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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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39/40

閑話 しかしてルセナは生涯の友を得る

 星暦二二〇三年十月のある日、カンタロッダ下学院は男子寮の食堂に物凄い物音がしたかと思えば、怒号が響き、金髪と亜麻色の髪が激しく乱れていた。

「ふざけんじゃねえぞ! 貴族だからってなんでもやっていいと思うなよ!」

「平民は貴族にしたがっていればいいんだよ!」

「だれがオレよりアホの言うことをきくかよ!」

 取っ組み合いの喧嘩は殴り合いへと発展し、分は馬乗りをしている金髪の少年にあった。

「ギャァァアア! いたい! いたいい!!」

 絶叫が響き、ようやく一学年の班長が止めに入った。一人は床で身悶え、もう一人は肩で呼吸をしながら羽交い絞めにされていた。

 亜麻色の髪の少年は名をテティツ・イマギ・セイゼサンと言い、伯爵令息だった。そして彼は頬を骨折し、加害者のタハーズ・ルセナが停学処分となる。タハーズが一学年の時の事件だ。


 カンタロッダ下学院は、校則で身分差による虐めを厳しく処分するという事になっていたが、実際は横行していた。

 文官が容易に爵位を得られるようになったのは、この二百年の間の事だった。今ではそれなりの地位に上り詰めるだけで叙爵される程の大盤振る舞いだったのだが、その文官貴族が如何いかに自分達の地位が高いかを誇示する為に行っていた。

 タハーズはそんな事はどうでも良かった。校則で決まっている以上、上級生がタハーズを標的にしようとも、気持ちで負ける事はなかった。

(やられた事は、必ずやり返す)

 虐めと捉えられる行動を取った相手の名を、一人も漏らさず、上級生ですら帳面に記した。

 それから平民は皆が味方であると思い込んだまま四学年に進級し、入学して約三年五ヶ月が経過した頃に裏切られる。それも一番庇って来たワウム・カガールクに、だ。そうであると確信を持った日、帳面にはカガールクの名も記された。


 入学から四年が過った十月一日、タハーズは玲太郎と同級生となった。

 教室へ行ったら一番乗りが既にいて、それが玲太郎だった。気安く話し掛けたてみたら、意外にも話してくれ、その辺の貴族と一線を画す雰囲気を醸していた。どちらかと言うと平民に近く、親しみ易かった。

 そして女子に殺人未遂事件が起き、期せずして貴族による虐めが話題になった。このような日が来るとは夢にも思っていなかったタハーズは躍り出したい程に歓喜した。

 翌日、颯に提出した連絡帳には、あの帳面に書かれている名を全て書いた。そして、遣られた事も余す事なく全てを書いた。

 薬草師として遣ってはいけない事を遣ったカガールクは、その日の内に退学処分となって帰宅させられたが、それを見て、なんの感情も湧かなかった。薬草師としての道を閉ざされたカガールクに対して、哀れだとも自業自得だとも思わず、タハーズの中では終わった事として処理をされていた。


 最初は颯に頼まれて玲太郎と一緒にいるようにしたが、言われた期間を過ぎても自然と一緒にいるようになる。玲太郎と話すととても楽しかったし、玲太郎も楽しそうにしていた。

 学祭で一緒に観覧し、ヤニルゴル地区で一緒に動物を観覧し、友達とはこういう物なのだと実感をした事で、今まで友達だと思っていた相手は只の同級生としか思っていなかった自分に気付いた。

(オレってもしかして薄情なのかも……)

 単に友達と呼べる程の交流をしていなかった事に思い至るまで、そう思い続ける事になる。

 こうして出来た友達は意外と口が卑しく、食べ物が大好きだった。揚げ芋が一番好きと言うと、決まって笑われていた物だが、この友達はそうではなく、「ある物を振りかけて食べると美味しさ倍増なのよ」と常々言っていた物を、学祭前の試食会の時に味わわせてくれ、その味付けの揚げ芋も販売する事になった。

 あれもこれもそれも、臨海学校も、研修旅行も、長期休暇中に宿泊した事も、良き思い出として老いても心に残る事となるが、それは少し先の話となる。


 卒業後の九月十四日は日の曜日で好天に恵まれ、ルセナは一家で水伯邸へ訪れていた。家族の三人は小さな村以上ある敷地の広大さに愕然とし、隊員の一人にサドラミュオ親衛隊の施設を案内された。今期は五十五人が入隊するのだが、見学に来た入隊予定者はルセナで三十一人目だった。

 そして恒例の茶会に招待され、水伯に付いて行き、簡素だが大きな屋敷に圧倒されながら、中へ入って行く。通された部屋は外観同様に簡素な客室で、小さな絵画が一点と花を生けた花瓶が飾ってある程度だった。

「意外だなあ、こんなに質素なんて」

 部屋を見回しながら言うと、タハーズが神妙な表情になる。

「父ちゃん、驚くなよ? そこの絵はガップツァック・フェルエネ・ソルって言う、物凄く有名な画家の絵なんだよ。小さいけど、一千万こんは下らないぞ。ソルの没年から考えると千七百年くらい前の作品だし、歴史的価値が付加されるともっと行くかもな」

「う、う、嘘だろ!?」

 茶髪に茶色の目を持った端正な顔立ちで、日に良く焼けた小麦色の肌をしたゴーティスが目を丸くして絵を見た。父親とは言え、タハーズと似た所が少しもなく、タハーズは完全に母親似だ。

「ええ? 本当にそんなにもするの?」

 母親のジューンも顔をしかめていた。妹のキリュキは口を開けて何かを指折って数えていた。キリュキは父親似で、茶色の髪に翠眼、そして小麦色の肌をしている。

「まるが七個?」

「そうだよ、七個だね。キリは賢いなあ」

 タハーズが優しく答える。

「質素に見えるだけで、この椅子も安くはないんだよ。なんと言っても公爵家だからな」

 そう続けると花瓶を指で差す。

「あれもきっと高いんだぞ」

 三人が花瓶の方を向く。「へえ~……」と唯々感心するゴーティスに、笑顔のキリュキは「お花きれい」と言っていた。首を横に振っているジューンはやはり顔を顰めて「母さんには芸術の事は分からない……」と呟いた。

 三者三様の反応を見せ、タハーズを笑わせた。そこへ水伯が茶器を乗せた台車を押しながら入室し、遅れて玲太郎も入室した。

「初めまして、こんにちは。レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンドです」

 丁寧に辞儀をすると、ゴーティスとジューンが立ち上がって深く辞儀をした。

「ゴーティス・ルセナです。倅がすっかりお世話になりまして、ありがとうございます」

「ありがとうございます」

 そんな中、水伯自らが給仕をしている。

「挨拶はそれで切り上げて、どうぞ召し上がれ」

 玲太郎の好きなソキノの皮の砂糖漬け入りの焼き菓子が置かれた。

「ルセナ君はそっちの一人がけの椅子に座ったら? 三人がけに四人はきついでしょ」

「それじゃあそうする」

 そう言って皿を持ち、移動した。玲太郎の左斜め前の席だ。

「ルセナ君、就職おめでとう。これはね、僕からのお祝いなのよ」

「えっ」

 驚いて声を漏らしたのはジューンだった。玲太郎の手には包装紙に包まれた直方体の物があった。

「ルセナ君の為に一所懸命練習をして作った物だから、受け取って貰えると私も嬉しいのだけれどね」

 水伯が柔和に微笑み、給仕を終えて玲太郎の隣に座った。

「ウィシュヘンド、ありがとう! 大事にするよ!」

 水伯から玲太郎に視線を移し、受け取った。

「うん!」

 二人が笑顔で見合っていると、水伯が「ふふ」と笑っていた。

「それでは頂こうね」

「はい」

 二人が返事をすると、ルセナが皿を持って菓子用の突き匙を手にした。綺麗に膨らんでいる生地を切り分けて頬張る。ルセナ一家はそれを真似した。

「お味はどうですか?」

 玲太郎が訊く。

「甘さ控えめでうまい! これくらいの甘さが好きだな。ソキノの匂いも、皮の苦みを少し感じるのもいい」

「おいしいです」

「うん、おいしいな。キリはどうだ?」

「おいしいよ」

「僕が作ったので嬉しいです。ありがとうございます」

「ウィシュヘンドが作ったのか! ありがとう、うまいよ」

 水伯は玲太郎が嬉しそうにしていて、とても満足していた。それはタハーズも同じだった。

 帰宅後、気さくな水伯と玲太郎に好感を抱いたルセナ一家は、当分この話題ばかりになっていた。


 サドラミュオ親衛隊に入隊して数ヶ月が経ち、毎日の鍛錬と勉強の両立で心身共に草臥くたびれていた。玲太郎と遣っていた月に一度の文通はなんとか続けていたが、楽しいと思えた些細な事を少しだけ書く程度だった。休日は必要最低限の物を買いに行き、残りの時間は休日らしく、出来るだけ頭と体を休めた。

 職務内容は水伯の護衛は敷地内の警備となっていて、それ以外に諜報活動で、市場や価格、農作物の出来具合等を調査したり、謀略があるとして逐一裏付けを行う、標的の動向を探る、時には捕縛して尋問する等々と多岐に亘る。その為、今は鍛錬と勉強漬けで、特に鍛錬では小さな怪我が絶えず、カンタロッダ学院で学んだ治癒術は役に立った。

 同期は新卒だけではなかった為、年齢幅があった。最年長は三十二歳の子持ちで、タハーズが最年少だった。そして、大半がじょう学校を卒業していた。

 休憩中に同期がウィシュヘンド家を話題にしても、玲太郎の話は一切出て来なかった。タハーズはとても不思議に思っていたが、そういう物なのかと納得していた。

 研修期間中は学校の延長のような気持ちでいたが、半年が経過して魔術騎士隊へ配属される事が決定してからは、更に鍛錬漬けの日々となった。特に未経験の剣術の稽古に時間を割いていた。

 そうしている内に、玲太郎との文通が二ヶ月に一度、三ヶ月に一度、となって行ったが、玲太郎からは毎月届いていた。それは正直、とても嬉しかったが、妹のキリュキは返事を書かなければ送って来ない事を余計に寂しく感じた。


 四月五日になると、部屋の机には紙袋と、その下に手紙が置かれていた。誰がどうやって中に入ったかなど、考えるまでもなかった。

(ウィシュヘンドだな。誕生日の贈り物はなしだって話してたのに……)

 服を着替える前に紙袋の中を改めた。

(菓子だな。ウィシュヘンドらしいなあ……)

 思わず表情が緩んだ。汗を掻いたままで手紙を読んだ。

(お菓子作りは少し上達してると思うんだけど、美味しく出来ていたら嬉しいです。僕がやりたくてやっているだけだから、僕に誕生日のお祝いはなくてよいよ。鍛錬、頑張ってね。玲太郎……、か。ありがたく頂くよ。うん、本当にありがとうな)

 入浴後、家族から届いた手紙を読みながら、それを食べた。

(そうだな、ウィシュヘンドの誕生日には言葉を贈ろう。文通とは別の手紙を書いて……。そうしよう)

 そう決意する。


 そう思ってから一度目の五月二十二日は、ヤニルゴル地区で買った絵葉書を当日に着くように送った。少々前後しても許して貰えるだろうと思ったし、実際そうだった。「一日遅れて届いた」と直後に来た手紙に書かれていた。そして、「久し振りに会いたいから、七月に入って二度目の休日の十一時にヤニルゴルのあの食堂で待ってる」とも書かれてあった。

(七月に入って二度目……、ああ、休みは調べられるか。ウィシュヘンド公爵様に言えば簡単だよな。まだ決まっていないし、そうして貰うか。前日は自主鍛錬を休めば大丈夫だな)

 その日の内に返事を書き、次の休日に手紙を収集所に直接出しに行った。 

 それからは七月の二度目の休日が楽しみになった。鍛錬を主に遣っているとは言え、仕事の都合上、暦通りには休めず、休日は平日になる。

 七月は五日が二度目の休日で、十時八十分には約束の食堂に到着していた。十時九十分に玲太郎がルニリナと共に入店すると、二人は少し話し合い、玲太郎だけがタハーズの席に着いた。

「久し振り。元気だった?」

 満面の笑みを浮かべて玲太郎が言うと、タハーズも笑顔で頷いた。

「元気だぞ。ウィシュヘンドも元気そうで何よりだな」

「ありがとう、とっても元気なのよ」

「ルニリナ先生はこっちに来ないのか?」

 ルニリナを一瞥して言うと、玲太郎は頷く。

「そうなのよ。沢山話したい事もあるでしょうし、お二人でどうぞって」

「そうなんだな。別にいいのに」

「ふふ。そうだね」

 約十三ヶ月振りに見る玲太郎は、全く変わりなかった。

「それにしても、同じ敷地内に住んでるのに、本当に会わないな」

「そうだね。僕は北の畑と温室にしか行かないからねぇ……」

「北の畑! 懐かしいな」

「土の像を造ったよね。楽しかったね」

「そうだな」

「鍛錬はどうなの? やっぱり辛い?」

「辛い事は辛いけど、身になってるって分るから頑張れるよ」

「きちんと休んでね」

「おう。昨夜は少し休んだよ」

「そうなの? でも少ししか休まないのはダメなのよ。きちんと休んでね」

「そうするよ」

 笑顔で頷いた玲太郎は、タハーズを凝視した。

「なんだかとっても逞しくなったよね? やっぱり剣術とか体術とか習ってるの?」

「うん、習ってる。接近戦に持ち込まれても大丈夫なようにな。今はそれらを重点的にしてるんだけど、かわし切れなくて剣で剣を受けちゃうんだよ。そうなると技術が足りなくて負けるんだよなあ。それが悔しくて悔しくて堪らないんだよ」

「ルセナ君は剣術はやって来なかったんだから、仕方がないね。怪我をしないようにね」

「学校で治癒術を習っていたから、あれのお陰で傷とか打撲とかは治せるよ」

 玲太郎は冴えない表情になると、「うーん」と唸った。

「怪我をしたり、打撲をしたりするのはいけないね」

「大丈夫、その内に避けられるようになるから。ははは」

 そう言って朗らかに笑ったが、玲太郎は苦笑した。

「でも十分に気を付けてね」

「うん、分かった」

 笑顔で頷くと、玲太郎も少しだけ笑顔を見せた。

「それにしても、敷地内に一緒に住んでいるから直接屋敷へ手紙を出せばいいんだろうけど、出来なくて悪いな」

「ああ、それはよいのよ。特定の隊員と仲のよい所を見せちゃうのは良くないからって、父上にも言われてるからね。僕もそれは弁えてるのよ。でもサドラミュオ親衛隊は虐めみたいなのはないんでしょ?」

「ないな。当たりのきつい先輩はいるけど、そこまでではないな。カンタロッダ下学院みたいに建前だけの校則じゃないから、その辺は心配してないよ。虐めたヤツの話は入隊した頃に嫌と言う程聞いたから、しようとするヤツはいないと思うぞ」

「そう、それならよいのだけど、父上がそれでも起きる時は起きるって言ってたからね。何かあったらすぐに言ってね?」

「心配してくれてありがとう。そういう事があったらすぐに言うよ」

 玲太郎は何度も小さく頷いていた。タハーズはその気遣いがとても嬉しかった。そして、玲太郎が直ぐに話題を変え、たわいない話題になる。二人は楽しい二時間を過ごした。


 配属されてから半年が経過すると漸く巡回へ行ける事になった。私服を着てウィシュヘンド州の市町村を見回るだけなのだが、怪しい人物を見付けると、それを否定する材料が揃うまで見張る事になる。チルチオ教徒である事が判明した場合は、即座に拘束する。それ以外にも指名手配されている凶悪犯の顔も記憶させられた。

(巡回となるとウィシュヘンドにもらった首飾りを使う時、なんだろうなあ……)

 タハーズは貰った箱を開け、首飾りを手にした。鎖も装飾の部分もはい金のような素材で出来ていて、身体強化の付与術が掛かっていた。試着をしてみると、余りにも強力で普段使いには向かながない物で、慣れる為に一人の時に力加減を覚えた程だった。

(この模様、なんて言ってたか……、意味は円満とか調和とかだったか? ウィシュヘンドんちの居間の窓掛けもこれだったよな。きっとウィシュヘンドが好きな模様なんだろうな)

 何気ない事を思い出し、顔が綻ぶと目を閉じた。

(この力を発揮する事がありませんように……)

 顔を引き締め、目を開けた。


 長期休暇は年に二度あり、期間は一週間となっている。これに半年分の有給休暇を合わせれば最長で一ヶ月以上も休めるが、有給は平時の休日を二連休や三連休に使用したり、病気になって使用せざるを得なくなったりと、実際に遣れる者はいなかった。しかし、タハーズは二年目の後期に遣った。後期は一月から八月となっていて、その間の有給を足して三十日の連休となった。

「ルセナ、三十日も休むんだって? 有休を溜め過ぎると怒られるぞ」

「そんなにも溜めるなんて、若いから出来る事なんだろうな。わたしなど……」

「三十日もルセナの顔が見られないなんて、清々するわ。……元気になって戻れよ」

 色々な事を言われたが、タハーズは楽しみで仕方がなかった。半分は実家で過ごし、半分は玲太郎と旅行する事になっていたからだった。キリュキの学費の為に仕送りをしていても、使う事が殆どない給金を有意義に使えて申し分なかった。

 七月二十一日は土の曜日で、意気揚々と実家に帰った。しかし、一番会いたかったキリュキは休日の筈なのに、友達の所へ遊びに行っていて留守だった。

「思ったより早く着いたのね。おかえり」

 笑顔で迎えてくれた人物はジューンだった。

「ただいま。父ちゃんは?」

「最近不漁でね、休日なしで頑張ってるんだけど、漁に出れば出るだけ赤字なのよね」

「そうなんだ……」

 現在の平民の平均月収は二十五万金で、四人家族の一ヶ月の生活費は三十五万金と言われている。

「タハーズには悪いんだけど、キリの学費って言って送ってもらってるけど、積み立てないで使ってるのよ……」

「それはまあ、仕方がないよな」

(キリの学費は別に貯めるしかないな)

 内心で思っていると、ジューンは暗い表情で続ける。

「それに最近、物価が上がっててね、どれも高いのよ」

「そうなんだな。ウィシュヘンドは全然上がってないけど、ロメロニクは上がってるのか。そんな事もあるんだなあ」

「なんでも、王都では割と前からそうだったみたいよ。それが徐々に広がっているんだって」

「物価の変動は田舎に行く程、影響は遅く出るって言うからなあ、それじゃあウィシュヘンドでもその内に来るな」

「そうなの? ……それで、キリが学校へ通い出したし、母さんもそろそろ働きに出ようと思ってるんだけど、この不景気の中じゃなかなか働き口がなくてね、町の方まで出ないといけないから、この辺りから通うとなると遠過ぎて無理なのよね。だから冬に売る編み物を、こうしてせっせと編んでいる所なのよ……」

 帰省早々に暗い話題で、タハーズは思わず苦笑した。

「母ちゃん、話してる所を悪いんだけど茶を入れるよ。待ってて」

「いいの? ありがとう」

「道すがらに菓子を買って来たから、それも一緒に食べよう」

 荷物の中から紙袋を取り出して台所に足を向けた。


 玲太郎との旅行は十泊十一日で、ウィシュヘンド州ウィシュヘンド市にある空港から旅客空船に乗って和伍国へ向かう。

 約束の日は八月三日、八時発に乗船する為、七時六十分には搭乗口付近で玲太郎を待っていた。

「ルセナくーん!」

 笑顔の玲太郎が大きく挙手をして振っていた。

「おう!」

 立ち上がり、挙手をして応える。後ろには颯がいる。

「ウィシュヘンド、おはよう。イノウエ先生、おはようございます」

「おはよう」

「お早う。俺は何時いつもの護衛だから、離れた所にいるようにするからな」

 そう言ってルセナの肩を二度叩くと離れて行った。

「座ろうか」

「うん!」

 座る前に、玲太郎は颯がどこにいるのかを確認する。それから椅子に座り、タハーズと話していても、そちらを何度となく見るのだった。

「大丈夫だよ。イノウエ先生はいなくならないって。まあ、手洗いに行く時もあるだろうけどな」

 玲太郎は顔を紅潮させた。

「あ、……ごめんなさい。また見てた?」

「うん」

 ヤニルゴルへ行った時はいつもこうで、その内に落ち着いてくる事を思い出して笑った。

「今日は荷物が少ないんだな? 洗浄魔術を覚えたのか?」

「そうなのよ! やっと出来るようになったから、この荷物の量で済んだのよ。だから空いてるこの鞄には、お土産をいーっぱい詰めて帰ろうと思って」

「その大きさだと足りないと思うぞ」

 笑いながら言うと、玲太郎が眉を顰めた。

「……やっぱり? 僕も大きなのにしたかったんだけど、入らなくなったら向こうで買っておいでって言われたから、そうしようかと思ってるんだけど、でも極力この中に収まるようにとも思ってるのよ」

「俺は鞄を持って来たぞ」

「あ! それは賢いね! 僕もそうすれば良かったなぁ……。次はそうしよう」

 玲太郎は感情が顔に出易く、タハーズはそれを嬉しそうに見ていた。

 ウィシュヘンド州から和伍国の月志摩つきしま島へ行って一泊し、翌日は陸船を乗り継いで目的地の中茂呂なかもろ島へ向かった。中茂呂島は和伍国の最北端にある島で、ここから観光しながら南下して行く。

 道中は箱舟を借り、操縦はタハーズの役目で、玲太郎は助手席で地図を見ていた。中茂呂島の観光が終わると海もその箱舟で渡り、次の島へ移動する。夜は相変わらず玲太郎の寝付きが良く、それに釣られて早く眠った。

 自然や田舎の風景を楽しみながら美味しい物を食べ、和伍国を満喫して帰路に就いた。持って来た鞄が足りずに、玲太郎と一緒に鞄を買う破目になったが、それはそれでキリュキへの土産の一つとした。ちなみにこの年以降、二年に一度は玲太郎と旅行するようになった。その時は必ず颯が同行していて、たまにルニリナがいる事もあったが、明良が来る事はなかった。


 仕事に慣れ、チルチオ教徒の発見がそう簡単な事ではないと身を以て知った頃には、キリュキが上学校へ進学しようとしていた。手元で貯めていた金を見て思案していた。

(母ちゃんに渡すと使われるから貯めてたけど、まだ不景気が続いてるから渡すとまた使われそうなんだよなあ……。俺が払うように書類を作るか、直接振り込めるようにすればいいか)

 上学校は基本的に受講する単位で金額が変わって来る。六年間の授業料を優に払える額が貯まっていて、キリュキはウィシュヘンド州にある上学校へ進学した。

 ロメロニクの一帯だけではなく、クミシリガ湖全体で不漁が何年も続いて漁師を廃業する者が増えていたが、それでもゴーティスは頑張っていた。折しも水伯邸の最寄りの村でウィシュヘンド公爵の小作人に空きが出来た為、それをタハーズから聞いて抽選会に参加した所、見事に当選した。これを機に漁師を辞め、ウィシュヘンド州にあるテティル地区へ移住した。今は農家になるべく、その勉強会へ通っている。

 タハーズは家族が近くに来ても退寮する事はなかったが、休日にはまめに帰るようになった。

「タハーズは本当に部屋はいらないんだよね?」

 ジューンが正面に座っているタハーズに言うと、タハーズは眉を顰めた。

「何度もしつこいぞ? いらないよ、寮に部屋があるからな」

「でも長期休暇で帰って来た時はどうするんだ? ジューンと俺の三人で一緒に寝るのか?」

「キリの部屋があるじゃないか」

 今度はゴーティスが眉を顰める。

「キリと帰省が被ったらどうするつもりなんだ?」

「一緒に寝る」

「お前……、キリはもう十三なんだぞ?」

 二人は息子を不快そうに見詰めた。

「そうよ、やっぱりタハーズの部屋も用意するわ。寝台と枕元に置く照明とそれを置く台だけでいいよね?」

「そうは言っても物置と兼用だよな?」

 ジューンが大きく頷く。

「当然よ。それもタハーズの物がほとんどなんだからね。それとも母さんの作業部屋と兼用にする?」

「どっちでもいいや」

 それを聞いてジューンは笑顔になる。

「それじゃあ母さんの作業部屋にしようね。そうすれば新たに照明を用意しないですむから。こんな事になるなら、タハーズの寝台を捨てるんじゃなかったわ」

「金は俺が出すからいいよ」

「あら、いいの? それに甘えるわね。ありがとう」

「キリの学費の上、仕送りまでしてもらってすまんな。でもここは稼げるらしいから、そうなったら仕送りはいいからな」

「どうせ寝台なんかは俺の物だし、親衛隊は給料が抜群にいいから気にするなよ。それにしても、小作人でも稼げるもんなのか?」

「ここにいた人は自分の畑を持ったから出て行ったって聞いた。この地区の小作人は大抵がそうなんだとさ」

「父ちゃんはどうするつもりなんだ? 畑を買って出て行くのか?」

「いや、俺はここで働けなくなるまでいようと思ってる。そういう人もいなくはないんだと。それで働けなくなったら貯めた金で細々とジューンと暮らすさ」

「そうなったらロメロニクに帰るのか?」

「それはその時に決める。今はまだ先の話だ」

「それはそうだな」

 年々険しさを増していたゴーティスの表情も、大分和らいでいた。タハーズはそれを見て安堵した。


 サドラミュオ親衛隊の寮は独身寮で、結婚さえしなければいつまででもいられる。寮の居心地の好さに加え、出会いが少ない事も手伝い、現役中はずっと寮に世話になる隊員も多い。当然ながらタハーズもその一人で独り身を満喫していたが、両親はそんな息子と会う度に小言が増えて来て、足が遠のき始めた。

 そんな矢先に事件が起きる。

 チルチオ教徒が見付かり、何日にも亘って張り込んでいた。しかし、調査が進むとごうの組織の者である事が判明した。正確にはその組織は既になくなっていて残党になるのだが、組織の名は紫苑しおん団と言い、それを知った親衛隊の上層部がこの一件を颯に委ねる矢先、対象に尾行を悟られてしまう。

 これを追い掛けたのがタハーズと組んでいたオウソー・セタマーだった。制止を無視されたタハーズは仕方なく追い、暗い場所に誘い込まれて見失ったセタマーに追い付いた所、左脚に激痛が走った。見てみると、膝から下を切り落とされ、出血していた。

「ルセナさん!」

 セタマーの声が耳に入らない程に痛い。直ぐに障壁を使って止血し、宙に浮くと気力を振り絞って叫ぶ。

「障壁を破られた! お前では無理だ、逃げろ!」

「そんな事、出来ません!」

「逃げられたら逃がしておけと言われてたのに、お前のせいでこうなってるんだぞ! 俺の言う事を聞け!」

「だから尚更逃げられないん…」

 セタマーの左腕が落ちると同時に左胸に切り込みが入り、出血してそのまま倒れた。それを見た瞬間、タハーズは落ちている足を魔術で引き寄せながら上空へ飛び、そのまま水伯邸の敷地内にある親衛隊の本部へ向かい、到着すると簡潔に報告をした。そして、気が緩むと失神してしまった。

 目を覚ました時には見た事もない天井の部屋にいて、ジューンが覗き込んで来た。

「目が覚めた? 水を飲む? それとも何か食べる?」

 安心し切った表情で話し掛けて来る。

「あれ? 俺……」

「左足はちゃんとくっ付いてるからね」

「あ……、そうだ、切り落とされて……。何日経った?」

「足をくっ付けるのに二日かかってね、今日で三日目になるわね」

 そう言ってにわかに険しい表情になる。

「タハーズと組んでた人が命令に背いてこうなったって聞いたけど、そうなの?」

「うん、そう……。でもそいつは死んだよ……」

 徐々に頭が冴えて来たタハーズは、それを思い出して眉を顰めた。

「そうなのね……。足を見たけど、本当にきれいにくっ付いてるわよ。すね毛はない部分もあるけど、凄いわね」

「そうなんだな。所で、ここはどこなんだ?」

「ここはね、アメイルグ群なのよ。シュンゾー地区って言ってたわ。大きな病院がここにしかなくて、運ばれたんですって。なんでも凄い先生がいるって言う話だけど、その先生にやっていただけたのかは知らないのよ。母さんが来たのは今日だからね……」

「今日来たのかよ」

「足がくっ付くまで来ないでくださいって言われちゃったのよ。でもくっ付いたから来てくださいって言われて慌てて来たんだけど、どう? 感覚はあるの?」

 タハーズは左足の親指を始め別の指も動かした。

「動くわ。二日でくっ付けるなんて凄いな。普通なら一ヶ月かけて徐々にやって行くのに」

 表情が緩むと、扉を叩く音がした。

「はい」

 ジューンが返事をして振り返ると扉が開き、玲太郎が立っていて、その後ろには水伯もいた。

「こんにちは。お見舞いに来たのよ」

「おう、入れよ」

「こんにちは。どうぞ中に入ってください」

 出会った頃と変わりない玲太郎が入室すると、ジューンに小さく辞儀をして足元の方へ行った。そして掛け布団をめくり、タハーズの左足の裏を触った。

「どう? 感覚はある?」

「あるけど、くすぐったいからもう止めろよ?」

「ふふ、それなら良かったのよ」

 玲太郎は笑いながら掛け布団を戻し、脇の方へ移動した。

「……もしかしてウィシュヘンドが治してくれたのか?」

「うん、そうなのよ。くっ付けるのは得意なんだけど、魔力を上手く馴染ませられなくて、思ったより時間が掛かっちゃった。ごめんね」

「えええ!? ありがとうございます! ありがとうございます!」

 ジューンが何度も何度も頭を下げた。

「いえ、僕が遣りたかったので。完治して良かったです」

(あー、これはもう頭が上がらないな……)

 嬉しさと申し訳なさとで胸が一杯になった。

「ウィシュヘンド、ありがとう」

「親友が傷付いたら治すのは僕の役目なのよ。…でも治る怪我で本当に良かったね」

 そう言った顔は色々な感情が入り乱れていた。

「本当にそうだな」

「だからいつも気を付けてねって言ってたのに……」

「俺は追いかけないつもりだったんだけど、相棒が追いかけて行くんだから仕方がないよな……。それで行ったらこの有様だよ」

「今度から付いて行かないで、先に帰るんだよ? 今度の件は命令違反で一ヶ月の謹慎だって」

「一ヶ月も……」

 会話をしている二人を余所に、水伯は持って来ていた花束をジューンに渡していた。そして会話が途切れた所で透かさず声を掛ける。

「ルセナ君、大変だったね。巻き込まれたとは言えども、命令違反に変わりはないから、療養を兼ねてしっかりと休みなさい」

「はい。公爵様、すみませんでした」

「私は痛くも痒くもないから、私に謝罪をする必要はないと思うのだけれどね。命令違反で痛い目に遭ったのだから、自分の体に謝罪をして、大いに反省しなさい」

 いつもの柔和な表情で言われ、更に頭を下げた。

 術後は魔力酔いで体を上手く動かせなかったが、五日入院した後、実家のジューンの作業部屋で過ごした。その間、玲太郎が何度となく見舞いに訪れていた。

 これ以降、左手首には腕輪があった。玲太郎が反転の術を習得していて、足の治療の後に腕輪を顕現させ、それを付与していた。直接手首に顕現されていて外せなくなっていたが、逆にそれが戒めとなり、二度と命令違反はしなかった。


 キリュキが就職して、結婚して、子供を産んでも、タハーズは相変わらず独り身で、気楽に寮暮らしをしていた。ゴーティスはうに諦めていたが、ジューンは孫が五人になると漸く何も言わなくなった。そうすると、タハーズがまた頻繁に帰って来るようになった。

 タハーズも四十路よそじに差し掛かり、ジューンは見るからに老けた。

「ウィシュヘンドの坊ちゃんとは相変わらず一緒に旅行してるの?」

「うん、二年に一度な。今は五泊くらいだな」

「タハーズは足をくっ付けてもらったんだから、坊ちゃんを大事にしないといけないよ?」

「分かってるよ。でも親友だから、対等なんだぞ」

「ええ? 失礼のないようにしなさいよ?」

「あいつはそういう事は気にしないんだよ。気にするのは俺の無事だな。母ちゃんみたいだよ」

「あら、そうなの。ふふふ」

 手を忙しなく動かしていたが、それを止めてタハーズを見る。

「停学処分になって、ぜーんぜん学校の事を話さなかったのに、坊ちゃんと仲良くなってから良く話してくれたよね。坊ちゃんには感謝しないといけないね」

 そう言って、編み掛けている帽子の出来具合を確認するとまた編み始めた。タハーズはその様子を見ながら、玲太郎の事を思い出した。未だにあの頃と変わらぬ体格で、否が応でも学生時代に引き戻される。五学年からは本当に充実した学生生活が送れたと、今でも思う。

(俺にとっては、本当にいい出会いだったなあ……)

 自然と笑みが零れた。そんなタハーズを一瞥したジューンもまた、微笑んでいた。

 それから数年後、ゴーティスが作業中に倒れて帰らぬ人となり、ジューンと暮らす為に退寮する事となった。

 水伯邸の近隣の村は小さい農村で住める場所がなく、シュンゾー地区にある建物の一室を借り、そこから通勤する事となった。


 仕事では魔法騎士隊隊長を経て、親衛隊隊長を務める事になり、水伯と面会する機会が格段に増えたが、玲太郎の名が話題に上る事はなかった。

 上に行けば行く程、水伯の過去を知る機会に恵まれ、一度だけ瀕死の重体になった事もあると知り、オジウス前隊長があれだけ厳しかった理由を理解した。当時の隊長は爵位を持っていたがそれも奪爵され、賠償金を払う為に怠けていた隊員と共に農奴落ちしていた事も知った。

(閣下にこんな過去があったのか。これは誰が治したかって、ウィシュヘンドしかいないよな。だから俺の無事に執着してるんだろうなあ……。あー、物凄く腑に落ちた)

 タハーズは一人納得していたが、実際は心配症なだけだった。


 仕事が忙しくなっても、二年に一度は必ず玲太郎と旅行した。ナダール国を有する中央大陸の国も大体訪れた。今度は獣人が多く住むタイニー大陸へ向かう。タイニー大陸は中央大陸の西側にあり、目族も元々はタイニー大陸にいた。

 そのタイニー大陸の中で一番の大国であるネスギッカ国は、世界共通語が第二公用語となっていて、話せる者は半分に満たない為、話せない者に当たると大変だった。

『あはははは、呪文だぞ。何を言っているのか分からないな。サーディア語や和伍語を初めて聞いた時みたいだ』

 タハーズは大受けしていたが、玲太郎は至って真面目に聞き取ろうとしていた。

『あのね、話せない人からしたら、同じ事を思ってるんだからね? こっちの言葉も呪文なのよ』

『なるほど、こっちも呪文か。あははははは』

 身長差が開いてしまい、今では三じゃく弱差もあって、玲太郎はタハーズを見上げるしかない。そして、玲太郎は怖い顔をしていた。

『もう、話せないとどうしようも出来ないんだよ? 笑ってないでどうするか考えてよ』

『そんなの、話せる人に出会うまで話し掛け続けるしかないだろ?』

『それしか手はないの?』

『俺達が現地の言葉を話せないから、それ以外はないな』

『分かった。それじゃあ話し掛けよう』

 二人はこの後、話せる人を見付けて貸し箱舟屋に辿り着けた。

『ふふん、この旅では僕が本当に箱舟を操縦するからね?』

『それじゃあ上級免許を取った腕前を、とくと見せて貰おうか!』

『任せておいて!』

 そう言いながらも、振り返って颯の姿を探している。タハーズはそれを見て含み笑いをした。

 ネスギッカには大昔にあった浮島の痕跡があると言われている。現地に行ってみると、町の中にある只の山にしか見えなかった。

『これ、本当に浮島だったのか? 山じゃないのか』

『でも遠くから見たら、なんて言うの、あれ、……卵型だったよね。そんな山なんて普通はないでしょ』

『そう言われるとそうなんだけど……』

 斜面には道があり、そこを上って行く。平地に着くとそこには家並みがあった。

『おお、家が上に続いてるな』

つばさ族が昔いて、ここに住んでたっていう話だけど、家はそのまま残ってるのだろうか?』

『それはさすがにないと思うぞ。どれも真新しそうに見えるぞ。ここは煉瓦れんが造りなんだな』

『ないなら残念。それじゃあ、頂上に展望台があって、中心は記念建造物があるみたいだから、そこへ行こうか?』

『おう』

 玲太郎は上って行く道を見付けると、真っ直ぐ頂上へ向かった。

『ウィシュヘンドにあるそこら辺の山より高いような気がするぞ』

『そう? それよりも結構勾配がきついよね。もっとなだらかだと思ってたんだけど』

『上級免許を持ってるんだから、もっと高く飛んで行けよ』

『それじゃあそうする』

 玲太郎は箱舟を上昇させて頂上を目指した。

『こうなると景色が楽しめない……』

『致し方なし』

 味気ない上空を行き、頂上の駐舟場に停めると二人は降りて展望台へ向かった。

『広いな。頂上だからもっと狭いのかと思ってたわ』

 玲太郎は手に持っている案内本を見ている。

『そうだねぇ。あ、あの壁が記念建造物だって。大きいねぇ。中央にある木が精霊の木って言われてるんだって』

 中央にある巨木の付近に立ち入れない為に囲んだ壁が建っていた。壁は円形で直径は約十町あり、その前には等間隔で木が植えられ、木と木の間には縁台が置かれていて、人が座っている。

『平日なのに、人が結構いるんだな』

『そうだね。展望台へ行こう!』

 そう言って駆け出した玲太郎の後姿を見ながら歩く。それがなんだかとても輝いて見え、眩しくて直視出来なかった。


 ジューンが亡くなって久しく、キリュキも亡くなり、身内と呼べる甥姪せいてつはタハーズに近寄る事もなかった。

 ジューンの遺産はキリュキが放棄した事もあって全額を手にし、それに親衛隊の退職金もあって、ロメロニク州のミミン地区に戻って漁師をしていた。生家はもう人手に渡っていて住めなかったが、小さな古民家を買い、魔術で修繕をして住んでいた。

 生活に追われていると旅行はしなくなり、その代わりに玲太郎が毎年泊まりに来るようになっていた。毎年冬頃に来ては一ヶ月滞在し、この頃には護衛は誰も付いていないようだった。タハーズはその時ですら船を出していたが、それは玲太郎の望んでいた事だった。船乗り仲間には孫だという事にしておいたが、全く違和感はなかった。

 遂に玲太郎が特級免許を取得した。玲太郎が滞在中には渡々野戸とどのへ島へ行き、まだ続いているかがわへうどんを食べに行く事も良くあった。

 いつの頃からか、タハーズは学生時代と姿が変わらぬ親友に死んだ後の事を頼むようになっていた。それ以来、頻繁に顔を出すようになり、その話をすると決まって仏頂面になるが、最終的には小さく、そして不満そうに頷いた。


 ある日、船乗り仲間の一人が、タハーズの家の修繕が綺麗に消え失せ、ボロ屋になっている事に気付いて家の中へ入ってみると倒れているタハーズを発見した。その左腕から腕輪が首飾りと一緒に消えていて、最初は物取りかと騒いでいた。

 そんな中、誰が知らせるでもなく玲太郎が水伯と共に遣って来くると、事態は収束して警察沙汰にならなかった。そして玲太郎はタハーズの船乗り仲間に挨拶を済ませ、遺体諸共全ての荷物を引き上げて行った。

 玲太郎の悲しみはエネンドが亡くなった時より深く、静かに涙を流し続けた。タハーズが土に還ってしまうと一部を小瓶に入れ、残りは自分の花壇の土とした。

「もう友達はいらない。僕の友達はルセナ君だけでよいのよ」

 可憐に咲き誇る花を見ながら涙を拭った玲太郎は、直ぐ後ろに立っている水伯に言った。水伯は一朗太が亡くなった時の事を思い出そうとしたが、思い出せなかった。玲太郎の悲しみがこれまでにない程に深い事は解っていたが、それに共感する事は出来なかった。

「そう。解った」

 それだけを口にすると、暫く二人で風に揺れる花をみていた。四月の中旬でもウィシュヘンド州の風はまだ冷たかった。

 この日以降、玲太郎はタハーズの生きた証が入った小瓶を持ち歩き、時折懐かしそうに優しく語り掛ける事が習慣の一つになった。

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