有難う。これの効果は何時までになるのだ?」
「あ、ルニリナ先生に聞き忘れてたのよ。でも学校で売ったお守りよりは持つよ? あのお守りは加減をするように言われて作ったからね。僕としては五年は持つと思うんだけど、きちんとルニリナ先生に聞いておくね」
「五年か。それでは私が死ぬまで十分持ちそうだな」
ガーナスにとっては何気ない一言だったが、玲太郎は鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を受け、その後の事はよく憶えていなかった。
ブーミルケ語の授業中、玲太郎は上の空だった。
「玲太郎、玲太郎、玲太郎?」
明良が連呼しても、玲太郎は上の空のままだった。明良は椅子を玲太郎の正面に顕現させ、腰を掛けてその姿を見詰めていた。
玲太郎がふと我に返ると、正面に明良がいて微笑んでいた。
「あ、ごめんなさい。ぼんやりしてたのよ」
「何があったの?」
上目遣いで明良を見て、それから手元に視線を移した。
「ばあちゃんがもうすぐ死ぬとか、そろそろお迎えが来るとか、じきに土に還るとか言うけど、衝撃を受けた事は一度もなかったのよ。でもさっき、お祖父様にお守りは五年くらい持つと思うって話したら、死ぬまで十分持ちそうって言われて物凄い衝撃を受けたのよ。それで、この差はなんなのだろうと思って……」
「成程」
頷くと窓の外へ視線を遣る。
「ばあちゃんは確かな年数を言った事がないのだね。お父様はもう八十を過ぎているのだよね。平均寿命を考慮すると長生きな方だから年数を言ったのだろうけれど、ばあちゃんの言い方に慣れている玲太郎にはそれが衝撃的だったのだね」
玲太郎に顔を向けると優しく微笑んだ。
「ああ、それでなの。ばあちゃんに慣れてたからかぁ……。それにしても、五年以内って言われると悲しいね。僕、もっとイノウエ邸へ行ってお祖父様と会うようにするね」
「そうだね。お父様の縁者は私達だけのような物だからね」
「うん? まだ血の繋がった人がいるの?」
視線を明良に向けると、明良は頷いた。
「私達の実父に妹がいるにはいるのだよ。お父様には秘密なのだけれど、配偶者と一緒に農奴になっていてね、もう外へは出られないのだよ」
「え、そうなの? ……それじゃあ言えないね」
「そもそもイノウエ家から除籍されているのだよね」
「そう。でも僕の叔母さんになるんだよね?」
「そうだね。叔母さんになるね。けれど、残念ながら此方からは会えないからね」
「ふうん……。親戚がいるなんて思ってもみなかった」
「イノウエ家は分家も沢山あるから、親戚は結構いるのだよ?」
「へぇ、それは知らなかったのよ。そんなにいるの?」
「血の繋がりとしては相当薄いけれどね。祖父の更に祖父の更に祖父の兄弟姉妹で繋がっているという感じになってしまう程にね」
思わず苦笑した玲太郎は頬杖を突いた。
「それは薄過ぎるのよ……」
明良が「ふふ」と笑っていて、玲太郎はそれを目を細めて見ていた。
夕食時、玲太郎はルニリナに忘れない内に例の事を訊いた。
「ああ、それですか。驚く事に、死ぬまで効果があります」
それを聞いて一番驚いたのは八千代だった。
「ええっ、これは私の為の物でしょ? そうなると、私が死ぬまで効果が続くの? 十年でも二十年でも?」
玲太郎は先を越されてしまい、何も言えなかった。
「そうなのですよ。玲太郎君が、死ぬまで健康で…と願ったからでしょうね。その方が百年でも二百年でも、生き続けている限りは続きます」
「ええっ、そんなにも? 私はあれだけど……、明良や颯も、生き続ける限りは効果があるという事?」
「そうです」
「それは凄いですね」
八千代が感心していると、颯が微笑んでいた。水伯が笑顔で玲太郎を見る。
「玲太郎は凄い物を作ったのだね。これは一生物になるね。有難う」
「そんなつもりはなかったんだけど、そうなっちゃってるんだね。僕も驚いてるのよ」
「何かに当たって水晶が壊れたり、この紐がちぎれたりしない限りは、このままでいけるんだな」
颯は緑の水晶を見ていた。
「颯は緑なのだよね。水伯は赤だったよね。ばあちゃんは?」
八千代が無言で左手を上げると、明良がそれを見て軽く二度頷く。
「有難う。乳白色なのだね。成程、目の色という訳ではないのだね」
「ばあちゃんは雰囲気が乳白色なのよ。優しい、柔らかい感じね。父上は最近、派手な色の服を良く着てるでしょ。だから負けないように赤にしたのよ。あーちゃんは紫にこだわってるからそうしたんだけど、目の色が良かった?」
「私はこれで十分だよ。有難う」
満面の笑みを湛えて言うと、玲太郎も笑顔になって頷いた。
「俺の緑はどうしてなんだ?」
「うん? ……うーん、はーちゃんを思い浮かべたら緑になっちゃった。ルニリナ先生も思い浮かべたら黄色になっちゃったのよ。自然と目の色になっちゃっただけだね」
「成程」
颯は納得すると牛肉を頬張り、少し咀嚼すると白飯も頬張った。玲太郎は横目で颯を見ていたが、直ぐ菜に視線を移した。
入浴中、颯が腕輪をしたままで湯船に浸かっていた。
「うーん、やっぱりはーちゃんには緑じゃない方が良かったのかも知れないね?」
「唐突にどうした? 緑でいいぞ」
「本当はね、橙色にしようと思ったのよ。だから父上のは赤にしたんだけど、はーちゃんを思い浮かべたら自然と緑になっちゃって……」
颯は笑顔で玲太郎を見詰めると、濡れた手で玲太郎の頭を乱雑に撫でた。
「目の色が緑だからだろうな。有難う」
「橙が良かった?」
「どっちでもいいぞ」
玲太郎は眉を顰めた。
「そういうのは良くないね。どっちでもはダメなのよ」
「緑でいいぞ。自分の直感を信じろよ」
「でも僕は橙色にしたかったのよ」
「それじゃあ緑と橙と黄色の三色にして貰っていいか?」
「あ! 玉の一個ずつを違う色にすれば良かったんだね!」
「これが壊れる事があれば、その時にそうして貰えればいいよ」
「今っ、作り直す」
そう言って手を出した。
「この手はなんだ?」
「今着けてる物を頂戴。消すから」
「これが壊れた時でいいって」
「だからぁ、今やるって言ってるでしょ。早く」
「はいはい」
颯が取り外して玲太郎に渡すとそれが消えた。そして、玲太郎は掌を上に向けて目を閉じ、眉を寄せた。徐々に顕現された物は、黄色と橙と緑と藍色と紫と黒の六色で出来ていた。目を開いてそれを確認すると笑顔になった。
「はい、出来たのよ」
「今度は色の数が多いな? 有難う」
そう言いながら左手に通した。
「はーちゃんの服の色に合うようにしたからね」
笑顔で言うと、颯も笑顔で頷く。
「有難うな。大切にするよ」
「うん!」
玲太郎の機嫌が良く、それがルツに伝わったのか、二体が跳ね始めた。
「最初の物も消さずに一緒に着けていれば良かっただけのような気もしていたな」
それを見ながら颯が言うと、玲太郎は首を傾げる。
「二つも着けたら、邪魔じゃない? 僕は邪魔だと思うんだけど……」
「一つも二つも一緒だと思うけど、もうないからな」
「でも、僕が反転の術を覚えたら腕輪にするんだよね?」
「ああ、そうだな。その時はこれとは違う材質で作って貰ってもいいか? 灰金擬きでいいぞ」
「それじゃあそれまでに灰金を作れるように練習をやっておくね」
「そうしたらそれは右手に着けるよ」
「うん、分かった。頑張るからね」
「無理のない程度にな」
「分かってる」
頗る機嫌の良さそうな玲太郎を見て、颯も嬉しそうにしていた。ルツは二体共が暫く跳ね続けていた。
玲太郎は時折明良に冷たく当たったり、喧嘩腰になったりする事はあったが、比較的穏やかに日々を送っていた。今までに習った座学は、忘れ掛けた頃に明良が復習帳を持って来てそれを遣る事もあった。魔術の方は徐々にではあるが上達していても、玲太郎自身は上達していないように感じていた。その所為で後ろ向きになる事もあったが、その都度に息抜きと称して遊んでいた。
玲太郎にとっての大事件が起こる事も偶にはあったが、周囲が手を貸し、知恵を貸し、乗り越えて行った。
そうして玲太郎は、自分が如何に愛されているかを実感していた。




